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平成の合併が過ぎ、今私はここで暮らしている。 ほくえんの風を 身体中に感じながら。
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5月20日(金)に
水窪のNPO法人山に生きる会の打ち合わせがあると連絡が来たが
その日はあいにく
「ぐるっと富士山一周ウルトラマラニック」
の日だった。
 先日、その
山に生きる会
の、今年の活動計画書が送られてきた。
その中に
特定非営利活動法人山に生きる会 趣旨書
が、あったのでこのブログに残しておきたいと思います。


     特定非営利活動法人山に生きる会 趣旨書


浜松市北部に位置する水窪地域において私たちは、「故郷」の恵み多き自然、風土との共存の中で、自らの生命と生活を支え、誇れる「故郷」の自然、伝統文化、伝承芸能を引き継いできました。
  しかし、高齢化の進行や都市部への転居など、時代とともに人々の生活の形態が変化し、中間山地に住む人々の、「故郷」を想う気持ちもだんだんと薄れていく状況になっています。この中山間地域を元気にするためには、この「故郷」の資源を活かし、そこに生活する「住民」と「行政」が一体となって「新しい風」を吹かし活動することが不可欠だと考えます。

 そこで、私たちは、「故郷」の自然、伝統文化、伝承芸能で、交流する「まちづくり」を推進すること、そして、「故郷」を『愛する心』『誇りに思う心』を育て地域の活計化を図ることを目的とした特定非営利活動法人を設立します。


申請までの経過
平成21年 4月 任意団体 山に生きる会設立
平成22年 3月 特定非営利活動法人化のための勉強会開催
平成22年 12月  発起人会開催
平成23年 6月 設立総会開催

平成23年 6月29日
          特定非営利活動法人  山に生きる会
          静岡県浜松市天竜区水窪町奥領家●●●番地の●
                   設立代表者 ●● ●

水窪のNPO山に生きる会は
この様に、強い故郷を想う気持ちの人が多く頑張っている。
設立代表者である理事長から、今年度から新しい理事長になった。
先人の思いを繋げる活動になっている。

熱い思いは、人から人へ繋がっている。

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スイカに着いて書きたいと思います。

先日の
マラニック
浜松方面の人と豊橋方面の人がいました。
豊橋のヨッピーさんが、持ってきたスイカ。
切るときに
スイカのヘタとお尻の部分をカットしてからスイカを切りはじめました。

遠州人
それはおかしい。
ヘタとお尻の部分は切らない。

三河に人は
先ずヘタとお尻は切ってから、ふつうにカットする。
その方が見た目が良い。
三河育ちの人は全て、そのように言っていた。

ホント、三河の人は、そんな風にしてスイカをカットするの?
謎だ(+o+)

byしんしん

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5月4日
天竜川リバーサイドマラニック
しんしん初めてのサポート。。。。
の、とき。
熊本地震 義援金
として、寄付金を入れてもらう竹の貯金箱をテーブルに置いてサポート活動をした。
目に留まった人も少人数だがいた。
地域の人がやってきて、親戚の子供を連れてきて
その子が寄付してくれた。

サポートも夜8時30分には撤収。
その後、佐久間ダム方面に車で行くと
まだ何人かの人がゴール地点である太平洋を目指して進んでいた。
私の「車、乗りますか」の問いには誰も「ハイ」とは言わなかった。
最後を走っていた青年を見送り。
佐久間に車で来て
考えが変わり
自分は
豆こぼしトンネルで少しの食べ物飲み物を持ってランナーを待った。
黄門様が来た。
少しの接待をして、黄門様を見送った。
雨の中。
時計は11時半

次の日
水窪へ用事で車で向かうと
西渡のバス停付近を一人リックを背負って歩いていた人がいる。
佐久間ダムの奥で出会った青年だ。

天竜川リバーサイドマラニック
225㎞二日間かけての挑戦。
感動は人を変える。
いは人を潤す。
は人を豊かにする。
そして、感動し、笑い、
夢を抱くことができるのは
人間だけである。

熊本地震 義援金
サポートの時だけでは少なかったので
今回、自分企画の
第11回 竜頭山スーパーマラニック
に持参した。

サポートの方に
買ってきた飲み物・食べ物の代金(走る皆さんから集めたお金)を渡そうとしたら
「義援金に使ってください」
その様に言っていただいた。

走ることで知り合った仲間。
ウルトラマラソン(フルマラソン42.195㎞以上走る)
自分の足で目標であるゴールを目指す仲間。

義援金の入った竹の貯金箱、今日、割って中にどのくらい入っているか確かめようと思う。
byしんしん

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私が暮らす北遠(佐久間・水窪・龍山)が平成の大合併で浜松市になった2005年7月17日
その次の年の春、始まった
第一回 佐久間・水窪スーパーマラニック
当初、自宅から竜頭山の山頂まっでは何回か往復したことがあった。
山頂展望台から山住方面に行きたい。
そんな思いから、ラン友を誘い走った。

新城スネエモン倶楽部から
中川さん佐藤さん、地元の竹花さんと私
4人
その時は、
中部天竜駅から竜頭山頂→山住神社→野鳥の森→水窪、ここの国盗りで昼食→城西・横吹・立原・間庄・西渡→中部天竜駅
と、走った。

次の年
ヒロボーさんと相談して、このコースを説明したところ。
長すぎる、ということで山住神社から向市場までショートカットして
20人前後で走りった。
そのコースで第8回まで走ったが、自分の体力の衰えで
またまたコースを短くした。
スタートゴールを西渡にして第9回が始まった。
名前も
竜頭山スーパーマラニック
そして。
今年、第11回


無事に終わることができました。
ありがとうございました。
感謝!!!

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我が田に水を引く
我田引水とは、他人のことを考えず、自分に都合が良いように考えたり、ものごとを行ったりすること。

先日、私がブログで
金の切れ目が縁の切れ目
こんなことを書いた。

そして
FBでTomiichi Hiranoさんからのコメントがあった。
素晴らしい話に水を差すようで申し訳ありませんが、K町長はたいへん立派な人でした。先見性がり町の在り様を真剣に考え、斬新的な政策を立てる人でした。ただ、議会の我田引水に逆らえず時に政策を大きく歪めるところがあったように思います。
そして私が答えた。
K町長が立派なのは知っています。
先見性があるのも父親かから聴いて知っています。
斬新的な政策
「山間都市を目指す!」そんな言葉から納得しています。
議会の我田引水
前々から語っている様に佐久間町は佐久間村・城西村・山香村・浦川町が合併してできた町です。
其々の町村から出た議員、自分の町村の利益だけを考える人が多かったのですネ。
しかし、その時代、議員の仕事は中央から如何に予算をブンドッテ来るのか。
それが地方議員の仕事でした。
国も地方も佐久間町も。
と答えた。
そして次の日
K町長
こんなブログを書いた。

 

今年いっぱいでK町長が暮らしていた城西地区にある城西小学校は閉校する。
我田引水
佐久間町は昭和の合併で佐久間村・城西村・山香村・浦川町が合併してできた町だ。
城西地区に暮していたK町長

町長時代に、せめて城西地区から城西駅までの歩道を整備してほしかった。
byしんしん

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天気は良いかな~。
今、携帯で見たら、よさそうだ。
 

コースは、こんな感じ

竜頭山を平和登山口から登り、山頂からはスーパー林道を山住神社を目指し走って行く。
そんなコース。

コースマップのは下のリンクを参考にしてください。
http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=8cef2804b55bb7945da97c4b175232aa

2008年の動画

まだ私も若く体力があったとき。
スタート・ゴールが中部天竜駅の頃。
この日は雨上がりで、山頂は霧で何も見えなかった。
大変なマラニックだった。

今は楽しい思い出(^O^)
byしんしん

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五月の初め
その先生から、私のところに電話が来た。
「北遠地方の暮らしを調査している者だか・・・」
「水窪の調査をほぼ終わり、佐久間の横吹の話を聞きたい」
怪しげな電話、無視しとこ。
その様うに思ったが、動物的な予感、何かの縁を感じ、今日
お会いして話す機会を得た。
 
話をしてみると
私の母方の叔母さんと同級生のとのこと
昔、水窪小学校に勤務していたこと
音楽の先生で、今はハーモニカの指導員だということ

私の知りえる、横吹での話
横吹分校は通うことはないままに廃校になった。
佐久間町立幼稚園ができ横吹の山から歩いて島のバス停まで行きバスで城西幼稚園に通った話などをした。


辺りは薄暗くなり始め、
「門限があるので失礼する」
その様に言って
車に乗り帰って行った
龍先生
浜松南区から来たという
私の父親が生きていれば同い年くらい。
元気で何でもできれば
長生き
そんな素晴らしいことはナイ。

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富士山をぐるっと時計回りに走る。
マラニック(マラソン&ピクニック)
ぐるっと富士山一周ウルトラマラニック
スタートは裾野市
富士遊湯の郷 大野路
ここの玄関前を
5月21日午前0時にスタート。。。。。
  
私はこの大会
 2013年
 2014年
 2015年
と参加。
全ていい天気に恵まれている。
今年も天気は良い。

富士山に見守れながら走ることができた。

49km地点のエイド

本栖湖エイド
遠くに南アルプスが、、、雪をかぶっていました。。。。

走りの方は
最初調子が良かったのだけれど、中間地点を過ぎたあたりから足が重くなり眠気も出て走る方も遅くなってきた。
山中湖エイドで、毎度おなじみのボランティアさんのおもてなしを受けた。
 
ここで、前を行く先輩ランナーの通過時間を聞いたら、俄然悔しく思い、籠阪峠を目指した走り出した。
上りは歩いたが、下りは冨士浅間神社までノンストップで走ることができた。
コンビニでガリガリ君とコーラを買い、箱根裏街道を走る。
前を行く仲間に出会えないかと思いながら。

やっとの思いで仁杉エイドに到着。
コーラ、梅干、オレンジ、カステラなどを頂いた。
そこに仲間トモゾウさんがいた。
彼は迷わず
迂回コースを選択。
私は迷って迷って、彼の後を着いていくことにした。


トモゾウさんの背中を追いかけ、進んだ長い長い18キロだった。
途中、大野路の看板

もうすぐだと思ったら。
トモゾウさん
「あと7㎞、この道を行く」
と。
永遠に続くような真っすぐな道。
佐久間ではこのような直線は・・・・・無い。

トモゾウさん曰く
「この真っすぐな道路の正面に富士山があるのだ」
と。
それが凄く素晴らしい景色で気持ちいいのだと。
しかし、今回は前は真っ白、富士山は霧の中(+o+)ガックシ
 
せっかくなので写真に富士山んを書いてみた(*^。^*)

苦しくとも楽しいウルトラ走りの世界も
やっとフニィッシュ(^0_0^)
 
大野路0時→大野路17時34分。
17時間34分かけて富士山を丸ごと楽しんだ一日だった(*^^)v
トモゾウさん今回は最後の迂回コースでは本当にお世話になりました。
最後迂回コースを選択して、走っているとき、風呂に入っているとき、宴会のとき
今、ブログを書いているとき。
あの苦しさは、もういやだ!!!
そう思い。
来年は本コースにしようと思っていたけど。
今書き終わって
もしかしたら来年、天気が良かったら。
迂回コースで、富士山。
本物の富士山を見たいと思ってきた(^0_0^)

これじゃないやつ。
 
本物の富士山。。。
byしんしん

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佐久間町が平成の大合併で浜松市になった。
その佐久間町時代の町長が
K町長
昨日、平野さんから
K町長はたいへん立派な人でした。
とコメントを頂いたので今日はK町長の事について書こうと思います(*^^)v

其の一
K町長は私の父親と城西小学校で同級生だった(^0_0^)
私の父親は、昭和10年生まれ。
日本は戦争で大変な時にK町長と小学校時代を過ごしていたのだ。
話しでは、その時代、教科書は墨で塗られ何を書いてあるのか分からない状態だったそうだ。
戦中戦後、日本の大混乱の時代を生きてきた同級生だったのだ(^0_0^)
その当時、城西小学校と言えども多くの生徒がいた。
K町長は特別な人だったといいう。
成績優秀で城西では大富豪の御坊ちゃまだったそう。
(父親が言うには)


私の父親はというと、その他大勢の、その当時では当たり前にいた貧乏人の子供でした(^0_0^)

その他大勢の私の父親は、その後中学を卒業し横吹(よこぶき)に残り、家族を持った。

そこで私が誕生(*^。^*)

そのころの人は、食べていくのがやっとの生活。
仕事は山仕事が主だった。
父親は横吹(よこぶき)で城西の製材マルシに勤めていた。

K町長は中学校卒業後、浜松北高・東京の慶応大学。。。。

私もスクスク育ち、大きくなって行く(^O^)

そんな時、K町長は横吹(よこぶき)にあった家の山を売ったそうだ。
父親が、K町長は先見の目があるワイヤ。
と言ったのを覚えている。

私は新居町から29歳で佐久間に戻ってきて横吹(よこぶき)で半年暮らし
その後
半場に引っ越して来た。
父親は横吹(よこぶき)で真剣に取り組んでいたお茶の仕事を辞めた。
 

老後を悠々自適に過ごしていた父親は、佐久間ダム祭りを見にいた時。
K町長が居たのを知り、孫を連れてK町長と話しをしたそうだ。

貧乏人の子供、私の父親
大富豪の御坊ちゃま、K町長

K町長は浜松北高を卒業をして慶応大学で勉学に励んだ。
そして佐久間町で町長になり様々な事をしてくれた。

佐久間町は佐久間村・城西村・山香村・浦川町が合併してできた町だ。
佐久間町の長として大変な事があったとは思う。

私は城西村にある横吹(斜面集落)から佐久間町半場に越してきた。
小学校は城西小学校だ。
城西駅から小学校までは徒歩での通学だった。

K町長は城西地区の人だったが、その通学路は歩道が整備されることは無かった。
 

今回
浦川地区に住んでいた
平野さんが
K町長はたいへん立派な人でした。
とのコメントを頂いたのは
自分として感慨深かった。

私もそのように思います。

それに、もう一つ、大切な事をお知らせします。
本当に本当に大切なことは
今までの事ではなく
これからどうするかということ。
だと思います。
byしんしん

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たびたびここで話すように
佐久間町とは昭和の合併で、佐久間村・城西村・山香村・浦川町が合併して誕生した。
昭和35年生まれ城西村の横吹(斜面部落)で生まれた自分は城西小学校に通った。
小学校二年の時、その小学校は鉄筋コンクリートの当時はモダンな小学校となった。
城西村が佐久間町に合併して、経済的に裕福になって、このような建物ができたのであろう。

29歳の時
横吹(斜面集落)から佐久間町半場に引っ越した。
こっこは大変恵まれていた。
幼稚園も小学校も中学校も県立高校も近かった。
消防団の付き合いも佐久間第八分団の付き合いだった。
佐久間町に新庁舎ができ、その新庁舎の消防本部で
当時分団の会計をやっていたので会計監査に行ったのを覚えている。

新庁舎の三階だったと思う。
とても贅沢な造りだった。

次女が幼稚園に通う頃
私はPTA会長になったことがある。
町内の小中学校で行われる資源回収
古紙の価格が低く学校の収入が無い状態だった。
学校のPTAで町に資源回収の助成金の増額をお願いしようとの話になり
町内のPTA会長が集まって資源回収助成金増額の陳情書を持って
新庁舎の町長室に入った。

広々とした、とても立派な町長室だった。

佐久間町半場に越してきて
15年たったとき
平成の大合併

それまでに贅沢を尽くしてきた。

それもこれも、佐久間ダムの恩恵。

佐久間町時代、囁かれた言葉がある
「困ったら電源という木を揺すれ」
何か落ちてくるのだろう。

平成の合併で佐久間町は浜松になった。
もう電源のお金はあてにならない。
金の切れ目が縁の切れ目
淋しいけれど、そんな世の中。

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プロフィール
HN:
しんしん
年齢:
65
性別:
男性
誕生日:
1960/02/20
趣味:
走ること・空手・詩吟
自己紹介:
12市町村が合併して出来た新浜松市
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。

合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。


袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns

”しんしん”55歳  
2015/11/25現在。。。
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