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平成の合併が過ぎ、今私はここで暮らしている。 ほくえんの風を 身体中に感じながら。
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横吹は山の斜面にある村だ。

わたしの家(シンヤ)その村の中ほど街道沿いにある。

父親が言うには、その街道はチョンマゲの人が通った街道だそうだ。

その下の街道が大八車。水窪川沿いの国道が車が通る道だと。

その横吹のモットモット上の方に、横吹でもキリクボと言う地域がある。

そこになっちゃんは嫁いできた。昭和の初期。

水窪の西浦から、親の言いなりに横吹に来たという。

婚礼道具を持って、花嫁衣裳を着て、仲人共に。


わたし達が半場にきて、しばらくして、そのなっちゃん夫婦も半場に越してきた。

仕事から帰って来てなっちゃんと昔の横吹の話をするのが楽しかった。

子供会で修兄の運転するバスで貝拾いに行ったこと。

海を見てビックリしたこと。

横吹での暮らしは文明とはかけ離れていた。

井の中の蛙だった。

しかし、空の青さ、星空の美しさを知る、年をとっても楽しい人たちばかりだった。

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横吹で、トーチャーは剛だからタケシに~っと呼ばれていた。

わたしの家の屋号はシンヤだった。

隣の家はハマイバという屋号だった。

ハマイバのオジサンはターに~、今回は、その二人の話。

ターに~は城西の製材マルシに通っていた。

毎日、自転車で通っていた。

お酒が好きで、コタツの横には一升はあった。そんな思い出がある。

トーチャーも城西のマルシに通っていた。

オートバイで通っていたが、いつしか車の免許を取り、マルシも辞め豊橋の製材に勤めた。

それが水窪に富士鐵工所ができて、そこに勤めるようになった。

ハマイバのターに~は、自転車で城西の製材マルシに毎日通って、斜面集落「横吹」を毎日往復上り下りした。

定年を迎え、その毎日していた横吹の上り下りがしなくてもよくなった。

トーチャーは横吹から富士鐵工に通い、半場に引っ越して半場から富士鐵工に通った。

斜面集落「横吹」の上り下りをしなくてよくなった。

昔は、どちらも
毎日、毎日、山の中腹にある我が家を目指して上った。

横吹に生れ横吹で暮らした男だった。

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前日、佐久間の郵便局のATMで送金しようとしたが。

何度やっても処理できなかった。焦った(-_-;)

12月10日
浜名湖半周忘年ランのを送金したときは問題なかったのに????

窓口に行って聞いて見たところ。
「磁気不良ですネ~」

だった。

「携帯などの近くにおきませんでしたか?」


あ、携帯の入った胸ポケットに入れていた。


知らなかった。


58年生きてきて、初めて知った。


局員:「その他、磁気の出るところの近くにおくと磁気不良をおこしますの気をつけてください」


と言われた。


一つ利口になった。。。


振り込みは
笑顔の絆プロジェクト実行委員会 大分県教育委員会 人権問題講師
首藤雄三さんのクラウドファンディングの支援です。
https://www.facebook.com/yume.santa
理解のあるかった他にいたら協力してください(^O^)/

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85歳を迎えられる天皇陛下の、誕生日前の記者会見のお言葉には涙を誘った。

自分の人生の歩みを人生の旅として振り返った言葉の中には多くのことへの感謝の言葉があった。

自分の父親が生きておれば何と言っただろうか。

母親が生きていれば如何答えただろうか。

12月23日
天皇誕生日の日に皇居に行ったランナー仲間の動画を見た。

「天皇陛下・・・バンザイ\(^o^)/
との声が聞こえる。


大正15年生まれの母親は、辛い戦争時代を思い出し嫌だと言うかもしれない。


昭和10年生れの父親は、なんというのだろうか。


人は、それぞれ人生の旅をしている。


参考HP
Yahooニュース
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181223-00000002-jct-soci&p=1

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昭和10年生れ。

戦争が終わった時、少年時代だった。

GHQがジープで城西にも着て、チョコレートを投げていったと言っていた。

青年になり、兄貴のお嫁さんと結婚をして、私が生まれた。

トーチャーの兄貴の子は二人、昭和22年生まれの兄と、昭和23年生まれの姉。
 
写真は兄に抱かれる私(笑)

バカだった私は、二―チャー・ネーチャーが如何してこんなに年上なのか分らなかった。

聞いてはいけない過去なのかと思い、その事は聞かなかった。聞けなかった。

ただ、トーチャーはかわいそうだナ~っと思っていた。

相手が年寄りで、と、勝手に思っていた。

トーチャーは城西のマルシという製材で働いていた。

月に一回、給料日には城西からモツを買って来てくれた。

月に一回食べるモツは美味かった。残った汁もご飯にかけた食べた。

トーチャーはマルシまでオートバイで通ったいたが、車の免許を取得した。

そのトーチャーがマルシを辞め、豊橋に出稼ぎに行った。

豊橋でも同じ製材の仕事。同じ仕事でも貰った給料は、豊橋で働いた方が多かった。と言っていた。

そのかん、横吹の村の付き合いはカーチャーがやっていた。
1970年代、山の中腹の村「横吹」にも村道を造ろうという話が出てきた。
 
横吹でお茶を始めたのも早かった。そうだ。

それまで麦とか野菜を作っていたのをヤメ、お茶を始めた。

隣のオバ―に「そんなもん作って、こらから何食うダ~」と言われたそうだ。

水窪にできた富士鐵工所に入って働いた。

春、お茶の時期になると富士鐵工で働いて家に帰って来てお茶を揉んだ。

働いて働いた。

1980年代、横吹には村道はできない。ある反対する人がいて自分のうちまでは村道はできない。
横吹を出ることを決めた。

佐久間町半場に越してきて、私たち家族と同居した。

定年が近づいてきて、50歳代後半の夜勤は辛かっただろう。

そんなときに
「大変だけど、家に帰って孫の顔を見ると疲れも吹っ飛ぶゾ~」
そんな言葉が、わたしは嬉しかった。

半場に暮らして、トーチャーは富士鐵工所を定年した。ある秋の日に、佐久間ダム祭りに孫を連れて行った。

当時の佐久間町の町長小原侃之助さんと話をしたそうだ。

小原侃之助さんは城西小学校時代の同級生だそうだ。
レベルはだいぶ違うが(笑)

肝臓の悪かったトーチャーは、佐久間病院で癌の告知をされ、三か月後に死んだ。

さくまの里に入所しているカ―チャーは葬儀には参列することはできなかった。

トーチャーの葬式が終わって。家族でさくまの里に行ってカ―チャーにであい、「トーチャー死んだ」と伝えた。

痴呆の進んだカ―チャーは何もわからない様子だった。

ただ
死んだの一言は分るみたいで、こう答えた。
「死んだ~」

トーチャーは幸せだったのだろうか?

俺は幸せだったと思う。

昭和10年(1935)に生まれ。平成22年(2008)にこの世を去った。

73歳

人は若かったという。

が、俺は幸せな人生なんじゃなかったかと思う。

トーチャー・カ―チャーがいたからこそ今の自分がある。

日本国紀
日本の長い歴史の中の自分たちの営み。
世界の歴史の中では一瞬の出来事。

先人に感謝し明日からの自分らしい生き方につなげよう。

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昨日は浜松で忘年会


アクト・ホテルオークラ
ガヤガヤと終わった。


二次会は有楽街の怪しい店

そこが終わった後、自分は一人で「トライアングル」に行った。

(昔の写真)トライアングル前


すごーーーーーく賑やかだった。

ビール一杯飲んで店を出て、アプレシオに、そこでラーメンでも注文しようと思ったら。
「5時間パックならウドン・カレーがサービスでありますョ」
と。
ウドンを頼んでみた。


翌日の朝早く浜松~西鹿島までジョギングの予定。
20㎞くらいあるので自分の足では余裕を持って3時間ぐらい。
ココを3時半には出たい。

朝3時に起き。
会計を済ませたら。
23時24分~3時7分
会計 1059円
安い。


雨は心配ないくらい。
ハンドライトの明かりがショボイのが心配。

途中、東洋人の女性から声を掛けられる。
「マッサージ・・・どう」

いらない、先を急ぐ。キッパリ。

朝早くから頑張ってるナ~。どっちも。

新聞配達のオートバイ。ゴミ収集車。水商売からの帰りの女性。都会は朝でも賑やかだ。

西鹿島駅に着いたのが6時。

水窪行のバスは6時45分

腹が減ったが近くにコンビニはない。

自動販売機でミルクセーキで我慢した。

水窪行のバスに揺られ、ウトウトしていた。天竜川の川の流れをみていた。西渡(にしど)に着いた。
ずいぶん山奥に来た。バス代は690円。

西渡の浜松市営駐車場においてある車に乗って帰ってきた。

同じ浜松市の中なのに、この違い。

寂しい。。。

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わたしの暮らしていた横吹(よこぶき)では母親のことをカーチャーと呼んでいた。
大正15年生れ、
水窪の上村に産まれ、城西村の横吹という斜面部落に20歳の時に嫁いできたバリバリの昭和を生きた女性である。
気はキツイ。
早くに夫に先立たれ、実家である上村に帰るはずだったが、横吹の姑に「おまえが居なければ死ぬしかない」と脅かされ夫の弟である今の私の父親と一緒になったときく。
 
佐久間町は町立の幼稚園を造るのがはやく、私は城西幼稚園一期生である。
幼稚園の頃から定期券を持って園と学校に通っていた。
小学校のある日、わたしは定期券を落とした。
鬼のように怒られ、探して来いと言われ、泣く泣く横吹の道を捜し歩いた。
また、なにも勉強などしずに遊び歩いている私をひっつかんで殴り飛ばしたこともあった。


今思えば、昭和の中期、横吹に暮す貧乏な家には、子どもの定期券を余分に買う余裕はなかったのだと思う。
横吹のみんなが貧乏、食うに大変な世の中だった。
相月の駅から30分ぐらいかけて山の中腹にある斜面集落「横吹」の家に帰ってきて。
育ち盛りの子供は、腹ペコだ。
「カーチャー腹減った~」
と畑に向かって叫ぶ事がよくあった。
暗くなるまで畑で働いていたカチャーだった。
横吹の家の食べるものといえば、冷えたジャガタがあればもうけもの。
梅干は大量につけたあった。
秋には庭にある柿を取って食うくらいだった。


カーチャーは土方の仕事をするようになり、秋葉ダムの仕事にも行ったときく。
休憩中に出たお菓子がポケットに忍ばせていることがあった。
珍しいお菓子だと、持って来てくれたのだ。
そんなカチャーに感謝したことがあっただろうか?


わたし達が横吹を去ることを決め、サクドウで引っ越し荷物を降ろし佐久間町の中では便利な中部天竜駅近くのところに越してきて、そこで暮らすようになった。
昔から体に染みついた百姓という仕事もしなくなった。
やることがなくなった。
そんな生活の変化が、カーチャーの痴呆という病を進行させたような気がする。


カーチャーは気が強くて、おっかなかった。
うるさく文句を言われるのではないかと、いつもオドオドしていた自分がある。
そんなカーチャーが、物忘れが多くなり、父親が世話をしていた。
夜昼となく家を出ていき帰って来ることでができなくなる。
徘徊。
自分が自分の部屋で寝ていると、夜中にきて分けの分らないことを話し続けることもあった。
父親がカーチャーが居なくなったと相談に来て、夜中探し回ったこともある。
仕事中に電話が来て、家に帰って親戚を呼んで、近所の人も集まって、町内放送で連絡してもらい。
警察・消防も出動して。
警察犬も駆り出され、捜索したこともある。
その日は分らなく捜査は打ち切られた。
夜中になって、姉が部屋を片付けはじめ「もしかすると、もしかするから」と言っていた。
カーチャー死ぬのかナ~。
と思って一夜を親戚の人たちと過ごした。

次の日、朝早くから捜索隊が再開され、山の鉄塔近くで発見された。
裸同然で、寒い中、もうダメかと思っていたら、そうではなかった。
その年、区長と民生委員の紹介で近くの特別養護老人ホーム「さくまの里」が紹介された。
その年の年末、その老人ホームから連絡が来て、入所するようになった。

80歳の12月、さくまの里に入所。
カーチャーの部屋からはB型鉄橋と半場の家々が綺麗みえた。

80歳からさくまの里に御世話になって92歳で、この世を去った。

母親 カーチャーは幸せだったのだろうか?

仏様の部屋の遺影は、カーチャーの若い時の写真に差し替えた。

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職場で野菜(レタス&トマト)が販売された。


レタスを三袋購入して、一袋お世話になっている職人のキーチャに渡そうかと思った。


仕事が終わり。
空の弁当箱とレタスを持って徒歩で帰ってきた。


キーチャの家はカギがかかっていた。


携帯に電話しても繋がらない。
家に電話してお兄さんが出てきたのレタスのことを伝えた。


ホットとした時に、気がついた。


いつも背負って職場に通っているリックが無いことを。


家まで近いので、空の弁当箱を置いて、ジョギングシューズを履いてリックを職場まで取りに行った。


本日の夜ラン

4㎞

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天竜浜名湖鉄道(天浜線)が湖西の知波田駅に到着、○藤さんと○野さんはこのまま列車に揺られ忘年会会場に行くそうだ。
わたしは知波田駅から湖西市鷲津を目指す。
○田さんの指名したコースどおり(入出方面のコース)に行くと忘年会には間に合わないので国道301号のショートカットで湖西市鷲津を目指す。
青年時代車でよく走った道だ。

花の山ゴルフセンターがある。ビボーンテニスクラブがある。湖西中学校がある。
前方から爆音を轟かせてピンクのオートバイの集団が来る。
日ノ岡の坂を下り、東海興産があったところだ。昔富士鐵工所で働いていたとき夜勤明けは何時もココ東海興産で愛車を洗車したもんだ。
喫茶店「ピノキオ」のところを脇道に、しばらく行くとブルーとグリーンのマラニックの人の後ろ姿が見えてきた。
下さんとサクラさんだ!
やっと追いついた。┐(´д`)┌ヤレヤレ
と思ったが。
ガンバってネ
の言葉で鷲津駅を目指しまた走りはじめた。
お~。鷲津駅だ
例の歌だ。
わーしづのええきを南ゆき~♪。ドンドン歩くと見えてくる。
ゆこ~。ゆこ~。フジテッコーへ~フジテッコいいとこ良いところ~。
なんとかオマンマ食えるとこ~。。。
ここ ゆこ~。ゆこ~の所、左手は腰、右手を突き上げる。

先輩に、こんなふうに教えてもらったッケ。

湖西高校の正門前を走り次の突き当り。右だっけ?左だっけ?
何回も走っているが、間違えて左に行った。
直ぐ間違えにきづき、右方向に行く。
二人連れのマダムに道を尋ねる。
「湖西のイオンは如何いくの?」
丁寧に
「真っ直ぐ行って高架の陸橋の所を左に行くと見えてくるョ」
と答えてくれた。
「あそこの交差点を左に曲がって突き当りを右に曲がっても行けるラ~」
なれなれしく。言ってしまった。
「そうそう、そっちでも行ける。詳しいジャン」
「ありがとうございます。感謝です」
そう言って頭を下げてマダムを後にした。
マダム: 「ガンバて~」
なんか嬉しかった。

湖西のイオンの横を通り過ぎ、遠くに黄色いジャンパーが、友さんだ。
二人で走っていたら、前方にヒロボーさんだ。

新居の関所でヒロボーさんが写真を撮ってくれた。
「ダーっとやって足を開いて」
と、言ったのでやってみた。
何だろう?
後で聴いたら、朝ドラのヒロインのやるポーズだそうだ。
上手く撮れたかな~?
知っていたらもっとダーっとやったのに。

財布を落とした話をした。
「お騒がせしました。無事に見つかりました」と。
ヒロボーさんも何回も落としたと言っていた。
そのためズボンのポケットにマジックテープで蓋ができるようにしたと。
ヒロボーさんの工夫を凝らしたハーフパンツを見せてくれた。

新居駅を過ぎるとゴールである弁天島はもうすぐだ。

今年も2018年もいろいろな事があったナ~。

富士山頂往復には参加できなかったこと。

地割れ花火マラニック
佳江さんは荷物を一杯さげて参加してくれた。

浜松縦断マラニック。
復路のときに自動販売機で500mlのペットボトルを買って、飲みきれないからと佳江さんは私に差し出した。
えっと思ったが何食わぬ顔で(我慢して)飲んでしまった。

チャレンジマラニックin遠山郷。
ノルデックウォーキングの前にみんなで遠山郷に十月桜を植樹したっけ。

植樹が終わってから、遠山の御蕎麦屋で昼ごはん。
村木さん身体のケアーをしてもらっていたネ。

浜名湖一周100㎞
佳江さんの待つ知波田のエイドに着いたときは満身創痍だった。
やはり最後まで走れず鷲津駅で電車に乗った。
オマケにゴールでは脱水で足が攣って散々だった。

「新間さんは偉いネ~」と、良く言ってくれた佳江さん。
褒められると調子に乗る私は、そんな言葉が嬉しかった。

浜名湖の三番の橋を渡り、遠くに弁天島の橋が見えてくる。
ヒロボーさんに残り一キロの距離表示を教えてもらう。
二番の橋を渡り、弁天島の駐車場に入り、ホテルの裏玄関から入ろうとしたらヒロボーさんがゼロ地点まで行こう。っと、誘われ二人でゼロ地点の印にタッチした。

おわり

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ギョエ―ーーーーー!!!
財布がない。。。。。
ポケットをまさぐった。アッチもコッチも。
大きいものが、これはチンチンだ。
ウソ小さい。

日本のサイダーを買った自動販売機に行った。
無い無い。ボケた頭をフル回転、待合室で座ったところは?
上りの天浜線に乗る人だろうか待合室のは二人いた。
辺りを見渡して、長い椅子の隅っこの看板と椅子の陰に落ちていた。
茶色の二つ折の財布は床の色と同化してまるで茶色の蛾が敵に見つからないように隠れているようだった。
あった~。心の中で叫んだ。ガッツポーズ。
よかったホ~。
天浜線はランナーを乗せてデイセルの音を響かせて行った後だった(泣)
それでもよかった~。見つけてよかった~。私の愛しい財布チャン。
思い起こせば、7年前亡くなった父から貰った財布だった。父上が天国から教えてくれてたのかもしれない(涙)グスン
 

気賀駅に一人残されたランナー。
12時20分の列車は行っちゃった。次の列車は13時18分
48分何しようか?
ラーメンでも食おうか。ビールでも飲もうか。
それでも知波田から走りたいしナ~。お腹いっぱいになると走れないし。
路線図を見て、次の駅が西気賀駅だと知る。その駅がプリンス岬の所だとわかった。
そこまで走ろう。
一人で西気賀駅を目指した。

14時には西気賀駅の到着。列車は14時24分だ。
西気賀駅にも待合室に併設された洋食「八雲」なる食堂があった。
プリンス岬を紹介する案内板もある。
地域の人が守っている。そんな感じが漂う古風ある駅であった。
ひとり寂しく天浜線を待ち時間がって天浜線の列車が西気賀駅に到着した。
デイゼル音が響く車内、ふと見ると、同じ格好の人が二人、○藤さんと○野さんだ。
お~。よかった仲間に会えた。
天浜線は僕らを乗せて寸座駅・浜名湖佐久米駅と走った。
浜名湖佐久米駅は、静岡県浜松市北区三ヶ日町佐久米にある天竜浜名湖鉄道天竜浜名湖線の駅で。 毎年12月から3月にかけてユリカモメの大群が当駅にやってくるため有名な駅だ。
私たちランナー三人は、浜名湖側の席に移動しユリカモメを見に行った。
今年は会えないと思ったユリカモメ。天浜線に乗ってであうことができた。
去年、カッパえびせんをあげたユリカモメもいるだろうか。
去年のブログ
浜名湖半周忘年ラン2017

天浜線は線路上に舞うユリカモメを追い払うため警笛を鳴らし三ケ日方面に出発した。
車窓からはユリカモメが欄舞する姿が優雅に見えた。
天竜浜名湖線の旅もいいもんだ。
つづく。

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プロフィール
HN:
しんしん
年齢:
65
性別:
男性
誕生日:
1960/02/20
趣味:
走ること・空手・詩吟
自己紹介:
12市町村が合併して出来た新浜松市
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。

合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。


袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns

”しんしん”55歳  
2015/11/25現在。。。
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