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平成の合併が過ぎ、今私はここで暮らしている。 ほくえんの風を 身体中に感じながら。
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佐久間町に帰って来て29年、ここが浜松市になって14年、が過ぎようとしている。
いろいろあった佐久間での出来事、走りはじめたのも佐久間に帰って来て、富士鐵工所水窪事業所の仲間が佐久間駅伝に誘ってくれたからだ。
ココに自分が存在する意義「存在意義」はあるだろうか?
今回はこんなことを考えた。

自分は何をするために生まれてきたのか?→存在意義
合併があり山間部でのこれからの生活を憂いているときに、ウルトラマラソンを走る仲間と出会い、荘川桜の話を聞き さくら道遠足 を走った人の話を聞き佐藤良二さんの
「この地球上に、天の川のような美しい花の星座をつくりたい。花を見る心がひとつになって、人々が仲良く暮らせるように」
このような言葉を知った。

山間部だけど、楽しく面白く生活していきたいと、自分も始めたマラニック「ほくえん旅ラン」
佐久間町が吸収合併されたに2005年に一人で浜松駅から佐久間町まで60㎞を走ってみた。
そして、次の年から走る仲間を誘って走った。

しかし、そんなことやっても山間部の人口流失には歯止めはかからない。

一番驚いたのは お寺の和尚さんが浜松にマンション買ったと聞いたこと。
檀家である私は地元の連絡つく人に相談した。そして酒を飲んで話した。
その時に
「おまえも横吹でたじゃないか」
と。言った人がいた。
山の中腹にある横吹には村道(車の道)が開通する見通しがなく親も出てく決心をした。
俺はその時、自分の働いているところ湖西に来ないかと言ったが
:「少ないけど、先祖から譲り受けた大切なものがある」
その言葉で佐久間に帰って来ると決めた。

また、同じ横吹から半場に越した人が半場から出ていった。
親睦会の総会のときに、その人の送別会も一緒にやった。
その時、その人が言った。
「佐久間はイズレ無くなる。東栄町も今は頑張っているがイズレ無くなる」
誰も反論する人が居なかった。
その人は松田レポートを鵜呑みにしているのだろうか?
新聞紙面で消滅地域と勝手なことを報道する新聞を間にうけているのだろうか?

また、合併した その年に佐久間中学校の同窓会が始まり、二回目まで佐久間で行った同窓会も、地元の人が
「浜松の街中でやりたい」
その様な意見が出て、55歳の同窓会は浜松での開催となった。
同窓会の幹事も浜松市内の人にやってもらうことにした。
その時の引継ぎを佐久間でやろうということになり、話を進めていると、佐久間のある女性が
「佐久間なんかで、ワザワザ浜松の人に来てもらうのはワルイ」
との意見があった。
佐久間(田舎)に引け目を感じているような感じだった。
都会→素晴らしい
田舎→情けない
この様に感じているのでは?

たしかに便利なことは素晴らしい。
しかし、なにかの宴でココに暮らしている。
誇りを持て暮らしたいと思っている。
ココに暮らす存在意義を探している。
自分の故郷「横吹」今年、鍬竹さんが亡くなった。
その故郷は残り二軒となった。
「横吹」の村の名前をみんなに知らせ残していくことが、これからの私の存在意義として行こうと思っている。

都会も田舎も、みんな違ってそれでいい。

田舎だと言って、金がないからと道路整備予算をケチるのは辞めてほしい。

田舎に暮らす人の命綱。

ライフライン

 

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健さん といえば「幸福の黄色いハンカチ」
網走刑務所を出所した勇作(高倉健)が、離婚した元妻のいる夕張に行くお話し。
出所してすぐにハガキを出し
「まだ一人暮らしで、俺を待っていてくれたなら、こいのぼりの竿に黄色いハンカチを吊るしてほしい、もし何も無かったら黙ってその場を去る」
と書いて送った。
今回は健さん のお話し。
と言ってもワークマンで買った健さん の話。
先月浜松縦断マラニックを走った仲間に「健さん」という靴を履いていた人がいた。
ワークマンで買ったという安い靴だ。

運動靴と違いクッション性は無い。
うすい靴底で膝や腰の関節には良いとは言えない、靴。
しかし、昔はみんな歩いてた、いや昔は走るときは足袋だったり裸足で運動会の徒競走に参加していた記憶がある。
それが何時しか高性能の運動靴が開発され、みなソレゾレ良い靴を履いている。
子どもの時代から俊足とかいう運動靴を履いている。

そもそも人間の骨格は運動靴を履かなくても走れる。
足裏全体で着地すれば足底のアーチ部分がクッションになる。
膝も腰もクッション代わりに使って着地すればいいのだ。

それがクッション性の良い運靴が開発されかかとから着地するようになり、ますますクッション性の性能を追い求め今の形になったのだ。
より速く走ろう。そんな人ならそんな靴も良いのかもしれない。
私のようにユックリ走る人は「健さん」よいかもしれない。
と思い、さっそくワークマンに行って健さん を購入
9月4日(火)から履いて走っている。
 
今日で122㎞健さん で走った。
その健さん の靴底は下のとおり。

もっとも健さん の良いところはワークマンで680円で買えること。
ユックリ走る趣味、お財布にも優しい趣味だ(^O^)/

勇作(高倉健)は、花田欽也(武田鉄矢)のファミリアに朱美(桃井かおる)と一緒に乗って夕張の家まで行き欽也が黄色いハンカチが風に揺れているのを見つける。
その後、光江(倍賞千恵子)と目が合い、二人は家の中に
感動のラストシーンだった。
高倉健はカッコいいナ~。
俺も健さん履いて健さん みたいにカッコよくなりたい。

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2000年2月19日(土)
青梅マラソンに行くために新幹線で東京駅を目指していた。
熱海の駅で乗車した女性が隣の席に座り話がはずんだ。
 私:「青梅マラソンを走る、走りはじめて初めての遠征、東京駅でネットで知り合った仲間が待っている」
女性: 「東京にフラダンスの発表会、ヤッパリ東京は胸躍る、たまには都会にでないと
そんな話しをして やがて新幹線は東京駅に到着した。
ネットで知り合った走る仲間に携帯で連絡し、コインロッカーに荷物を預け二人で皇居の周りをジョギングした。
その日は多摩駅近くのビジネスに宿泊して次の日、青梅マラソンを走った。
 
はじめて走る青梅マラソン、何万人かのランナーが青梅の街の中を松村和子の歌「帰ってこいよ」の流れる中をスタートした。
人人ひとの流れの中を走った。
しんしん40歳の誕生日2000年2月20日(日)記念の青梅マラソンだった。

先日の女性はフラダンスを趣味としていて東京に来た。
フラダンス
当時、自分はフラダンス、のイメージをビキニ姿で腰ミノつけて手を横にフラフラ踊るダンス、くらいにしか思っていなかった。
 

その後、数日して、映画フラガールを観た。
福島県いわき市の常磐炭鉱を舞台に、炭鉱で働く人々が職場を失う現実・苦悩に立ち向かい、町おこし事業としてを立ち上げた常磐ハワイアンセンターの誕生から成功までを実話を元に描いた映画だ。
ダンス経験のない、炭鉱の女たちが町おこしにと常磐ハワイアンセンターで踊る、しずちゃん、蒼井優の演技が感動を呼んだ。
フラダンスのイメージが変わった。

月に一回、森町三倉での勉強会・読書会、そんな集まりの人の中にもフラダンスの趣味の方がいる。
先日職場で午後から出勤の人がフラダンスをやっている話を聞いた。

佐久間でも。
あの人も、この人も、やっている そう。
さくま版フラガール、地域を盛り上げる女性の団体、、、、できるかも知れない。

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朝の情報番組、フジテレビ「めざましテレビ」キラビト!で温田温泉の名物女将の番組がめにはいった。
早々家に帰って、いろいろと検索してみた。
場所は山口県山口市温田温泉
温田と聞いてもしやと思ったが、飯田線の温田駅とは関係なかった。残念。
大好評「女将劇場」連夜開催中(入場無料)

今、そんな女の人が明るく頑張っている時代、だと思う。
私の周りにもそんな人が多い。
ヨッピー・ウッチャン・サクラさん・岡さん・ノリノリさん

そこで、その
山口県山口市温田温泉の名物女将の動画↓

人生楽しんだ者 勝ち。
是非、本物を見てみたいものだ(^O^)/

自分のマラニックも、名物マラニックになるよう。
がんばろう\(^o^)/エイエイお~

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水窪祭りの仮装コンクール、去年は参加させてもらった。
今年も・・・。と、思ったがこの夏に不幸があり今回はやめにした。
去年、お世話になった山に生きる会「交流所」に今年は、そんな挨拶をしに一升瓶を片手に訪問した。
 
山に生きる会 初代会長
ノボルさん
水窪老人会会長
ギンに~。
水窪実践塾 塾頭
クニジさん
が、これからの水窪の話をしている最中に お邪魔した。
「浜松市になったが、この水窪から元気を出してみんなで楽しくやりまいか」
「水窪が先頭にたっていけば、佐久間もついてくる」
「高齢化は水窪だけではない、都市部でも同じダ」
「今、自分本位の人が多すぎる、自分さえ良ければいい、そんな人が」
「自分のことは大事、だけど地域のことも考える時代」

なにか用事のない限り。
「夢街道90㎞、協力するゾ~」
とも言ってくれた。
 
あの
松下幸之助さんも82歳の時に私財をなげうって「松下政経塾」を立ち上げた。
若い人たちに、日本の未来を託すために。
ノボルさん・ギンに~・クニジさん
水窪の未来を語っていた。水窪には本当に水窪を愛する人がいる。

今回、水窪に来たのは、もう一つ目的がある。
10月27日
峠の国盗りマラニックの情報集め。
山に生きる会「交流所」を早々に切り上げ、また耳塚酒店により一升瓶をかついで向市場の知り合いの家に急いだ。
向市場の壮年衆が集まっていた。
みたことある人、初めて出会う人、北遠のそこらじゅうを走っているので自分を知っている人は多い。
中に城西の人がいた、今回初めて顔を合わせる人だが、その親戚は知っている人だった。
多くの御縁をいただいた、今回の水窪祭り。

よき宴が、よき縁を招いてくれて、未来の自分の夢を叶えることの希望につながった。
少々飲み過ぎたのか、夜中ションベンに何度も起きた。
二日酔いの気分は暫く残った。
そんな感じだけど、夕飯前にはビール。
そしてブログ。
土曜日は酔っぱらって書けなかったので今日は二回書いた。

お世話になった水窪の宴でのご縁、本当にありがとうございました(^O^)/
水窪祭り2017
水窪祭り2016

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人は母親の体内から這い出てきて命が始まる。

幼児期・少年期・青年期・壮年期・中年期・高齢期で死に至る。

死とは。

命が亡くなるとき。

無になるとき。

また

幼児期・少年期・青年期・壮年期・中年期・高齢期までの行程の途中で
不治の病・思わぬ事故で命が尽きることもある。

人は皆、最後が何時来るのかわからない。

何時来るかわからない最期を思い、憂い悲しみ怯えるよりも、今この日この時を生きられることに感謝。

浜名湖100㎞
を走れること、走ろうと挑戦しようと思えることに感謝。

「死」について考えることは「生」について考えることと同義なのかもしれない。。。

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四十九日は仏教用語のひとつで、死後49日目のことをいいます。宗教によって若干の違いはありますが、この49日の間に、極楽浄土に行けるのかどうかの「お裁き」が行われているといいます。この「お裁き」は7日ごとに7回行われ49日目に極楽浄土に旅立たれるか最終判決が下されます。お寺に行って和尚様と共に親戚が集まって亡き母親が極楽浄土に行けるように拝んできました。

法要が終わって、和尚様の説法を聴いて。
和尚様が息子に向かって
「将来の練習のために良く見ておきなさい」
と。。。言ったかナ。

7年前に父親ので経験しているから、慣れたもの。
お骨を墓石の扉を開いて入れていく。

相月の山深い所にある東林寺、そこにお墓がある。
急斜面の集落の一画の墓地、何年か後に私がお骨になって納められる日が来るのかもしれない。
人は生まれ、人生を歩んでいく、それぞれの時代の流れの中で自分なりの人生を進んで行く、そして最後に骨になって納められる。

親を送って、いつか自分が送られる。

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一所懸命の言葉の由来は、中世(鎌倉時代の頃)の武士達が将軍様から預かったり、先祖代々伝わっている所領(土地)を命懸けで守ったことからきています。そこから転じて、「土地を守る」「命懸けで取り組む」「切羽詰った状態」と、色々な意味で使われるようになりました。

そして、近年になってから「一所」という言葉が読み方の似ている「一生」に変化し、漢字として書いた場合にイメージ的にも違和感のない「一生懸命」に変化したとされています。
WWW意味解説ノートから引用

今、NHK大河ドラマ『西郷ドン』
まさに一所懸命・・・・、幕末にそんな人たちが居たから今の自由な日本が創られた。
侍の時代、士農工商と身分制度があった。

むかし農民は死ぬまで農民だった。与えられた田畑を一所懸命耕した。

いま、農民でも一生懸命に勉強し大臣に学者になった人もいる。

これから、日本に暮らす人たちは一笑懸命に努力を楽しむときだと思う。

ニッポンの未来はWowWowWowWow
世界がうらやむYeah Yeah Yeah Yeah

走ることも地域おこしも一笑懸命にガンバル、一笑懸命やっていれば応援してくれる人も現れてくるのもダ(^O^)/

懸命懸命懸命

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30歳ごろから走りはじめ。
42.195㎞
フルマラソン。
初めて走った次の日、人生で初めて味わった尋常でない筋肉中。
自転車を買いトライアスロンにも参加して楽しく充実した日が続いた。
30歳代。
そんな日が何時までも続くと思っていた。
 
40歳代に入って、職場も変わって、冬はランニング夏は自転車、そんな生活がアタリマエだった。
44歳の春、小笠掛川マラソンを申し込んで、自己ベストをねらっていた。
小笠掛川マラソンの五日前、佐久間小学校の体育館で空手の練習中にクモ膜下出血の症状が出た。
佐久間病院に運ばれてCTを取って先生が
「出血してます」
と言った。
日没後のタメ、ドクターヘリは飛ばない、救急車での搬送だった。
搬送途中で記憶は無くなっている。
 
44歳の春、いつもは自転車でロードにでるのだが家で静かにしていた。
やることがない。
そんな春、佐久間中学校の同級生に会い同窓会の話が始まった。
佐久間のふっさの家に行き母親にふっさの行方を聴いた。
そしたら、この夏に亡くなったと言っていた。
岐阜のビジネスホテルで朝亡くなっていた。と。

もう、走ることはヤメにする。
そう思ったけど、朝の散歩は少しずつ続けた。
ヤメタと思っていたランニングも少しづつ走りはじめた。
次の冬、浜松マラソンが始まった。
大会は、もう行かない。
そう思ったが、第一回浜松マラソンに参加した。
浜松マラソンno1
浜松マラソンno2

あれから10年
喉元過ぎれば熱さ忘れる
の如く今は普通に走っている。
10年の間に
ウルトラマラソンを走る仲間に出会い、100㎞マラソンも走った。
富士登山競争も誘ってくれた人がいて経験することができた。
このまま60歳70歳まで走っていたい。

佐久間町が浜松市になって、同窓会をはじめてマラソンを再会した。
同窓会をやろうと提案し、多くの同級生の居場所を探し懐かしく話した人もいるが、中には早くに亡くなった人もいた。
自分がクモ膜下出血になって佐久間病院のベッドに横になった時、もう日が暮れてドクターヘリは飛ばない。
「俺は死ぬのかナ~」
っと思った事がある。
その年、同窓会の話をしてふっさの死を聴いて、次の年の正月第一回佐久間中学校同窓会は始まった。

同窓会は45歳50歳55歳と続いた。
今私は生きている。生きているから出来る事はやろうと思っている。
 
同窓会を開いて、昔同じ時期に中学校時代を過ごした小学校時代を過ごした仲間を思い出すのは供養になると思う。
今を生きている者は一所懸命に生きることだ。

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人間学を学ぶ雑誌「到知」
創立40周年記念号
のP30ページにこんなことが書いてある。
幸せの法則
人間はどうすれば本当の幸せ、争いのない幸福な社会を実現することができるのか―。
古来あらゆる哲学者や宗教家、心理学者などが挑んできたこの問いに、一つの明確な答えを出した人がいる。
脳科学・ロボット化学で、科学の立場から幸福について研究を続けてきた前野隆司氏である。
前野氏が導き出した誰もが幸せになれる法則、
幸せな社会の創り方とは。
原文まま

前野氏が、まず取かかたのは、世界中の幸せに関することの研究をし、様々な事を調べ導き出した。
すると
「自己肯定感が高い人は幸せを感じる」
「感謝する人は幸せを感じる」
である。
また、前野氏はそれを「因子分析」という手法で分析し多変量解析をした。
その結果、次の四つの因子が現れた。
第一因子
「やってみよう!」因子(自己実現と成長の因子)
第二因子
「ありがとう!」因子(繋がりと感謝の因子)
第三因子
「なんとかなる!」因子(前向きと楽観の因子)
第四因子
「ありのままに!」因子(独立と自分らしさの因子)

「やってみよう!」因子
人生の大きな目標や日々の目標を持ち、それを実現している、また、その実現のために学習・成長しようと思っている人は幸せを感じている。
「ありがとう!」因子
人に感謝し、人のために何かをしたい、誰かを喜ばしたいという気持ちが強く、様々な人と交流を持っている人は幸せを感じている。
「なんとかなる!」因子
幸せには前向きさや楽観性が必要だということ。
「ありのままに!」因子
周りの目を気にせずに、自分らしく生きることが幸せに繋がる。

日本は戦争があり、アメリカに打ちのめされた経験がある、焼け野原で何もない時代から戦後の復興でここまで70年たった今、先進国の仲間入りを果たしている。
しかし、その日本人が幸せを感じていない・・・・。
それは、幸せの何かの因子が欠けているのでは?
今まで戦後の復興であらゆる物を手に入れ物欲は満たされていたのだが幸せの因子を忘れたのではないだろうか?
都会の人は、便利ばかり求めて、田舎を蔑ろにしてきたのではないだろうか?
田舎の人は、田舎を去って行って都会に暮らす仲間をみて、うらやまし~っと思っているのではないだろうか?
しかし、その便利さの欲望はモットモットと尽きることを知らない。

ニッポンの未来はWowWowWowWow
世界がうらやむYeah Yeah Yeah Yeah
日本の未来は世界が うやまし~と思っている国を目指すことでいいのだろうか?
ダイバシティー(多様性)を叫ばれている。
日本の価値観が他の国では違うこともある。

いろいろな考え方、様々な人が生きている。
暮らすところも便利さも違う。
より便利を求めて田舎を去った人がいる。
様々な人が其々に幸せを感じる。
そんな未来を求めたいものだ。

っあ、私の暮らす地域に前野隆司氏と同姓同名の人がいる。
漢字は違うけど。
少なくなってきたが、今居る仲間と楽しく暮らしたいものだ(^O^)/

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プロフィール
HN:
しんしん
年齢:
64
性別:
男性
誕生日:
1960/02/20
趣味:
走ること・空手・詩吟
自己紹介:
12市町村が合併して出来た新浜松市
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。

合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。


袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns

”しんしん”55歳  
2015/11/25現在。。。
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