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私の家内は、青森県六ヶ所村の人。
1996年、家内の実家に里帰り。
六ヶ所村は、例の原子力を受け入れ、財政的に裕福になった地域だ。
そこの、六ヶ所村の公報を見ていたら。
1997年に「第一回 下北国際トライアルロン」開催との記事を見つけた。
スイム 2 km 1時間15分
バイク 122 km 5時間45分
ラ ン 22.2 km 3時間00分
計 146.2 km 10時間00分
バイク 122kmの距離には、少しビビッタが、よ~っしやるぞ~(^◇^)
そんな気持ちにした。
そして私は、1998年 平成10年7月26日の第2回下北国際トライアスロンに参加したのだ。
総合順位 336位
Swim 0時間25分57秒
Bike 5時間13分54秒
Run 2時間14分06秒
総合タイム 7時間53分57秒
絶好調の時の思い出(*^^)v
「トライアスロンをやってみないか?」
中学校時代の同級生、ラン友のユキが俺に話しかけてきた。
フルマラソンで、死ぬ思いをしてそのうえに自転車に乗ったり、泳いだるする・・・・・。
「無理・無理・・・絶対無理・・・泳げないし!!」
そう即答したけど・・・。
やってみたい気持ちは少し有った。
1993年の春、小笠・掛川フルマラソンを走ろうと、掛川に行ったときに、ユキから月刊トライアスロンをもらった。
勤めている会社も暇になってきて、定時退勤になってきた。
湯谷温泉に温水プールができる。なんかトライアスロンをやる、環境が整ってくるではないか。
会社を休んで、その湯谷温泉「ゆーゆーアリーナ」へ行って、スイミングスクールの一日コースを体験することになったのだ。
おばさん数人と一緒に、25mプールで、け伸びから教えてもらった。
この時、しんしん生まれて初めてクロールで息継ぎを覚えたのであった。
練習の甲斐あり、次第に泳げる距離も伸び、伊良湖トライアスロンを申し込んだのであった。
スイム(2.0km)バイク(55.0km)ラン(20.0km)トータル(77.0km)
やっぱり心配なのが、スイム。
足が着く安全んなプールでは、2kmぐらいは何とか泳げるけど・・・・・海・・はたしてどうだろうか?
夏休みに、車で田原町まで行って、そこから自転車で伊良湖まで行くことにした。
伊良湖海水浴場に着く、見渡す砂浜・・・どこまで泳ぐんだろう・・・・。
平成7年9月10日(日)’95トライアスロン伊良湖大会
もう後には引けない。
前日に、伊良湖に行き受け付けを済ました。後は、伊良湖ビューホテル前で車中泊することにする。
トライアルロンはマラソン大会と違い、前夜祭がある。
外では花火も上がり、私のテンションも上がってきた。
大会当日、ユキがわざわざ私の初トライアスロンを見に来てくれたのではないか。
バーコードでチェックをして、スイムスタート枠内に入ると、ドキドキしてきた「やっぱ止めよかな~」そんな気持ちがよぎった。
花火の合図で、皆泳ぎ始める。私は一番最後にユックリ泳いで行った・・・・もう2km足は地面に着かないのか・・・?
300mぐらい泳いで、沖に出ると、遠浅なのか足が・・手が砂に届くではないか・・・。
深いところでは漁船が、我々アスリートの安全を監視している。
泳ぎ終わり、バイクに、心配だった泳ぎが何とか終わった。後は体力の限り自転車を漕ぎ出すだけ。
スピードが出る、バイクは気持ちがいい、風を肌で感じる。
バイクを終え、20kmのラン。
伊良湖の恋路が浜を走る、景勝観光地である。
やっとの思いでゴール。
ゴール後、大きなプールで身体を冷やした。
私の初トライアスロン。
スイム(47分52秒)バイク(1時間38分22秒)ラン(1時間48分45秒)合計(4時間14分59秒)
フルマラソンと同じくらいの時間を使って運動しているけど、フルマラソンより体へのダメージは優しい。
身体全体が疲労しているって感じだ。
初フルは、1991年10月の「磐田・大藤マラソン」。
4時間くらいで帰ってころるかな・・・。
そんな思いで、スタートした。
ここ、磐田・大藤マラソンは、磐田原台地の茶畑の中の単調な10kmのコースを4回まわってフルマラソン(42.195km)になっている。
ハーフまでは、気持ちよく走れたのだが、それからのハーフ。足が攣ってくるは、歩く集団に迷わず仲間に入れてもらうようになってきた。
最後の10km、浜松の年配ランナーと一緒に歩いていた。
その人は、59歳 「来年は職場を退職する。50代の記念にフルマラソンを走ってみようと挑戦」と話していた。
最後の直線100m。
「最後は、気持ちよく走ってゴールしよう」と二人で手を挙げて、ゴールテープを切った。
タイム 4時間51分04秒 。
PS
私を待っていた長男(幼稚園)は同じくらいの子供と大藤小学校で遊んでいたらしい。その子のお父さんは、3時間くらいで帰ってきて長男とさよならしたらしい。
家族は、そろそろ、家のお父さんも帰ってくるだろうと、ゴール近くでカメラを片手に待っていたのだが、帰ってこない・・・。
その日から、家族は私のマラソンには着いてこなくなった(T_T)
明日は 遠山マラニック秋の同窓会。
私は、佐久間から走って遠山入りしようっと思い立ったのだ(^O^)
距離にして40km。
天気は良いし、最高~(^◇^)
途中、役場のNさんに車ですれ違い「今日はとこまで行くの?」っと質問され、「遠山郷」と答えて走り去った。Nさんは「え・・・」と言って車で通り過ぎて行った。
西渡へ行き。八丁坂を登り、塩の道を走り。我が故郷「横吹」の近くを走っていたら、二つ年上のアキラ君が居た、会うのは30年ぶりか、「いつか横吹の竹馬の友を集めて一杯やるか」と約束して私は、また遠山目指して走りだした。
山菜てんぷらソバ(780円)
城西のお食事処(茶の子)でお昼ご飯を食べ。
エネルギーも入って調子が良くなり、快調に走る。水窪を越え、ここからは上り坂が続く。
水窪での最後のお店「はくりや」でスポーツドリンクを買い、走りだしたのだが、西浦旧小学校辺りから、限界 歩き始めたのだった。
池島に着き、県道152号線とさよならして、神秘的な街道へ入っていくのであった。足神様で水を汲み、青くず
れ峠を目指して、ともかく早足で歩いた歩いた(^◇^)
青くずれ峠にやっと着いた。
ここからは、信州。
信州 遠山の道の駅「遠山郷」を目指して、青くずれ峠の遊歩道を駆け降りるのであった。
道の駅「遠山郷」に着いたのが、夕方4時半。
長い、長~い、道のりだったけど、やっぱり遠山郷は、青くずれ峠を越えて訪れるのが、やっぱり最高っと思ってかぐらの湯につかるのであった。
小学校は城西小学校、中学校は佐久間中学校。
どちらも、横吹の山を下り、飯田線の相月(あいづき)駅から飯田線に乗って通学していた。
佐久間中学校は、相月駅から飯田線に乗って、峰トンネルを抜けると次の駅 佐久間駅すぐ前にあった。
当時 佐久間町には 佐久間中学校 浦川中学校 山香中学校と三校あった。
その 佐久間中学校近くの半場に新しい家を建ち、引っ越すことになったのだ。
私 29歳の春 長男も生まれ、二児の父となり、半場を終の住処としたのだ。
水窪にある職場までの通勤には少し遠くなるけど、車がマイカーが家の前まで乗ってこられ、家の前で洗車ができる喜びは横吹に住んでいた者にとってはすご~い感激ものだった。
週末に、仕事を終えて帰ってきて冷蔵庫を開けると、ビールがない!!、そんな時も、近くの酒屋で缶ビールを買ってくる。
横吹では考えられない便利さ(^O^)
しかし、その便利が、生活習慣病を読んでいるのも知らないと・・・。
私の家族より前に、横吹を出た有る人が「横吹を出ると、太るぞ~」といった。
1990年3月に半場に越してきて、6月に家の前をジョギングするようになった。
私のジョギング人生が始まった。
佐久間駅伝 北遠駅伝を走るとき知り合った。年配の人 幸兄(ゆきに~)この人は、昔 のこぎり等を研ぐ仕事をしていて、砥石が割れ重症を負ったそうだ。
その時、死ぬか生きるかの瀬戸際の状態だったそうだ。その病が治り、健康の有りがたさを知り走り始めたと言っていた。
その、幸兄の紹介で走っった、秋葉ダム桜マラソン、10kmを44分40秒 116番目にやっとの思いでゴールしたのだ。
次の年、の秋葉ダム桜マラソンには、幸兄は用事が出来て参加できない、誰も仲間がいない会場、早く走り終わり家に帰って、モツでビールだ!!っと思ってスタート。
スタートして500mくらいのところで、私を呼ぶ声が・・・・佐久間中学校当時の同級生が後ろから走ってきた。
「どうしだだいや!」「おらも今年で30歳 健康の事を考えにゃ~」
次の年の、1991年「磐田大藤マラソン」私の初フルになる。
ハーフマラソンは、浜名湖クォーターで一回走り、1時間37分57秒だった。
後は、10kmを数回で、なんと初マラソンに申し込んでしまったのだ。
家族を連れ、自分なりには、4時間前後で・・・って考えていた。
つづく
昭和35年 佐久間ダム完成から3年後 私はここ横吹(よこぶき)に生まれた。
横吹(よこぶき)は「塩の道 秋葉海道」の道沿いに車を走らせていると、水窪に行く途中の山の斜面に点在する村々がある、そのひとつなのだ。
天竜川と水窪川の合流地点の西渡(にしど)から塩の道を来ると、瀬戸(せと)・麻庄(ましょう)・立原(たっぱら)・横吹(よこぶき)となる。
生まれた時から、横吹(よこぶき)での生活。幼稚園から横吹(よこぶき)の坂を上り下りして学校に通っていた。
ほとんどの家には子供がいて、村の中央の家(屋号ホツ)に集合して集団登校をしていた。
冬の雪が降る日は、坂道が滑る。父親が長靴をはいた足に藁縄を巻いてくれ滑り止めにして山を下るのだった。
朝起きて家の前が雪でも、山を下っていくと雨になっていたこともある。
中学生になり帰りが遅くなると、明りのない山道は電気がないと歩けない。鞄の中には懐中電灯を忍ばせて行くようになった。
今考えると、毎日が登山の様な生活だったのだ。
学校帰り、飯田線の相月駅から見上げた横吹(よこぶき)、あそこまで登るのか・・・・・・。
駅のすぐ近くの家が羨ましくも思えた。
横吹(よこぶき)の道を登っていくと、途中分かれ道が、右にいくと山道、左に行くと村道。山道はその名の通りスギ林の中。村道は、横吹(よこぶき)の村の中を行く道なのだ。
横吹(よこぶき)の家にはその家の屋号がある。"しんもう"にし"ホツ"おうど"いどばた"はまいば"てらくぼ"おおしも"みなみ"しんや"ぎよんど"わぜ"私の家の屋号は"しんや"横吹では私はしんやのつ~っと呼ばれていた。
横吹のガキ大将が名付けたのだ。他にも おおしものつ~。ぎよんどのつ~。って子もいたっけな~。
向かいの山が、近くまで迫り、平らなところは、段々畑の少しの広場。
そんな、狭い場所での草野球。
家の前からは、遠く竜頭山も顔をのぞかせていた。
そんな横吹を私は、中学校を卒業し、出ていった。
毎年 11月3日文化の日に「佐久間芸術祭 芸能部門発表会」が佐久間民話の里会館で行われいる。
私が好吟を習っている「佐久間吟風会」も登録団体なので、この発表会に向けての詩吟の練習をしたのだ。
女性が「月照十七回忌」男性が「本能寺」先生が「源 義経」。
私たち男性軍3人は、午後の部43番 開始時間14時45分。
「本能寺」
1.本能寺溝は幾尺ぞ 我れ大事を就すは今夕に在り
2.茭粽手に在り茭を併せて食らう 四簷の梅雨天墨の如し
3.老の坂西に去れば備中の道 鞭を揚げて東に指せば天猶早し
4.我が敵は正に本能寺に在り 敵は備中に在り汝能く備えよ
私は、3の部分を吟じるのだ。
4の部分は3人で合吟する。
昼ご飯を食べて、民話の里に向かい、三人で外に出て練習をしてから本番を迎えた。
民話の里会館の舞台に立つと、ライトがまぶしく心臓が嫌に早く打ち出した。
緊張の中 自分の頭の中で「老の坂西に去れば備中の道 鞭を揚げて東に指せば天猶早し」と2回繰り返し、よいよ自分の吟じるようになってきた。
老の坂西に去れば備中の道 鞭を揚げて東に指せば天猶早し
我が敵は正に本能寺に在り 敵は備中に在り汝能く備えよ~
最後の会釈を終え、舞台の袖へと帰って行った。
外での景色をパチリ。
こんな日は本当は竜頭山にでも行きたいのだが(*^_^*)
次は私たちの番。舞台のそでにて。
やっと終わり、ホッとしたところを楽屋でパチリ。
その他↑
こんなことをやっていました。
大空をトンビのように飛んでみたい。
そんな事を、横吹での竹馬の友、あきちゃんが私に言うのだった。
私20才の頃。
しばらくして二人で、愛知県一宮市のハングライダーショップを尋ねることになった。
そのショップのハングライダースクール「ロコ」、事務をしている女の人が丁寧に教えてくれたハングライダーのこと、私も飛んでるよってこと。
そのショップ岐阜県の伊吹山でハングライダースクール行っていた。初めて見るハングライダー。
年をとった人も、女の人も空を飛ぶための練習をスキー場でしていたのだった。
帰りにまたショップによって、あきちゃんは入会金を納めた。私は「考え中」と言って入会はしなかった。
仕事は、四日働いて二日休みの日曜日が関係ない職場。休みの日には何するでもない、パチンコくらいか。
そんな空いた日、ハングライダーをやろうと、伊吹山に行くようになってきた。
休みの日には、伊吹山一合目のスキー場で講習の日々になっていたのだ。
買った機体は「はやぶさ」その機体で伊吹山五合目から初フライト。
ハングライダーに必要な計器類、スピー時計・バリオメーター。他に安全のためパラシュートも備えなければならない。
何しろお金がかかった。
機体も、滑空比の良い新しい機体が出てきて、どうしても新しい機体がほしくなってくる。
次に買った機体「アトラス」(42万円)実に安定した良い機体だった。
三河地方の空を飛ぶ仲間もでき、蒲郡の五井山や、田原の蔵王山などに通った。
友達も、謙さん、ヒロくん、中根さん、中川さん・・・と楽しい仲間が増えていった。
謙さんの車キャラバンで、長野の車山や静岡朝霧高原にも連れて行ってもらった。
そんな仲間が、もっと新しい滑空比が良い機体に変えていくのだった。
私は、どうしようかと悩んだ。新しい機体を買って夢を追い続けようか、結婚して田舎に帰ろうか・・・・。
その年の冬、田原の蔵王山の横の山「衣笠山」から最後のハングライダーでの滑空。
今の妻が車でついて来てくれた。
たった15分足らずの素っ飛びだった、20歳から27歳の冬まで熱く燃えたハングライダーをしばらくお休みすることに決めた日だった。
その後 機体「アトラス」は横吹に運んで行ったのだった。
雨が心配されたが、走り終わるまで天気は持ってくれた。
4月の 新茶マラソン以来 6ヵ月ぶりのフルマラソン 42.195kmはやっぱり厳しかった。
一週間前の、長距離走で今まで心配だった腰痛が出てきたので、今回の大井川マラソンも目標を4時間にしての走りだしだった。
ハーフまでは、のんびりと走りゴールタイム4時間を目指してと思っていたのだが、折り返し近くなり仲間と出会うようになって、徐々にスピードアップしていった。
気持ちよく走れたのは35kmまでだ、それから少しずつ足がつり始め、走っているのか歩いているのかの状態にまでなった。
今回も4時間を切れなかった。
次は 袋井クラウンメロンマラソンだ(^◇^)
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。
合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。
袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns
”しんしん”55歳
2015/11/25現在。。。
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