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平成の合併が過ぎ、今私はここで暮らしている。 ほくえんの風を 身体中に感じながら。
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今年5冊
非正規介護職ヨボヨボ日記
タクシードライバーぐるぐる日記
住宅営業マンペコペコ日記
メガバンク銀行員ぐだぐだ日記
は著者が男性だったが、今回は女性の著者。書いた当時がコロナ過の時、ケアマネージャーをやりたくて様々なことがあり転職したけど、今の職場につき頑張って続けている。
私の前職(介護職)でも、そうだったが高年齢の女性が働いている。家で家事をこなし、車で出勤してきて職場で働いている。そんな人に「どうしてそんなに働くの?」と問うと。
「年金だけでは、やってけない」
「孫に金がかかる」
そんな返事が返ってきた。
貴賤・述懐・片鱗・狼狽
著者岸山真理子さんは、小学生の頃から注意欠落症・多動性障害で物覚えが悪かったと書いてある。
また30歳代まで単純労働非正規職員だったので、38歳で出産を機に正規職員の仕事を求め介護職になり47歳でケアマネージャーになった。
最初、このシリーズを読んだとき、ある仕事の人は、作家を目指してたが、作家だけでは食って行けなので、その仕事をしてると、そして最後に作家の仕事は諦めてないと書いてあった。
著者岸山真理子さんも自分のことを卑下して書いているが、本には貴賤・述懐・片鱗・狼狽と難しい言葉を的確に文中に書いてあるとても頭のいい人だと感じた。
継続は力なり 
これからの介護の世界、介護される人は増えるばかり。介護を仕事をする人は必要とされてる。
介護の現場で働く介護職、介護の計画を立てるケアマネージャー、医療行為をする人、様々な人がチームを組み介護を必要とする人を支えている。
著者岸山真理子さんは、88歳現役を目指しているという。
日本高齢化社会、このようなウーマンパワーが明るい日本を支えてるのだ。
続けて来れたこと、続けてけてから、見えてくる世界、振り返って過去の自分に「ありがとう」
本の差後の言葉が印象的でした。
尊敬、敬うこ。
本を読んでいて、こんな言葉が浮かんできた。生きていると様々なことがある。今の自分は過去からの結果だと思う。
しかし誰も、こうなるとは思わなかった。
いろいろな世界がある。
本の中で『楢山節考』の映画の話しが度々出てくる。
今は、そのような時代ではない。著者を始めとする日本女子がる。
                                                                   
はらはらの日常の私が読んだ
 「ケアマネジャーはらはら日記」
だった、、。。。    

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このシリーズも4冊目となった、この日記シリーズ。
今回は銀行員の物語だ。どこの世界もそうだが、人は出会う人で人生が変わってく。ココでは上司との出会いが著者(目黒冬弥)の、その後の世界を作ってる。
出世がある。働く者にとって出世することが大きな目的でもある、と。しかし、みんなが、その場所に頂点君臨することは、できない。
それぞれの自分の、与えられた職場で、自分なりに考え職務を遂行する。
仕事でのお客との出会い。感謝されることも多いと書いてある。そこから付き合いが始まることも。難解を解決したとたんに連絡が途絶えた人もいる。
あとがきで、
どこかで誰かが、見ていてくれる。嬉しかった。
と、ある。
それは、著者「目黒冬弥さん」も、そのかを見ていたからだ。 

共感
共(ともに)感(かんじる)
著者があとがきで書いていた言葉
どこかで誰かが見ていてくれる。そして共感してくれる。
私も、この本を読んで共感したことが多くあった。
人は「おぎゃ~」と生まれて自分の人生という時間を使い生きている。
古く中国では「春」「青春」。「夏」は「朱夏」。「秋」は「白秋」という。そして「冬」を「玄冬」と
まだ人間として芽吹く前の、幼少期は
「玄冬」
若々しく未来に希望を持つ
「青春」
バイタリティーある活動を見せる現役時代の
「朱夏」
心穏やかな人生の実りを感じる
「白秋」
 
人生は、冬・春・夏・秋と巡り巡っていくという。
人それぞれに、その季節があり。それぞれの時期を楽しんだり苦労したりしている。
振り返って思いめぐらすと、その時々に、出会いがあった。
今年の年の初め、多くの年賀状が、我が家に来た。
63円のハガキが様々なところから届いた。
19の春田端義夫の唄がある。

人もまた、人生の旅をする。
個人では仕事は、そんなにはできない。
だから、本を読み、多くの人の仕事の苦楽を読み、自分なりに共感する。
また次の本を読もう。。。
旅もしたいな~~。。。

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この日記シリーズも三冊目である。
「同僚が次々やめていく仕事」
ブラック業界の、 ブルーな私
介護の仕事は大変だけど、薄給激務なのに夢があり希望があるように感じた。
営業マンは薄給ホワイトだと思ったけど。。。
実際は大変。ココの職場(タマゴホーム)だからかもしれないけど、、、
泣くに泣けない。笑うに笑えない。真実がある。
歩合制、頑張れば頑張っただけお金が入る。しかしその制度は同じ仕事仲間がライバルになる。
過労死、過労死を隠そうとする会社。情に絆される社員は(会社に逆らう人は)会社から消される。
仕事が無くなった人の結末、家のローンが払えなくなり、離婚→家庭崩壊→ホームレス
働くということは、生きてくということ。家族が居れば、その家族の命も家長の背中に重くのしかかる。
だから、ブラックだろうと働く。しかし、その人は最後に、その会社に退職届を出した。
夢だったマイホームを手放すことになった。
若い夫婦に夢のマイホームを売る住宅営業マンが、今は月5万5000円のアパートで暮らしているという。
今の生活で、2DKのアパートの生活で、著者は幸せを感じる。著者は言っている。身の丈に合った生活に幸せを感じると。
何千万もするマイホームに暮らせる人もいる。アパート暮らしでも幸せを感じる人もいる。
客観的にものを感じる。誰から見てもその方が幸せだろうと。しかし、主観的に感じることが大事、自分が幸せ感じれば、それでイイ。
そしてその住宅営業マンは、また営業の仕事を始めた。そして働くことに楽しみを見つけた。
私もアルバイト生活一年目が終わった。様々なことがあるけれど、この本を読んでマダマダ頑張らなければと思った。他の人からアリガトウの言葉をもらうために。
著者屋敷康蔵さん。ありがとうございました。
APU学長出口治明氏が言っている人生は人×本×旅が自分を大きくすると。
良い本を読んだ、なぁぁぁ。。。

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中部天竜駅~富山まで約25㎞のマラニック。佐久間村は1955(昭和30)年、電源開発株式会社よる佐久間ダム建設を受け入れた。そして、そこは佐久間村と浦川町・山香村・城西村の三つの村と一つの町が合併して佐久間町となった。私の生まれる五年前のことだ。
当時二万人以上の人口は、ダム工事の時には潤い。その後も様々なことで潤った。しかし、その町は昭和の時代が終わりを告げたころから陰りを見せかけた。そして平成になり当時の町長が平成の合併で浜松市との合併を決断した。
そして、その町長は東京に去ってった。
今日は、その佐久間ダムの湖岸約25㎞を走る仲間九名でユックリ走った。
コース上には真っ暗な長いトンネルが多く、走る人はチカチカライトやハンドライト・反射タスキなどで装備してきた。
砂を運ぶ大型トラック等も走り大変危ないいコースだ。トンネル内ではトラックが来ると壁に張り付き邪魔にならなように注意した。
砂取り場所を過ぎいると、車も少なく走りやすくなる。
ユックリだから話もできる。誰かが、お正月2日羽田での事故の話をした。
旅客機が着陸した直後、海上保安庁の航空機のと接触事故の話し。
日本航空516便の機長をはじめキャビンアテンダントは冷静にお客を誘導し全員無事に脱失したこと。
信じれない事故、だけど、事故は起こった。
様々な犠牲があり、今があること。
佐久間ダムでは約350万人が働き96名の殉職者がある。
今、この時代に生きている者は
巨人の肩に乗っている。
科学者ニュートンが書いた手紙の一説として広く知られる。
今の便利な生活は、今の平和な世の中は、先人達が積み重ねた結果なのである。
佐久間ダムで殉職した人がいる。そして労働基準法ができ安全対策が語られるようになった。
そんなことを思いながら。話ながら。天竜川リバーサイド約25kを走り切り。
湯の島温泉で汗を流し、食堂でユヅ味噌カツ定食を食べビールで乾杯したのだった。

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その場所は、平成の合併の前は「富山村」だった。その村は1955(昭和30)年佐久間ダムの建設により村の中心部が水没し佐久間ダム湖畔に残った村になった。そして、そこは離島を除いた「日本一のミニ村」として頑張っていた。
当時は(昭和の後期)竹下総理のふるさと創生一億円事業などで、このような地域でも様々なことが出来てた時代だった。
その村には温泉がある。(湯の島温泉)
離島を除いた「日本一のミニ村」
今日、そこに行こうと思ってる。中部天竜駅9時スタート

富山まで23k

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年の初め、職業日記シリーズ10冊セットを買った。
そして昨日に引き続き、今回は、この本を読んだ。
人の数だけ人生があり。職業の数だけ苦しみもあれば楽しみもある。
昨日は、自分が経験した職業だけど、今回は知らない世界、
東京の大手のタクシー会社で働いた,お話し。様々なお客さんの思い出話には泣かせる話しや笑わせる話し、怒れた話しが散りばめられている。
東日本大震災の時、仕事でタクシーを走らせてたそうだ、大都会東京での様子がリアルに感じたページであった。またソープ嬢を載せて世間話をして車を降りてからのサービス。同じサービス業の絆を感じた出来事だった('◇')ゞ

世の中に寝るより楽はなかりけり。浮世の馬鹿は起きて働く
私の母親からも聞いたことがある。
「小欲知足」
自分のための時間や主体性を犠牲にしてまで必要以上の収入を得ることはない。
そんな意味だそうだ。
私は趣味で走っている。普通の人から見れば、一銭にもならないのに如何して???と思うかもしれない。
馬鹿なのかもしれない。
ここに越してきて36年。もう63歳になった。
コロナが収まり静岡マラソンを申し込んだ。42,195k
苦しんだ最後に得るもの。何回も感じたとだけど、何も変わらない。残ったものは老いた身体だけだ。
良かったのか悪かったのか判断をくだす必要もない。
私は、そうやって走ってきた事実だけがあるだけだ。
「タクシードライバーぐるぐる日記」を読んだ。一人の男性の生き様の物語だった。
ブログは最後は、この本の「あとがき」をまねて自分の事を書いてしまった。
スイマセン
著者内田正治

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汗と涙の日記シリーズ「非正規介護職員ヨボヨボ日記」を読んだ。
実をいうと私も62歳で一年間、介護の仕事に就いたことがある。
いろいろと納得する言葉が実体験が、私の胸を突く。 だろうと、この本を手にした。
本の最初にある
「それでも私が続けるワケ。介護職員が立ち尽くす老いと死の現場」
そして私はページをめくった。
想像をはるかに超えた景色
著者はハローワークで紹介された介護職員養成講座で半年間通い終了証書をもらい介護職に就いたそうだ。
私は約20年前、母親が介護が必要になりそうなころ、通信のNHK学園の社会福祉学科を一年間勉強し続け介護福祉の免許に挑戦しまぐれで合格した。
その次の年の年末、母親は家の近くの特養に入所した。
ちょうど社会福祉学科で一週間実技研修に通った施設だった。
そこで11年間お世話になった母親は地元のお祭りの時に危篤の知らせを聞き亡くなった。
そんな母親を見て感じて、62歳最後のチャンスだと思い。介護の仕事に就いた。
20年前とは、想像を超えた世界を見た。実習と現場とに違いも。
私の母親は、認知症で、家族で行方不明になった母親を探し回ったことが幾度もある。
施設に入って、すごく助かったのを、ほっとしたのを覚えている。
施設に入った時には、もう息子である私の名前も知らないようだった。
父親が亡くなった時も、葬式には参列できない状態だった。
そして母が死んで、私は介護職の扉をたたいた。
そして、母親が入所した時の部屋に、今度は入所者の家族としてではなく、介護職員として部屋に入り、天竜川を望んだ。
B型鉄橋が半場の村が奇麗に見えた。
 
さて本題の、この本は、実に現場の事をよく書いている。
利用者の事、介護職員の序列関係、読んでいて納得することばかりであった。
よくぞここまで書いてくれてと、アッパレをあげたい。
是非買って読んでもらいたい本だと思った。
(私はメルカリで中古を買った)
老人の介護の現場について、様々なことを経験して、最後に著者は
あと数年で私も高齢者になる。これまで情けなく反省の多い人生だった。それでも私はいささかも後悔はしていない
と書いてあった。それは「その時々を必死に生きてきたからだ」とも書いている。
そして、介護職を続けていくと締めくくっている

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山間の集落、八百万町隼地区の消防団
ハヤブサ消防団
お話し
その地区は
その集落は、過疎対策として観光客の集客を取り込む為に様々なことを考える。
ツチノコ探しだったり。
消防団も、そのイベントに協力、そんなことから様々な事がおこってくる。
過疎高齢化だった地域は、若い人が集まり賑やかになっていく。
それはカルト集団だったりする。
地域を守る消防団のお話し。
だった(^O^)/

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重松清さんの本は「エイジ」「ビタミンF」「ひこばえ」「ナイフ」と読んだ。
今度は「くちぶえ番長」
悲しい現実、悲しくて涙がでそうになったときは、口笛を吹く。
小学校4年、その学年の始めに女子の転校生が、その子が挨拶で「番長になる」と宣言、そこから物語は始まっていく。

番長とは、ケンカが強いだけではない。イジメを許さない。
いじめる側にも理由がある。が、その子は許さなかった。

その本は、過去を振り返る形で始まっている。そして、最後、再開することは無かった。
私にもある。
LINEだけで繋がっていて、同窓会の話をして、出会うことができないまま、遠くに行った人が。
別れには、様々なことがある、人の哀しい気持ちを、自分なりに考える。
「くちぶえ番長」
読んでよかった。

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去年は、平岡エイドでのボランティアだった。今年は走ってここまで来た。
エイドで大変お世話になっている近藤さんに挨拶をした。
多くのランナーがいた、顔見知りの人も多くいた。
ボランティアスタッフにカレーヌードルと小粥を貰った。
約半分の距離を走ってきたことになる。まだこれからが大変だと思う。だから、ココで英気を養う。
そこにウッチャンと智さんがいた。お互い疲労困憊のようだった。
「私たちは、ココから電車に乗る」
というので、私も初めから乗るつもりだったと言った。
私と智さんは大嵐駅で下りた。二人は一気にトップ集団に追いついた(笑い)
静かな富山村の村内を歩き、お決まりのように信号機の歩行者ボタンを押した。
レストラン「栃の木」の前の公園でエイドがあった。
水分を補給して食べ物を頂いた。
こらからの21k、店は無い。自動販売機もない。ただただ佐久間ダム湖湖岸を南に下るだけだ。
トンネルの数を数え、春の新緑を目に進む。釣り人だろうか、釣り竿を持った人がいる。オートバイで走って来る人がいる。そこに近所の人が車で通り過ぎた。私の腰に激痛が走り始めた頃だ。
その車の帰り、その人が
「車に乗っていかないか」
と言われた。よほど情けない歩き方だと思ったのだろう。
私は断った。アリガトウと言って、断った。
最後のトンネル「ウナギだる隧道」このマラニックの名物トンネルだ。
そのトンネルは曲がりくねっている。だからウナギだるというのか?
そのトンネルは、昔オバケがでると言われていた。夜には子どもの声が聞こえると言っていた。佐久間ダムができた70年前、様々なことがあった。佐久間ダムの工事では犠牲者が96名だという。
今は労働基準が設けられ、安全な作業が求められている。
ウナギだる隧道を抜けると静岡県浜松市。
そこには萩田エイドがあった。
智さんも居た。
残りの三つのトンネルを抜け、旧佐久間町の火葬場下の脇道からショートカット、昔の佐久間ダムへ行く遊歩道を佐久間町中部(なかべ)商店街に下る。佐久間病院の横から中部(なかっぺ)橋を渡り半場(はんば)にいく。中部天竜駅横を通って、浜松市市営駐車場にある自分の車を横目に進み、佐久間小学校横を歩き、飯田線の鉄橋横の遊歩道を歩きコープ佐久間店に出る。
ココのコースは、天竜川リバーサイドに参加する人は、コースマップをヨーっく見てほしい。こんな感じになっている。
国道沿いのコースだと、狭いトンネルを通ることになっている。そこを、吊り橋を渡り、飯田線沿いに歩くようにしたらとの提案です。
佐久間の人は田舎だから車が移動の手段だ。だから、その狭いトンネルは通ってほしくないと思っています。
コープ佐久間店に着き、お決まりの缶ビールにおつまみ(卵焼き)ホッと一息。
ある人が「この時間なら歩いても行ける」と。そうか~と自分は考えた。でも「歩いても行ける」歩く速度は人それぞれ違う。と、その後ズーット思っていた。
智さんと一緒に歩いたけど、その智さんが離れていく。
秋葉ダムの湖岸、秋葉ダム桜マラソンの一㌔ごとの表示を数えて秋葉ダムのエイドを目指した。
眠くて、腰が痛くて、身体も傾きだした。ようやくついた秋葉ダムエイドでノリちゃんがウドンを作ってくれた。
缶ビールもあった。そこで持ってきたカッパとダウンを着て駐車場で横になた。空には満天の星が輝いていた。
ノリちゃんの車でショートカットしようかな~と私の中の悪魔の声が聞こえる。眠れなく目だけつぶっていた、スーッと記憶ななくなりすぐ起きて、リックをかついで
「ありがとうございました」とノリちゃんに挨拶をして歩きだした。初めは何とか歩ける。秋葉ダムの堰堤、そこを過ぎてからの坂道が大変だった。秋葉トンネルを抜け、横山あたりの街灯の下で横になった。一度横になると立つのだ大変、手で持っていたコップを支えにして起き上がる。そして進む、エイドを撤収したノリちゃんが来た「大丈夫ですか~」私は
「大丈夫ではないです車に乗せてください」
とヘルプした。
多くのランナーの背中のライトが輝いている。その一人ひとりにノリちゃんは声をかけている。道の駅「花桃の里」にてボランティアのエイド車がいた「車の中で2人寝ています」と言っていた。
私のワープは二俣駅前のコンビニまでお願いした。
5月5日1時30分
そこのコンビニで焼き肉弁当を、そこの駐車場で食べた。
そこに、ランナーの忘れ物でなないかと思える。手袋とジャージがあった。
どうしたものかと考え、萩田さんに電話を掛けた。自分で判断して処理してください、とのこと。
私はコンビニの人に断り、レジ袋を買って、そのジャージと手袋をリックに詰めた。
歩いて天竜川河川敷に降りるところまで行き、そこのバス乗り場で寝た。横になった。朝4時起きて河川敷を河口に向かって進んだ。
最初の橋「第2東名」そこにエイドの人がいた。次の橋「浜北大橋」そこにもエイドがあった。その人は大工の人で、水窪や佐久間の人を知っている、と言っていた。
次は「かささぎ大橋」「東名高速の橋」と続く。
「国道1号線の橋」の下にもエイドがあった。太陽の日の光を遮るものが何もない河川敷のコース、橋はその光を遮る良い場所だと思った。
次の「東海道線の橋」その橋の下で寝そべった。列車が通る音で起きて歩いた。
次の「新幹線の橋」の下で横になる。新幹線の音は凄まじい。遠く何か音がしてきたと思うと、その音がとんでもない音になる。疲れた身体を無理やり起こされて、ダンスをさせられる、そんな感じだった。
そこから「掛塚橋」までが長かった。もう日陰を求めて寝ることもできない、そこらへんでゴロンと横になる。そんなとき、だれかの話声が。
「オジサン、そんなとこに寝ると良くないよ、あの木の下がイイ」と私を起こしてくれた。
「アリガトウ」と言って起き上がった。そして進もうとした。
犬を連れた青年と、その子どもだろうか、二人が歩いて土手を登って行った。
私は職を失って路上生活を余儀なくされたホームレスの人の気持ちが少し分ったような気がする。
5月の連休の昼下がり、そこの天竜川河川敷の公園には様々な人が居た。サイクリングロードを颯爽に走っている集団、ママチャリで走っている外国人労働者たち。ある高齢のランナーが私に話しかけてきた。
「私に何かお手伝いすることは、ありませんか?」
その人も走っていて、最近袋井マラソンを走った。と言っていた。
225㎞ですか~っと。
その人は、70歳代で走るようになり、いま80歳と言っていた。
そのときエイドがあり、あんなことしてもらったら嬉しいと言って、私はエイドに行った。そこにはスイカがありパインがありメロンがあった。疲労困憊の身体にしみわたった。
そのとき、その80歳の男性のことを思い出し振り向いたが、そこには誰もいなかった。
「私に何かお手伝いすることは、ありませんか?」
2023年5月3日私は諏訪湖から走り始めた。そして5日の昼間、天竜川河川敷を河口を目指して進んでいる。
思い返すと、様々な人に助けられている。最初はアメをくれたオバちゃんから始まった。
やっと近づいた「掛塚橋」そこにもエイドがあった。そこでコーラを飲んでいく時に、12時のサイレンが鳴った。制限時間、私の天竜川リバーサイド2023は終わった。
そこからゴール地点の竜洋海浜公園まで3k
最後の遠州大橋まで河川敷の地獄は続く。
遠州大橋をくぐって、堤防の道路を歩いていると、黒い車が乗っていきませんか?と。
相当、危ない走りだったようだ。それでも最後は自分なりに締めくくりたいと、その誘いを断って進んだ。
最後の最後、竜洋海浜公園の中で道を聞き、川を上流に行くといわれ行くと、それが遠い。振り返ると川を渡る歩道の橋があるではないか。戻り駐車場からその橋に向かっていると、ある人が私を呼ぶ声が。
セっちゃんがいた。
LINEで、そんな話をしていたっけ、根性出して走る。そう思ったけどボロボロでした。
萩田マラニックで嬉しいのは最後の温泉と宴会、時間外なのでゴールのオモテナシは無かったけど、お風呂に入れるのは嬉しい。
もっと
最後の最後、嬉しいことが。
平岡駅からの飯田線で知り合った方が、お風呂で私の激痛が走った腰にテーピングをしてくれた。こと。
お蔭で腰は、そんなに痛くないです。
また、竜洋海浜公園から豊岡駅まで帰るとき、タクシーの便乗どうなるのかと心配していたら智さんにヒロ子ちゃんの車に誘われたこと。
2023年5月3日はこんな人でした。
2日間の天竜川リバーサイドで私は多くの人に出会い、そして喜び苦しみを感じました。
出口浩明さん(ライフネット生命創立者)
その人の本で「人生は喜怒哀楽の総重量である」と書いてあります。
何事も表もあれば裏もある。良いこともあるが大変なこともある。
「私に何かお手伝いすることは、ありませんか?」
80歳の男性も、ランナーだから。私に、このような声をかけたのだと思う。
天竜川リバーサイド
主催の萩田さん、ボランティアをしてくださった皆さん、本当にありがとうございました。
来年は、もう少しましになるよう精進します。
それでは、また(^O^)/

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プロフィール
HN:
しんしん
年齢:
65
性別:
男性
誕生日:
1960/02/20
趣味:
走ること・空手・詩吟
自己紹介:
12市町村が合併して出来た新浜松市
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。

合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。


袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns

”しんしん”55歳  
2015/11/25現在。。。
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