一所懸命の言葉の由来は、中世(鎌倉時代の頃)の武士達が将軍様から預かったり、先祖代々伝わっている所領(土地)を命懸けで守ったことからきています。そこから転じて、「土地を守る」「命懸けで取り組む」「切羽詰った状態」と、色々な意味で使われるようになりました。
そして、近年になってから「一所」という言葉が読み方の似ている「一生」に変化し、漢字として書いた場合にイメージ的にも違和感のない「一生懸命」に変化したとされています。
WWW意味解説ノートから引用
今、NHK大河ドラマ『西郷ドン』
まさに一所懸命・・・・、幕末にそんな人たちが居たから今の自由な日本が創られた。
侍の時代、士農工商と身分制度があった。
むかし農民は死ぬまで農民だった。与えられた田畑を一所懸命耕した。
いま、農民でも一生懸命に勉強し大臣に学者になった人もいる。
これから、日本に暮らす人たちは一笑懸命に努力を楽しむときだと思う。
ニッポンの未来はWowWowWowWow
世界がうらやむYeah Yeah Yeah Yeah
走ることも地域おこしも一笑懸命にガンバル、一笑懸命やっていれば応援してくれる人も現れてくるのもダ(^O^)/
一所懸命・一生懸命・一笑懸命
30歳ごろから走りはじめ。
42.195㎞
フルマラソン。
初めて走った次の日、人生で初めて味わった尋常でない筋肉中。
自転車を買いトライアスロンにも参加して楽しく充実した日が続いた。
30歳代。
そんな日が何時までも続くと思っていた。
40歳代に入って、職場も変わって、冬はランニング夏は自転車、そんな生活がアタリマエだった。
44歳の春、小笠掛川マラソンを申し込んで、自己ベストをねらっていた。
小笠掛川マラソンの五日前、佐久間小学校の体育館で空手の練習中にクモ膜下出血の症状が出た。
佐久間病院に運ばれてCTを取って先生が
「出血してます」
と言った。
日没後のタメ、ドクターヘリは飛ばない、救急車での搬送だった。
搬送途中で記憶は無くなっている。
44歳の春、いつもは自転車でロードにでるのだが家で静かにしていた。
やることがない。
そんな春、佐久間中学校の同級生に会い同窓会の話が始まった。
佐久間のふっさの家に行き母親にふっさの行方を聴いた。
そしたら、この夏に亡くなったと言っていた。
岐阜のビジネスホテルで朝亡くなっていた。と。
もう、走ることはヤメにする。
そう思ったけど、朝の散歩は少しずつ続けた。
ヤメタと思っていたランニングも少しづつ走りはじめた。
次の冬、浜松マラソンが始まった。
大会は、もう行かない。
そう思ったが、第一回浜松マラソンに参加した。
浜松マラソンno1
浜松マラソンno2
あれから10年
喉元過ぎれば熱さ忘れる
の如く今は普通に走っている。
10年の間に
ウルトラマラソンを走る仲間に出会い、100㎞マラソンも走った。
富士登山競争も誘ってくれた人がいて経験することができた。
このまま60歳70歳まで走っていたい。
佐久間町が浜松市になって、同窓会をはじめてマラソンを再会した。
同窓会をやろうと提案し、多くの同級生の居場所を探し懐かしく話した人もいるが、中には早くに亡くなった人もいた。
自分がクモ膜下出血になって佐久間病院のベッドに横になった時、もう日が暮れてドクターヘリは飛ばない。
「俺は死ぬのかナ~」
っと思った事がある。
その年、同窓会の話をしてふっさの死を聴いて、次の年の正月第一回佐久間中学校同窓会は始まった。
同窓会は45歳50歳55歳と続いた。
今私は生きている。生きているから出来る事はやろうと思っている。
同窓会を開いて、昔同じ時期に中学校時代を過ごした小学校時代を過ごした仲間を思い出すのは供養になると思う。
今を生きている者は一所懸命に生きることだ。
城西小学校の同級生が死んだ。
55歳の佐久間中学校同窓会を3年前にやった時には元気だったのに。
12市町村が合併して、こらからの佐久間町を悲観して。
佐久間中学校を1975年に卒業した人たちで同商会をやろう。
そんなことで、卒業アルバムを引っ張り出して始まった佐久間中学校75 同窓会。
5年に一回、寂しくなったけれど、5年に一回ぐらいは佐久間で楽しく同窓会。
その様に思っていたが。
45歳で始まり50歳のときには
「佐久間なんかより浜松の街中でやりたい!」
と、地元の人からの話が出た。
55歳の同窓会はホテルコンコルド。
ラウンジの窓から見える街明りが眩しかった。
佐久間での45歳50歳の同窓会には来なかった。
あいつ は浜松の同窓会に姿を見せた。
久しぶりに会うあいつは、父親とそっくりで酒が好きで飲んでばかりツマミは口にせずに飲んでばかり。
同級生がタクシーに押し込んで帰っていた。
今年の佐久間新蕎麦祭りであいつの親せきからそんな話を聴いたが、信じなかった。
しかし、どうやら本当らしい。
人生は生きるということは。
いつか来る死に向かって旅することだ。
走り続けることだ。
55歳ん同窓会。
あいつ に出会って本当によかった。
人間学を学ぶ雑誌「到知」
創立40周年記念号
のP30ページにこんなことが書いてある。
幸せの法則
人間はどうすれば本当の幸せ、争いのない幸福な社会を実現することができるのか―。
古来あらゆる哲学者や宗教家、心理学者などが挑んできたこの問いに、一つの明確な答えを出した人がいる。
脳科学・ロボット化学で、科学の立場から幸福について研究を続けてきた前野隆司氏である。
前野氏が導き出した誰もが幸せになれる法則、
幸せな社会の創り方とは。
原文まま
前野氏が、まず取かかたのは、世界中の幸せに関することの研究をし、様々な事を調べ導き出した。
すると
「自己肯定感が高い人は幸せを感じる」
「感謝する人は幸せを感じる」
である。
また、前野氏はそれを「因子分析」という手法で分析し多変量解析をした。
その結果、次の四つの因子が現れた。
第一因子
「やってみよう!」因子(自己実現と成長の因子)
第二因子
「ありがとう!」因子(繋がりと感謝の因子)
第三因子
「なんとかなる!」因子(前向きと楽観の因子)
第四因子
「ありのままに!」因子(独立と自分らしさの因子)
「やってみよう!」因子
人生の大きな目標や日々の目標を持ち、それを実現している、また、その実現のために学習・成長しようと思っている人は幸せを感じている。
「ありがとう!」因子
人に感謝し、人のために何かをしたい、誰かを喜ばしたいという気持ちが強く、様々な人と交流を持っている人は幸せを感じている。
「なんとかなる!」因子
幸せには前向きさや楽観性が必要だということ。
「ありのままに!」因子
周りの目を気にせずに、自分らしく生きることが幸せに繋がる。
日本は戦争があり、アメリカに打ちのめされた経験がある、焼け野原で何もない時代から戦後の復興でここまで70年たった今、先進国の仲間入りを果たしている。
しかし、その日本人が幸せを感じていない・・・・。
それは、幸せの何かの因子が欠けているのでは?
今まで戦後の復興であらゆる物を手に入れ物欲は満たされていたのだが幸せの因子を忘れたのではないだろうか?
都会の人は、便利ばかり求めて、田舎を蔑ろにしてきたのではないだろうか?
田舎の人は、田舎を去って行って都会に暮らす仲間をみて、うらやまし~っと思っているのではないだろうか?
しかし、その便利さの欲望はモットモットと尽きることを知らない。
ニッポンの未来はWowWowWowWow
世界がうらやむYeah Yeah Yeah Yeah
日本の未来は世界が うやまし~と思っている国を目指すことでいいのだろうか?
ダイバシティー(多様性)を叫ばれている。
日本の価値観が他の国では違うこともある。
いろいろな考え方、様々な人が生きている。
暮らすところも便利さも違う。
より便利を求めて田舎を去った人がいる。
様々な人が其々に幸せを感じる。
そんな未来を求めたいものだ。
っあ、私の暮らす地域に前野隆司氏と同姓同名の人がいる。
漢字は違うけど。
少なくなってきたが、今居る仲間と楽しく暮らしたいものだ(^O^)/
音楽プロデューサーつんく作詞・作曲のLOVEマシーン
明るく前向きな歌だ。
「安倍総理と日本を変える」の中で総理とつんくの対談がある。
日本の未来は世界がうらやむ
つんく と安倍総理が握手をしている写真があり。日本の教育やエンターテインメントの将来を語り合った。
そんなふうに書いてあった。
今日は森町三倉での萩田さんの勉強会の日だ。
私と同世代や一回り年上 団塊の世代の人の勉強会だ。
「安倍総理と日本を変える」で書いてあるように、今の総理には批判的の意見が多いように感じる人たちの集まりだ。
(今の総理の支持率は若い人が多く年配者が低い)
今日の講義は第37講「死生の問題」
命尽きるまで人は何を残せるか。ただダラダラ生きていくのではなく天下国家のために何を残していけるのか?
また、一段下げて地域のために何かを残さなければと問いかけている。
参加者は皆、それぞれの地域でなにガシラの地域貢献をしている人ばかりだ。
挨拶運動・ゴミ拾い・ボランティア活動etc
戦前、日本がまさに戦争を始めようかという時代に、大阪の師範学校での森信三先生の講義には魂がこもっていた。
修身教授を読んでいるだけでも、その気迫が伝わるようだ。
今回、「安倍総理と日本を変える」を読み終わって、森町三倉に勉強会に行ってきた。
勉強会の最後に、第37講「死生の問題」を読んだ感想を言い合った。
男性K
「10年20年先のことより100年もの先を考え生きるべきだ!」
そのひとは100年たてば170歳。
しかし、それは老い先短いからと自分の生きていることだけを考えるのでなく、子ども孫世代のことを考えて今を生きる。
深い深い考えがある。
女性S
「明日こともわからない。とりあえづ日々感謝、たまに子どもに思い出してもらえたら・・・」
ニッポンの未来はWowWowWowWow
世界がうらやむYeah Yeah Yeah Yeah
安倍総理は団塊の世代にの支持率は低い。
解るような気がする。特に男性には(*^^)v
佐久間町に暮らし、休みには浜北に買い物に出る。
プレ葉ウォークでブラブラして本屋によった。
そこで出会た本「安倍総理と日本を変える」手に取ってパラパラとめくって少し目を通しハ~っとため息がでた。
次の総裁選挙、また安倍さんがなるのだな~。たぶん、日本変わるかな~。同じ人で。
ため息をがでて、その本を買わずに他の店をまわった。
昼ごはんを食べ、買い物を済まし、それでも・・・と思い、本屋に行って「安倍総理と日本を変える」を買った。
安倍総理の考えを本から学ぶこともいいのではないか。テレビ・新聞・その他の情報だけでなく。
次の世代のために安倍晋三
「日本の未来は明るい」私はそう確信している。
シリコンバレーでは挑戦し、失敗した経験がむしろ評価される風潮がある。日本は一度失敗すると「あいつはダメだ」とレッテルを貼られる雰囲気がある。
しかし、失敗したからこそ挫折したからこそと自分の二度目の総理就任の思いを書いてある。若い人にも決してあきらめずにチャレンジしてほしいと。
その他
地方から世界を目指す。
地方創生の大きな起爆剤
日本の決意
戦う政治化たれ
など私の心を刺激した。
日本のリーダーの夢を語った本「安倍総理と日本を変える」を読んだ。
一方、浜松市のリーダーは如何だろうか?
また、合併前の佐久間町のリーダーは如何だったのだろうか?
佐久間町のリーダーは私の記憶では
「佐久間町という田舎でも都会並みに暮らそう」
「山間都市を目指す!!」
そんな話を聴いた記憶がある。
「安倍総理と日本を変える」を読んだ。
総理・総理・総理・安倍そう~り~。
今、私の暮らしているところは、そんな夢を語ったリーダーが仕事が終わり東京へ行っちゃたんですョ。
しかし、嘆いていても何も変わらない。
幸せの四つの法則
「やってみよう!」
「ありがとう!」
「なんとかなる!」
「ありのままに!」
を胸に頑張っていこう。
そのように思っている(^◇^)
むかし、湖西市に暮らしていた頃の話し。
乗っていたボロイ車が山奥で動かなくなり、その山奥から自分の働いていた工場の寮まで歩いて行ったことがある。
距離にして5キロくらいか、車で走っていた道を自分の足で歩いた。日ノ岡の付近だったろうか。
大きな看板に標語があった。
「狭い日本、そんなに急いで何処へ行く」
あれから幾年たっただろうか。
結婚して子供ができて年老いていって。
昨日の新聞には、空飛ぶ車の記事があった。
これからのインフラ、過疎地の交通手段に有効活用になると。
狭い日本にリニアができ、東京から大阪を今より早く結ぶことができるようだ。
そんなに早く行ってどうする。
「狭い日本、そんなに急いで何処へ行く」
狭い日本、コンクリートで固められ、夏はコンクリートの反射熱で熱帯夜、便利を求めて後の世界に残骸を残す。
これでいいのだろうか?
「狭い日本、そんなに急いで何処へ行く」
大きな看板のこの標語には後につづく言葉がある。
「狭い日本、そんなに急いで何処へ行く、昔はみんな歩いてた」
本来の人間の、移動の手段、それは歩くこと。
東京マラソンが始まってマラソンがブームになって、いま歩き走りのマラニックを楽しんでいる。
「狭い日本、そんなに急いで何処へ行く、昔はみんな歩いてた」
昔の思い出を振り返りながらの走り旅。
浜松駅~佐久間町までの60㎞を走る浜松縦断マラニック、今年は23日の雨で原田橋の迂回路は通れなくなり、24日通れるようになり、その晩佐久間ダムの放流でまた通行止めになった。
そのため走る人に連絡し、どのように行こうか相談してから浜松駅を出発しようとスタート時間を30分遅らせるように連絡、参加者はノリピー・ヨッピー・ナオミちゃん・シゲミツさん・私5名、日本で一番大きな市は高山市、二番目に大きな市が浜松市、しかしそこは政令指定都市浜松市になった。
そんなバカデカイ政令指定都市浜松市の北の果てに走って行くマラニック、佐久間町が浜松市に合併すると決めた時、自分が一人で走ったコース、今回は5名で走ることになる。
佐久間町から浜松駅まで朝の7時までに行くのは不可能、職場の人に送ってもらい、私は街に出た。
西鹿島駅から赤電に揺られ、浜松駅について夕ご飯を食べアプレシオにはいったのが夜の九時、9時間1981円
8月25日(土)六時アプレシオを後にして浜松駅に吉野家で牛丼を食べ、浜松駅北口で参加者を待った。
集合時間は7時30分、佐久間の状態を説明していたら、スタート時間は何時もの7時から遅れ7時50分になった。
浜松縦断マラニック2018
5名のランナーが佐久間町を目指した。
西鹿島駅までのワープが二名、そのまま自分の足で佐久間を目指したのが三名
私は走力はないが、呼びかけ人として自分の足で佐久間を目指した。
佐久間まで行けば電車で下川合駅まで行こう。伊藤さんの別宅に6時ごろには到着するのでは?安易に考えていた。
秋葉ダム、15時30分、先を急いだけど、佐久間駅を18時16分の電車には乗り遅れた。
コープでビールを買って、佐久間駅で佐久間の花火を見ながら乾杯した。
20時03分の飯田線に乗り下川合駅へ、伊藤さんの別宅まで歩いていき疲れた身体を露天風呂で癒した。
お疲れ様の二度目のカンパイ、伊藤さんの料理をご馳走になり、夜は更けていった。
次の日は、東栄から浜北「あらたまの湯」を目指した
ルートラボ↓
東栄駅8時30分出発
あらたまの湯には16時50分到着
参加者5名、無事に到着、一安心。。。
お風呂に入ってユックリ、と思ったが、そうもしてられない、私は天竜浜名湖鉄道「宮口駅」目指して走った。
宮口駅に着いたのが17時10分、天竜浜名湖鉄道「宮口駅」~「新所原駅」まで880円。
クーラーがきいて涼しい車内、二日間苦しくもあり楽しくもあり充実した2018年の
浜松縦断マラニックだった。
われながら13回も13年間も良く続けられたと感心する。。。。
浜松市よりお知らせします。
台風20号の接近により、本日23日(木)午後6時から、河川内仮設道路を以下のとおり通行止めとしました。
ご迷惑をおかけしますが、迂回くださいますようよろしくお願いします。
・通行止め実施日時
平成30年8月23日(木)午後6時
※通行再開につきましては、安全を確認した後となります。
浜松市中区本城町103-2
土木部災害対策室
こんなメールがきた。
急遽、迂回路のコースマップの作製をルートラボでやった。
距離にして48.2㎞
土曜日までに通行再開となれば何時ものコース、まだ通行止めの場合はこのコースを走る。
原田橋問題、地元の人にとっては喫緊の課題だ。
「喫緊」とは
「差し迫って重要なこと」という意味、原橋橋が崩壊して車が通れなくなり有事の時(火事・病気・その他)旧佐久間町(特に浦川地区)では困っている。
そんな原田橋が崩壊したのは2015年1月、こんなブログを書いた。
原田橋が・・・・無くなった(涙)
その後、TBS『噂の東京マガジン』の噂の現場で原田橋のことを取り上げてもらった。
地元の人が怒っているんだぞ!!と、その現場を面白おかしく取り上げれくれた(失礼地元にとっては喫緊の問題)そんな時に書いたブログ
原田橋・・・その後(TV放送)
原田橋・・・その後(飛び石)
原田橋崩壊、検証
原田橋の完成予定は31年度、待ち遠しいナ~。。。。
あとから来る者のために 田畑を耕し 種を用意しておくのだ 山を 川を 海を きれいにしておくのだ ああ あとから来る者のために苦労をし我慢をし みなそれぞれの力を傾けるのだ あとからあとから続いてくるあの可愛い者たちのために みなそれぞれ自分にできるなにかをしてゆくのだ
坂村新民
自分にできるなにかをしていく。。。
TJARの覇者、望月将悟の本「山岳王」を読んでいる途中
今 P133「トレイルランナー思うこと」で本を閉じた。
TJARとは
トランスジャパンアルプスレース(Trans Japan Alps Race)
日本海の富山湾から太平洋の駿河湾まで、約415kmを人間の足だけで駆け抜けるレース
北アルプス・中央アルプス・南アルプスの峰々を縦断して走る、普通の人には想像さえも出来得ることができない距離・高低、
山を登り下りする累積の高低差は2万7000mにおよび、海抜0mから富士山に7回登ることに相当する。
制限時間は8日間、
そんなTJARを2010年、12年、14年、16年と4連覇、の望月将悟さん、5回目となる2018年は
山小屋や途中の平地にあるコンビニなどには頼らず、ゴールまでのすべての食料を自身で持つ“無補給”で進み完走を目指した。
http://number.bunshun.jp/articles/-/831611
「山岳王」は望月将悟さんの生い立ち、井川地区で育った環境、父正人へのあこがれ、井川地区から静岡市の工業高校に通ったこと、TJARで出会った仲間のこと、リオネルとの出逢い、リオネルとの日本アルプス縦断、などを綴っていた。
「山岳王」望月将悟、良い本に出合った。
静岡市の山間部、浜松市の山間部、どちらも同じ思いを持つ地域、切磋琢磨して地域を盛りあげていきたいものだ。
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。
合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。
袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns
”しんしん”55歳
2015/11/25現在。。。
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S | M | T | W | T | F | S |
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