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平成の合併が過ぎ、今私はここで暮らしている。 ほくえんの風を 身体中に感じながら。
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著者は
1981年、愛知県名古屋市生まれ。エネルギー哲学者。フローリスト。脳の手術を受けたことがきっかけで、「生」と向き合う。より自然な生き方を求め、植物療法を学ぶために渡米の準備をしていた中、パリと花に魅せられ渡仏。その後、モンパルナスの老舗花屋で妖精と出会い、フローリストの道を志す。
HPから引用

私は今、NAOKO★アサガオを遠山郷から頂いてきた花桃の苗を育てている。
また
家の周りにツツジ・紫陽花を植えている。
そして
そこのとこには、昔私たち家族が、ココの地に越してきたとき、父親が植えたニッキの木がある。
その隣には、枝垂桜がある。
今年その桜が満開のとき、ライトアップをしてみた。
何年か後に、そこが、ツツジが咲き桜の花が咲き、人々の心を癒すところになればイイと思っている。
私の元に・・・神が舞い降りた(笑)
フローラさん
(私も脳の手術を受けたことが有ります)

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流れる星は生きている
昔、隣りの人が死んで、夜中通夜の帰り道、私は母親に聞いたことがある。
「死んでしまうの何処に行くの」
母親
「あの、星になるんだよ」
と夜空を見つめた。
今私は、その母親より年上になり、真夜中のランニングで夜空を見つめた。
今朝の中日新聞にJAXAを退職した野口聡一さんのインタビューがあった。
「宇宙は基本的には死に世界。生きていることは奇跡だと感じた」
と語っている。
戦争が終わり満州から引き揚げた藤原ていさんは半島からの夜中の引き上げで星を見つめた、そして、そう感じた。
流れる星は生きている
夜集まって、一晩中走ること。
普段は考えられない視点から物を見ること。
大切だと思う。

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ほくえんの風

夢街道CR、そのコース西渡(にしど)から八丁坂を登りきると、そこは瀬戸(せと)の集落、

そこから、その集落は間庄(ましょう)立原(たっぱら)横吹(よこぶき)と続く、国道に出る辺りが島(しま)

私が生まれ育まれたところは横吹、私には父親が違う一回り年上の兄姉がいます。

昭和22年生まれの兄「政彦」がいた。昭和23年生まれの姉「ふく子」がいる。

その人たちは学校から帰ってくると水汲みランプの掃除などが日課だったという。

大正15年生まれの母親に

「おまえは良い年に生まれたワイヤ」

と、苦労した兄姉に比べられて、言われたことを今でも覚えている。

昭和35年生れ

確かに良い時代に生まれてきたのかもしれない。運がいいとか悪いとか、それは確かにあると思う。

ロシア軍がウクライナ侵攻を開始して、今世界の食糧危機が叫ばれている。

太平洋戦争のとき、私の叔父「新間徳一」は国の命令で戦地に向かった。その人は横吹に帰って来たかった事だろう。

しかし、帰ってこなかったから授かった命もある。

こと 

昭和60812日(月曜日)

日本航空123便が群馬県多野郡上野村の御巣鷹山ヘ墜落した航空事故があった。

私たち家族は青森県の八戸市、兄のアパートで、そのニュースを聴いていた。

その飛行機に偶然乗った人、何かの事情でキャンセルした人、そんな人がいたときく。

そのとうじ、御巣鷹山のあるその村の村長の話を知っているだろうか。

黒沢丈夫村長

大正21223 - 平成231222日は、大日本帝国海軍士官・操縦士。政治家。戦後群馬県多野郡上野村村長を10期連続で務めた。日本航空123便墜落事故の際に事故処理に尽力したことで知られる。

その人は軍人として多くの人の死を見てきた

そして

個体保存の本能よりも種族保存の本能がまさるよう、死の恐怖を克服しなければならない。海軍ではまさにそのための修練を積むべきである、と考えていたという。

その村は、その人の意思を引き継ぎ群馬県一のミニ村として頑張っている。

また

横田 めぐみ(昭和39105 - )は中学1年生(13歳)のとき、部活動を終えて帰宅するところを拉致された。

その国は拉致を認めた。にもかかわらず、日本の国は「遺憾である」としか言えない。

「国家の品格」で藤原正彦さんが書いてある。「家族愛、郷土愛、祖国愛は 人間の基本」である。と。

横田夫妻が娘を返してほしい気持ち。家族愛

日本が一つの家族であるならば、誰も許しはしないだろう。

夢街道CR参加する人たちは皆家族、そんな気持ちで集まってほしい。

Run for peace

苦しみから抜け出す方法はたった1つ。他の人を喜ばせることだ。

「自分に何ができるか」を考え、それを実行すればよい。

アドラー

ハクリヤで美味しい生が待ってま~す。

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令和二年、この映画を観た。
鹿野靖明とボランティアたち
この話は、浜北の NPO法人Harmonyの理事長さんからの投稿で知った。
俳優 三浦 春馬さんは、恵まれた環境、親は医者、その息子である医大生の役だった。
医者である親に反発していた。そして狩野の介護ボランティアをしていたのであった。
そんな優しい人柄を演じていた。
あれから二年たち、私は特別養護老人ホーム「さくまの里」で、その介護の仕事を知るようになった。
昔、私の母親が、入所した、その部屋、そこに違う誰かの、お世話をするようになった。
これも縁なのか。
上島竜平のニュースがテレビから流れた。
私より年下の、彼
どうしてだろう?
私は思う。
人には死にたいほど苦しいことがある。
白線を、超えたら楽になる。
死にたいほど苦しい事から逃げること、それも正解なのかかもしれない。
志村けん、コロナで亡くなり、私はその人の本を何冊も買って読んだ。
伊藤さんは今年の始め、癌告知を受けた。
伊藤さんの分まで生きようと思う。

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ガタン・ゴトン、ガタン・ゴトン、ガタン・ゴトン、ガタン・ゴトン、ぷワ~ンぷワ~ン
「ただいまシカとの衝突のため、列車は停止しています」
「ご迷惑おかけしますが少々お待ちください」
中部天竜駅を朝5時25分発、私一人の乗客に車内放送は流れた。
仲間と別れ、
壺屋で、ほろ酔いセット、
缶ビール・酎ハイ二本、ツマミを買いそろえ豊橋駅を17時57分の飯田線に乗り込んだ。
昔みたいに飯田線は混んだりしていない、車窓に缶をならべ流れていく景色を見ながら一本目の缶ビールを開けた。


ランチセットを注文し、カレーの辛さをソレゾレ決めた。
辛さは★ひとつの辛くないカレー、中位の辛さは★二つ、それから★三つと★四つの順に辛くなっていくようだ。
ウッチャン
「私は★ひとつ」
トモゾウさんは
「私は★二つ」
私は。考えて
「・・・★四つ」
店のネパールの人の顔を伺い、やはり止めたほうがと思い
「やはり★三つ」
と、言いなおした。
藤吉さんから進められた本「百万回のありがとう」その本の著者は子宮がんになり余命一カ月と宣告されたけど、その癌は無くなり、その人は生きている。そして本の最後にはインド&ネパール料理店を切り盛りしていると書いてありました。
本の著者とネパール人ゴトムさんとの出会い。スイッチONの奇跡
多くの出逢いで、その人の奇跡の人生は彩を増していく。
その人生も、やがて終わるときがくる。
伊藤さんは死んだ、その人の家に行き手を合わせ、今日のマラニックは始まった。
(ふるさとの自然を感じよう、穂の国で!)
その公園は伊藤さんの暮らす街を一望できる高台の山一帯が公園になっていた。
走る人、歩く人、親子ずれ、様々な人が、故郷の自然を満喫している。


道路を走り、五井山の登山口を目指す。
ウッチャンは元気に走っていく、私は着いていくのがやっとだ。
五井山、登山口、なんか昔の記憶が蘇るような。ケンさんたちと車で通ったとことには、バリケードがあった。
そこを開門、し隙間から五井山に、、、、。
昔ハング・グライダーをやっていたとき、わたし20歳代のころ、今から40年も前の話し。
当時は走る、とか、山登り、まったく興味がなかった。
ハング・グライダーが楽しかった。
その40年前の記憶をたどって五井山を登った。
しかし、車道ではなく登山道を登った。
登山道から出た、その山頂、昔はハング・グライダーで五井山からテイクオフしたところと違うのか?
昔、五井の山頂には鉄塔があり、強風のとき、その鉄塔が怖かったと記憶しているのだが。
その山頂には、何人もの人がいる、その中のアマチュア無線をやっている人に訊いた。
「ハング・グライダーのテイクオフ場知りませんか?」
その中の一人が言った
「この先に、あるよ」
三人で、そこから歩いて行くと、そこにあった。
テイクオフ場だ。
40年前、私はケンさんやヒロ君、ナカネちゃんらと、ココで飛び立った。
そして、私は27歳のとき、衣笠山で飛んで、そのハング・グライダーを止めようと決めた。
佐久間に帰り、30歳から走り始めた。
何回目のフルマラソンだろうか、小笠・掛川フルマラソンを走り終わり佐久間の家でビールを飲んでいるときにヒロ君から電話がかかってきた。
そして、ケンさんの死を知った。
五井山から下山、麓には神社があった。
石上神社だ
私のHの師匠、下さんが言うには、神社の鳥居には意味があるそうだ。
「神社の鳥居の両方の大きな支えは女の太腿を表している」
酔っ払って鼻の頭を赤くして、私に話してくれた人だった。
しかし、私は、その話を納得した。
鳥居を潜るということは、女の叉に入っていくことだと。
そして、その叉を出てきて、新しい自分に生まれ変わることだと。
また、人生、一日、その一日一日を生まれ変わって生きていくことだと。
ケンさんは死んだ。
20歳のときケンさんとハング・グライダーで飛ぶために朝霧高原・車山など楽しい思い出がある。
もう二十歳のころにはは戻れない。
そのころの自分は死んだのである。


人は生れ、そして死んでいく、それが人生だ。
映画
モウガン・フリーマン
のセリフだ
人は夜寝て、朝起きて来る。
昨日までの自分は、もういない。
明日からの自分の、生き方を考えないといけない。
むにゃむにゃむにゃ
「お客さんお客さん、どこまで行きますか?」
「むにゃむにゃむにゃ中部天竜駅まで」
切符を車掌さんに渡し、窓から外を覗くと浦川駅を列車は出発する所だった。中部天竜に着き夜8時、夜道を家路に急ぐのであった。
終わり。

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遠山郷、天神の杜
そんなキャンプ場、そこの人から、このアサガオの種は頂いた。
このアサガオの種は、宇宙飛行士「山崎直子さん」と宇宙を旅したアサガオの種の子孫だ。
直子さんと共にスペースシャトルで地球を238周回、15日2時間47分10秒、滞在したアサガオの子孫なのです。
そして、此の種から発芽したアサガオで
「やさしさ」「おもいやり」そして『きぼう』を育てようと、
そんな趣旨がある
希望
のアサガオの種なのです。
一人では、もし失敗したら大変なので
隣りの花好きな人にも
協力してもらった。
何時もの、この時期はゴーヤでミドリのカーテンをやるはずだが、
ミドリのカーテンが出来たらイイナ~
しんしん

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睡眠中、子どもたちの声がした。
少しの仮眠で、目が覚める。
木沢の人たちが外でビールを飲んでいる。
子どもたちのお世話が終わり、慰労会なのか。
「お前も飲め」
と、ビールを差し出されたが、断った。
今、最近、は、酒はホドホドにしている。
他の用事もあるし。
その用事とは
遠山郷のキャンプ場、その経営者の人から花桃のコバエをもらうこと。
その人に電話をかけ、今ならキャンプ場に居ると言われ、私は出かけた。
そのキャンプ場は、青崩れトンネルの残土を入れて埋め立てをすると言う。
遠山も変わっていく。
花桃のコバエを頂き、帰るとき。
宇宙のアサガオ
「NAOKO☆アサガオ」
をもらってきた。
そんな話が
あった。
つづく

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天竜川を源流から河口まで225km、を走ろうとする強者がいる。
私は、そのマラニックの
天竜川の225㎞
ちょうど中間地点にある平岡エイドのボランティアをやるようになった。
そして行ってきた。
久しぶりの再会の人がいる。100㎞以上の距離を走った来た人のサポート。
最近走ることに遠ざかり、自分の情けなさが強くなる。

最後のランナーがきて、お昼前には解散になった。
空っぽになった車のガソリンを平岡のスタンドで入れた。
そして遠山郷観光協会から借り受けた様々な道具を運びボランティアは終了した。
昼ごはん(天丼弁当)を頂いたので、木沢小学校の用務員室で食べた。
そして、そこで仮眠した。
つづく

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安藤俊介
を読んだ。
アンガーマネジメントとは怒りの管理方法
怒りとは、どのように発生するのか?
そんな事から書いてある本だった。
介護職の現場は、人間を相手にしている職場だ、また働いている人も喜怒哀楽を持った人間だ。
過去に読んだ「嫌われる勇気」その本でも書いてあった。
怒りと言う感情のこと、自分では止められない感情だと言っていた青年に
哲人は、自分でコントロールが出来ると。
人を怒るのは、その人を支配しようとしていると。
最後おわりにで
「人の役立つ仕事がしたい」
「人にやさしくしたい」
「人から喜ばれる仕事をしたい」
こんなふうに思って介護の仕事を始めた人が多いのではないでしょうか。
でも、実際に介護の仕事を始めてみると、介護現場での人間関係の難しさに心が疲れてしまうことの連続です。
利用者の方からは感謝こそされ、怒られたり、嫌味を言われたりするなんて思ってもみなかったはずです。職場ではパワハラ・セクハラのようなことまでされるなんて夢にも思わなかったでしょう。
仕事の忙しさ、ハードさも、ここまで肉体的にきついものとはほとんどの人が予想していなかったのではないでしょうか。
本当に介護職って大変です。でも誰もがそう思っているにもかかわらず、介護職や介護全体を取り巻く環境はなかなか改善されません。
原文まま
アンガーマネジメントを取り入れ
怒りの感情をコントロール!イライラやストレスを軽減。
怒りの感情は連鎖します。怒りの感情は伝染しやすいという性質があるのです。
怒りの感情は、上から下へ。上司から部下へ流れていきます。それは忙しさだったり。満たされない欲求だったり。
アンガーマネジメントは必ず今日よりは明日、明日よりは明後日の方がうまくなります。
アンガーマネジメントを身につけて、よりよい介護を実現してください。
本書がそのお役に立てたら嬉しく思います。
そ締めくくっていた。
今回、この本を買おうと思いAmazonでポチしたら。
キンドルだった。
介護職という人の命に関係する職に就こうとしている、
わたし
あわて者。これからどうなって行くのか心配だ。
毎回職場では緊張の連続だ。
ある利用者様が、緊張気味の私に歌ってくれた
「そのうちなんとか、なるだ~ろおう~」
天童よしみの
だまって俺についてこい
明るいお年寄りに励まされた(^O^)/

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「そこイイネ!」
とは?
南信州「遠山郷」そこにある廃村になった集落の名前である。
ホントのそこの名前は底稲集落
遠山郷観光協会「アンバマイ館」そこの向かいの山に、その底稲集落があると聞き、私は、その集落を目指し登った。
木沢小学校からバイパスを走り観光協会「アンバマイ館」前から集落を目指し登った。
登れど登れど、集落は出なかった。
松林があり雑木があり、ネットではスギ林の中だとに書いてあったので、もう通り過ぎたのかと思って帰ろうかな、と思ったときヤマップの地図を見たら、少し上ると平らなところが、そこに行ってみよう。
進んだら、あった、底稲集落跡、山の山頂近くに平らなところが、朽ち果てた家が四軒、あった。



その家を見て回って、いたら、帰る道が分からなくなる。
GPS、ヤマップの地図をたよりに、帰り道を探し、もと来た道を下っていった。
山を下り、観光協会「アンバマイ館」で、木沢小学校に電話をかけ、迎えに来てもらおうかと思ったが。
車に乗れる状態の人はいない。
とのこと。
木沢小学校まで行けば、酒が待っている。
最後の力を振り絞って、
木沢小学校まで走って。
その木沢小学校まで辿り着く。
そこで飲む、ビールは最高の味がした。
(*^▽^*)


そこイイネ!
集落「底稲」そこいね
そこをそこイイネ!は無理があるかも。
でも私が勝手につけた。
そこイイネ!

過去に誰かが住んでいた。
そこイイネ!
底稲
昔の話し、でも、そこには人の生活が、確かにあった。
そこイイネ!

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プロフィール
HN:
しんしん
年齢:
64
性別:
男性
誕生日:
1960/02/20
趣味:
走ること・空手・詩吟
自己紹介:
12市町村が合併して出来た新浜松市
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。

合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。


袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns

”しんしん”55歳  
2015/11/25現在。。。
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