私が走り始めたのは、ここ佐久間に帰って来てからだ。
静岡県の新居町の雇用促進住宅に住んでいたのだが、両親がいる佐久間町に家族(妻・長女)を連れて引っ越してきたのである。
昭和63年 私が28歳の春だった。
引っ越した場所は「横吹」妻のおなかの中には、長男が宿っていた。
横吹は山の中腹にある村で、日当りは好いのだが、住むには少々不便な村。少し前 横吹に住む両親から「横吹を引っ越そうかな」っと話が出ていた。
私は「どうせ引っ越すのなら、こっちに来ないか?」と言ったのだが、両親は佐久間町を出るのを嫌がり、中部天竜駅近くに家を建てるようになったのだ。
職場は、水窪の自動車部品の会社、社員は100人余り。
職場では毎年「佐久間駅伝」「北遠駅伝」に参加しているのだが、毎年メンバーを集めるのが大変だったみたいだ。
まだ30歳前の私に声がかかってきた「佐久間駅伝走らないか? 4kmくらいだよ~」
次の年の春 3月。新しい家が完成。長男も生まれた。
新しい環境での生活が始まった。地区の消防団にも入団した。父親ソフトでの付き合いも始まった。
その年の6月の初め、家の前の会社(佐久間部品)の廻りを走るようになった。
シーズンオフになったスキーのための体力作り、来年の佐久間駅伝のため、おなか廻りが気になり出したから、二人の子供の父親として、まだまだ体力的に頑張っていかなければ。
などと思っていたのでは・・・・・。
ところが一周900mのコースを走るのがやっと。
4kmなんて・・・考えられない(;_;)/~~~」
それが、少しずつ続けていき、その年の暮れ職場から、「佐久間駅伝」「北遠駅伝」の話がチラホラ。
職場の仲間で駅伝チームを作り、仕事が終わってからの練習が始まったのだ。
私のデビューの大会「第17回佐久間駅伝大会」参加チーム89チーム 遠州鉄道の観光バスなども来ていた。
ここ佐久間駅伝は、ワンウェーコース。スタート地点の城西幼稚園前から浦川中学校まで走りきる6区間26.6kmのコースとなる。
いつもは人影がまばらな浦川中学校も、人ヒトヒトでごったがえしている。
4区間だった私は、観光バスに揺られ、4区間中継所に向かい、アップをするのだった。
初めての、駅伝を経験して、チームの人たちとの慰労会。水窪の焼肉屋で飲んだビールの旨いこと(^◇^)
この、美味しいビールを飲むために、走っていると言ってもいいのでないのかな~(^O^)
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。
合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。
袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns
”しんしん”55歳
2015/11/25現在。。。
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