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平成の合併が過ぎ、今私はここで暮らしている。 ほくえんの風を 身体中に感じながら。
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 佐久間でボラ
 早稲田から迂回路の新野峠から富山村・佐久間ダム・佐久間駅で仮眠、西渡(にじど)からバスで西鹿島、天竜川河川敷を走り時間外ゴール。
 平阿岡駅から大嵐駅まで飯田線、あとはワープ無、完走。
体調不良のため、富山村からの参加
2020年2021年2022年
平岡で近藤さんたちとボラんチェア
このときはブログは書いていない。
この三年間、色々なことがあった。考えた。
そして
2023年は、参加しようと決めた。
飯田線「中部天竜駅」始発の電車に乗って岡谷駅を目指した。
岡谷駅に着いて、諏訪湖まで歩いていく、走り始めたランナーに出会う。
諏訪湖に着いて受付を澄まし着換え萩田さんにスタートラインい連れていかれ写真を撮ってもらう。
諏訪湖・釜口水門スタートは5月3日12時30分だった。
道に迷うのは最大の時間ロスになる、道を知ってそうな人を見付け、その人に着いていこうと思った。
だけど、走力が無いので、途中から着いていけなくなる。
そんなことの繰り返し。
オバちゃんの応援の人がいる、まだ長い道のりアメを食べてけ、と差し出される。
40k過ぎから知り合いの姿が見えてくる。早い人だけど様々寄り道をしてきたみたいだ。
ある人は、応援のオジちゃんに
「走る人を見るとウキウキする、家によってビール飲んでけ」
そう言われて、一杯飲んできた。
そんな人がいた。
田村のコンビニには一緒に走っていた名古屋の人とよって夕食をとっていた。
そこに、岡ちゃんと及川さんがきて、一緒になった。
岡ちゃんが缶ビールを、美味しそうに飲んでいた。
私は我慢した。
及川さんに着いて、そこから走り始めた。行けるところまで行こう。
もしかしたら、ウッチャン智さんに追いつくことができるかも知れない。
天竜峡の道の間違えやすいところ、及川さんの後ろ姿を見失わないように走った。
80k坂道、智さんがいた。
眠そうだった。
さくら街道でエイド、なんと本物のビール。エビスとスーパードライがあった。
私はスーパードライを選んだ。食べ物は甘いものばかり。ツマミにならないな~。と思っていたら。
マミちゃんが「ポテトがあるよ」と教えてくれた。その手には缶ビールがあった。
5月といえども信州の夜は寒い。缶ビールも冷えていて美味しかった。
岡ちゃんのビールを美味しそうに飲んでいる姿を思い出した。
82kを走ってからのビールは美味い。
後100k以上ある道程だけど、今を楽しもう。
酔いと疲れでフラフラ天竜峡を歩いた。
先に行く見知らる人と話しながら。
151号線に入り、前を見ると智さんが。どうも近道があるらしい。智さんを追った。やはり眠そうだった。
コンビニでウッチャンがトイレによるという。智さんは先を急いだ。
ウッチャンが出てくるのを待って月夜の夜の国道をユックリ走った。智さんに追いついた。
真美ちゃんが走ってきた。私はマミちゃんの後ろに着いた。
私はコンビニにより、真美ちゃんは先を急いだ。
次のコンビニまで1,5k割と近くにコンビニが。
それからは、まあ近くだろうと勝手に思い込んでいた。それが10kの道程だった。
90k~100k
100kのコンビニでボトル二本とパンを二個買った。
一個は食べながら歩き、もう一個はリックに入れた。
早稲田の交差点を下るとき、阿南町の高台から天竜川の朝もやが見える。牧歌的な風景が美しく感じた。
阿南高校を左に見て、私たちランナーは天竜川の畔を走る県道1号線を下った。

ココの道は、思い出深い道だ。天龍村でやっている「天竜梅花駅伝」のコースなのだ。
私は、阿南高校から平岡ダムまでのコースを走ったことがある。あんな感じで走れたならば、と昔を思い返した。
それが今は平岡駅までがムチャクチャ遠くに感じている。
そんな平岡ダムを通り過ぎ、平岡エイドを目指して一歩一歩進んだ。
平岡エイドに着いたのは7時20分だった。

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この会は
県民に骨髄移植に対する理解の促進と骨髄提供登録者(ドナー)拡大を目的とする。

この会の事業は
(1)
日本骨髄バンク、日本赤十字社、地方自治体が行う骨髄バンク事業の普及啓発、広報宣伝活動並びに骨髄提供者の募集業務に対する支援協力
(2)
機関紙、広報誌、パンフレット等の発行、送配布、並びに学習会開催及び参加その他の方法による普及啓発、広報宣伝活動
(3)
ドナー、患者及びその家族に対する支援活動
(4)
医療、検査機関及び患者負担金の軽減、医療保険の充実を求める活動
(5)
その他本会の目的達成のために必要な活動
このような会則がある。
私は、この活動を、走る仲間が白血病になり、ネットで「白血病」と検索しているとき出会った。
もう10年以上も前の話になる。
ドナー登録できないと知った私はマラソン大会で骨髄バンクのタスキを掛けて走る啓発活動をすることになった。
当時沿道の応援している人の中には、タスキを見て骨髄の「髄」の字が分からない人が居た。
また、「骨髄バンク」を分からない知らない人も居た。
それが、五年十年たつと、そのタスキを見て声をかけてくれる人が多くなったように感じた。
先月ドナー登録をしてきたという人
去年、その移植をやったという居酒屋のTシャツを着た人
そんな人との少しの会話が、フルマラソンの42.195㎞という長い道の思い出の中にある。
今回議題に上がった、大きなこと
それは
骨髄バンクの登録者を、如何に増やせるかということ。
それは
医療現場から、患者様を見ている立場の人からの声
また
今まで、会として、多くの学校や施設を廻って感じた元会長の声
「命のバトン」それは重すぎるような気がする、と。
日本赤十字社の人からパンフレットが配られてきた
骨髄バンクに協力してください。
チャンス
ドナー登録のしおり
頁を一枚開くと
「生きるチャンスを善意によって広げていく」
毎年数万人が白血病などの重い病気と診断され、そのうち約2000人の方が骨髄バンクドナーからの移植を望んでいます。
移植には患者とドナーの白血球の型が適合することが必要ですが、その確率は数百から数万分の一。
たとえ適合しても、ドナーの都合や健康条件が整わなければ提供できまっせん。
移植を待つ患者さんのうち、実際に移植を受けられるの人は、半数程度にとどまっているのが実情です。
ぜひ、あなたのご協力をお願いします。
※ドナー登録者の方々はどのような強制もされませんし、必要な情報はすべて提供されます。
※骨髄バンク事業では、ドナーの健康と安全が優先されます。

そのパンフレットの表紙に
赤い服の女の子と青い服の男の子のイラストがある。
青い服の男の子は白い鳥を抱えている。
みんな生きている。
過去があり今がある。
未来はどうなるのか?
支えある世界、
今回の会合に集まった人たちは、そのように未来を願っている人たちだと思う。

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WBC栗山監督の本
「栗の樹ファーム物語」
栗山英樹、野球場をつくる
を、読んだ。
1999年
栗山さんと栗山町との出会い、それは北海道栗山町のJCからの電話からだった。
2002年
栗山町に行き栗山町の人々に出会い、何かを感じ、栗山町に家を建てる。栗山町の人たちと栗の木ファームを完成する。
2004年
この年の北海道日本ハムファイターズは、メイン本拠地が東京都から札幌市に移った。
2012年
北海道日本ハムファイターズ_の監督になる。
栗山町の家から球場に通う
この本の前に「覚悟」も読んだ、大谷翔平との出会い。ダルビッシュ有との出会い。その中に栗山町の人々との出会いも。栗山監督の人柄がわかる。
映画「フィールド・オブ・ドリームス」
現役を退くころ、この映画をみたという。野球解説者になり、JCからの電話で栗山町に通うようになり。夢だった野球場をつくった。それも、この映画をみたときからの夢だったという。
その映画を知らなかった私は、TSUTAYAで借りて来て、その映画を観た。
12市町村が合併してできた新浜松市、そこにそこの隅っこに多くの人が走ったり歩いたりして訪ねてくる里になってほしいと、そんな想いを信じて続けてきた。
夢は正夢
その夢を叶えるためには、叶えるまで、続けること。

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4月7日、私は国道156号線を車で北上していた。
それは八年前、一人でその国道を走り
荘川桜を見に行ったからだ。
フルマラソン以上を走る人たちウルトラランナー、そんな人を知ったのは、12市町村が合併して大きくなった新浜松市を、旧市町村の役所を巡るマラニック、そんなことをしているリックを背負ったランナーが、152号線を走っているところを見たからだ。
そんな人に出会い、そんな人から話を聞いた。
そして
さくら道の事を知った。
湖底に沈んだ荘川桜、の話を知った
平和への祈りを託して名古屋から・金沢間に2000本の桜を植えつづけ、病のため短い一生を終えたバス車掌佐藤良二さんその人生を知った。
「この地球の上に天の川のように美しい花の星座をつくりたい。花を見る心がひとつになって 人々が仲良く暮らせるように」

今回、その道を車で走ったのは、「余呉湖グルグル」に参加するためだった。
せっかく、滋賀県の余呉に行くのだから、あの日走ったあの道を、また。
と思った。
荘川桜に着いた頃は、小雨が降り、人は誰一人いなかった。
八年前の私は、ココで諦めた。
ネイチャーを走る人は、そこから兼六園にある「佐藤桜」を目指すそうだ。
車を走らせ兼六園に着いた頃には夕方になっていた。
八年前、私は荘川桜を見て、走るのを辞めバスと電車で帰った。
今回は、兼六園の佐藤桜を目指して車を走らせた。
長い長い「さくら道」その道に桜を植えた佐藤良二さん
その人を走るウルトラ・ランナー。
そんな人がいることを、私は12市町村が合併した、その夏に知った。
日本は平和で素晴らしい国だ。
白川郷に着いた時には多くの外国お客さんがいた。
古き文化を大切にする日本人、
御母衣ダム建設当時の電源総裁高碕達之助の言葉がある。
「進歩の名のもとに、古木姿は次第に失われていく。だが、人の力で救えるものは、なんとか残してゆきたい。古きものは古きがゆえに尊いのである」

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生きていくということは、誰かに借りをつくる事
今は亡き隣のおばちゃんが言っていた。
「生きている者の務め」
兄が亡くなったのは、癌だった。
埼玉の出張先で、吐血して救急病院に運ばれたと連絡が来た。
タダの胃潰瘍だと思っていた。
義理の姉は、四男と三男を連れて佐久間に来た。
次の日、埼玉県の獨協病院に行った。そして癌の告知を受けた。
あれから二十年以上たった。義姉は逝った。
永六輔さんの「いきるものの歌」がある。
そこのセリフに
もし世界が平和に満ちていても、悲しみは襲ってくる。
殺されなくても人は死に、誰もがいつか別れていく。
世界が平和でも、悲しい夜はくる。
誰もが耐えて生きていく。
思い出と、歌が、あなたを支えていくだろう。
とある。
人は生まれ、やがて死んでいく
映画「最高の人生の見つけ方」でのモーガン・フリーマンのセリフだった。
甲府から帰るとき、最後に義姉に向き合い
ありがとう
と合掌した。そして佐久間に帰ってきた。

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映画「最高の人生の見つけ方」でのモーガン・フリーマンのセリフです。
日航機事故で坂本九さんは亡くなった。世界中にヒットした「上を向いて歩こう」の作詞者は永六輔さん、その人の歌に「生きているということは」「いきる者の歌」がある。
生きているということは、誰かに借りをつくること
生きていくということは、その借りを返していくこと


母親から私は生まれた。その母親は80歳で特別養護老人ホームに入所した。
認知症だった母親は、夜の徘徊が数年間続いた。最後は村の衆や消防団、警察や警察犬、ヘリコプターまで使っての捜索があった。
寒い夜、捜索が打ち切り。もしかしてもしかするかもと思って、姉・親戚の人と家の続きの部屋を掃除した。

次の昼前、母親は半場の山中で見つかった。
救急車に乗り込む母親は「大丈夫だ」と言っていた。
その年の暮れ、家に電話が入った。
特別養護老人ホーム「さくまの里」からだった。
「お母様の順番が来ました。どうしますか」
と、私は
「スイマセン私一人では決めかねますので父親と相談します」
と電話を保留にした。そして父親に訊いた。
父親は、飛び起き。
「たのむゾ~」
と言った。
母親の特別養護老人ホーム「さくまの里」への入所が決まった瞬間だった。
母親の老人ホーム出の部屋は、3号館の二階、天竜川側、ベランダからはB型鉄橋が半場の村が綺麗に見えていた。
あれから17年、私は介護士になり、あのベランダからはB型鉄橋が半場の村が綺麗に見える部屋に行くことがある。17年前を思い出す。
生きているということは、誰かに借りをつくること
生きていくということは、その借りを返していくこと


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養老孟司さんの「バカの壁」そこに
 「話せばわかる」なんて大ウソ!. イタズラ小僧と父親、イスラム原理主義者と米国、若者と老人話が通じないのは、そこにバカの壁があるから。
とある。私はそこに、財産家の水飲み百条、大卒と中卒を加えたい。
養老孟司さんの、その本は、バカな私には難解な内容だったが、今自分の立場がこうなると、たくさん「そっか~」と思うところがある。
そして、その養老孟司さんは、最後の方に、奈落の底に落ちた学生と、話してもわからないと思っても話続ける。と・・・書いてあった気がする。
分からない相手に、何を言ってもわからない。
しかし、私たち人間は、それでも話し合わなければならない。
ロシアウクライナ
他人事ではない。そのように感じる。
イタズラ小僧と父親、イスラム原理主義者と米国も、若者と老人も、財産家と水飲み百条、大卒と中卒も、みんなこの地球に、地球というこの惑星の、この時代に産まれた人類なのだから。

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今の職場、にそんな人が来た。そして、
「さくまパラダイス」
と言った。
「しずかでイイとこ」
とも。
今回二回目の、その人との仕事だから、少し家族の事も話した。
自分のことも
20年前に佐久間に来た彼女は
「じぶんがえらんだみちだから・・・」
と言った。
そして私が気になった言葉があった。
「うちの主人が」とよく話すのだ。
それは、今そのように旦那さんのことを言う人は少ないと感じたからだ。
「夫」「主人」「旦那」「亭主」
日本語は、ひとつのことに対して様々な呼び方があって難しい、その人は、その中で日々頑張っている、日々成長している。
昔、20年以上だったけかナ~。
次女が幼稚園だったころ、私がPTAの会長で伊豆の長岡で総会があり隣に座った佐久間中学校の恩師と話した思い出がある。気の強い女性の教員で
「私は主人とは言いません。夫と言います」
と言ったのを思い出す。
同じ屋根の下で暮らす人なのに
「夫」「主人」「旦那」「亭主」
呼び方で、その感じ方が変わって来る。
そして、その人は、私にこうも言った。
「トシウエナノニ、スイマセン」「ケイゴワカラナイ、シツレイカモシレナイデス。スイマセン」
日本語は一つのことに対して様々な呼び方がある。そこに敬語が入って、地方に行くと放言も交じってくる。
話すということはコミュニケーションをすると言うこと。要は伝えたいとが伝われば良い。
だけど話し方で印象は変わる。
その人が私に、このように言ったことは。
「敬う」と言う日本人の根本の心を誰かが教えてくれたのだと思う。
日本人が忘れかけたことを、
その人は姑さんのことを
「うちのバーバが」
と、よく話す。

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内多勝康さんとは、元NHKアナウンサー、そんな人は52歳でNHKを早期退職して介護の道へ進んだ。
この話は、私が定期購買しているPHP、そんな雑誌で知った。
そして、この本に出会い、Amazonで注文して、今朝読み終わった。
今年三冊目の本だ。

「医療的ケア」の必要な子どもたち
私が行っている骨髄バンクの、子供たちも・・・・。
今の恵まれた環境に感謝して、こらからも頑張ろう。
仕事も。走りも。

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今年の書初めは、「春夏秋冬竜頭山」と書いた。
今年は、竜頭山に毎月一回は登りたいと目標を立てたからなのだ。
そして、その竜頭山の様子を自分なりにレポートしていきたい、と思っている。
竜頭山は、その昔、佐久間町の山だった、途中に書いてある、看板は、私と同じくらいの当時の佐久間町の役場職員の人が運んだと聞いている。
その竜頭山も今は浜松市の山だ。
今、私は水窪の「山に生きる会」に入っている。
今年、私は佐久間「山に生きる会」として春夏秋冬竜頭山に登ろうとしている。
春夏秋冬、山の移ろいを見ようとしている。
去年の3月登った、雪がたくさんあった竜頭山が素敵だった記憶があるから、春夏秋冬、私の故郷の山「竜頭山」をレートしていきたい。

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プロフィール
HN:
しんしん
年齢:
65
性別:
男性
誕生日:
1960/02/20
趣味:
走ること・空手・詩吟
自己紹介:
12市町村が合併して出来た新浜松市
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。

合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。


袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns

”しんしん”55歳  
2015/11/25現在。。。
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