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平成の合併が過ぎ、今私はここで暮らしている。 ほくえんの風を 身体中に感じながら。
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盆に先祖様が帰ってくるといわれている。
送り火を焚いて先祖様を迎えた。
その先祖様が乗ってくるのが精霊馬だと。
お盆、仏壇に精霊馬を祀る。
キュウリで作った馬とナスで作って馬、親の話だと
「来るときは早く来てほしいからキュウリ、帰りはユックリとナス」
その馬には、なぜかソーメンが乗っていた。
里芋の葉の上にその馬を置いていた。
横吹から半場に越してきて、キュウリが無くなってナスだけになった。
半場では山間部の横吹と違い、天竜川にその精霊馬を流す精霊流しだ。
そんなことを遠い昔から続けてきたのだろう。

今朝、その精霊馬を天竜川に持って行った。
まだ薄暗い中、懐中電灯を頼りに向かった。
今は環境に配慮して天竜川には流さない、寺役の人が回収箱を用意してくれている。
中には何軒かの精霊馬があった。

家族愛→郷土愛→祖国愛の順番で育んで、しかる後に人類愛に至らなければならない。
国家の品格で藤原正彦さんが四つの愛を大切にしていかなければいけない。
そう書いてあったけど、ナカナカ難しい。

盆行事(精霊馬)環境に配慮した。
終末処理浄化槽も環境に配慮し協力した。
帰り雲一つない空を見上げると、三日月が、その横に星が光り輝いていた。

 

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往生(おうじょう)とは、大乗仏教の中の成仏の方法論の一つである。
現実の仏である釈迦牟尼世尊のいない現在、いかに仏の指導を得て、成仏の保証を得るかと考えたところから希求された。様々な浄土への往生があるが、一般的には阿弥陀仏の浄土とされている極楽への往生を言う。これは極楽往生(ごくらくおうじょう)といわれ、往とは極楽浄土にゆく事、生とは、そこに化生(けしょう)する事で、浄土への化生は蓮華化生という。
化生とは生きものの生まれ方を胎生・卵生・湿生・化生と四種に分けた四生(ししょう)の中の一つ。
1.胎生 人間や獣のように母の胎(からだ)から生まれる事
2.卵生 鳥類のように卵から生まれる事
3.湿生 虫のように湿気の中から生まれるもの
4.化生 過去の業(ごう)の力で化成して生まれること。天人など
極楽浄土への往生は、そこに生まれる業の力で化生すると言う。蓮華化生とは極楽浄土の蓮華の中に化生するという意味。
本来の意義
往生の本来の意味は、仏になり悟りを開くために、仏の国に往き生まれる事である。よって、往生の本義は、ただ極楽浄土に往く事にあるのでなく、仏になる事にある。
ウィキペディアから

大往生という言葉がある。
少しの苦しみもなく安らかに死ぬこと。また、りっぱな死に方であること。
そんなことを大往生と言うらしい。
本人がどう思ったか分からないが他の人がそう思い「大往生だった」と言うのだろう。

比叡山千日回峰行を行った酒井雄裁さんはその行の後
9日間不眠・不臥・断食・断水で不動明王と一体になる「堂入り」の行を満じる。
その酒井雄裁さんは2013年(平成25年)、心不全のため死去[。87歳。 大往生だったのではないかと思う。

「往生」住む生きる。
誰も今の世に生きている人は死んだことがないので、死後のことは分からない。
「往生」住き生きる。
往生の本義は、ただ極楽浄土に往く事にあるのでなく、仏になる事にある。


戦後75年終戦記念日の日、暑いこの地で、こんなことを考えた。

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今、志村けんの本「志村流」を読んでいる。
昔、横吹の家で暮らしているとき、田舎だから町で暮らしている人よりバラエティー番組が映らなかったけど、”8時だよ全員集合”は映った。よく見た。よく笑った。
新井注の後、志村けんが出てきて、東村山音頭をやったのを覚えている。
志村けん新井注のことは前に読んだ「変なおじさん」に書いてあった。二人っきりの海外旅行の思い出だ。
少し前、三浦春馬さんの訃報のニュースが流れた。

わたしは60歳、10歳も年上の方が、わたしより気力・体力の面で勝っている女性ランナーがいる。

老少不定
人間の寿命がいつ尽きるかは、老若にかかわりなく、老人が先に死に、若者が後から死ぬとは限らないこと。人の生死は予測できないものだということ。★人生の無常をいう仏教語。「不定」は一定しないこと。

落語に「死神」がある。

それぞれの人生がある。生きている者はどう生きるか。
魂の明かりが灯っているうちに。できること。

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新聞では、静岡県時事が大井川の水問題でもめている。
2027年の開業は難しいとされている。
HPを覗いてみた。
https://linear-chuo-shinkansen.jr-central.co.jp/
道なき道に挑み続けた歴史。より速く、安全に、技術を磨き続けた歴史。そして、時は来た。快適に。歴史をつなぎ、未来をつくる。
 
今は東海道新幹線が東海沖を走っている。
そんな新幹線も、当時は反対運動があった。
 
新幹線駅設置に反対運動?
https://yamashita.fm/blog/2017/08/6619/


こんな動画に、出会った。

リニヤ中央新幹線は東京都の品川から神奈川県、山梨県、静岡県、長野県、岐阜県、愛知県までの区間を2027年に開業開始をしようとしている。
が、静岡県、それも政令指定都市静岡市を通過する南アルプストンネル(25キロ)で問題が生じている。たった10キロぐらいなコースだけど。
動画でも話しているが、静岡市は山奥も静岡市にしているのだ。
水問題は大切な地域の問題だ、川勝知事には頑張ってもらいたい。
また
山に暮らす人もいるのだと、山に暮らす人が道路事情で苦労していることを、リニヤ問題で山に着て感じてほしい。

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愛蔵版「坂村真民」詩集
宇宙のまなざし。
二人の導師
宇宙は偉大なる方を二人
この母なる星に送った。
一人はブッダ・シャカであり
一人はイエス・キリストである
だからわたしは
このお二人を導師として
誌を作り続けた
タンポポ堂には
このお二人が並んでいられる不思議な写真がある。
ああ
偉大な宗教家は偉大な詩人である。
 
坂村真民
熊本県荒尾市出身。熊本県立玉名中学校を経て、神宮皇學館卒業。
愛媛県砥部町に「たんぽぽ堂」と称する居を構え、毎朝1時に起床し、近くの重信川で未明の中祈りをささげるのが日課であった。詩は解りやすい物が多く、小学生から財界人にまで愛された。特に「念ずれば花ひらく」は多くの人に共感を呼び、その詩碑は全国、さらに外国にまで建てられている。森信三が早くからその才覚を見抜き後世まで残る逸材と評した。
ウィキペディアから

大宇宙の中の地球、地球の中の日本、日本の中の浜松市、浜松市の中の佐久間町、佐久間町の中の半場、半場の中の自分、自分の中の心、その心がモヤモヤする。
そのモヤモヤを正すには趣味が一番、私には走ること。
オジサンはオートレース、かな。

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朝、なかっぺ橋を渡っていると、向こうからオジサンが意気揚々と歩いてきた。
久し振りの顔だ。
「競艇ですか?」
と聞くと。
「オートレース」
と答えた。
「今まで飯田縁が動いてなかったもんで」と。
地域の足、飯田線。
学校に通学、職場への出勤、人口減少で利用客も減少してきたが、そんな飯田線の開通を待ち望んでいる人が、隣町に居た。

走ることが楽しい。
ギャンブルが楽しい。
人ソレゾレ、趣味嗜好は様々だ。

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田中 角栄(1918年〈大正7年〉5月4日 - 1993年〈平成5年〉12月16日)日本の政治家、建築士。衆議院議員(16期)、郵政大臣(第12代)、大蔵大臣(第67・68・69代)、通商産業大臣(第33代)、内閣総理大臣(第64・65代)等を歴任した。
小学校の頃、新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現:柏崎市)に父・田中角次、母・フメの二男として生まれる。ただし長兄は早逝しており、実質的には7人の兄弟姉妹で唯一の男児(他に姉2人と妹4人)だった。田中家は農家だが父は牛馬商、祖父・田中捨吉(田中角右衞門の子)は農業の傍ら宮大工を業としていた。母は寝る間も惜しんで働き、「おばあさん子」だったという。幼少年時代に父がコイ養魚業、種牛の輸入で相次いで失敗し、家産が傾き、極貧下の生活を余儀なくされる。幼い頃、ジフテリアに罹患した後遺症で吃音症を患い、浪花節を練習して矯正した。
ウィキペディアから

幼少の頃、新潟の農山村に暮らし貧乏だった田中角栄は総理大臣まで上り詰めた。
そして、その田中角栄総理は首相在任中に様々な法律を作った。
電源三法、電力に関する法の総称のこと、もその一つ
国全体として電力の安定供給を図るため、電源立地交付金によるメリットを電源地域地元に還元して、発電所の建設が促進されるよう、1974年から電源地域に対して電源三法「電源開発促進税法」、「特別会計に関する法律(旧電源開発促進対策特別会計法」」および「発電用施設周辺地域整備法」による施策を講じている。

金権政治と揶揄された田中角栄
コンピューター付きブルドーザー―「田中角栄」
しかし、角栄先生の演説は庶民の心に響き温かな演説だったと今、感じる。
「独立の平和、独立と自由は、とんなものよりも重要なものとして我々は守らなければならないのです」
「我々の生命は短い、しかし、我々よりも子供や孫の時代、日本人の生命は悠久なのであります」

田中角栄総理大臣、30年前の演説
「日本人の生命は悠久」だと宴説で言っていたけど、このままの経済発展を続ける限り、地球の限界が近づいている。
電気の生活で便利になった、しかし、その電力は地球の資源を食いつぶしている。
子供や孫世代に続くのか、と思うようになってきている。

佐久間町は佐久間ダムがある。
国全体として電力の安定供給を図るため、電源立地交付金によるメリットを電源地域地元に還元して、発電所の建設が促進されるよう、1974年から電源地域に対して電源三法「電源開発促進税法」
とあるが、佐久間町は電源地域地元に暮らしている人として還元されていると感じているだろうか?

世の中、矛盾なことばかりである。
角栄先生、甦って庶民に山間部に暮らす人にも、夢を語ってほしい。

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歌手:テレサテン「悲しい自由」
1989.11.24 YouTubeこの様な動画があった。。。


 

第10回「天女の羽衣ウルトラマラソン」の時に
 原子力についての走る仲間で少しの言い争いがあった。
 TKさん「原子力はヤメルべきだ!」
 KKさん「そんなことなら昔の生活に戻らなければならない」
 TKさん「今の生活は後戻りすることはできない」
 KKさん「原子力発電なしで今の生活はできない」
 TKさん「原子力なしでも電力はある現に今生活できている」
 KKさん「その他の多くの資源を使っているからだ」
 TKさんとは、私のマラニック「夢街道」90㎞を
 そんな長い距離を走ったことのない自分をサポートしてくれた仲間だ。
 2009年11月。飯田線で浜松駅に向かった。そして浜松駅から走り出した。
 一緒に真夜中二人で走って、多くの話をした。
 原子力の話も、仕事の話も、家族の話も・・・・・・・。
 中部電力に勤める走る仲間の話も聞いた。
 私は佐久間ダムの真下の町
 「佐久間町」に暮らしている。
 佐久間町は平成の合併で浜松市になり
 この地域で暮している人々が合併をきに、街へと流れていく。
 地方というところは、都会への電力事情に翻弄され続けてきた。
 夢街道90㎞
 浜松駅南口から国道152号線を走り続け
 12市町村が合併して出来た巨大な浜松市を突き抜け、遠山郷の道の駅まで走る90㎞
 私たちが走ることで
 私たちの出会いで織りなす布で
 多くの人を包み込むような活動になったらいいと思う。


小さな争いが大きな争いになる。
考え方の違いから、その人と、その話をしなくなる。
わたしは日本人だ。しかし、日本だけが日本人だけが幸せならいいのだろうか?
日本の周辺諸国には、同じ民族の間でも争っている現実がある。

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行く理由は一つでなない。
貫地谷しほり・又吉直樹、夫婦役で共演 ほのぼのふれあいストーリー “YAMADA”ブランドTVCM「くらしをシアワセにする、ぜんぶ。」
そんな動画がある。

貫地谷しほり・又吉直樹、夫婦が電気屋に洗濯機を見に行く時のシーンだ。
「くらしをシアワセにする、ぜんぶ。」
電化製品を買いに行く、如何して?
家の洗濯機が調子悪くなったから新しいのを買いに行く。
今までの洗濯機より良い機能がついて、より便利になり使い勝手がよくなった。
便利=幸せ

幼きころ、横吹で暮しているころ、夏の暑い日に、井戸で冷やしたスイカを食べた。
その頃は、そんな些細なことで美味しいと思い楽しかった。

夢街道90㎞
今年はコロナの影響で、大人数での移動は避けた。
4人で遠山を目指すことにした。
遠山郷に行く理由は一つではない。

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佐久間町は3村1町が合併して誕生した町だ。
城西村・山香村・佐久間村・浦川町、当時佐久間ダムが完成し佐久間町になった。
日本の電力の礎を築いた佐久間ダムの恩恵は絶大だったと思う。
佐久間ダムができたことにより、飯田線は迂回をした、そして線路がない城西地区に飯田線ができた。
佐久間町になり城西地区に待望の飯田線が走るようになった。
しかし、その飯田線は城西の多くの家のある場所には駅を設備しなかった。

この写真のように、城西の小学校のあるところには駅は出来なかった。
子どもの頃、城西小学校に手前にある城西駅から歩いた。
私が小学校低学年の頃、城西小学校は鉄筋コンクリートの小学校になった。
小学校高学年になりプールもできた。
しかし、飯田線の城西駅からの道路は狭く通学には車の往来が恐かったと記憶する。

今、小学校は閉校して今は無い。
朝、通りすがりに鉄道マニアだろうか、眼鏡をかけた女性が伊那路号が「S型鉄橋」を通るのを待っていた。
渡らづの橋「S型鉄橋」がある。
無くなって行ったものを数えるのではなく、今ある観光資源を空から撮影したくてドローンを買った。
渡らづの橋「S型鉄橋」如何して城西の町の近くに駅を造らなかったのか?
子供達は城西駅までの距離を歩いた。

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プロフィール
HN:
しんしん
年齢:
64
性別:
男性
誕生日:
1960/02/20
趣味:
走ること・空手・詩吟
自己紹介:
12市町村が合併して出来た新浜松市
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。

合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。


袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns

”しんしん”55歳  
2015/11/25現在。。。
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