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平成の合併が過ぎ、今私はここで暮らしている。 ほくえんの風を 身体中に感じながら。
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日本は日本国憲法において、職業選択の自由が認められている国だ。
日本国憲法(昭和21年憲法)第22条第1項
「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択 の自由を有する。 」
だから
北遠に生れ、北遠に、育った方でも。
住所を移して
北遠に仕事に通っても何ら問題は、無いのです。

学者が「ここに働くところが無いから過疎化は進むのだ」と言います。
北遠に来た人が「美しい自然があり癒されるワ」とか言います。
しかし
過疎化は、進むのです。
佐久間町が、浜松市に合併したときに、立ち上げたNPO
に、縁があり活動委員として参加するようになった。
やっていることが、オカシイ、チョット違うんじゃない????
思い、活動委員は辞退し、水窪の
顔を出すようになった。
水窪も佐久間も、過疎化は進む。
それは
職業選択の自由があるから。。。

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足るを知る者は富むとは、満足することを知っている者は、たとえ貧しくとも精神的には豊かで、幸福であるということ。
と、いう意味だ。
人間の欲望にはきりがないが、欲深くならずに分相応のところで満足することができる者は、心が富んで豊かであるということ。
『老子』に「足るを知る者は富み、強めて行う者は志有り(満足することを知っている者は富者であり、努力している者は志ある者であると言える)」とあるのに基づく。
HP故事ことわざ辞典から


私の部屋に「知足」と書いた額がある。
今年の書初めの言葉だ。
あれも欲しい。これも欲しい。と思ってないか。
書初めでは書いたが、いまだ、あれも欲しい。これも欲しい。
思っている自分がいる。

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RUN2homepage
2011年、第一回のメンバーの笑顔が、私のホームページの中に保存している。
10年ひと昔
そんな言葉がある。
だいたい十年を一区切りとして、社会をみたとき、その間に著しい変化があるということ。
だ、そうだ。

遠山郷は、今年新しい飯田市市会議員が誕生した。
遠山郷は三遠南信道の青崩れトンネルが開通してからの観光客の誘致を考えている。

夢街道で、青崩峠を下ってから遠山郷に入ってからの道も
バイパスが年々完成して、コースが短くなっていく。

10年前、私は、この道を走り始めた。
今年、当時一緒に走った人が二人いる。

当時一緒に走った人が、今はこの世に存在していない人がいる。

時の流れは、川の流れに例える人がいる。
同じ時はないのだと
川に流れる、水の分子が、そこにとどまることはない、と。

だから「今」を懸命に生きるのだと。
夢街道の思い出。
思い出、だけにしてはいけない。

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それは、君に、伝えた事が、あるから。
車が無いと暮すことが難しい。しかし、人はそこで生きている。
そこに家があるのは、それぞれの家に、それぞれの理由がある。
そこに家があるから、だから私たちは、この道を走れるのです。

私はテレサ・テンの歌が好きです。歌声も笑顔もチャーミングでした。
1953年生まれのテレサは、今生きていれば68歳、68歳になったテレサの歌声は如何なのかと思います。
日本での活躍しか知らなかった私はテレサの歌「私の家は山の向こう」を知りました。

私の故郷は、山の斜面
幼少の頃の楽しい思い出がイッパイあります。
しんしん

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ゼロ富士とは
富士山頂往復ウルトラマラニックの事です。
田子の浦港で海水をフイルムキャップに入れ、富士山頂に行き、そこに振りかけて、また同じ道を田子の浦港に帰る。
24時間以内に
そんなルールでH氏が始めたそうです。
それも、田子の浦の白灯台からと、言っていました。
H氏を知って、その他のウルトラマラソンを走る仲間と知り合って、そんな話を聞きました。

息子が富士吉田の駅前のアパートに住むようになり、そこに泊まって翌朝、田子の浦港に
散歩に行きました。
「 田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 不尽の高嶺に 雪は降りける 」
その碑は、まだ田子の浦に向かう道路沿いにありました。
その、道路を歩いていると、バリケードがあり砂浜には行けない状態です。
しかし、その、白灯台を見たい。
そう思い、バリケードをまたいで行きました。
白灯台横から、富士山を見上げ、私も何時かゼロ富士(その時はゼロ富士とは言っていなかった)参加したいな~っと思っていました。

初めてゼロ富士に参加したのは第10回目、もう田子の浦公園が完成していました。
田子の浦公園からのスタートでした。
富士宮からは、エイド無、自分で飲食物を用意しなければならない、そんなことを聞いていて、ペットボトルを二本・オニギリその他をリックに入れて走りました。
ところが、料金所でエイドがあった。
料金所から黙々と歩き走り、夜空に広がる星空が綺麗でした。
五合目近くなると、富士市の夜景が綺麗に見えました。
食べ物は、6合目の山小屋でカップ麺を食べた。
山頂に行き、帰りは、須走からの下山、五合目でカレーを食べました。
五合目から大変、睡魔と腰痛、料金所から気持ちが切れました。
富士宮から、もしかしたら完走、と思ったけれど、やはり制限時間内は無理でした。
その時のブログ→富士山頂往復マラニック

もっと前には、料金所からの規制もなく、帰りは車の渋滞の中を走ってきた。そんな話も聞きました。
「 田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 不尽の高嶺に 雪は降りける 」
奈良時代初期の宮廷歌人、山部赤人の作品です。

過去は帰ってこないけれど、偉大なる日本の宝、富士山、
2021年
ゼロ富士の参加者の健闘を遠い佐久間から応援しています。
健闘は良くないかな?
富士山を、楽しんでください\(^o^)/

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H氏が企画した
それは2016平成28年5月に始まった。
私56歳の頃だった。私はサポートをした。

その時のブログ→初めてのサポート
私は、その時は家内の実家から帰り。新幹線を掛川駅で降り。近くの杏林堂でサポート用の食材を買いだして、次の日のサポートに臨んだ。
少し前に買った薪ストーブでスイトンをつくった。
隣りが消防署、注意されるかと心配した。
町の人に声かけ、そのスイトンがんばらまいか佐久間の女性が味付けをしてくれた。

次の年、私は参加した。
2017平成29年→天竜川リバーサイド
その次の年も
2018平成30年→天竜川リバーサイド
その次の年は富山からのスタートだった。
その次の年、2020令和2年はコロナのため中止
その次の年は今年は、平岡駅でサポートだった。
今、コロナ禍
人々は大変な時を過ごしている。
感染予防として三密に注意している。
そんなとき
人は三密に注意しながら、何とか、その時を過ごす。
その時なりの楽しさを求めて。

天竜川リバーサイドウルトラマラニックの思い出。
思い出は思い出でしかない。
 
 
  
2021年令和3年の今日が始まった。

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平成25年4月、私53歳の頃、人生3回目の100㎞「富士五湖ウルトラ」を走りに行った。
その時は静岡県立大学でリレーフォーライフのイベントがあり、それを終わってから富士吉田に向かった。
その途中H氏がぐるっと富士山一周ウルトラマラニックの計測だと自転車で走っていた。
富士五湖ウルトラは今回も富士山は顔を出さなかった。

その年五月、H氏はぐるっと富士山一周ウルトラマラニック(下見マラニック)をやった。
最寄りの駅「中部天竜」から飯田線で豊橋に向かい、東海道線で「沼津」御殿場線で「岩波」に降りた。
真夜中
バスが待っていて、そのバスに乗り込んだ。
ウルトラ好きの人が大勢いた。
旅館に着き、旅館の会議室でH氏は大会の説明をした。
H氏緊張気味だった、ような。
来ない人がいて、H氏が電話をかけたら
何か行き違いがあったそうだ。
H氏
「前後の分節を読んだら分かりそうなのに」
隣りに座っていた、Oさんが「くす」っと笑った。

富士山一周は楽しかった。
富士五湖ウルトラではチョットしか見えなかった富士山、最初は曇っていたけど鳴沢の道の駅で豪快に見えた。
しばらく見入っていると。
静岡のKさんが
「なに感動しているダ」
何時も見ている富士山、富士山の見えない佐久間町から来た人の気持ちは誰も分からない。
と、思った。
それからは飽きるほど見た。
富士山だった。

走り終わって宴会、その時にH氏が走った人に感想を聞いた。
S氏「最後の自衛隊の大きなトラックが走る○×▼▲×●・・・・・」
と、意見を言った。あの道は危険だと。
隣りの席の北海道から来たという女性が、呟いた。
「危険なところは他の大会でも多くあるワ♥」と。
大変だな~っと思った。
「なんかあったら責任は誰がとるダ!!」
H氏は顔色一つ変えずにメモ帳に何か書いていた。

次の年、2014年5月、ぐるっと富士山一周ウルトラマラニックはリハーサルマラニックとして開催された。
去年のS氏の要望に応え、コースは、その自衛隊のコースとは違う距離の長くなったコースが追加されていた。
そして手前のエイドで、どちらを走るか選択するようにしていた。
が、がががががががS氏は、その時は参加していなかった。

しかし、それでいいのだと思う。
多くの人、それぞれに多くの考えがあるのだから。
自分の気持ちなぞ誰にも分からない。
養老孟司さんの言葉を使うなら。
そこにバカの壁があるから。

今回、0さん・H氏・S氏・Kさんと書いた。
断ってはいない。
間違っているかもしれない。
不安はある。
でも今日は、こんなことを書きたかった。

「なんかあったら責任は誰がとるダ!!」
怖い言葉だ。
H氏は、全責任は私にある。と言っていた。

でも。
誰も



富士山が私に教えてくれた。
一生懸命に生きれ

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H氏がはじめたウルトラマラソン、私は湖西市鷲津の工場で若き日の頃働いていたので思い出があった。
H氏は、浜名湖には凄く思いがあったのだろう。
H氏を支えようとボランティアの人たちも多く集まった。

郷土愛溢れる大会だった。

表題の
浜名湖一周ウルトラマラソンの思い出。
それは、朝5時にスタートしたウルトラマラソンの思い出ではなく、走り終わってからの宴会、宴会が終わってからの二次会での思い出なのだ。
次の日仕事があり、もう寝よう。と思ったけれど二次会会場は、H氏の部屋、私は同じ部屋だった。
部屋の隅、布団をかぶった。
二次会の人たちの声が聞こえる。

H「今回の浜名湖、如何でした?ご意見を聞きたい」

初めて見る人、関東からの人みたい。
仮にBとしてみる。

B「地図が、チョットわかりにくい、かな、、」


H「私は、このコースマップには命をかけている・・・・」

突如、怒った。

他の人たちが
 「まーまーまーぁ」

H「いやいや、今のは置いといて、それで」

心を落ち着かせ、また、B氏の話を聞こうとしたH氏

B「地図が、チョットわかりにくい、かな、、ココのとこと・・・」


H「私は、このコースマップには命をかけている・・・・」

突如、怒った。

他の人たちが
 「まーまーまーぁ」

そんなことが繰り返され、Bさんは部屋に帰って行った。


残った人たちで、残ったアルコールを飲んでいた。

私より年上の人ばかり。元気の良い人ばかりだ。走りも酒も。

私は、もう眠れない。

いつも温厚はH氏が怒った。

質問したのはH氏、それに答えてくれたB氏。

H氏は私に、
「自分にとって批判的なことを言う人から学ぶことがある」
そんなことを聞いたことがある。

酒とは酔っぱらうとは、こんなこと、いつも冷静にいても、いつもと違う自分が出る。こと。

自分もそうだ。譲れないところがある。

命はかけてこなかったけど、一生懸命自分なりにやってきた。

 

浜名湖一周ウルトラマラソン
楽しかったナ~。走るということは大変だけど、楽しいことがある。
表裏一体
どんな事でもそうだ。楽しい事には陰で支えてくれる人がいるものだ。
浜名湖一周ウルトラマラソン命をかけて開催にこぎつけてきた人がいるのだ(^O^)/

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私は佐久間中学校の頃、3年B組だった。  

3年B組金八先生~。ならぬ深田先生だった。

今思い返すと、叩かれた思い出がある。それも連帯責任という感じでクラス全員を、そんな記憶がある。


それも、私のおぼろげな記憶で、さだかではない無い。

今、その時の先生より多くの歳を重ねた自分が思うことは、その先生も真剣だったのだナ~。と思う。


当時、そのクラスにイジメはあったのか?

答えは、あった。


ボス的存在の輩がいて、当時はやっていたプロレスの技をかけ涙が出るまで締め付けたり。

悪い言葉で罵倒したり。

でもそんな陰湿なイジメとは感じなかた。


イジメたりイジメられたりしながら、時は流れ、忘れてきたのだと思う。


 

人はイジメたりイジメられながら生きていく。

今、コロナ禍

金八先生は、どの様な授業をするのだろうか???


 

私は

森町三倉「勉強会」で修身教授録の読書会に参加した。

そこで「尚友」という言葉に出会った。

意味は、本を読み、昔の賢人を友とすること。




そうだ。


 

「ヤッつあん先生の人間学」

八ツ塚実先生は広島県福山市での中学の理科の教師だった。


本当にこの世にいた、金八先生だった。


他に「大人になるということ」「思春期の節目」と自分の本棚にある。


 

わたしは大人になっていないだろうか???

もう一度、読み直そう。
 

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 昔、佐久間の民話の里会館に女性のギターリストが来た時がある。

その彼女は、北海道の出身の人で、ある出逢いが縁で今このステージに立っていると。

夢を追いかけている女性だった。

 

例え話で、こんなことを話した。

「電車がホームに来る、次の街に、その電車に乗って行こうか行くのを辞めようか。グズグズしていたら前には行けない。思い切り、その電車に乗って今がある」
のだと。

12市町村が合併して、山間部は益々過疎になっていく。

ねこバスが、4月になるとやってきて、多くの人を乗せ都市部に護送していく。

バカで頑固な自分は、そのねこバスには乗らない。いや乗ることができない。乗車券を買うお金が無いから。

私は思う。

ねこバスに乗る人も、乗らない人も、良しと思う世界。


今、過疎地域で困っていること。買い物、病院通い、車を運転できないと暮らしていけない。

多くの金を使って、有料老人ホームに行った人もいる。

電車に乗った人、その人はTOMOKO
 

   
 
今、視聴覚障碍者のギターを提案している。そう。
電車に乗る人も、乗らない人も。
愚者も賢者も。
田舎も都市部も。
健常者も障碍者も。



みんな同じ地球に暮らしている。

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プロフィール
HN:
しんしん
年齢:
64
性別:
男性
誕生日:
1960/02/20
趣味:
走ること・空手・詩吟
自己紹介:
12市町村が合併して出来た新浜松市
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。

合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。


袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns

”しんしん”55歳  
2015/11/25現在。。。
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