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平成の合併が過ぎ、今私はここで暮らしている。 ほくえんの風を 身体中に感じながら。
毎年、一月の最終日曜日は「佐久間駅伝」だった。
そんな感じで、一年の月日は過ぎていった。
スタートがあればゴールがある。「おぎゃ~」と生まれてくれば、いつか必ず天に召される時が来る。
天竜の田口接骨医院、昨日の北遠駅伝のケアーのために訪れて、前から気になっていた座骨神経痛の治療を受けて出てきてスマホをのぞいたら着信
知り合いからだ、いつのように掛けなおして話した。相手の周りは騒がしそうだった。
「〇〇が亡くなった。突然死だ」
何が何だかわからなかった。グルグルぐるぐる。その人の言葉が私の頭の中でリピートしていた。
「え」「何」「なんで」
今年も当たり前のように、同じ道を二人で進もうと思っていたのに。
「人は産まれ、やがて死んでいく。それが人生だ」
映画最高の人生の見つけ方でのモーガン・フリーマンのセリフです。
「人は産まれ、やがて死んでいく」その間に何をやったのか。
その人は地元のために一生を尽くした人だと思った。私たちは大変お世話になった。

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不便とは(手間がかかること)
その中にも
身体的な手間 認知的な手間
その
手間がかかることの主観的な
役に立つ。役に立つこと。もうけ。徳がある事
それが
不便益

6月24日(金)に浜松駅口~遠山郷までの90㎞を自分の足で走った。
今回12回目になる夢街道CR
ここを走ることで多くの徳を授かったと思っている。
それは御金ではない人徳だと思っている。
不便益
大変な思いをして遠山郷に辿り着き
未来の大岩の前で写真を撮る。
来年も多くの人にこの写真を撮ってほしい。

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流れる星は生きている
昔、隣りの人が死んで、夜中通夜の帰り道、私は母親に聞いたことがある。
「死んでしまうの何処に行くの」
母親
「あの、星になるんだよ」
と夜空を見つめた。
今私は、その母親より年上になり、真夜中のランニングで夜空を見つめた。
今朝の中日新聞にJAXAを退職した野口聡一さんのインタビューがあった。
「宇宙は基本的には死に世界。生きていることは奇跡だと感じた」
と語っている。
戦争が終わり満州から引き揚げた藤原ていさんは半島からの夜中の引き上げで星を見つめた、そして、そう感じた。
流れる星は生きている
夜集まって、一晩中走ること。
普段は考えられない視点から物を見ること。
大切だと思う。

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ほくえんの風

夢街道CR、そのコース西渡(にしど)から八丁坂を登りきると、そこは瀬戸(せと)の集落、

そこから、その集落は間庄(ましょう)立原(たっぱら)横吹(よこぶき)と続く、国道に出る辺りが島(しま)

私が生まれ育まれたところは横吹、私には父親が違う一回り年上の兄姉がいます。

昭和22年生まれの兄「政彦」がいた。昭和23年生まれの姉「ふく子」がいる。

その人たちは学校から帰ってくると水汲みランプの掃除などが日課だったという。

大正15年生まれの母親に

「おまえは良い年に生まれたワイヤ」

と、苦労した兄姉に比べられて、言われたことを今でも覚えている。

昭和35年生れ

確かに良い時代に生まれてきたのかもしれない。運がいいとか悪いとか、それは確かにあると思う。

ロシア軍がウクライナ侵攻を開始して、今世界の食糧危機が叫ばれている。

太平洋戦争のとき、私の叔父「新間徳一」は国の命令で戦地に向かった。その人は横吹に帰って来たかった事だろう。

しかし、帰ってこなかったから授かった命もある。

こと 

昭和60812日(月曜日)

日本航空123便が群馬県多野郡上野村の御巣鷹山ヘ墜落した航空事故があった。

私たち家族は青森県の八戸市、兄のアパートで、そのニュースを聴いていた。

その飛行機に偶然乗った人、何かの事情でキャンセルした人、そんな人がいたときく。

そのとうじ、御巣鷹山のあるその村の村長の話を知っているだろうか。

黒沢丈夫村長

大正21223 - 平成231222日は、大日本帝国海軍士官・操縦士。政治家。戦後群馬県多野郡上野村村長を10期連続で務めた。日本航空123便墜落事故の際に事故処理に尽力したことで知られる。

その人は軍人として多くの人の死を見てきた

そして

個体保存の本能よりも種族保存の本能がまさるよう、死の恐怖を克服しなければならない。海軍ではまさにそのための修練を積むべきである、と考えていたという。

その村は、その人の意思を引き継ぎ群馬県一のミニ村として頑張っている。

また

横田 めぐみ(昭和39105 - )は中学1年生(13歳)のとき、部活動を終えて帰宅するところを拉致された。

その国は拉致を認めた。にもかかわらず、日本の国は「遺憾である」としか言えない。

「国家の品格」で藤原正彦さんが書いてある。「家族愛、郷土愛、祖国愛は 人間の基本」である。と。

横田夫妻が娘を返してほしい気持ち。家族愛

日本が一つの家族であるならば、誰も許しはしないだろう。

夢街道CR参加する人たちは皆家族、そんな気持ちで集まってほしい。

Run for peace

苦しみから抜け出す方法はたった1つ。他の人を喜ばせることだ。

「自分に何ができるか」を考え、それを実行すればよい。

アドラー

ハクリヤで美味しい生が待ってま~す。

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令和二年、この映画を観た。
鹿野靖明とボランティアたち
この話は、浜北の NPO法人Harmonyの理事長さんからの投稿で知った。
俳優 三浦 春馬さんは、恵まれた環境、親は医者、その息子である医大生の役だった。
医者である親に反発していた。そして狩野の介護ボランティアをしていたのであった。
そんな優しい人柄を演じていた。
あれから二年たち、私は特別養護老人ホーム「さくまの里」で、その介護の仕事を知るようになった。
昔、私の母親が、入所した、その部屋、そこに違う誰かの、お世話をするようになった。
これも縁なのか。
上島竜平のニュースがテレビから流れた。
私より年下の、彼
どうしてだろう?
私は思う。
人には死にたいほど苦しいことがある。
白線を、超えたら楽になる。
死にたいほど苦しい事から逃げること、それも正解なのかかもしれない。
志村けん、コロナで亡くなり、私はその人の本を何冊も買って読んだ。
伊藤さんは今年の始め、癌告知を受けた。
伊藤さんの分まで生きようと思う。

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ガタン・ゴトン、ガタン・ゴトン、ガタン・ゴトン、ガタン・ゴトン、ぷワ~ンぷワ~ン
「ただいまシカとの衝突のため、列車は停止しています」
「ご迷惑おかけしますが少々お待ちください」
中部天竜駅を朝5時25分発、私一人の乗客に車内放送は流れた。
仲間と別れ、
壺屋で、ほろ酔いセット、
缶ビール・酎ハイ二本、ツマミを買いそろえ豊橋駅を17時57分の飯田線に乗り込んだ。
昔みたいに飯田線は混んだりしていない、車窓に缶をならべ流れていく景色を見ながら一本目の缶ビールを開けた。


ランチセットを注文し、カレーの辛さをソレゾレ決めた。
辛さは★ひとつの辛くないカレー、中位の辛さは★二つ、それから★三つと★四つの順に辛くなっていくようだ。
ウッチャン
「私は★ひとつ」
トモゾウさんは
「私は★二つ」
私は。考えて
「・・・★四つ」
店のネパールの人の顔を伺い、やはり止めたほうがと思い
「やはり★三つ」
と、言いなおした。
藤吉さんから進められた本「百万回のありがとう」その本の著者は子宮がんになり余命一カ月と宣告されたけど、その癌は無くなり、その人は生きている。そして本の最後にはインド&ネパール料理店を切り盛りしていると書いてありました。
本の著者とネパール人ゴトムさんとの出会い。スイッチONの奇跡
多くの出逢いで、その人の奇跡の人生は彩を増していく。
その人生も、やがて終わるときがくる。
伊藤さんは死んだ、その人の家に行き手を合わせ、今日のマラニックは始まった。
(ふるさとの自然を感じよう、穂の国で!)
その公園は伊藤さんの暮らす街を一望できる高台の山一帯が公園になっていた。
走る人、歩く人、親子ずれ、様々な人が、故郷の自然を満喫している。


道路を走り、五井山の登山口を目指す。
ウッチャンは元気に走っていく、私は着いていくのがやっとだ。
五井山、登山口、なんか昔の記憶が蘇るような。ケンさんたちと車で通ったとことには、バリケードがあった。
そこを開門、し隙間から五井山に、、、、。
昔ハング・グライダーをやっていたとき、わたし20歳代のころ、今から40年も前の話し。
当時は走る、とか、山登り、まったく興味がなかった。
ハング・グライダーが楽しかった。
その40年前の記憶をたどって五井山を登った。
しかし、車道ではなく登山道を登った。
登山道から出た、その山頂、昔はハング・グライダーで五井山からテイクオフしたところと違うのか?
昔、五井の山頂には鉄塔があり、強風のとき、その鉄塔が怖かったと記憶しているのだが。
その山頂には、何人もの人がいる、その中のアマチュア無線をやっている人に訊いた。
「ハング・グライダーのテイクオフ場知りませんか?」
その中の一人が言った
「この先に、あるよ」
三人で、そこから歩いて行くと、そこにあった。
テイクオフ場だ。
40年前、私はケンさんやヒロ君、ナカネちゃんらと、ココで飛び立った。
そして、私は27歳のとき、衣笠山で飛んで、そのハング・グライダーを止めようと決めた。
佐久間に帰り、30歳から走り始めた。
何回目のフルマラソンだろうか、小笠・掛川フルマラソンを走り終わり佐久間の家でビールを飲んでいるときにヒロ君から電話がかかってきた。
そして、ケンさんの死を知った。
五井山から下山、麓には神社があった。
石上神社だ
私のHの師匠、下さんが言うには、神社の鳥居には意味があるそうだ。
「神社の鳥居の両方の大きな支えは女の太腿を表している」
酔っ払って鼻の頭を赤くして、私に話してくれた人だった。
しかし、私は、その話を納得した。
鳥居を潜るということは、女の叉に入っていくことだと。
そして、その叉を出てきて、新しい自分に生まれ変わることだと。
また、人生、一日、その一日一日を生まれ変わって生きていくことだと。
ケンさんは死んだ。
20歳のときケンさんとハング・グライダーで飛ぶために朝霧高原・車山など楽しい思い出がある。
もう二十歳のころにはは戻れない。
そのころの自分は死んだのである。


人は生れ、そして死んでいく、それが人生だ。
映画
モウガン・フリーマン
のセリフだ
人は夜寝て、朝起きて来る。
昨日までの自分は、もういない。
明日からの自分の、生き方を考えないといけない。
むにゃむにゃむにゃ
「お客さんお客さん、どこまで行きますか?」
「むにゃむにゃむにゃ中部天竜駅まで」
切符を車掌さんに渡し、窓から外を覗くと浦川駅を列車は出発する所だった。中部天竜に着き夜8時、夜道を家路に急ぐのであった。
終わり。

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命より大切なもの、それは健康?森町三倉「勉強会」
そんな話しが出た。健康は大切だ、しかし、命より?
そもそも「命」「健康」を比べることがナンセンスなのか。
WHOでは、健康のことを以下のように定義している。
健康とは肉体的・精神的及び社会的に全てが良好な状態であり、単に疾病又病弱の存在しないことではない
とある。
命より大切なもの、それは健康である。そういったその人は「あなたは寝たきりになっても、生きていたいのですか?」と。
私は、その時、11年間特別養護老人ホームに入所いていた母親の葬儀を終わったところだった。
寝たきりの母親の姿を見て様々な考えが脳裏に浮かんだ。いっそこのまま。とか。
地元のお祭りの準備の朝、母親の危篤の知らせがきた。
葬儀の前の日、私は母親の人生を顧みて、葬儀の最後、喪主のあいさつの言葉を考えていた。
寝たきりだった母親の命は、もう消えた。
松本サリン事件の被害者である河野義行さんの「命あるかぎり」の本がある。
介護の必要になった妻の姿からの題名だと思う。
脳死
欧米をはじめとする世界のほとんどの国では「脳死は人の死」とされ、大脳、小脳、脳幹のすべての機能が失われた状態を「脳死」としている。
日本では、脳死での臓器提供を前提とした場合に限り、脳死は人の死とさる。
私も、臓器提供カードを運転免許書と共に持ち歩いている。
1997年(平成9年)
神戸連続児童殺傷事件
が、あった。
事件当時14歳、中学校三年生の起こした残虐な事件だった。
私37歳の頃の事件だった。
好景気の通称バブル景気、世は好景気に踊り狂った時期が過ぎてからの事件だった。
なぜ人を殺してはいけないのか。明確に答えられない大人たち。
藤原和彦著「国家の品格」の中では、ダメなものはダメなのです。と答えている。
また
「家族愛」「地域愛」「祖国愛」をしっかり持って「人類愛」と繋いでいくのです。
とも
「家族愛」
家族とは、浜松市天竜壬生ホールにて、食と農の専門家集落ドクター熊本大学の名誉教授、徳野貞雄さんがおっしゃっていた。
家族とは、住民票に記載している人だけではなく、嫁に行った娘も亡くなった祖父も祖母も、または飼っているペットも、という話だった。
そんな人を愛す。愛おしく思う。こと。
だから今、命の授業をやらなければいけないと思うのです。
大人も、大人が考えるときだと思うのです。
人には寿命がある。
ということを。
息をしなくなるまでの、心臓が鼓動しなくなるまでの、寿命が。
母親は自分の寿命を生き切った。
人生の後半は
肉体的・精神的及び社会的に全ては良好ではなかったとしても。
とにかく生き切った。
私も、これからの人生の後半、どんなことが起きるかわ分からない。
森町三倉「勉強会」卒業。朝礼だけの学校の門をたたいた。
走ることも
いつまで続けることができるかもわからない。
予定としては今年の12月袋井クラウンメロンマラソンが開催できるなら、参加したい。
そして制限時間内までにゴールしたい。
そんな目標を持って走り続けて行きたいと思っている。
今、遅いけど何とか走れる自分に自分の身体に感謝して遠いゴールに向かって走って行こうと思っている。
令和4年2月

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プロフィール
HN:
しんしん
年齢:
64
性別:
男性
誕生日:
1960/02/20
趣味:
走ること・空手・詩吟
自己紹介:
12市町村が合併して出来た新浜松市
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。

合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。


袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns

”しんしん”55歳  
2015/11/25現在。。。
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