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平成の合併が過ぎ、今私はここで暮らしている。 ほくえんの風を 身体中に感じながら。
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2007(平成19)353億円の赤字を抱えて事実上破綻した北海道夕張市。
そこは
炭鉱の町だった。石炭の需要が少なくなり、観光でと考えて借金が増え、破綻
夕張市を出ていく者、夕張に残るものとに・・・別れた。
当時新聞でそんな夕張市の現実をと、特集していた記事を思い出す。
夕張市に残った夕張市市職員のインタビュー
「私は夕張に家を建てた、夕張で頑張るしかない」
夕張市は財政破綻後、市職員の給料もカットされた。夕張市を出た人も、簡単には仕事に就くことはできない。正に夕張市に残っても、出ていっても大変な状況だと、その夕張市の特集記事には書いてあったと記憶する。
そんな悲壮感漂う夕張市の現実を、私は新聞で感じていた。
しかし、そこに、夕張市に東京都の都の職員が派遣された。
2008(平成20)年、
鈴木直道氏が夕張市にやってきたのだ。そして市の職員として働いて
2010(平成22)年
夕張市の現状を見た氏は、夕張市長選挙出馬の決意を固め、東京都庁を退職した
2011(平成23)年
その鈴木直道氏は30歳で夕張市長に初当選、立候補時はたった7人の応援団、夕張市選挙は82.3%の投票率だった。
ちなみに2019年の浜松市長選挙は55.75%
面積763.0k㎡ の夕張市、徹底的なコンパクトシティーを目指して合理化を進める。
炭鉱で栄えた町には市営住宅が多い。そこで古くなった市営住宅を一つにまとめ暮らす人も一か所に集まるようにしてもらった。
住み慣れた場所を離れたくない人もいたが、市民との話し合いで、移転に協力してもらった。
また市民も、離れたところにポツンと一人で暮らすより、今の方が楽しいという話もある。
あれから10年以上たって、今の夕張市
夕張市の借金は2027年3月に全て返済出来る予定です。
そんな夕張市の市長だった鈴木直道氏は、現在北海道知事です。
日本一の高齢化が進む夕張市、そこの市長を勤め、現在北海道知事、
北海道はどうなって行くのだろう。夕張市は、どんな市になっていくのだろう。
そんなことより、私の暮らす浜松市、の未来が心配だ。
私の暮らす佐久間では、市営住宅は壊され更地になり。草が生い茂っている。
そんな佐久間の市営住宅に暮らしていた人が、町の市営住宅に移り住み、そんな便利な生活に
「もっと早く引っ越せば良かった」
と、そんな声も聞こえる。
私の暮らす浜松市、そこは
2005年に12市町村が合併して日本で二番目に大きくなった。
夕張市が再税破綻した年、2007年に政令指定都市になった。
私の暮している佐久間町の人も当時、夕張市の財政破綻のニュース、新聞報道は見ていただろう。
夕張市市の職員のインタビューも知っているかもしれない。
夕張市から考えることは、夕張市が日本で一番高齢化率が高い事、それは世界で一番高齢化率が高い日本も考えなければならない。夕張市の高齢化率は2015年の調べで47パーセント約二人に一人が高齢者というわけだ。
それは、日本の近い将来を夕張市で見ることになる。そう、その現実を見て日本の将来を考えるきっかけにしてほしい。
「夢街道CR]それも、都会から山間部にと走ることで、様々なことを感じてほしい。
そのように思って続けている。
尚、写真とブログ内容は一致して無いので、スイマセン(/ω\)「

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「孤独死」
誰にも看取られることなく、一人寂しく死んでいくこと。
漠然と、そんな意味を想像していた。
今回読んだ「破綻からの奇跡」にも、そんな孤独死のことが書いてあった。
一人暮らしの、ある人が、部屋のソファーで横になって亡くなっていたという話だ。
死後2日3日たっていただろうかと書いてあった。
それを発見した、その人は、それを可哀想だとは思わなかった。
逆に羨ましいと、思ったと書いたあった。そんな話。
それは何故か
その人とは、よくおしゃべりををして仲良しだった。
最近見ないなと思い、その人の家に行ったら亡くなっていた。
その死に顔を見て、穏やかな顔だった。
だから、可哀想と思わずに、逆に羨ましいと思ったのだと私は思う。
「絆貯金」
夕張は、高齢化率が全国で一番高い。高齢者の社会構造ができている。高齢者同士支えあって生きているという例での話だった。
夕張市の財政破綻のニュースを見て、様々な本を読んで、大変だな~っと思っていた。
その本には5時間目「絆貯金」とある。
その本の表紙には、夕張の高齢者の笑顔いっぱいの写真がある。
どんな地域に暮そうとも、「絆貯金」をこつこつためて楽しく生きようと思う一冊だった。
絆貯金、私は花桃の苗を育てること、アサガオの種を皆に配ること、続けようと思う。
貯めるのは御金ではなく花桃の苗・アサガオの種

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~いま夕張市民から学ぶこと~
夕張市立診療所所長として夕張市民を見てきた事実を、グラフと実体験で感じたことが書いてある本でした。
『人事を尽くして天命を待つ』
「延命治療」のことが書いてありました。先生は夕張市立診療所所長として夕張に居た4年間で胃瘻を作ったことが1件もなかったと書いてありました。市内で胃瘻を見たのは財政破綻以前に作られた方、市外で作られた方、それらを合わせて4年間で2~3人だったそうです。


「老衰」の死亡診断書の事、
先生は先生になりたての頃、先輩医師から「老衰」このとで、こう言われたっそうだ。
「老衰は病気ではない、しっかりと検査・診断をして病名を確定するのが医師の務めだ」
その後の夕張での95歳の御爺ちゃんの話が心に残った。
ヘビースモーカーだった、その人は、病院には入院しない、訪問診療で行くと酒臭い、そんなお酒好き。
採血も拒む、「俺は病院には行かないよ。医者にも世話にならない」とか。
その人は最後を家で静かに息を引き取った。
医療行為はしなかった。その人の死亡診断書を書くときに迷った。
悩んだ悩んだ末に「老衰」と書いた。
認知症のこと
「リロケーションダメージ」
住み慣れた場所から転居し、新しい環境で暮らし始めた高齢者が、住環境の変化によるストレスで心身に異常が生じることを言います。住環境が変化する機会としては、介護施設への転居、子どもとの同居、入院などが挙げられます。
「安心して徘徊できる街」「認知症にやさしい街」大牟田市の話し。

認知症の発症率は、年齢別に見ると年代が上がるほど増加傾向にあります。
2025年には、高齢者の約20%を占めるとされています。
『人事を尽くして天命を待つ』
どんな状態になろうとも、自分出来ることをやり、天寿を全うする。
その先生は、夕張市でそんな高齢者を見てきた話だった。

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1981年3月14日生れ、埼玉県三郷市出身、1999年、東京都庁入庁、2004年、法政大学法学部法律学科卒業(都庁に勤めながら4年で卒業)
、2008年、夕張市へ派遣、2010年4月、東京都知事本部より内閣府地域主権戦略室へ出向、2010年11月、夕張市市長選出馬の決意を固め東京都庁を退社した。
この本は、鈴木直道さんが
財政破綻した夕張市を元気にする、全国最年少市長の挑戦の本だ。
夕張市をで元気にするために若きチャレンジャーは何をしたか。
★守っているだけでは死んでしまう
夕張の夢
一ヶ月に配った名刺は600枚
さらなる負担増、水道料金値上げ
国、北海道及び夕張市の三者協議
やらなきゃゼロ
市民の対話こそ源
世界中から注目されて
夕張を世界のモデルケースに
そして最後に夕張市鈴木市長の「夕張通信」が記載されてある。
今、その夕張市は、その借金は2027年3月に終了の見込みらしい。
知事就任が2011年、二期務め財政再建と地域再生の両立する新たな財政再生計画を策定し、
財政再生団体からの脱却に道筋をつける。
2019年(平成31年)夕張市長退職、年齢は31歳から38歳になった。
そして北海道知事選で多くの道民の指示を受けて北海道知事に就任した。

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この本を知ったのは、今年の10月1日(土)私が南アルプスの「聖岳」の登山道でのことだった。
初めて挑む南アルプス「聖岳」テントを担いでの登山道の上りだった。
「苔平」で一休み。ちょうどそこには団塊の世代の二人組も休んでいた。
様々な話の中で、彼らが長野県飯田市の人だと知った。私たちは静岡から来たと言った。
そのとき、その団塊の人ひとりが言った。
「静岡県の人なら読んでみろ」
その本を紹介したのだ。
2日間の山行を終え、そんな言葉を思い出し。
ブレ葉ウォークで本屋さんによって探してみた。
無かった。
佐久間図書館で、そよ本を予約した。
秘書の人が検索し、予約をしたら
なんと、11カ月待ち。
しばらく経って私はAmazonで、その本をポチした。
そして読んだ。
著者の小林 一哉(こばやし・かずや)さんは、こんな人
元静岡新聞政治部、文化部記者などを経て今は静岡経済新聞編集長
その昔
その知事が
ある選挙応援で
「浜松には何でもある。○○にはコメしかない」
などと揶揄する事を言ったと問題になった。
町の真ん中、たくさんの人の前で、カメラも回っているから本当のことだろう。
人は比べる。いつのまにか比べている。
それはショウガナイことなのかもしれない。
しかし
井川地区も北遠も静岡県の一部だということを政治家のみなさんには良くわかってもらいたい。

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その山は新城市との境に、その山頂はある。しかしやはり東栄町の山だと思う。
そんな山に毎年登っている。登っていた。
「とうえい温泉」に集まって、朝8時から国道を「尾籠」の集落を目指して走った。
そこからが登山口、「尾籠」の集落から見える「岩山」に、まずは向かう。
そこに「のぞき岩」がある。「尾籠」の集落が見える。
振り向けば「明神山」が見える。
そこから、その明神山へ向かう。最初は尾根伝い、最後は急登(ロープやハシゴ)が何回もある。
山頂にお昼チョット前に、ダイタイ着く。人気の山だから先客がきっといる。
下山は、三ツ瀬登山口を目指す。
途中「うまのせ」がある。ココからの景色は最高だ。エメラルドグリーンの鳳来湖も見える。
午後の2時には三ツ瀬登山口に下山できる。
ココから道路を走る。
新本郷トンネルを抜け、本郷の町を走り、とうえい温泉へ午後4時前には着いていた。
そして「とうえい温泉」で、マッタリして食事をとって、家に帰った。
そんなことをやっていたのだけど、今年は出来なかった。

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斜面集落「横吹」そんな我が家に上るとき、何故こんな山の中腹に家があるノダ。と、思った。
幼少のころの記憶にある。
そんなとき母親が言った言葉
「上見て暮らすな、下見て暮らせ」
大正の終わりに生まれ、二十歳で「横吹」に嫁に来た、母親の言葉を思い出す。
「横吹」を去って数十年たって、そんな言葉に違和感を覚え、今その言葉を振り返る。
自分より上の立場の人を考えるな。下の人のことを考える、こと。
もっと大変な想いの人がいることを考えろ。かな。
だけど、人は、誰かを羨ましいと思い、そこへ辿り着こうと努力していく生き物、その結果、便利な今の生活が叶ってきたのだ。
「上を見て暮らして今がある」
昭和の中期、私が育った環境は、戦争が終わり年々、便利なものが我が家に入り込んで生活が快適になってきた。電化製品、プロパンガス、その他
便利を求めるが故に、捨てたものもある。
斜面集落「横吹」には生活道路を造る計画があった。しかし、それは叶わなかった。我が屋までの間に他人の土地がある。
私たちは「横吹」を捨てた。
「上見て暮らすな、下見て暮らせ」
「上を見るな、下も見るな。今の自分を生きろ」
何方も間違いではない。
「上見て暮らすな、下見て暮らせ」
大正の終わりに生まれ、二十歳で「横吹」に嫁に来た、母親だから出た言葉だろう。
青春という人生の盛りに戦争があった。
今は、その母親の時代ではない。そんな時代ではない。自由の時代だ。日本は。
「上見て暮らすな、下見て暮らせ」
世界では、その母親が経験した戦争をしている国がある。
日本では、便利さを追うが故に豊かさを見失って行く人がいる。

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12月はなぜ師走と呼ばれるのでしょうか。
由来や意味が気になりますよね。
よく知られているのは「師とは僧侶のことで、年末になると読経などの仏事が多く、僧侶が忙しく走り回る」というもの。
ネット「記念日のしおり」から引用

私の山登り仲間に和尚さんが居る、忙しそうだから誘えない。
12月8日(木)
に竜頭山(1352m)に登った。雪があるかと思ったが、まだだった。
今年中に雪は降ると思う。雪が降った時に、また登りたい。
山は良い。
私の心を癒してくれる。
忙しい毎日を忘れさせてくれる。

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真っ暗な渋沢ゲートの駐車場を歩き、第二駐車場を歩き、やっと着いたダムの駐車場
リックを愛車の荷台に乗せた。
人の一生は、重き荷を負うて遠き道を行くが如し。
その重き荷物を下ろし、二日間の山行で疲労した身体全体に達成感が込み上げてきた。
相棒は
「遠山郷の観音冷水を汲んで家に帰る」と言う
私は聖岳に登ったことを大蔵さんに伝えたく木沢小学校へ行こうと思った。
誰もいなかったら家に帰ろう。
木沢小学校に着いたら、校庭に車三台、事務所には明かりがついていた。
中には松下さんと校長先生、他に知らない人が二人いた。
「大倉さんは?」
その問いに松下さんは
「ちょうど今朝東京に帰った」
と答えた。
大蔵さんとは登山家
また
遠山郷、木沢小学校に来る藤原学校がある。
その藤原さんは経済アナリスト
遠山郷には凄い人が来ている。その中に萩田さんもいる。

今回、木沢小学校に泊まった。事務所でビールを飲んだからだ。
そのとき居た、知らない二人は藤原学校の生徒で、経済を学び、これからの自分の生き方を考えているそうだ。
私の知らないことを話してくれた。
分からないことだらけだ。
そこに少し、今回一緒に山に登った相棒の話しと同じ様な意見があった。
新聞・テレビ・雑誌では教えてくれないこと。
また、新聞・テレビ・雑誌を信じ込んでいる人たちのこと。

青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。
このサミエル・ウルマンの詩も、遠山郷で知った。
和田のスナックのトイレに書いてあった。それを席に戻って言ったら、隣の席の人が感動して私にその全文をコピーして渡してくれた。
遠山郷にか様々な人が来ている。

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山登りも苦しい時があり、感動するときがある。
テントで朝の三時半には起きた。
寒い。
外に出てテントを触ると凍っていた。
用を足し、着換えをして、相棒のテントに行った。
まだ暗い中、テント場から聖山頂にアタックをかけた。
明かりを頼りに、分岐の向かった。
富士山が見えるところで、富士山側から朝日が昇った。
小聖岳には昨日出合った73歳の二人組がいた。
「お先に」と先を急いだ。
ガレ場を登る。ハイマツが斜面に沿って這うように生えている。
雨風に冬の寒さにも耐え生きてきたハエマツたちが聖岳の斜面に群生している。
3013m
聖岳山頂に登頂した。
360度のパノラマは素晴らしい。
遠くに下栗の村が見える。日本のチロルだ。
そこから「しらびそ高原」に向かう道路を北に向かうと「しらびそ高原天の川」のホテルの赤い屋根が見える。
若いときトドさんのサポートで走ったコースを思い出す。
奥聖岳に行こうか。止めようか。せっかくだから行こう。
そこに三角点があった。東側には富士山、相棒に測量の話を聞いた。
奥聖岳から帰って、聖岳山頂に、73歳の人が双眼鏡で飯田の街並みを覗いて
「私の家が見える」
言っていた。
自分の家から見える。聖岳を登った。いつも見ていた聖岳を、聖岳から見た身分の家、その人は何を感じたんだろうか。
私たちは、登頂記念にと、山頂にてワインでカンパイをした。その人に写真を撮ってもらった。
下山
テント場に行きテントをたたんだ。遅い朝食を食べた。
重いリックをかついで、分岐を目指した。
そこから、あの急登だった、あの道を下った。下りは楽なはずが、足が重い。
肩のベルトが食い込む。
ゴンドラのところにヤット着いた。
あの73歳の二人組がいた。
ココから林道歩き、歩いていると、後方から誰かくる。振り向くと一人の女性が軽装で歩いていた。
「トレランですか」
と、私は訪ねた。彼女はニコッと微笑んだ。
「聖往復?」と聞くと。
「易老渡からグルット一周してきた」と言って私を後にして颯爽と走って行った。
後ろ姿が眩しかった。
相棒に訊くと、どこか避難小屋に泊まったのではと言っていた。
便ヶ島の山小屋で、飲み物を買う。その人に、その女性の話をした。
「その子は一日で、そのコースを走っている」
山小屋の主人も知っている人だそうだ。
振り返れば、今回の登山、多くの単独の女性の登山客がいた。
歩き始め、ゲイト前で出会った人、分岐から聖岳に向かうとき下山してきた女性も単独だった。
山でもマラニックでも女性は強い。
ココでハンドライトを出した。ココから林道歩きだ。
途中から真っ暗闇のなかをライトの灯りをたよりに歩いた。
渋沢ゲートの駐車場を越え、ダム下の駐車場に着いた。私の愛車が待っていた。
今回の聖岳の登山、私にとって良い思い出になった。
相棒の撮ってもらった写真をユーチューブに残しました。
友さん
ありがとうございました(^O^)/

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プロフィール
HN:
しんしん
年齢:
64
性別:
男性
誕生日:
1960/02/20
趣味:
走ること・空手・詩吟
自己紹介:
12市町村が合併して出来た新浜松市
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。

合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。


袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns

”しんしん”55歳  
2015/11/25現在。。。
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