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平成の合併が過ぎ、今私はここで暮らしている。 ほくえんの風を 身体中に感じながら。
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14日(日)に、ホウジ峠に走りに行った時から右臀部から太腿後ろ側が深部に違和感が、一週間走るのを控えていた。
金曜日の昼、調子が悪いので仕事を半日で終え、豊田町の成良治療室にて身体のケアをしてから余呉湖を目指した。
ラインで猪肉を持っていくョと連絡、ウッディパル余呉湖に夜七時に着いた。

身体のケア、揉みほぐしたその時はよいが、やはり違和感が。
そんな感じで前夜祭を終わり、バンガローの帰って睡眠ZZZzzz
20日(土)7時
ウッディパル余呉湖のスキー場をスタートした。

今回も、楽しい仲間が集まり走り出した。
昨日マッサージしたが、やはり、足が〜~痛い~。
騙しだまし、走った。

途中、いつものように踏切でストップ。
余呉湖に入って、一周二周、お、ユーレイが居た。
着物では走りにくいのか、裾をあげて生足をモロダシで走っている。
鼻耳ブ~
(* ̄ii ̄)ブー

手前のTシャツの人もたくさんいた。
飲むなら走れ、走ったら飲め

こんな人にも抜かれた。
「ナニ?」と聞いたら
「ブドウ」だって。
ネットで買った、そうだ。
あ、ワラーチじゃん。
凄すぎる。

私より、10歳以上も年上の山草人さんと並走、「もうダメ、先に行って」
今日はダメだ、もう少し走ったらリタイヤしよう。そう思ていた時に
7週目「下を向くじゃない、まっすぐ前を見よ」私にカツを入れる人が来た。
ヒロボーさんだ。
わかっちゃいるけど足が痛い。
ヒロボーさんの背中も小さくなってくる。
最後、周回、満身創痍、歩を止めないように進んだ。
朝7時スタート。制限時間は10時間、ゴールは17時
自分がゴールしたのは16時59分
しんしん五回目50周余呉湖を回った。
50週目は
ボロボロのゴールだった。

余呉湖、
天女の羽衣伝説ウルトラマラソンの楽しみは後夜祭

楽しい仲間と楽しく苦しく走って、最後に(酒)
そんな滋賀県余呉湖のイベントだった。

それにしてもユーレイ、チーム車座の人だと聞く、後夜祭のときもユーレイだった。
本物の顔はどんなんだかナ~、気になる(笑)

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それはイメージ。

先日ラインで エミール、クーエの法則の話が来た。

イメージが大切だと。

たとえば五円玉を木綿糸で吊るし、自分の目の前で持っていたとする。

その五円玉を、右左にスムースに動かそうと自分なりに努力しても簡単にはスムーズには動かない。ぎこちない揺れ方をする。

しかし、その五円玉を「動け。左右に動け」と頭の中でイメージすると。

あーら不思議。しばらくすると、その五円玉が左右にユラユラ揺れる。


イメージが大切だと、その人はタップダンスで観衆の前で演じている人だ、そんな人だからこそイメージの大切さを教えてくれた。

私が暮らしている佐久間町、誰が何と言おうとも楽しい。

そんなイメージを持ちたい(笑)

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2001(平成13)年、私の所に佐久間町の役場の人が来た。その人はわたしより一学年先輩の角兄(カクに~)
佐久間中学校で一学年先輩だ。
その角兄が言うには「井辺君を県市町村駅伝に誘ってほしい」ということだった。
井辺君とは朝のジョギング時によく出会う。そんな時に角兄の話を伝えた。
佐久間中学校時代の二年先輩の太田マーボーも走っている、そんなマーボーの娘と私の娘も市町村駅伝の予選に参加した。
それからマーボーも私も市町村駅伝の練習に参加した。
2002(平成14)年、静岡県市町村駅伝の佐久間でのチームを選択する予選会があった。男性40歳以上の部、マーボーとデットヒートの末勝ち取った補欠の枠だった。
ま、補欠だから選手の付き添いだから、気は楽だ。った。
それでも静岡新聞に自分の名前と顔写真が記載されコメントも書いてある。それも見た知り合いから電話もあった。
2002年11月29日の金曜日、仕事を半日で終わり、役場の前で多くの職員に見送られマイクロバスに乗って佐久間町から静岡市に向かった。
静岡市のグランシップで市町村駅伝の開会式は行われた、佐久間町と書いたプラカードを先頭に選手の一人として私も行進した。
観覧席からは地元小学生の「佐久間~~」の声援が聞こえた。壇上には静岡県の市町村の首長が勢揃いしている。我が佐久間の町長 小原侃之輔さんは背が高く頭が光っていてひときは目立っていた。
 
平成12年~14年、NHK学園で学び卒業した。そして平成15年にNHK社会福祉学科に入学し、二か月に一回名古屋の愛知東邦大に通った。
NHK社会福祉学科を選択したのは、この学科を卒業すれば介護福祉士の免許を受けることができるからだ。
2004(平成16)年、この年、その介護福祉士の学科の試験が1月25日愛知県の大同工業大学であった。とても多くの人がいた、受験番号を頼りに教室を捜し、やっと見つけたその教室には自分の番号だけが無かった。おかしく思い会場の人に聞くと、チョットした手違いで間違ったそうだ。急遽違う棟に移り机に座った。はじまる前からやな感じがした。ところが数日後合格のハガキが届いた。
 
走る方も、それなりに頑張っていた。
介護福祉士の学科の試験の帰り名古屋からの帰りの途中で、新城運動公園によって5㎞軽くギョギングした。思いで多い新城運動公園だから近くに来たので寄ってみた。
その年の
2月2日森町ロードレース21㎞ 1時間33分43秒
2月23日天竜杉の里21㎞    1時間39分00秒
3月 7日、介護福祉士の実技試験の日、場所は愛知県の同朋大学、電車で行く名古屋では雪が舞っていた。
勝負服に2000年2月20日自分の40歳の誕生日に走った青梅マラソンのTシャツを着て臨んだ介護福祉士の実技試験、そのモデルは男性だった。噂によると女性のモデルの方が合格率が低い、とか。少し安心した。

3月21日 豊橋ハーフ     1時間40分01秒
貧血気味で、タイムも振るわない。
4月04日 秋葉ダム桜マラソン10㎞ 39分44秒
何もかも順調に進んでいると思っていた。次は、次のマラソン大会は4月27日の小笠・掛川マラソンが目標だった。
2004年4月13日火曜日、仕事を6時に終わり自転車で佐久間小学校に行き、私のもう一つの趣味「空手」の稽古をするために体育館に入り師範に「中学生を相手に組み手を」といわれ、その中学生を相手にしているときに、頭の遠くで不吉な痛さが、少し休憩すれば治ると思っていたが、だんだんその痛さが増してきた。携帯を貰い119に電話した。
佐久間病院は、仮設の病院だった。CTで撮った写真を見てドクターが「出血してます」と、外はもう日が暮れ真っ暗、ドクターヘリは飛ぶことは出来ない。
佐久間病院から三方原聖霊病院まで搬送が決まった。曲がりくねった国道を走る様子がなんだか記憶している、ような気がする。
記憶が無くなって五日、土曜日の昼、自分は病院のベッドの上だった。病室の洗面台に行き鏡で顔を見ると右の頭に大きな絆創膏を貼った無精ひげの自分が鏡に映っていた。

リスクとベネフィット
世の中のものには、プラス面とマイナス面があります。
プラスの面をベネフィット(便益)といい、マイナス面をリスクといいます。
リスクは日本語の「危険」とは違い量的な意味で使用され、望ましくない害が起こる可能性の程度(確率)を指します。
 実際に発生した時の害の大きさが異なる場合には、その大きさと発生する確率との組み合わせで定義されることもあります。
ベネフィットは大きければ大きいほど良く、リスクは小さければ小さいほど良いのです。
しかしながら、人がベネフィット得るために何らかのものを利用しようとする限り、いくらかのリスクは避けられず、それを完全に無くすことは決してできません。さらにいえば、リスクを完全に無くしてベネフィットだけを得ることは不可能です。

今日読んだ、ある冊子のコラムに書いてあった。

「リスク(危険性)とベネフィット(便益)」
世の中の全ての物には、必ず良い面と悪い面がある。
2012/04/12 (Thu)に書いた自分のブログ「ほくえんの風」から。
走ることにも、良いことも悪いことも、有るのかナ~。
 

FB(フェースブック)をやっていると、続けていると、何年か前の自分が投稿したことが帰って来る。
日記は、自分が読み返して初めて、あのときこんなことを思っていたのか、と回想するが、FBの場合自分の過去の投稿がスマホの画面に現れる。
また、FBの友達からの投稿も。続けていると仲間も増えてくる。自分の考え方趣味その他の繋がりで友達が増えてくる。
中には商売繁盛を願って、選挙運動での自分の考えを示すために、また自分の孫自慢、子供自慢の人もいる。

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2000(平成12)年、静岡県市町対抗駅伝が始まった。町の広報で、その駅伝大会の佐久間町のメンバーを集っていた。
自分は速くはないし、ただ趣味として走っているし、短い距離よりハーフマラソンやフルマラソンに興味を持っていたし、気にはなったいたが参加はしなかった。
夜、仕事が終わり、ジョギングをしていると、そのメンバーと思われる人たちが佐久間中学校の校庭で練習に励んでいた。

自分の記録をさかのぼると、当時の2000(平成12)年、小笠掛川マラソン(現掛川新茶マラソン)を3時間31分23秒で走っている。けして40歳の男性としては速い記録ではない、その後、3時間30分を切りたいとフルに挑戦した、しかし、その夢は叶わず還暦を迎えようとする老いた自分の自己ベストとして今尚自分の記録として残っている。
2000年2月20日は私の40回目の誕生日、丁度その日は東京都の青梅市で行われる青梅マラソンに参加した。30㎞を2時間40分39秒で走っている。
インターネットで自分のホームページをつくり、私のページを見た東京の多摩市の男性(中村さん)と仲良くなり、その人を訪ねて東京行の新幹線に乗っていた。その年の冬。
熱海の駅で、50歳前後の女性が隣に座り話だし東京にフラダンスの発表会に行くのだと聞いた、月に一回は東京に行く「やっぱり東京はイイ」と話していた。
東京駅に新幹線は到着した、多くの人でごったがえす東京駅、中村さんに電話をかけ丸の内中央口で待ち合わせをした。
初めて会ったその人は優しそうな穏やかそうな人だった。二人で皇居の周りをユルク走り、彼のラン友だと女性のランナー数名を紹介してくれた。
彼の後を着いて電車にゆられ、着いたところが多摩市、そこの駅近くのビジネスホテルを予約してある。私はホテルへ彼は自分の家へ、夕方再開して夕ご飯を一緒に食べようと話して別れた。
予約したホテルのロビーでチェックインして鍵を貰い、エレベーターに乗って部屋に向かった。せまいホテルの部屋の窓から見た大都会東京、多くの人であふれている東京、そこにネットで知り合って仲良くなったラン友を頼りにやってきた。大都会東京。

いや、目的は彼だけではない。
その年、私は通信制の高校NHK学園に入学、東京都国立市にあるその学園に陸上部がありネットでそのメンバーも青梅マラソンを走ることは知っていた。その陸上部の顧問の先生ともネットで話し青梅マラソンで会おうと約束していたのであった。
2000年2月20日の朝、青梅行の電車にて青梅駅を中村さんと目指した。青梅駅は中部天竜駅とさほど違わない狭い駅だった。その駅に多くのランナーが集まっていた。
第34回 2000年2月20日(平成12年)開催 出場者数: 13,241名
初参加の自分は最後尾でのスタートになった。まるで満員電車の中で多くの乗員が移動しているような状態、道路の脇に立つホテルの窓からも応援している人がいる。また演歌歌手松原和子の「帰ってこいよ」のレコードを大音量でかけていた。
一万人以上のマラソン大会は、この大会が初めてだった。
青梅マラソン30㎞のコースは、青梅市役所付近から奥へ行き折り返してくる往復コースだ。
 往路はほとんど人人人でみんなのペースに合わせるしかなかった。それが幸いしたのか復路に快適に走れ清々しくゴールで来た。
30㎞を2時間40分39秒 13,241名の中で3225位だった。

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そのように思いたい。

しかし、それは自己満足。

それで良い。

人に迷惑をかけていなければ。

だけど、知らないうちに誰かが迷惑だと思っているかもしれない。

ほくえんの風を感じながら。

昨日はホウジ峠「伝承館」にソバを食べに行った。

この前、走った しし鍋マラニックの写真を置いてきた。

ジャンジャン。。。

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プロフィール
HN:
しんしん
年齢:
59
性別:
男性
誕生日:
1960/02/20
趣味:
走ること・空手・詩吟
自己紹介:
12市町村が合併して出来た新浜松市
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。

合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。


袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns

”しんしん”55歳  
2015/11/25現在。。。
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