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平成の合併が過ぎ、今私はここで暮らしている。 ほくえんの風を 身体中に感じながら。
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夢街道の町「みさくぼ」に水窪音頭がある。
そこに
イカイデ コガイデ ヨカッツラ ハンルカブリダデ イッカモナイカ ヤーレ マタ ヨカッツラ
とある。
分かるかナ~?分かんないだろうナ~?

これで確認してみれば分かるだろナ~(笑)
どうして このような 良かったでしょう とっても久しぶり 大丈夫 ヤーレ マタ 良かったでしょう
自分なりに変換してみた。


何年前に水窪の人が作ったかわからないが
水窪を出ていった人たちが、この水窪音頭をも聞けば懐かしさが込み上げるだろうナ~。

イカイデ コガイデ ヨカッツラ ハンルカブリダデ イッカモナイカ ヤーレ マタ ヨカッツラ
どうして このような 良かったでしょう とっても久しぶり 大丈夫 ヤーレ マタ 良かったでしょう

そう。最後は
ヨカッツラ(良かったでしょう)
と、なればいいのだ。

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映画にもなりテレビのドラマでも放送されていた二十四の瞳、先日佐久間図書館で借りてきて読んだ。
昭和の戦争戦後の時代、岬の分教場での話しである。

私のゆるふるさと「横吹」にも、そんな分教場があった。
横吹分校だ。
先日、走って、そんな所に行ったとき。
電気屋のオジサンとオバサンが家のかたずけをしていた。
奥さんは、その分教場の先生の娘で森町から来たそうだ。


もう60年佐久間に住んでいる、と。



先日、半場の村を散歩中、日溜まりで話し込んでいる人の仲間に入って話した時も
何処から来たと話していた。

過去があり今があり未来がある。
過去があり今があり、明るい未来を創造する。
過去があり今があり、明るい未来は自分でつくる。

二十四の瞳の大石先生は、泣いてばかりだけど笑ってもいた。
二十四の瞳の生徒たちは、素晴らしい先生に巡りあえた、と思う。

今度は映画を観たいものだ。

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1970年(昭和45年)から1975年(昭和50年)にかけてNHK総合テレビで放映された『70年代われらの世界』のテーマ曲である。作詞は阪田寛夫、作曲は冨田勲、合唱はひばり児童合唱団である。
ウィキペディアから
私が10歳~20歳までやっていたテレビ番組、『70年代われらの世界』このテーマ曲青い地球は誰のもの


ソビエト連邦の軍人、パイロット、宇宙飛行士、ガガーリンは1961年4月12日、人類初の宇宙飛行に成功し
「地球は青かった」
と伝えた。
アメリカのアポロ11号が1969年 7月20日 月面着陸に成功した。
ニール・アームストロング氏が残した言葉
「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」
時は巡り現代21世紀、通信速度は飛躍的に早くなり5Gとなった。
遠隔捜査が可能となり、先日の新聞でも、JAXAと鹿島建設は18日、将来の月面基地建設に向け、約1000キロ・メートル離れた重機の遠隔操作と自動運転の実証実験を行い、成功したと発表した。と書いてあった。
地球の先進国が月への覇権争いが始まった様相だ。

青い地球は誰のもの『70年代われらの世界』
人類が先進国が、月に宇宙開発に掛ける巨額な予算、
21世紀は我等は抜け落ち、資本家たちの世界になっていく。

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朝の連続テレビ小説が「おちょやん」から「おかえりモネ」になった。
「おちょやん」は、女優の道を生き抜き、「大阪のお母さん」と呼ばれるようにまでなった、ひとりの女性の物語だった。
「おかえりモネ」は、宮城県気仙沼市の離島・亀島で育った永浦百音が、気象予報を通じて幸せな「未来」を届ける希望の物語だそうだ。
話しは変わって、私が暮らす佐久間にも同級生が帰って来た!
クニちゃんだ。
「おかえりクニちゃん」
もう若くないから、「未来」といってもあと何年?
それでも自分なりの「希望」を持って生きていこう、と思う。
今年の3月末、コロナ禍だけど、地元の人たちだけで花見をやろうと話が出た。
クニちゃんを誘ったけど
「まだ、コロナ、心配だから・・・・・」
花見には来なかった。
同級生にも様々な考えの人がいる。
走る人にも。働く仲間にも。
朝の連続テレビ小説も、色々な物語があり面白い。
今回の「おかえりモネ」は、幸せな「未来」を届ける希望の物語だそうだ。
何処に暮らそうとも「希望」持とう。

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昨日の朝、エホバから電話が来た。
自分の宗教のことを考えた。
葬式は仏式で、相月の御寺に相談して行ってきた。
だけど、自分は仏教を信じているだろうか?
仏の心を信じているだろうか?

日本は「神道」「仏教」を基に国づくりをしてきた。
私の先祖も、その教えで相月の御寺の檀家になった。
明治時代の神仏分離の考えになったが家には神棚があり仏壇がある。

昨日の朝、エホバから電話が来た。
そんなエホバの証人の勧誘をしている人の方が自分の信じる道に生きている、と思う。

日本の神仏習合の考え方で国づくりをしてきた。
神道信仰と仏教信仰とを融合調和することで神を信じ先祖を敬ってきた。
明治時代、神仏分離し日本は神の国としての教えで出発し富国強兵し、大戦になり敗戦しアメリカの統治下で国が始まった。

戦後75年
今の時代こそ「神道」「仏教」の事を考えるときだと思う。
先祖がどう生きたのか、先祖を敬うこと、仏壇に手を合わせて思う。
この動画に、松山大耕住職の言葉がある。
様々な宗教家での駅伝を企画していると、他の宗教家同士で争うのではなく、他宗教の人でチームを組んで走るそうだ。
「八時だよ!神仏習合」そんなのも楽しそうだ。

コロナ禍に考えた。
考え方の違う人でも、話し合い認め合いの心が大切なのだと。
佐久間駅伝も、普通の駅伝ではなく、こんなやり方も面白いのでは、と(^O^)/

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「今、コロナ禍のため、直接会ってお話しできないので聞いてくれますか」
と電話があった。
「永遠の『命』があたえられれば幸せだとは思いませんか」
の問いに私は
「いや、人間は死ななければいけないと思う。生きて生きて最後は死ななければ・・・」
と答えた。
そな話は続いた。
話しは過去に戻り、私が横吹に暮らしていたことの話し。湖西市鷲津から引っ越してきて横吹、私の生まれ故郷に帰ってきて夜勤で寝ていた時に、エホバの証人が訪問して話したことがある。29歳の秋の出来事だった。
葬式には近所の人たちが集まって和尚さんを呼んで、拝んでいた。そんなことをしていた。自分家は仏教だとは思っていたが宗派も知らない、そんな自分だった。

訪問してきたエホバの証人の人にも
「私の家は仏教だからと」答えた。
そして
「仏様があり先祖を拝んでいます」と
そしたらエホバの証人の人は
「死んだものを拝んでなんになるのですか、神はこの世で一人です」と
なんか違うな。と思ったけど夜勤だし眠いし帰ってもらった。
そんな時から40年以上たった昨日、エホバの証人からの電話があった。
エホバの証人の方は、あのときの同じようなことを言っていた。
自分の信じるモノを終始一貫伝えている。
29歳のときからいろいろなことがあった。本も多く読んだ。自分は何のために生きているのか哲学の本も読んだ。仏教の本も。江戸時代徳川幕府は民衆の支配のために仏教を利用して檀家制度を広めた。こんなことも知った。
私の先祖は、私たち横吹に暮らす者は、相月のお寺曹洞宗の「東林寺」の檀家となった。
半場に越してきた我が家は、40年間その寺の和尚の御経で亡き人を弔ってきた。
そして昨日のエホバの証人からの電話だった。
その今までお世話になっていた。東林寺の和尚さんが老人ホームに行ってしまった。
今は水窪の和尚さんが代わりを務めている。
元の和尚さんからもらった本「人生生涯小僧の心」塩沼亮潤大阿闍の本を読んだ。竹田恒泰との対談「日本がもっと好きになる神道と仏教の話」もアマゾンで買った。

日本の宗教は何なのか。
江戸時代は檀家制度を広め仏教だった。そして神道もあった。
我が家は神棚もあれば仏壇もある。
日本には様々な宗教があるが、自分の家は仏教だと胸を張って言う人はいない。
先祖がやっていたからと、言うだけだ。
一貫性が無い。
そんな自分も良いのではないか。今思う。
川の流れのように、先祖から受けついだものを持って流れていく人生も。
そう思った。

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命の値段で検索してみた。
HP「教育考現学」の「命の値段」がヒットした。
人間70㎏3000円 私は賛成です。
① 人間とは成分で考えれば
(70kgの体重のヒト)
成分 重量
酸素 45.5kg
炭素 12.6kg
水素 7kg
窒素 2.1kg
カルシウム 1.05kg
リン 0.7kg
イオウ 175g
カリウム 140g
ナトリウム 105g
塩素 105g
マグネシウム 35g
鉄 6g
フッ素 3g
ケイ素 2g
亜鉛 2g
ストロンチウム 320mg
ルビジウム 320mg
鉛 120mg
マンガン 100mg
銅 80mg
アルミニウム 60mg
カドミウム 50mg
スズ 20mg
バリウム 17mg
水銀 13mg
セレン 12mg
ヨウ素 11mg
モリブデン 10mg
ニッケル 10mg
ホウ素 10mg
クロム 2mg
ヒ素 2mg
コバルト 1.5mg
バナジウム 0.2mg
3000円で買えるから。
あくまで成分で言えば、ですが。
② 人はみな平等です。と言いながら、人は差別がある。一つのグループでも賢い人・要領の悪い人、男・女、様々なのに区別する、しかし成分表で言えばみんな同じ3000円、良いではないですか。
だから・・・・人間とは成分で言えば、たった3000円。その3000円の身体を精神・魂を磨いて値段では買えない人体と魂の融合した自分をつくり上げなくてはならない。それが人生というものと、私は思うのです。
追記
『賛成なら、あなたの命、3000円で売ってくれますか。』
嫌です!! 私は魂を持っている人間ですから。

命の値段で検索してみた。
他に



今回、この検索をしたのは、3000円の御寄付を頂いたから。
最初「三千円の命」と検索、続いて「命の値段」
コロナ禍、パソコンの前ばかりだけど、早く多くの人と宴会をやりたい。と思っている今日この頃です。
しんしん

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1969年11月3日の演説でアメリカ大統領ニクソンが「グレート・サイレント・マジョリティ」としてこの語を用いた。
当時、学生らによるベトナムからの即時全面撤退を求める反戦運動が行われており、メディアなどから注目を受けていた。
ニクソン大統領は選挙における公約として「平和裡の終戦」を掲げていた、「そういった運動や声高な発言をしないアメリカ国民の大多数は、ベトナムからの即時全面撤退を求めていない」という意味でこの言葉を使った。
日本でも1960年(昭和35年)のいわゆる「安保闘争」の際に、当時の首相岸信介がニクソンの「サイレント・マジョリティ」と近い意味の発言を行った。同年5月28日の記者会見で「(安保反対の)デモには一般大衆からの批難の声がないが、どう思うか」との質問に対し、岸は次のように述べた。
声なき国民の声に我々が謙虚に耳を傾けて、日本の民主政治の将来を考えて処置すべきことが私は首相に課せられているいちばん大きな責任だと思ってます。今は「声ある声」だけです。
安保反対運動に参加していない国民が多数派であり、彼らを声なき声と表現し、安保反対運動支持は少数派と述べた。
サイレントマジョリティーである無党派層の声を判断するために後継の池田勇人首相が1960年10月24日に断行した第29回衆議院議員総選挙(安保解散)では、岸が提唱して池田が発展させた所得倍増計画などの経済政策の恩恵を受けていた。
ウィキペディアから。
歴史にifは無いけれど、もし戦争が終わって貴方なら如何いう選択をしますいか?
昨日見たテレビで池上彰がカズレーザーに質問していた。
様々な選択があったのだと思う。しかし、日本は日米安保の道に進んだ。
歴史にifは無い
過去を変えることはできない。が未来をよりよくすることはできる。

それは、多くの人と話し合うことだ。
日本人は喋らないことを美徳としてきた、が今は違う。

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1928年(昭和3年)、大石先生は瀬戸内海に浮かぶ美しい小豆島の分教場に赴任する。
物語「二十四の瞳」は始まる。
大石先生は、いたずらっ子の落とし穴に落ち学校に来ることができなくなり、大石先生が担任する二十四の瞳の子供達は大石先生の元を尋ねる。


 
 
 
時代は1928年(昭和3年)から月日が経ち、長かった戦争が終わった。
大石先生は、また岬の分教場の教師として働き始める。
教え子達が大石先生の歓迎会をする。
その中に戦争で目が不自由になった磯吉がいた。
先生と撮った写真を見てた。目の見えない磯吉にも、この写真だけは見えた。
 


二十四の瞳、私の瞳。
私の目から涙がこぼれた。

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コロナ禍の前、春になると余呉湖に行くのが楽しみだった。
面積約1.8平方キロメートル・周囲約6.4km、水深13m、湖岸沿いの遊歩道10周+3㎞、70㎞のウルトラマラソン
マラソンもだが、仲間内の前夜祭、走り終わってから走ったみんなで盛り上がる後夜祭も最高だった。
何年の余呉湖だっただろうか?
帰ってきて身体の不調を感じた。
インフルエンザだろうか?
仲間内のFBで、そんな症状の人がいた。
私も私も身体の調子が、、チョットと。
一週間後、近場の走る仲間に出会い話した。
いつも風邪など皆無の人も今回は大変だったと言っていた。
どうも発生元は東京から来た○○さんだとも風の噂であった。そんな話も私の耳に入った。
その時、別に、その人を、ドウノコウノ、ではない。
「ふ~ん」
くらいにしか思わなかった。
あれから何年たっただろうか、今はコロナ禍、それだけでは済まないような時代になったと感じる。
春、開催されるウルトラマラソン、様々な思い出がある。
当時はインフルエンザだった。
今はコロナでの感染を心配している。
インフルエンザでもコロナでも重症化して大変な事態になることもある。
また、そのまま治る場合もある。
コロナが発生してから一年と少し。
人間は何を学んだだろうか。

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プロフィール
HN:
しんしん
年齢:
64
性別:
男性
誕生日:
1960/02/20
趣味:
走ること・空手・詩吟
自己紹介:
12市町村が合併して出来た新浜松市
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。

合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。


袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns

”しんしん”55歳  
2015/11/25現在。。。
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