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平成の合併が過ぎ、今私はここで暮らしている。 ほくえんの風を 身体中に感じながら。

「むかしはバカだったワイね」
「旦那になる人の顔も知らずに、横吹に来た」
結婚式の当日、下を向いていて、相手は誰かと横の仲人に聞いたら
「紋付き袴を着ているから、たぶんあの人ダラ~」
と言われたそうだ。

「最近ジャ~、あれだら?結婚する前に・・・・だら」
そんな会話が面白かった。

「それでも、よかったジャン。旦那さんカッコよくて」
「いや、優しさが無い。喋らんで困る」
なんて言っていた。
そして
「私も結婚前に好きだった人が居た」
と、ポッと頬を染め呟いた。
昔を思い出し、遠くを眺めた。

なっちゃんも私のカ―チャーも
戦争、そして敗戦、昭和の何もない時代を生き抜いてきた女だ。
その人が横吹にきてその人と出会わなかったら、その人もこの人もこの世には出てきれない。

カ―チャーも、前の夫に先立たれて、「横吹のことなんて知らないョ」と上村に帰ってしまったら、今の自分は無い。


そんな昭和と平成を生きた女が、次の時代を生きる我々にバトンを渡した。


今日は相月のお寺に行って合掌してきた。

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横吹は山の斜面にある村だ。

わたしの家(シンヤ)その村の中ほど街道沿いにある。

父親が言うには、その街道はチョンマゲの人が通った街道だそうだ。

その下の街道が大八車。水窪川沿いの国道が車が通る道だと。

その横吹のモットモット上の方に、横吹でもキリクボと言う地域がある。

そこになっちゃんは嫁いできた。昭和の初期。

水窪の西浦から、親の言いなりに横吹に来たという。

婚礼道具を持って、花嫁衣裳を着て、仲人共に。


わたし達が半場にきて、しばらくして、そのなっちゃん夫婦も半場に越してきた。

仕事から帰って来てなっちゃんと昔の横吹の話をするのが楽しかった。

子供会で修兄の運転するバスで貝拾いに行ったこと。

海を見てビックリしたこと。

横吹での暮らしは文明とはかけ離れていた。

井の中の蛙だった。

しかし、空の青さ、星空の美しさを知る、年をとっても楽しい人たちばかりだった。

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横吹で、トーチャーは剛だからタケシに~っと呼ばれていた。

わたしの家の屋号はシンヤだった。

隣の家はハマイバという屋号だった。

ハマイバのオジサンはターに~、今回は、その二人の話。

ターに~は城西の製材マルシに通っていた。

毎日、自転車で通っていた。

お酒が好きで、コタツの横には一升はあった。そんな思い出がある。

トーチャーも城西のマルシに通っていた。

オートバイで通っていたが、いつしか車の免許を取り、マルシも辞め豊橋の製材に勤めた。

それが水窪に富士鐵工所ができて、そこに勤めるようになった。

ハマイバのターに~は、自転車で城西の製材マルシに毎日通って、斜面集落「横吹」を毎日往復上り下りした。

定年を迎え、その毎日していた横吹の上り下りがしなくてもよくなった。

トーチャーは横吹から富士鐵工に通い、半場に引っ越して半場から富士鐵工に通った。

斜面集落「横吹」の上り下りをしなくてよくなった。

昔は、どちらも
毎日、毎日、山の中腹にある我が家を目指して上った。

横吹に生れ横吹で暮らした男だった。

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昭和10年生れ。

戦争が終わった時、少年時代だった。

GHQがジープで城西にも着て、チョコレートを投げていったと言っていた。

青年になり、兄貴のお嫁さんと結婚をして、私が生まれた。

トーチャーの兄貴の子は二人、昭和22年生まれの兄と、昭和23年生まれの姉。
 
写真は兄に抱かれる私(笑)

バカだった私は、二―チャー・ネーチャーが如何してこんなに年上なのか分らなかった。

聞いてはいけない過去なのかと思い、その事は聞かなかった。聞けなかった。

ただ、トーチャーはかわいそうだナ~っと思っていた。

相手が年寄りで、と、勝手に思っていた。

トーチャーは城西のマルシという製材で働いていた。

月に一回、給料日には城西からモツを買って来てくれた。

月に一回食べるモツは美味かった。残った汁もご飯にかけた食べた。

トーチャーはマルシまでオートバイで通ったいたが、車の免許を取得した。

そのトーチャーがマルシを辞め、豊橋に出稼ぎに行った。

豊橋でも同じ製材の仕事。同じ仕事でも貰った給料は、豊橋で働いた方が多かった。と言っていた。

そのかん、横吹の村の付き合いはカーチャーがやっていた。
1970年代、山の中腹の村「横吹」にも村道を造ろうという話が出てきた。
 
横吹でお茶を始めたのも早かった。そうだ。

それまで麦とか野菜を作っていたのをヤメ、お茶を始めた。

隣のオバ―に「そんなもん作って、こらから何食うダ~」と言われたそうだ。

水窪にできた富士鐵工所に入って働いた。

春、お茶の時期になると富士鐵工で働いて家に帰って来てお茶を揉んだ。

働いて働いた。

1980年代、横吹には村道はできない。ある反対する人がいて自分のうちまでは村道はできない。
横吹を出ることを決めた。

佐久間町半場に越してきて、私たち家族と同居した。

定年が近づいてきて、50歳代後半の夜勤は辛かっただろう。

そんなときに
「大変だけど、家に帰って孫の顔を見ると疲れも吹っ飛ぶゾ~」
そんな言葉が、わたしは嬉しかった。

半場に暮らして、トーチャーは富士鐵工所を定年した。ある秋の日に、佐久間ダム祭りに孫を連れて行った。

当時の佐久間町の町長小原侃之助さんと話をしたそうだ。

小原侃之助さんは城西小学校時代の同級生だそうだ。
レベルはだいぶ違うが(笑)

肝臓の悪かったトーチャーは、佐久間病院で癌の告知をされ、三か月後に死んだ。

さくまの里に入所しているカ―チャーは葬儀には参列することはできなかった。

トーチャーの葬式が終わって。家族でさくまの里に行ってカ―チャーにであい、「トーチャー死んだ」と伝えた。

痴呆の進んだカ―チャーは何もわからない様子だった。

ただ
死んだの一言は分るみたいで、こう答えた。
「死んだ~」

トーチャーは幸せだったのだろうか?

俺は幸せだったと思う。

昭和10年(1935)に生まれ。平成22年(2008)にこの世を去った。

73歳

人は若かったという。

が、俺は幸せな人生なんじゃなかったかと思う。

トーチャー・カ―チャーがいたからこそ今の自分がある。

日本国紀
日本の長い歴史の中の自分たちの営み。
世界の歴史の中では一瞬の出来事。

先人に感謝し明日からの自分らしい生き方につなげよう。

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わたしの暮らしていた横吹(よこぶき)では母親のことをカーチャーと呼んでいた。
大正15年生れ、
水窪の上村に産まれ、城西村の横吹という斜面部落に20歳の時に嫁いできたバリバリの昭和を生きた女性である。
気はキツイ。
早くに夫に先立たれ、実家である上村に帰るはずだったが、横吹の姑に「おまえが居なければ死ぬしかない」と脅かされ夫の弟である今の私の父親と一緒になったときく。
 
佐久間町は町立の幼稚園を造るのがはやく、私は城西幼稚園一期生である。
幼稚園の頃から定期券を持って園と学校に通っていた。
小学校のある日、わたしは定期券を落とした。
鬼のように怒られ、探して来いと言われ、泣く泣く横吹の道を捜し歩いた。
また、なにも勉強などしずに遊び歩いている私をひっつかんで殴り飛ばしたこともあった。


今思えば、昭和の中期、横吹に暮す貧乏な家には、子どもの定期券を余分に買う余裕はなかったのだと思う。
横吹のみんなが貧乏、食うに大変な世の中だった。
相月の駅から30分ぐらいかけて山の中腹にある斜面集落「横吹」の家に帰ってきて。
育ち盛りの子供は、腹ペコだ。
「カーチャー腹減った~」
と畑に向かって叫ぶ事がよくあった。
暗くなるまで畑で働いていたカチャーだった。
横吹の家の食べるものといえば、冷えたジャガタがあればもうけもの。
梅干は大量につけたあった。
秋には庭にある柿を取って食うくらいだった。


カーチャーは土方の仕事をするようになり、秋葉ダムの仕事にも行ったときく。
休憩中に出たお菓子がポケットに忍ばせていることがあった。
珍しいお菓子だと、持って来てくれたのだ。
そんなカチャーに感謝したことがあっただろうか?


わたし達が横吹を去ることを決め、サクドウで引っ越し荷物を降ろし佐久間町の中では便利な中部天竜駅近くのところに越してきて、そこで暮らすようになった。
昔から体に染みついた百姓という仕事もしなくなった。
やることがなくなった。
そんな生活の変化が、カーチャーの痴呆という病を進行させたような気がする。


カーチャーは気が強くて、おっかなかった。
うるさく文句を言われるのではないかと、いつもオドオドしていた自分がある。
そんなカーチャーが、物忘れが多くなり、父親が世話をしていた。
夜昼となく家を出ていき帰って来ることでができなくなる。
徘徊。
自分が自分の部屋で寝ていると、夜中にきて分けの分らないことを話し続けることもあった。
父親がカーチャーが居なくなったと相談に来て、夜中探し回ったこともある。
仕事中に電話が来て、家に帰って親戚を呼んで、近所の人も集まって、町内放送で連絡してもらい。
警察・消防も出動して。
警察犬も駆り出され、捜索したこともある。
その日は分らなく捜査は打ち切られた。
夜中になって、姉が部屋を片付けはじめ「もしかすると、もしかするから」と言っていた。
カーチャー死ぬのかナ~。
と思って一夜を親戚の人たちと過ごした。

次の日、朝早くから捜索隊が再開され、山の鉄塔近くで発見された。
裸同然で、寒い中、もうダメかと思っていたら、そうではなかった。
その年、区長と民生委員の紹介で近くの特別養護老人ホーム「さくまの里」が紹介された。
その年の年末、その老人ホームから連絡が来て、入所するようになった。

80歳の12月、さくまの里に入所。
カーチャーの部屋からはB型鉄橋と半場の家々が綺麗みえた。

80歳からさくまの里に御世話になって92歳で、この世を去った。

母親 カーチャーは幸せだったのだろうか?

仏様の部屋の遺影は、カーチャーの若い時の写真に差し替えた。

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2013年12月10日のブログ
限界集落株式会社
そんな本を読んで、思った事を書いた。
都会は都会で良いところもあるし大変なところもある。そう思った。
わたしは、その限界集落と言われる横吹(ヨコブキ)という村に住んでいた。そこは山の中腹にあり斜面集落とも言われている。
小学校は城西小学校、中学校は佐久間中学校、どちらも国鉄(現在JR)の相月駅を利用していた。
飯田線
(中部天竜駅~佐久間駅~相月駅~城西駅~向市場駅~水窪駅)
相月駅を利用している主な村は(相月・島・横吹・立原など)
学校に通う人は相月駅を利用する。
水窪川を挟んで急峻な山がそびえる、横吹という集落は水窪川の西側にある山の中腹にある斜面集落だ。

佐久間中学校を卒業し、就職したところが静岡県湖西市鷲津2418「富士鐵工所」。
鉄工所の寮生活が始まった。そこには寮の歌があった。
わーしづのええきを南ゆき~♪。ドンドン歩くと見えてくる。
ゆけ~。ゆけ~。フジテッコーへ~フジテッコいいとこ良いところ~。。。
だったっけカナ(笑)

初めての喫茶店
お腹がすいて友達と喫茶店なるのもへ入った。
その友達は定員さんに
「スパゲティー、ナポリタンで」
と注文。
自分も同じものを頼んだ。
スパゲティーは知っているテレビで見たことがある。しかし、ナポリタンとは?
今のようにスマホで直ぐに検索できる時代ではない。
定員さんがバスケットにいれた様々なものを持ってきた。そのうち鉄板にアツアツのスパゲティーを運んできた。
友達がチーズを入れるとおいしいと言って粉チーズを振りかけた。
そうか~。このバスケットの中のものは自由に使っても良いですョと出したのか。
わたしは粉チーズを振りかけ、同じように赤い細長い瓶の調味料らしきものも同じぐらいの量振りかけた。
ど辛った。食べれたものではなかったが、腹が減っていたしモッタイナイから全部食べた。
湖西には喫茶店にはスパゲティーにはナポリタンとイタリアンがあるそうだ。ソースとパスタが一緒か別々の違いだそうだとか。
そんなの如何でもいいジャン。腹に入れば一緒になるジャン。と思った。
八百屋の前を通って、店先に柿が並んでいた。
斜面集落「横吹」に暮らして、水窪や佐久間の商店街に行っても柿 は売ってはいなかった。
柿は買うものではない。他所の家の庭の木に生っているのをかっぱらって食うものだ。
いや修正、柿は自分の家の庭の木から手で取って食うものだ。そう思っていた。
 

そんな田舎者のわたしも数年たてば、郷に入れば郷に従えの如く都会の生活になれてきた。
柿もスーパーで買うことができる。
喫茶店でスパゲティーを注文して、タバスコを多く振りかけることも無くなった。
そんな慣れた土地だけど、長男ということで横吹に帰らないと。月に帰るかぐや姫の心境に。。。
昭和の終わり。また長男は跡継ぎ、家を守っていく、日本人として当たり前のこと。だと。
二十代の若造にも感じていた。少しだけど。。。

斜面集落「横吹」に帰って、次の年小渕官房長官がテレビで「元号は平成です」と、伝えて、元号が昭和から平成になった。
その年、私たち家族は車が家まで入ることができる佐久間町半場に越してきた。
もう、サクドウにたよることも無くなった。
サクドウとは?
道路が家から遠い人が駐車場から自宅まで繋ぐゴンドラのような物

しかし、この半場、昔あれほどいた同級生が誰も居ない。みごとにいない。
立派な家に老夫婦だけの家が多い。
小学校が近く中学校も近い。県立高校もすぐ近くにあるのに。如何して。
ここ半場で消防団の付き合いが始まったけど、同級生が居ないのは一抹の寂しさがあった。
佐久間消防団は人口減少でも定年の延長は無かった。町長の挨拶では
「定年を延長しても、それは延命処置にしかならない」だった。
立派な町長だった。
人口減少に伴い団員数の減少、隣町中部との合併になった。
佐久間中学校の同級生も数人いた力強かった。
バカが多かった同級生でも消防の役員をやるようになってきた。
収支収入書の書き方を丁寧に教えてもらった役場に勤める一級年上の人がいて本当によかった。
中部の祭りに行って騒ぎ、バカな同級生が「俺はこの街が好きだ!」「だから帰ってきた」と言っていた。


平成17年(2005)佐久間町が浜松市に合併し、平成19年(2007)その浜松市は政令指定都市になった。


限界集落とは、社会学者・大野晃が、高知大学人文学部教授時代の1991年(平成3年)に最初に提唱した概念である。


佐久間町(さくまちょう)は、かつて静岡県磐田郡に存在した町である。
2005年(平成17年)7月1日、周辺10市町村とともに浜松市へ編入合併され消滅した。
ウィキペディアから。
昭和31年(1956)から平成17年(2005)から49年続いた佐久間町は自治地区としては消滅した。
役場の職員、町議会議員が代表として山間部の地域にはこれ以上の延命処置はできないと、最後の酸素吸入器を外したのだろう。

平成の市町村合併、佐久間町の自治地区としての消滅して数年たって東日本大震災が平成23年(2011)にあった。
合併時に始めた佐久間中学校同窓会の二回目のときだっただろうか。
酸素吸入器を外された佐久間町で浦川の清流荘でやった同窓会だった。

わたしの職場に電気工事の人が来た。
その人と親しくなり何でも話すようになる。
昔、親は西渡(にしど)で鍛冶屋をやっていたという。
「よかったゾ~。親が引っ越してくれて」
人の気持ちも知らないで(怒)
「もうちょっと頭がよかったらわかりそうダニ」
とも。
どうせわたしゃバカだョ(爆)

諸行無常
この世の中のあらゆるものは変化・生滅してとどまらないこと。この世のすべてがはかないこと。
限界集落、わたしの生まれ育った村「横吹」は今年の夏に一人暮らしのお年寄りが亡くなり残すところあと二戸になった。

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プロフィール
HN:
しんしん
年齢:
59
性別:
男性
誕生日:
1960/02/20
趣味:
走ること・空手・詩吟
自己紹介:
12市町村が合併して出来た新浜松市
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。

合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。


袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns

”しんしん”55歳  
2015/11/25現在。。。
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