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平成の合併が過ぎ、今私はここで暮らしている。 ほくえんの風を 身体中に感じながら。
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去年は、平岡エイドでのボランティアだった。今年は走ってここまで来た。
エイドで大変お世話になっている近藤さんに挨拶をした。
多くのランナーがいた、顔見知りの人も多くいた。
ボランティアスタッフにカレーヌードルと小粥を貰った。
約半分の距離を走ってきたことになる。まだこれからが大変だと思う。だから、ココで英気を養う。
そこにウッチャンと智さんがいた。お互い疲労困憊のようだった。
「私たちは、ココから電車に乗る」
というので、私も初めから乗るつもりだったと言った。
私と智さんは大嵐駅で下りた。二人は一気にトップ集団に追いついた(笑い)
静かな富山村の村内を歩き、お決まりのように信号機の歩行者ボタンを押した。
レストラン「栃の木」の前の公園でエイドがあった。
水分を補給して食べ物を頂いた。
こらからの21k、店は無い。自動販売機もない。ただただ佐久間ダム湖湖岸を南に下るだけだ。
トンネルの数を数え、春の新緑を目に進む。釣り人だろうか、釣り竿を持った人がいる。オートバイで走って来る人がいる。そこに近所の人が車で通り過ぎた。私の腰に激痛が走り始めた頃だ。
その車の帰り、その人が
「車に乗っていかないか」
と言われた。よほど情けない歩き方だと思ったのだろう。
私は断った。アリガトウと言って、断った。
最後のトンネル「ウナギだる隧道」このマラニックの名物トンネルだ。
そのトンネルは曲がりくねっている。だからウナギだるというのか?
そのトンネルは、昔オバケがでると言われていた。夜には子どもの声が聞こえると言っていた。佐久間ダムができた70年前、様々なことがあった。佐久間ダムの工事では犠牲者が96名だという。
今は労働基準が設けられ、安全な作業が求められている。
ウナギだる隧道を抜けると静岡県浜松市。
そこには萩田エイドがあった。
智さんも居た。
残りの三つのトンネルを抜け、旧佐久間町の火葬場下の脇道からショートカット、昔の佐久間ダムへ行く遊歩道を佐久間町中部(なかべ)商店街に下る。佐久間病院の横から中部(なかっぺ)橋を渡り半場(はんば)にいく。中部天竜駅横を通って、浜松市市営駐車場にある自分の車を横目に進み、佐久間小学校横を歩き、飯田線の鉄橋横の遊歩道を歩きコープ佐久間店に出る。
ココのコースは、天竜川リバーサイドに参加する人は、コースマップをヨーっく見てほしい。こんな感じになっている。
国道沿いのコースだと、狭いトンネルを通ることになっている。そこを、吊り橋を渡り、飯田線沿いに歩くようにしたらとの提案です。
佐久間の人は田舎だから車が移動の手段だ。だから、その狭いトンネルは通ってほしくないと思っています。
コープ佐久間店に着き、お決まりの缶ビールにおつまみ(卵焼き)ホッと一息。
ある人が「この時間なら歩いても行ける」と。そうか~と自分は考えた。でも「歩いても行ける」歩く速度は人それぞれ違う。と、その後ズーット思っていた。
智さんと一緒に歩いたけど、その智さんが離れていく。
秋葉ダムの湖岸、秋葉ダム桜マラソンの一㌔ごとの表示を数えて秋葉ダムのエイドを目指した。
眠くて、腰が痛くて、身体も傾きだした。ようやくついた秋葉ダムエイドでノリちゃんがウドンを作ってくれた。
缶ビールもあった。そこで持ってきたカッパとダウンを着て駐車場で横になた。空には満天の星が輝いていた。
ノリちゃんの車でショートカットしようかな~と私の中の悪魔の声が聞こえる。眠れなく目だけつぶっていた、スーッと記憶ななくなりすぐ起きて、リックをかついで
「ありがとうございました」とノリちゃんに挨拶をして歩きだした。初めは何とか歩ける。秋葉ダムの堰堤、そこを過ぎてからの坂道が大変だった。秋葉トンネルを抜け、横山あたりの街灯の下で横になった。一度横になると立つのだ大変、手で持っていたコップを支えにして起き上がる。そして進む、エイドを撤収したノリちゃんが来た「大丈夫ですか~」私は
「大丈夫ではないです車に乗せてください」
とヘルプした。
多くのランナーの背中のライトが輝いている。その一人ひとりにノリちゃんは声をかけている。道の駅「花桃の里」にてボランティアのエイド車がいた「車の中で2人寝ています」と言っていた。
私のワープは二俣駅前のコンビニまでお願いした。
5月5日1時30分
そこのコンビニで焼き肉弁当を、そこの駐車場で食べた。
そこに、ランナーの忘れ物でなないかと思える。手袋とジャージがあった。
どうしたものかと考え、萩田さんに電話を掛けた。自分で判断して処理してください、とのこと。
私はコンビニの人に断り、レジ袋を買って、そのジャージと手袋をリックに詰めた。
歩いて天竜川河川敷に降りるところまで行き、そこのバス乗り場で寝た。横になった。朝4時起きて河川敷を河口に向かって進んだ。
最初の橋「第2東名」そこにエイドの人がいた。次の橋「浜北大橋」そこにもエイドがあった。その人は大工の人で、水窪や佐久間の人を知っている、と言っていた。
次は「かささぎ大橋」「東名高速の橋」と続く。
「国道1号線の橋」の下にもエイドがあった。太陽の日の光を遮るものが何もない河川敷のコース、橋はその光を遮る良い場所だと思った。
次の「東海道線の橋」その橋の下で寝そべった。列車が通る音で起きて歩いた。
次の「新幹線の橋」の下で横になる。新幹線の音は凄まじい。遠く何か音がしてきたと思うと、その音がとんでもない音になる。疲れた身体を無理やり起こされて、ダンスをさせられる、そんな感じだった。
そこから「掛塚橋」までが長かった。もう日陰を求めて寝ることもできない、そこらへんでゴロンと横になる。そんなとき、だれかの話声が。
「オジサン、そんなとこに寝ると良くないよ、あの木の下がイイ」と私を起こしてくれた。
「アリガトウ」と言って起き上がった。そして進もうとした。
犬を連れた青年と、その子どもだろうか、二人が歩いて土手を登って行った。
私は職を失って路上生活を余儀なくされたホームレスの人の気持ちが少し分ったような気がする。
5月の連休の昼下がり、そこの天竜川河川敷の公園には様々な人が居た。サイクリングロードを颯爽に走っている集団、ママチャリで走っている外国人労働者たち。ある高齢のランナーが私に話しかけてきた。
「私に何かお手伝いすることは、ありませんか?」
その人も走っていて、最近袋井マラソンを走った。と言っていた。
225㎞ですか~っと。
その人は、70歳代で走るようになり、いま80歳と言っていた。
そのときエイドがあり、あんなことしてもらったら嬉しいと言って、私はエイドに行った。そこにはスイカがありパインがありメロンがあった。疲労困憊の身体にしみわたった。
そのとき、その80歳の男性のことを思い出し振り向いたが、そこには誰もいなかった。
「私に何かお手伝いすることは、ありませんか?」
2023年5月3日私は諏訪湖から走り始めた。そして5日の昼間、天竜川河川敷を河口を目指して進んでいる。
思い返すと、様々な人に助けられている。最初はアメをくれたオバちゃんから始まった。
やっと近づいた「掛塚橋」そこにもエイドがあった。そこでコーラを飲んでいく時に、12時のサイレンが鳴った。制限時間、私の天竜川リバーサイド2023は終わった。
そこからゴール地点の竜洋海浜公園まで3k
最後の遠州大橋まで河川敷の地獄は続く。
遠州大橋をくぐって、堤防の道路を歩いていると、黒い車が乗っていきませんか?と。
相当、危ない走りだったようだ。それでも最後は自分なりに締めくくりたいと、その誘いを断って進んだ。
最後の最後、竜洋海浜公園の中で道を聞き、川を上流に行くといわれ行くと、それが遠い。振り返ると川を渡る歩道の橋があるではないか。戻り駐車場からその橋に向かっていると、ある人が私を呼ぶ声が。
セっちゃんがいた。
LINEで、そんな話をしていたっけ、根性出して走る。そう思ったけどボロボロでした。
萩田マラニックで嬉しいのは最後の温泉と宴会、時間外なのでゴールのオモテナシは無かったけど、お風呂に入れるのは嬉しい。
もっと
最後の最後、嬉しいことが。
平岡駅からの飯田線で知り合った方が、お風呂で私の激痛が走った腰にテーピングをしてくれた。こと。
お蔭で腰は、そんなに痛くないです。
また、竜洋海浜公園から豊岡駅まで帰るとき、タクシーの便乗どうなるのかと心配していたら智さんにヒロ子ちゃんの車に誘われたこと。
2023年5月3日はこんな人でした。
2日間の天竜川リバーサイドで私は多くの人に出会い、そして喜び苦しみを感じました。
出口浩明さん(ライフネット生命創立者)
その人の本で「人生は喜怒哀楽の総重量である」と書いてあります。
何事も表もあれば裏もある。良いこともあるが大変なこともある。
「私に何かお手伝いすることは、ありませんか?」
80歳の男性も、ランナーだから。私に、このような声をかけたのだと思う。
天竜川リバーサイド
主催の萩田さん、ボランティアをしてくださった皆さん、本当にありがとうございました。
来年は、もう少しましになるよう精進します。
それでは、また(^O^)/

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プロフィール
HN:
しんしん
年齢:
64
性別:
男性
誕生日:
1960/02/20
趣味:
走ること・空手・詩吟
自己紹介:
12市町村が合併して出来た新浜松市
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。

合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。


袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns

”しんしん”55歳  
2015/11/25現在。。。
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