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平成の合併が過ぎ、今私はここで暮らしている。 ほくえんの風を 身体中に感じながら。
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村には70歳になると、口減らしのために、姥捨ての習わしがある。
深沢七郎の小説「楢山節考」
親孝行の辰平(54歳)70歳で山に行くと決めた意志の強い母親おりん(79歳)
孫のけさ吉に子供ができると(曾孫)出来ると、家の食いぶちが増える。年寄りが山に行く風習は、そこには貧乏な村の生活があった.。
今は、そんな貧乏などない。しかし、親を山に置いていく現実がある。
町に行っても年寄りの居場所がないのか、山に帰ってくる。
おりんが楢山に行った帰り、雪が降ってきた。
掟を破り、おっかあのいる岩陰にもどり、緒形兼ふんする辰吉の言葉
「おっかあ、雪が降って運がイイナぁ」
母親役、坂本スミ子おりんは掟を守り、何も言わずに手で早く山を下りろと言った。
尊厳死
人生の最終段階において過剰な延命治療を行わずに、自然な経過に任せた先にある死
尊厳
人が人として生きる権利
このような時代もあった。テレビのニュースで自殺者の数を言っている。
楢山節考も自死の話しだ。しかし、時代背景はかなり違う。
何故、こうなったのか、こんな時代になったのか。解らない。
今は、この時代より良い世の中になったはずだ。
日本の過去を知ることで、これからの糧にしよう。
しんしん

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中部天竜駅~富山まで約25㎞のマラニック。佐久間村は1955(昭和30)年、電源開発株式会社よる佐久間ダム建設を受け入れた。そして、そこは佐久間村と浦川町・山香村・城西村の三つの村と一つの町が合併して佐久間町となった。私の生まれる五年前のことだ。
当時二万人以上の人口は、ダム工事の時には潤い。その後も様々なことで潤った。しかし、その町は昭和の時代が終わりを告げたころから陰りを見せかけた。そして平成になり当時の町長が平成の合併で浜松市との合併を決断した。
そして、その町長は東京に去ってった。
今日は、その佐久間ダムの湖岸約25㎞を走る仲間九名でユックリ走った。
コース上には真っ暗な長いトンネルが多く、走る人はチカチカライトやハンドライト・反射タスキなどで装備してきた。
砂を運ぶ大型トラック等も走り大変危ないいコースだ。トンネル内ではトラックが来ると壁に張り付き邪魔にならなように注意した。
砂取り場所を過ぎいると、車も少なく走りやすくなる。
ユックリだから話もできる。誰かが、お正月2日羽田での事故の話をした。
旅客機が着陸した直後、海上保安庁の航空機のと接触事故の話し。
日本航空516便の機長をはじめキャビンアテンダントは冷静にお客を誘導し全員無事に脱失したこと。
信じれない事故、だけど、事故は起こった。
様々な犠牲があり、今があること。
佐久間ダムでは約350万人が働き96名の殉職者がある。
今、この時代に生きている者は
巨人の肩に乗っている。
科学者ニュートンが書いた手紙の一説として広く知られる。
今の便利な生活は、今の平和な世の中は、先人達が積み重ねた結果なのである。
佐久間ダムで殉職した人がいる。そして労働基準法ができ安全対策が語られるようになった。
そんなことを思いながら。話ながら。天竜川リバーサイド約25kを走り切り。
湯の島温泉で汗を流し、食堂でユヅ味噌カツ定食を食べビールで乾杯したのだった。

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その場所は、平成の合併の前は「富山村」だった。その村は1955(昭和30)年佐久間ダムの建設により村の中心部が水没し佐久間ダム湖畔に残った村になった。そして、そこは離島を除いた「日本一のミニ村」として頑張っていた。
当時は(昭和の後期)竹下総理のふるさと創生一億円事業などで、このような地域でも様々なことが出来てた時代だった。
その村には温泉がある。(湯の島温泉)
離島を除いた「日本一のミニ村」
今日、そこに行こうと思ってる。中部天竜駅9時スタート

富山まで23k

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WBC栗山監督の本
「栗の樹ファーム物語」
栗山英樹、野球場をつくる
を、読んだ。
1999年
栗山さんと栗山町との出会い、それは北海道栗山町のJCからの電話からだった。
2002年
栗山町に行き栗山町の人々に出会い、何かを感じ、栗山町に家を建てる。栗山町の人たちと栗の木ファームを完成する。
2004年
この年の北海道日本ハムファイターズは、メイン本拠地が東京都から札幌市に移った。
2012年
北海道日本ハムファイターズ_の監督になる。
栗山町の家から球場に通う
この本の前に「覚悟」も読んだ、大谷翔平との出会い。ダルビッシュ有との出会い。その中に栗山町の人々との出会いも。栗山監督の人柄がわかる。
映画「フィールド・オブ・ドリームス」
現役を退くころ、この映画をみたという。野球解説者になり、JCからの電話で栗山町に通うようになり。夢だった野球場をつくった。それも、この映画をみたときからの夢だったという。
その映画を知らなかった私は、TSUTAYAで借りて来て、その映画を観た。
12市町村が合併してできた新浜松市、そこにそこの隅っこに多くの人が走ったり歩いたりして訪ねてくる里になってほしいと、そんな想いを信じて続けてきた。
夢は正夢
その夢を叶えるためには、叶えるまで、続けること。

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4月7日、私は国道156号線を車で北上していた。
それは八年前、一人でその国道を走り
荘川桜を見に行ったからだ。
フルマラソン以上を走る人たちウルトラランナー、そんな人を知ったのは、12市町村が合併して大きくなった新浜松市を、旧市町村の役所を巡るマラニック、そんなことをしているリックを背負ったランナーが、152号線を走っているところを見たからだ。
そんな人に出会い、そんな人から話を聞いた。
そして
さくら道の事を知った。
湖底に沈んだ荘川桜、の話を知った
平和への祈りを託して名古屋から・金沢間に2000本の桜を植えつづけ、病のため短い一生を終えたバス車掌佐藤良二さんその人生を知った。
「この地球の上に天の川のように美しい花の星座をつくりたい。花を見る心がひとつになって 人々が仲良く暮らせるように」

今回、その道を車で走ったのは、「余呉湖グルグル」に参加するためだった。
せっかく、滋賀県の余呉に行くのだから、あの日走ったあの道を、また。
と思った。
荘川桜に着いた頃は、小雨が降り、人は誰一人いなかった。
八年前の私は、ココで諦めた。
ネイチャーを走る人は、そこから兼六園にある「佐藤桜」を目指すそうだ。
車を走らせ兼六園に着いた頃には夕方になっていた。
八年前、私は荘川桜を見て、走るのを辞めバスと電車で帰った。
今回は、兼六園の佐藤桜を目指して車を走らせた。
長い長い「さくら道」その道に桜を植えた佐藤良二さん
その人を走るウルトラ・ランナー。
そんな人がいることを、私は12市町村が合併した、その夏に知った。
日本は平和で素晴らしい国だ。
白川郷に着いた時には多くの外国お客さんがいた。
古き文化を大切にする日本人、
御母衣ダム建設当時の電源総裁高碕達之助の言葉がある。
「進歩の名のもとに、古木姿は次第に失われていく。だが、人の力で救えるものは、なんとか残してゆきたい。古きものは古きがゆえに尊いのである」

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生きていくということは、誰かに借りをつくる事
今は亡き隣のおばちゃんが言っていた。
「生きている者の務め」
兄が亡くなったのは、癌だった。
埼玉の出張先で、吐血して救急病院に運ばれたと連絡が来た。
タダの胃潰瘍だと思っていた。
義理の姉は、四男と三男を連れて佐久間に来た。
次の日、埼玉県の獨協病院に行った。そして癌の告知を受けた。
あれから二十年以上たった。義姉は逝った。
永六輔さんの「いきるものの歌」がある。
そこのセリフに
もし世界が平和に満ちていても、悲しみは襲ってくる。
殺されなくても人は死に、誰もがいつか別れていく。
世界が平和でも、悲しい夜はくる。
誰もが耐えて生きていく。
思い出と、歌が、あなたを支えていくだろう。
とある。
人は生まれ、やがて死んでいく
映画「最高の人生の見つけ方」でのモーガン・フリーマンのセリフだった。
甲府から帰るとき、最後に義姉に向き合い
ありがとう
と合掌した。そして佐久間に帰ってきた。

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映画「最高の人生の見つけ方」でのモーガン・フリーマンのセリフです。
日航機事故で坂本九さんは亡くなった。世界中にヒットした「上を向いて歩こう」の作詞者は永六輔さん、その人の歌に「生きているということは」「いきる者の歌」がある。
生きているということは、誰かに借りをつくること
生きていくということは、その借りを返していくこと


母親から私は生まれた。その母親は80歳で特別養護老人ホームに入所した。
認知症だった母親は、夜の徘徊が数年間続いた。最後は村の衆や消防団、警察や警察犬、ヘリコプターまで使っての捜索があった。
寒い夜、捜索が打ち切り。もしかしてもしかするかもと思って、姉・親戚の人と家の続きの部屋を掃除した。

次の昼前、母親は半場の山中で見つかった。
救急車に乗り込む母親は「大丈夫だ」と言っていた。
その年の暮れ、家に電話が入った。
特別養護老人ホーム「さくまの里」からだった。
「お母様の順番が来ました。どうしますか」
と、私は
「スイマセン私一人では決めかねますので父親と相談します」
と電話を保留にした。そして父親に訊いた。
父親は、飛び起き。
「たのむゾ~」
と言った。
母親の特別養護老人ホーム「さくまの里」への入所が決まった瞬間だった。
母親の老人ホーム出の部屋は、3号館の二階、天竜川側、ベランダからはB型鉄橋が半場の村が綺麗に見えていた。
あれから17年、私は介護士になり、あのベランダからはB型鉄橋が半場の村が綺麗に見える部屋に行くことがある。17年前を思い出す。
生きているということは、誰かに借りをつくること
生きていくということは、その借りを返していくこと


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今の職場、にそんな人が来た。そして、
「さくまパラダイス」
と言った。
「しずかでイイとこ」
とも。
今回二回目の、その人との仕事だから、少し家族の事も話した。
自分のことも
20年前に佐久間に来た彼女は
「じぶんがえらんだみちだから・・・」
と言った。
そして私が気になった言葉があった。
「うちの主人が」とよく話すのだ。
それは、今そのように旦那さんのことを言う人は少ないと感じたからだ。
「夫」「主人」「旦那」「亭主」
日本語は、ひとつのことに対して様々な呼び方があって難しい、その人は、その中で日々頑張っている、日々成長している。
昔、20年以上だったけかナ~。
次女が幼稚園だったころ、私がPTAの会長で伊豆の長岡で総会があり隣に座った佐久間中学校の恩師と話した思い出がある。気の強い女性の教員で
「私は主人とは言いません。夫と言います」
と言ったのを思い出す。
同じ屋根の下で暮らす人なのに
「夫」「主人」「旦那」「亭主」
呼び方で、その感じ方が変わって来る。
そして、その人は、私にこうも言った。
「トシウエナノニ、スイマセン」「ケイゴワカラナイ、シツレイカモシレナイデス。スイマセン」
日本語は一つのことに対して様々な呼び方がある。そこに敬語が入って、地方に行くと放言も交じってくる。
話すということはコミュニケーションをすると言うこと。要は伝えたいとが伝われば良い。
だけど話し方で印象は変わる。
その人が私に、このように言ったことは。
「敬う」と言う日本人の根本の心を誰かが教えてくれたのだと思う。
日本人が忘れかけたことを、
その人は姑さんのことを
「うちのバーバが」
と、よく話す。

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以前、このブログでも書いたことがある。
義を見てせざるは勇無きなり
意味は
『人として行うべきことをわかっていながら、それをしないのは臆病者である』

だ。

毎月定期購買しているPHP、今回の特集は「歩きだそう」その中に、その言葉があった。
義を見てせざるは勇無きなり
意味は
『人として当然行うべきことと知りながら,それを実行しないのは勇気がないからである。』

臆病者の私はAmazonで、その人の本を注文した。

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その山は新城市との境に、その山頂はある。しかしやはり東栄町の山だと思う。
そんな山に毎年登っている。登っていた。
「とうえい温泉」に集まって、朝8時から国道を「尾籠」の集落を目指して走った。
そこからが登山口、「尾籠」の集落から見える「岩山」に、まずは向かう。
そこに「のぞき岩」がある。「尾籠」の集落が見える。
振り向けば「明神山」が見える。
そこから、その明神山へ向かう。最初は尾根伝い、最後は急登(ロープやハシゴ)が何回もある。
山頂にお昼チョット前に、ダイタイ着く。人気の山だから先客がきっといる。
下山は、三ツ瀬登山口を目指す。
途中「うまのせ」がある。ココからの景色は最高だ。エメラルドグリーンの鳳来湖も見える。
午後の2時には三ツ瀬登山口に下山できる。
ココから道路を走る。
新本郷トンネルを抜け、本郷の町を走り、とうえい温泉へ午後4時前には着いていた。
そして「とうえい温泉」で、マッタリして食事をとって、家に帰った。
そんなことをやっていたのだけど、今年は出来なかった。

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プロフィール
HN:
しんしん
年齢:
64
性別:
男性
誕生日:
1960/02/20
趣味:
走ること・空手・詩吟
自己紹介:
12市町村が合併して出来た新浜松市
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。

合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。


袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns

”しんしん”55歳  
2015/11/25現在。。。
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