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平成の合併が過ぎ、今私はここで暮らしている。 ほくえんの風を 身体中に感じながら。
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人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。
ご存じ徳川家康の遺訓である。
 
人の一生というものは、重い荷を背負って遠い道を行くようなものだ。急いではいけない。
不自由が当たり前と考えれば、不満は生じない。
心に欲が起きたときには、苦しかった時を思い出すことだ。
がまんすることが無事に長く安らかでいられる基礎で、「怒り」は敵と思いなさい。
勝つことばかり知って、負けを知らないことは危険である。
自分の行動について反省し、人の責任を攻めてはいけない。
足りないほうが、やり過ぎてしまっているよりは優れている。
今の心境に響く言葉だ。
 
先日の勉強会、萩田さんがお寺から頂いたウチワに書いてある言葉をみんなで話した。
生きていることは、借りをつくる事
生きて行くことは、その借りを返す事
今、自分は生きている。多くの人や物に支えられて生きている。
これからも、生きて行こうと思う。こんな自分でも誰かを支えることができるようにと。
 
人という字は、よーく見ると、長い方が短い方に寄りかかっている様に見える。
そんな見方もあるが、やはり人という字は支えたり支えあったりする見方にする方がイイと思う!(^^)!

喧嘩したり、争たりして、最後は仲良くなる。
人の一生は、そんなもの。最後は笑っていたいものだ。

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平成から令和に、
その平成31年4月28日、私は家内(青森県)の実家に行くために出かける用意をして車で中部天竜駅横の浜松市営駐車場に行った。
軽く口喧嘩をしながら中部天竜駅の改札口を抜け、11時21分初の特急伊那路に乗った。
そしてポケットにあるはずのスマホを・・・・・。
無い、無い、無い。。。
さっきまで角張ったのがスマホだと思っていたものが、実はデジカメだった。
スマホは、、無い(泣)
家に電話をすると、コタツの下にあるとの答え。

4日間、スマホの無い時を過ごした。
本は八ッ塚実さんの「人間学」中村文昭さん・大嶋啓介さん「僕たちの夢のつかみ方」の二冊持ってきた。
丁度いい機会だ本を読もう。と思った。
大嶋啓介さんはどんなに悪いことがあっても、ピンチをチャンスに変えると書いてある、全て肯定的に考える。発想の転換をしてピンチをチャンスに変える。

平成の28日~令和の1日までスマホの無い時は充実していた。

無事に帰ってきてスマホを見たら、多くの人からのライン、FB、ブログのコメントが来ていた。
また何時のも時に戻った(笑)

俺の忘れ物は本物、首にぶら下げるとの案もあった、考えなければいけない、かな(笑)

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2001(平成13)年、私の所に佐久間町の役場の人が来た。その人はわたしより一学年先輩の角兄(カクに~)
佐久間中学校で一学年先輩だ。
その角兄が言うには「井辺君を県市町村駅伝に誘ってほしい」ということだった。
井辺君とは朝のジョギング時によく出会う。そんな時に角兄の話を伝えた。
佐久間中学校時代の二年先輩の太田マーボーも走っている、そんなマーボーの娘と私の娘も市町村駅伝の予選に参加した。
それからマーボーも私も市町村駅伝の練習に参加した。
2002(平成14)年、静岡県市町村駅伝の佐久間でのチームを選択する予選会があった。男性40歳以上の部、マーボーとデットヒートの末勝ち取った補欠の枠だった。
ま、補欠だから選手の付き添いだから、気は楽だ。った。
それでも静岡新聞に自分の名前と顔写真が記載されコメントも書いてある。それも見た知り合いから電話もあった。
2002年11月29日の金曜日、仕事を半日で終わり、役場の前で多くの職員に見送られマイクロバスに乗って佐久間町から静岡市に向かった。
静岡市のグランシップで市町村駅伝の開会式は行われた、佐久間町と書いたプラカードを先頭に選手の一人として私も行進した。
観覧席からは地元小学生の「佐久間~~」の声援が聞こえた。壇上には静岡県の市町村の首長が勢揃いしている。我が佐久間の町長 小原侃之輔さんは背が高く頭が光っていてひときは目立っていた。
 
平成12年~14年、NHK学園で学び卒業した。そして平成15年にNHK社会福祉学科に入学し、二か月に一回名古屋の愛知東邦大に通った。
NHK社会福祉学科を選択したのは、この学科を卒業すれば介護福祉士の免許を受けることができるからだ。
2004(平成16)年、この年、その介護福祉士の学科の試験が1月25日愛知県の大同工業大学であった。とても多くの人がいた、受験番号を頼りに教室を捜し、やっと見つけたその教室には自分の番号だけが無かった。おかしく思い会場の人に聞くと、チョットした手違いで間違ったそうだ。急遽違う棟に移り机に座った。はじまる前からやな感じがした。ところが数日後合格のハガキが届いた。
 
走る方も、それなりに頑張っていた。
介護福祉士の学科の試験の帰り名古屋からの帰りの途中で、新城運動公園によって5㎞軽くギョギングした。思いで多い新城運動公園だから近くに来たので寄ってみた。
その年の
2月2日森町ロードレース21㎞ 1時間33分43秒
2月23日天竜杉の里21㎞    1時間39分00秒
3月 7日、介護福祉士の実技試験の日、場所は愛知県の同朋大学、電車で行く名古屋では雪が舞っていた。
勝負服に2000年2月20日自分の40歳の誕生日に走った青梅マラソンのTシャツを着て臨んだ介護福祉士の実技試験、そのモデルは男性だった。噂によると女性のモデルの方が合格率が低い、とか。少し安心した。

3月21日 豊橋ハーフ     1時間40分01秒
貧血気味で、タイムも振るわない。
4月04日 秋葉ダム桜マラソン10㎞ 39分44秒
何もかも順調に進んでいると思っていた。次は、次のマラソン大会は4月27日の小笠・掛川マラソンが目標だった。
2004年4月13日火曜日、仕事を6時に終わり自転車で佐久間小学校に行き、私のもう一つの趣味「空手」の稽古をするために体育館に入り師範に「中学生を相手に組み手を」といわれ、その中学生を相手にしているときに、頭の遠くで不吉な痛さが、少し休憩すれば治ると思っていたが、だんだんその痛さが増してきた。携帯を貰い119に電話した。
佐久間病院は、仮設の病院だった。CTで撮った写真を見てドクターが「出血してます」と、外はもう日が暮れ真っ暗、ドクターヘリは飛ぶことは出来ない。
佐久間病院から三方原聖霊病院まで搬送が決まった。曲がりくねった国道を走る様子がなんだか記憶している、ような気がする。
記憶が無くなって五日、土曜日の昼、自分は病院のベッドの上だった。病室の洗面台に行き鏡で顔を見ると右の頭に大きな絆創膏を貼った無精ひげの自分が鏡に映っていた。

リスクとベネフィット
世の中のものには、プラス面とマイナス面があります。
プラスの面をベネフィット(便益)といい、マイナス面をリスクといいます。
リスクは日本語の「危険」とは違い量的な意味で使用され、望ましくない害が起こる可能性の程度(確率)を指します。
 実際に発生した時の害の大きさが異なる場合には、その大きさと発生する確率との組み合わせで定義されることもあります。
ベネフィットは大きければ大きいほど良く、リスクは小さければ小さいほど良いのです。
しかしながら、人がベネフィット得るために何らかのものを利用しようとする限り、いくらかのリスクは避けられず、それを完全に無くすことは決してできません。さらにいえば、リスクを完全に無くしてベネフィットだけを得ることは不可能です。

今日読んだ、ある冊子のコラムに書いてあった。

「リスク(危険性)とベネフィット(便益)」
世の中の全ての物には、必ず良い面と悪い面がある。
2012/04/12 (Thu)に書いた自分のブログ「ほくえんの風」から。
走ることにも、良いことも悪いことも、有るのかナ~。
 

FB(フェースブック)をやっていると、続けていると、何年か前の自分が投稿したことが帰って来る。
日記は、自分が読み返して初めて、あのときこんなことを思っていたのか、と回想するが、FBの場合自分の過去の投稿がスマホの画面に現れる。
また、FBの友達からの投稿も。続けていると仲間も増えてくる。自分の考え方趣味その他の繋がりで友達が増えてくる。
中には商売繁盛を願って、選挙運動での自分の考えを示すために、また自分の孫自慢、子供自慢の人もいる。

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2000(平成12)年、静岡県市町対抗駅伝が始まった。町の広報で、その駅伝大会の佐久間町のメンバーを集っていた。
自分は速くはないし、ただ趣味として走っているし、短い距離よりハーフマラソンやフルマラソンに興味を持っていたし、気にはなったいたが参加はしなかった。
夜、仕事が終わり、ジョギングをしていると、そのメンバーと思われる人たちが佐久間中学校の校庭で練習に励んでいた。

自分の記録をさかのぼると、当時の2000(平成12)年、小笠掛川マラソン(現掛川新茶マラソン)を3時間31分23秒で走っている。けして40歳の男性としては速い記録ではない、その後、3時間30分を切りたいとフルに挑戦した、しかし、その夢は叶わず還暦を迎えようとする老いた自分の自己ベストとして今尚自分の記録として残っている。
2000年2月20日は私の40回目の誕生日、丁度その日は東京都の青梅市で行われる青梅マラソンに参加した。30㎞を2時間40分39秒で走っている。
インターネットで自分のホームページをつくり、私のページを見た東京の多摩市の男性(中村さん)と仲良くなり、その人を訪ねて東京行の新幹線に乗っていた。その年の冬。
熱海の駅で、50歳前後の女性が隣に座り話だし東京にフラダンスの発表会に行くのだと聞いた、月に一回は東京に行く「やっぱり東京はイイ」と話していた。
東京駅に新幹線は到着した、多くの人でごったがえす東京駅、中村さんに電話をかけ丸の内中央口で待ち合わせをした。
初めて会ったその人は優しそうな穏やかそうな人だった。二人で皇居の周りをユルク走り、彼のラン友だと女性のランナー数名を紹介してくれた。
彼の後を着いて電車にゆられ、着いたところが多摩市、そこの駅近くのビジネスホテルを予約してある。私はホテルへ彼は自分の家へ、夕方再開して夕ご飯を一緒に食べようと話して別れた。
予約したホテルのロビーでチェックインして鍵を貰い、エレベーターに乗って部屋に向かった。せまいホテルの部屋の窓から見た大都会東京、多くの人であふれている東京、そこにネットで知り合って仲良くなったラン友を頼りにやってきた。大都会東京。

いや、目的は彼だけではない。
その年、私は通信制の高校NHK学園に入学、東京都国立市にあるその学園に陸上部がありネットでそのメンバーも青梅マラソンを走ることは知っていた。その陸上部の顧問の先生ともネットで話し青梅マラソンで会おうと約束していたのであった。
2000年2月20日の朝、青梅行の電車にて青梅駅を中村さんと目指した。青梅駅は中部天竜駅とさほど違わない狭い駅だった。その駅に多くのランナーが集まっていた。
第34回 2000年2月20日(平成12年)開催 出場者数: 13,241名
初参加の自分は最後尾でのスタートになった。まるで満員電車の中で多くの乗員が移動しているような状態、道路の脇に立つホテルの窓からも応援している人がいる。また演歌歌手松原和子の「帰ってこいよ」のレコードを大音量でかけていた。
一万人以上のマラソン大会は、この大会が初めてだった。
青梅マラソン30㎞のコースは、青梅市役所付近から奥へ行き折り返してくる往復コースだ。
 往路はほとんど人人人でみんなのペースに合わせるしかなかった。それが幸いしたのか復路に快適に走れ清々しくゴールで来た。
30㎞を2時間40分39秒 13,241名の中で3225位だった。

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戦争で両親を失った少女・奥原なつ
なつの父親の戦友、柴田剛男に連れられ北海道・十勝にやって来た。
柴田家は、北陸からの開拓移民。
涙ありのドラマだ。
1960年代から1970年代にかけて誕生した『タイガーマスク』『昆虫物語 みなしごハッチ』『あしたのジョー』などの名作は孤児を主人公としており、「戦争で傷ついた子どもたちを励まそう」という意図を含んで製作されていたことから、「日本でアニメが生まれた背後に戦争があった」ことを表現するためヒロインは戦災孤児との設定となった。現在の高度なアニメ表現の技法は作り手の試行錯誤による努力の積み重ねによって成り立っている点にも焦点を当て、日本においてアニメがどのように育まれてきたか、アニメ作品はどのように作られるのか、歴史と技術の2面から「アニメの誕生」を描いている作品。
ウィキペディアから

なつぞら「ここが十勝だ」
奥原なつがアイスクリームを柴田泰樹と食べるシーンに感動!!

泰樹:「言い合える相手がいるだけで人は恵まれている、食べれ」
泰樹:「旨いか」
なつ:「あまい、おいしいです、すごくおいしいです」
泰樹:「家のもんにはナイショだぞ」
なつ:「はい」
泰樹:「それはおまえがしぼった牛乳から生まれたものだ、良く味会え」
なつ:「はい」
泰樹:「チャンと働けば必ずいつか報われる日が来る。報われなければ働き方が悪いか働かせるものが悪いんだ、そんなとこトットト逃げ出せばいいんだ、だが一番悪いのは人が何とかしてくれると思って生きることだ、人は人をあてにする人を助けたりはせん、逆に自分の力を信じて働いていればキット誰かが助けてくれるものだ」
泰樹:「おまえはこの数日ほんとによく働いた。そのアイスクリームはおまえの血とかで得たもんだ おまえなら大丈夫だ、だから無理に笑うことは無い、謝ることもない、おまえは堂々としてろ、堂々とココで生きろ」
 
 

一番悪いのは人が何とかしてくれると思って生きることだ、人は人をあてにする人を助けたりはせん、逆に自分の力を信じて働いていればキット誰かが助けてくれるものだ!!
チャンと働けば必ずいつか報われる日が来る。


 

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八嶽山(やたけさん)標高1,140m、ココは愛知県北設楽郡豊根村富山、豊根村に合併前は、日本一のミニ村「富山村(とみやまむら)」富める山の村と、いわれたところだ。
昔は山があれば、それは財産だった。

富山村、八嶽山の登山口には石垣にイワヒバがたくさんあった。
9時。
ウッチャントモゾウさん私の三人での登山、バカな話をしながらの楽しい山行である。
天竜川リバーサイドの富山村での休憩所民家の横を通り、大きな村の御宮の横から山に登っていく。
思ったより急登だ、登山道もリボンを頼りに登っていくが途中、そのリボンを見失い道に迷うこと数回、「この道違うのでは」と、戻ったことも。
山頂には11時30分到着、愛知県100名山のプレートがあった。
今は使われていない反射板もあった。
山頂横に立派な展望台がある。
 

山並みを眺め、他の友が登った山々を懐かしく語る。
私は山登りは趣味ではないが、知った山が一つある。一つあった。
それは、山の稜線にポコッと出っ張った山頂が平らな山だ。
竜頭山だ。
子どもの頃、その山を見て育った。その山には山頂に反射板があった。
横吹(ヨコブキ)のいう斜面集落を目指して上っていくと、その竜頭山が少しずつ姿を現した。
佐久間中学校を卒業した春休み、同級生で、その山に登った。
山頂には反射板があり、風が強く吹いていた。

「日本人は大ていふるさとの山を持っている。」
日本百名山を選定した深田久弥さんの冒頭の言葉である。
私の故郷の山は「竜頭山」である。
遠くには3000m級の知名度の高い山々が連なっているけど、私にとっての故郷の山は「竜頭山」である。

如何して登山家は100名山を目指すのだろう?
小説家、随筆家の深田久弥の著した山岳随筆である『日本百名山』を、それはただ単に山の高さだけでなく深田久弥の愛した山だからではないだろうか。
それは、山に登り、その過程で汗をかき、やっと辿り着くことのできた山頂での安堵感から見る景色に、何年たっても変わらない山からの試練と感動を試された人だからこそ目指す100名山だと思う。

富山村の山「八嶽山」を下山して、富山村の温泉「湯の島温泉」に入り、富山村のコーヒーショップ「栃の木」でダムカレーを食べた。

佐久間ダムカレー(1000円)
うまうま(笑)

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天分 → 天から与えられた身分・職分
「天分をわきまえる」
関連語「天資」テンシ「稟性」ヒンセイ
松下電器の創業者 松下幸之助氏の言葉がある。
「成功とは自分の天分を発揮し尽くすことだ」

浜松市は市長選挙の後半戦である。
四期目を目指す鈴木康友氏のマニフェストに「行政改革に力を注ぐ原点はパナソニック創業者の教えだ」と、1980年に松下政経塾一期生として松下氏の考え方を聞いた一人として出馬している。

松下幸之助の名言・格言
こんなHPがあった。
http://iyashitour.com/meigen/greatman/matsushitakounosuke
そこから二つ抜粋

競争も必要、

対立することもあっていい。

だが敵をも愛する豊かな心を持ちたい。

前期は無投票だったが、今回は市長候補が三名で選挙になった。
其々の政策を吟味し投票しよう。と思う。

自分の金、自分の仕事、

自分の財産。

自分のものと言えば自分のものだけれど、

これもやっぱり世の中から授かったもの。

世の中からの預かり物である

このような考え方の人に、浜松市の市長になって欲しいナ~。

浜松市に暮らす一人ひとりが、天分を全うしたならば、きっと浜松市は、良くなる。
そのように思う。。。

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竜頭山スーパーマラニック
10年前は、
佐久間・水窪スーパーマラニックだった。
中部天竜駅を朝7時に出発。
15分前には集合してほしい。
そのように書いたけど、余裕を見て20分前に、その場所に行ってみた。
なんと、走る仲間がもう集まっているガヤガヤと。あわてた(汗)
ある人が
「一番近くの人が一番遅い」と。
焦った。
そんなときに。ヨッピーが。
「しんしんさんは大変だネ~。いつも早起きして町のマラソン大会に参加するの~」
心がホッコリした。

田舎だからショウガナイ。不便なことは。
自分でココに暮らそうと決めたのだから。
宿り木の種のようにフラフラと舞って佐久間町という木に辿り着いたのが平成元年の三月。
私たち家族は、その地で根を張り、生活を始めた。
幼稚園・小学校・中学校が近くにあり子育てには都合がよかった。
私は城西地区から佐久間地区に越してきて、佐久間地区の便利さを知った。
その時、佐久間町の役場には100人以上の職員が働き、近くにはパチンコ屋もあった。

日本の新元号が発表された。
 「令和」(れいわ)
 日本人が明日への希望を咲かせる国でありますように。
田舎でも都会でも希望の花を咲すことができるように。

お互い様。思いやり。
アリガトウと言えばアリガトウと帰って来るような。
そんな世の中を「令和」(れいわの時代に臨みます。。。

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大河ドラマ「いだてん」
 NHKオデマンドで毎週見ている。

金栗四三が、マラソン(42,195㎞)で熱射病でコースから外れた記憶をたどっていた。

同じレースに出て走った、ポルトガルのラザロ選手も日射病で倒れたことを知り、彼は亡くなったことを知る。

金栗四三は熱射病だったが、生きている。

四三は前を向いて走り始めた。


生きていると多くのことがある。

辛いことも楽しいことも。

金栗四三は走り出した。

自分も走り続けていこう思っている。

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昨日、龍山の白倉川沿いに上り白倉峡に行ってきた。
走る仲間と一緒に。
そこには村があり、意外に家が多いと感じた。
走る仲間は私を入れて四人。
ソレゾレ感じ方は違うのだろう。

水窪の旅館に宿泊したことがある。
城小の同窓会で、フジユ二バンスの飲み会で、走る仲間と一緒だったり。
あるとき、そこの女将さんと話し。
「出たたもんが勝ち組で、残ったもんが負け組みたいで、かなんゾ~」
と聞いたことがある。

水窪での駅伝「北遠駅伝」での輸送バスで、水窪のランナーだろうか?
こんな話を耳にした。
「ニューギ 祀ってきたか~」
「おら~そんなのヤランクしたゾ~」
「オジ~がうるさすぎて」
「めんどくさったいゾ・・・・・」
残ったもんんが貧乏クジ引いたじゃ~ダメだぞ!!

人は、発達した脳があり、様々な事を感じ、自分で判断する。
また、他の人の考え方を聞き、自分の考え方を修正する。
今回のマラニックやフェースブックでの発言から自分も。。。

駕籠に乗る人担ぐ人そのまた草鞋を作る人
世の中には様々な職業がある。地位も様々だ。
社長もいれば平社員もいる。
そんな立場の違う人でのマラニック。
最高に贅沢な大人の遊びだと思う。

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プロフィール
HN:
しんしん
年齢:
64
性別:
男性
誕生日:
1960/02/20
趣味:
走ること・空手・詩吟
自己紹介:
12市町村が合併して出来た新浜松市
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。

合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。


袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns

”しんしん”55歳  
2015/11/25現在。。。
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