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平成の合併が過ぎ、今私はここで暮らしている。 ほくえんの風を 身体中に感じながら。
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2013年12月10日のブログ
限界集落株式会社
そんな本を読んで、思った事を書いた。
都会は都会で良いところもあるし大変なところもある。そう思った。
わたしは、その限界集落と言われる横吹(ヨコブキ)という村に住んでいた。そこは山の中腹にあり斜面集落とも言われている。
小学校は城西小学校、中学校は佐久間中学校、どちらも国鉄(現在JR)の相月駅を利用していた。
飯田線
(中部天竜駅~佐久間駅~相月駅~城西駅~向市場駅~水窪駅)
相月駅を利用している主な村は(相月・島・横吹・立原など)
学校に通う人は相月駅を利用する。
水窪川を挟んで急峻な山がそびえる、横吹という集落は水窪川の西側にある山の中腹にある斜面集落だ。

佐久間中学校を卒業し、就職したところが静岡県湖西市鷲津2418「富士鐵工所」。
鉄工所の寮生活が始まった。そこには寮の歌があった。
わーしづのええきを南ゆき~♪。ドンドン歩くと見えてくる。
ゆけ~。ゆけ~。フジテッコーへ~フジテッコいいとこ良いところ~。。。
だったっけカナ(笑)

初めての喫茶店
お腹がすいて友達と喫茶店なるのもへ入った。
その友達は定員さんに
「スパゲティー、ナポリタンで」
と注文。
自分も同じものを頼んだ。
スパゲティーは知っているテレビで見たことがある。しかし、ナポリタンとは?
今のようにスマホで直ぐに検索できる時代ではない。
定員さんがバスケットにいれた様々なものを持ってきた。そのうち鉄板にアツアツのスパゲティーを運んできた。
友達がチーズを入れるとおいしいと言って粉チーズを振りかけた。
そうか~。このバスケットの中のものは自由に使っても良いですョと出したのか。
わたしは粉チーズを振りかけ、同じように赤い細長い瓶の調味料らしきものも同じぐらいの量振りかけた。
ど辛った。食べれたものではなかったが、腹が減っていたしモッタイナイから全部食べた。
湖西には喫茶店にはスパゲティーにはナポリタンとイタリアンがあるそうだ。ソースとパスタが一緒か別々の違いだそうだとか。
そんなの如何でもいいジャン。腹に入れば一緒になるジャン。と思った。
八百屋の前を通って、店先に柿が並んでいた。
斜面集落「横吹」に暮らして、水窪や佐久間の商店街に行っても柿 は売ってはいなかった。
柿は買うものではない。他所の家の庭の木に生っているのをかっぱらって食うものだ。
いや修正、柿は自分の家の庭の木から手で取って食うものだ。そう思っていた。
 

そんな田舎者のわたしも数年たてば、郷に入れば郷に従えの如く都会の生活になれてきた。
柿もスーパーで買うことができる。
喫茶店でスパゲティーを注文して、タバスコを多く振りかけることも無くなった。
そんな慣れた土地だけど、長男ということで横吹に帰らないと。月に帰るかぐや姫の心境に。。。
昭和の終わり。また長男は跡継ぎ、家を守っていく、日本人として当たり前のこと。だと。
二十代の若造にも感じていた。少しだけど。。。

斜面集落「横吹」に帰って、次の年小渕官房長官がテレビで「元号は平成です」と、伝えて、元号が昭和から平成になった。
その年、私たち家族は車が家まで入ることができる佐久間町半場に越してきた。
もう、サクドウにたよることも無くなった。
サクドウとは?
道路が家から遠い人が駐車場から自宅まで繋ぐゴンドラのような物

しかし、この半場、昔あれほどいた同級生が誰も居ない。みごとにいない。
立派な家に老夫婦だけの家が多い。
小学校が近く中学校も近い。県立高校もすぐ近くにあるのに。如何して。
ここ半場で消防団の付き合いが始まったけど、同級生が居ないのは一抹の寂しさがあった。
佐久間消防団は人口減少でも定年の延長は無かった。町長の挨拶では
「定年を延長しても、それは延命処置にしかならない」だった。
立派な町長だった。
人口減少に伴い団員数の減少、隣町中部との合併になった。
佐久間中学校の同級生も数人いた力強かった。
バカが多かった同級生でも消防の役員をやるようになってきた。
収支収入書の書き方を丁寧に教えてもらった役場に勤める一級年上の人がいて本当によかった。
中部の祭りに行って騒ぎ、バカな同級生が「俺はこの街が好きだ!」「だから帰ってきた」と言っていた。


平成17年(2005)佐久間町が浜松市に合併し、平成19年(2007)その浜松市は政令指定都市になった。


限界集落とは、社会学者・大野晃が、高知大学人文学部教授時代の1991年(平成3年)に最初に提唱した概念である。


佐久間町(さくまちょう)は、かつて静岡県磐田郡に存在した町である。
2005年(平成17年)7月1日、周辺10市町村とともに浜松市へ編入合併され消滅した。
ウィキペディアから。
昭和31年(1956)から平成17年(2005)から49年続いた佐久間町は自治地区としては消滅した。
役場の職員、町議会議員が代表として山間部の地域にはこれ以上の延命処置はできないと、最後の酸素吸入器を外したのだろう。

平成の市町村合併、佐久間町の自治地区としての消滅して数年たって東日本大震災が平成23年(2011)にあった。
合併時に始めた佐久間中学校同窓会の二回目のときだっただろうか。
酸素吸入器を外された佐久間町で浦川の清流荘でやった同窓会だった。

わたしの職場に電気工事の人が来た。
その人と親しくなり何でも話すようになる。
昔、親は西渡(にしど)で鍛冶屋をやっていたという。
「よかったゾ~。親が引っ越してくれて」
人の気持ちも知らないで(怒)
「もうちょっと頭がよかったらわかりそうダニ」
とも。
どうせわたしゃバカだョ(爆)

諸行無常
この世の中のあらゆるものは変化・生滅してとどまらないこと。この世のすべてがはかないこと。
限界集落、わたしの生まれ育った村「横吹」は今年の夏に一人暮らしのお年寄りが亡くなり残すところあと二戸になった。

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プロフィール
HN:
しんしん
年齢:
64
性別:
男性
誕生日:
1960/02/20
趣味:
走ること・空手・詩吟
自己紹介:
12市町村が合併して出来た新浜松市
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。

合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。


袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns

”しんしん”55歳  
2015/11/25現在。。。
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