水窪盆栽クラブ
そんな人(ケンジさん)から、名古屋に盆栽の展示会を見に行く案内がきた。
2月17日(土)
浜松マラソンの前日だ。
浜松マラソンは第一回目から参加して第九回目で行くのをヤメタ。
今年で14回目になるそうだ。
盆栽は趣味ではないが、そんな展示会に参加することを決めた。
案内をくれた人に連絡をして予定を聞いた。
水窪を朝一番の飯田線に乗って名古屋(庄内緑地公園)に行って盆栽の展示を見てくる。
名古屋駅に行ってタクシーで庄内緑地公園に行く、そう。
名古屋往復なら、JR東海のお得なきっぷ「青空フリーパス」2570円があるに~。
こちらから提案してみた。
ネットで検索
水窪(5:48)→豊橋(7:54)→名古屋(9:05)2590円
タクシー
名古屋から庄内緑地公園 2370円
ケンジさん
「なんだちゃいやタクシー代が高いかいや」
地図で見ると、名古屋の次の駅「枇杷島」からの方が近いので、それで検索。
水窪(5:48)→豊橋(7:54)→名古屋(9:05)→枇杷島(9:13)2590円
タクシー
枇杷島駅から庄内緑地公園 1890円
こんな予定で行くようにした。
2月17日(土)
朝、6時、飯田線 中部天竜駅のホームで電車を待っていると水窪方面から電車がやってきた。
どんな人が来るのだろう?
水窪盆栽クラブのメンバーは4人。知っている人はケンジさんのマー兄ーだった。
後の二人は、神原のヒサ兄ーと小畑のエツ兄ーだそうだ。
ケンジさんに紹介されメンバーの人に挨拶をして座席に座った。
早速
「焼酎があるで、さぶいで水筒にお湯いれてきた」
そんな話から始まった。
豊橋に着き、エスカレーターに乗って、まずションベン、出口で待ってい居ると一人、何時まで経っても出てこない、「どこだ」と思っていたケンジさんの携帯に着信。
「どこにいる~」
人ごみにまみれて直ぐ近くから携帯で話しているマー兄いが居た。
東海道線、名古屋方面は3番線だった。
3番線は名鉄電車ばかりだと思っていたが、何故か名古屋行きが3番線だった。
それに乗って名古屋へ、さすがに東海道線ではおとなしく座って名古屋まで、名古屋で下り鈍行で「枇杷島駅」へ。
枇杷島駅からタクシーで4.3㎞
メンバーは私を入れて5人、一台のタクシーで4人乗れるので「自分は走って行く」そう言った。
しかし、やはりタクシーを二台呼ぶことにした。
枇杷島駅前のタクシー乗り場、名工建設名古屋のビルの前で、酒を飲む。
タクシーが到着、運ちゃんに「庄内緑地公園」まで行ってくれと言う。
庄内緑地公園に行くと公園内を走っている人が多くいた、みるとゼッケンをつけている、マラソン大会だろうか?
盆栽の展示をしているところは庄内緑地公園内の「庄内グリーンプラザ」だそうだ、今回は盆栽の見学、走りに来たのではない。
見て回るが、自分が思っていたのと違う、今回のは「小品盆栽」と言って小さい盆栽の展示だそうだ。
販売もしている、値段を見てビックリ。一通り見て回り、目の保養をした。
帰りは、地下鉄で帰ろう。
近く に、「庄内緑地公園駅」がある。そう。
地下鉄鶴舞線、だそうだ。
名古屋駅に行くには、地下鉄鶴舞線で丸の内まで行きそこから地下鉄桜通線で行くそう。
田舎者には地下鉄の乗り換えに不安を感じた・・・。
庄内グリーンプラザの出口近くに、地下鉄鶴舞線の「庄内緑地公園駅」の入り口があった。
地下鉄乗り場に行くため階段を下り、地下鉄の切符売り場へ。
「庄内緑地公園駅」から「名古屋駅」まで240円
券売機の前で
マー兄「銭が入らんぞ~」
この券売機は画面に三種類選ぶところがあり、そこの切符販売をタッチすることにより、コインを入れるところが開いた。
隣の券売機では
エツ兄
「三人だで人が三人の絵のやつを押してみ~や」
ケンジさん
「切符が一枚しかでんゾ~」
その切符をとってみたら三枚重なっていた。
そんなこんなでワイワイやっていたら、後ろには多くの人が並んで待っていた。
ホームで電車を待つも、次の丸の内での乗り換えが心配。。。
近くのアベックに聴いてみた。丸の内からの乗り換え。
名古屋駅に行くには他の方法もあるそう、丸の内からの方が混んでないだろう、路線を変えるので少し歩くとも言っていた。
そのうち
「わたしたちも名古屋に行くので一緒に行きましょう」
と、言ってくれた。
エツ兄
「よかったゾ~。わしら離れ小島から来たもんで・・・」
アベック女
「私のオ爺チャンと同じ年くらいかナ」
エツ兄
「どこだいね」
アベック女
「焼津」
エツ兄
「おら浜松、それも長野県より」
そんな感じで名古屋駅まで辿り着くことができた。
名古屋駅で昼ごはん、東海道線で豊橋まで行く。
豊橋駅から水窪まで行くのは
14時45分の岡谷行きのがある。
待ち時間が40分くらいある、駅で時間をつぶす。
駅はさぶい、どこへ行ってもさぶい。
そんな寒さの中、ミニスカートの女子が、まー兄はその女子に目を奪われているようだった。
岡谷行の飯田線が豊橋駅のホームに来た。われわれ5人電車に乗る。
焼酎の御湯割り用に持ってきた水筒のお湯もぬるくなったので駅のホームで温かいお茶を買ってくる。
ケンジさんが
「今回の盆栽の見学、みんなから千円いただいた、ありがとうございます」
「ツトムも今日から会員だ」
そんな言葉で、私も水窪盆栽クラブの会員になった。
エツ兄
「別に、無理してやらんだっていい、参加できるときに来てくれればいい」
「おれもそうだで」
飯田線は信州に向けて走って行く、遠く山奥は雪が舞っているのか山並みが真っ白だ。
新城駅を過ぎ、飯田線に乗っている人もまばらになる、すると飯田線内の暖房も切れる、人の熱気もなく暖房も止められ寒さが増す。
だけど人の心はあったかい。
JR東海のお得なきっぷ「青空フリーパス」2570円
エツ兄
「この切符はいいゾー。このまま平岡まで行って温泉に入るか」
そんな言葉で、そのまま平岡駅まで行き温泉に入って、そこのバーで酒飲んで帰ってきた。
一日楽しかった。
おわり。
日曜日に録画した「西郷ドン」を観た
第6話
謎の漂流者
ジョン万次郎(劇団ひとり) 「オカアにラブゼよ」
ラブ→好きと思う心
「アメリカではラブが一番大事だがよ」
糸
吉之助の縁談を知る。
そんな時、岩山糸と西郷吉之助が出会う。
糸
「わたしは海老原様に嫁ぐとたった今決めもした」
吉之助
「庄助どんはがっかりすんじゃろが、しかたなか」
糸
「岩山糸は西郷吉之助さーのことをすちょりーもした、子供のころからだいすきでもーした」
「メリケンでは親が決めた相手ではなく好きなもんどうしが夫婦になることができるとききもうした、この国もそげんよか国になるよう気張ってたもんせ」
「私は間に合いもはんでした」
多くの先人の人が、今の日本を平和な国を築いてきた。
今を生きる私たちは、こらからどう生きるのか。
先輩ランナー後ろ姿を追って走って行く。
愛ある走り。
運峰さん・ヨッピー・ひろぼー・ウッチャン・学ちゃん・山走人。。。。
今年で66回目を迎えた北遠駅伝。
日本が戦争に負け、敗戦の何もない時代、水窪の人は駅伝を始めた。
当時の人は、いったい何を思って北遠駅伝を始めたのか?
1952年(昭和27年)
北遠駅伝が始まった。
水窪町は昔、奥山村だった。それが
1925年(大正14年)5月10日
まだ佐久間も城西も山香も村だったが、いち早く町になった。
それだけ栄えていたいたのか、山の価値がそうさせたのか、街道沿いを歩く人が多く宿場として栄えたのか。
わたしの産まれたところは城西地区の横吹。
その後、城西地区は佐久間ダムで潤った佐久間町へと合併する。
1956年(昭和31年)9月1日
日本のエネルギー 電気の時代の幕開け。
今、静岡県の山間地は若者の流失が激しい、ダムで出た電気のエネルギーは都会へと流れてく。
66年前、水窪の人が始めた北遠駅伝、其々の大会ごとに多くのランナーが走り競い争った。
その66回目に参加できたことに感謝する。
チーム名 さくまRC
順位 21位
記録 1時間46分57秒
いま、生きる意味を問うすべての人に捧げる。
五木寛之 小説家・随筆家 稲盛和夫 京セラ・第二電電(現KDDI)創立者、
二人の対談をまとめた本
何のために生きるのか。
を、読んだ。
五木寛之の本は、昔「人生の目的」というのを読んだことがある。
まだ30歳代、若輩だったころだ。
それが、40歳代のときに病魔に襲われ退院して何もすることが無くなった時、もう一度本棚から引き出して読み返した。
小瓶に植えたライ麦の話、狭い瓶のなかイッパイに根が張り巡らせられていた、限られた環境の中で精いっぱい生きる。
『人生に決められた目的はない、と私は思う。しかし、目的のない人生はさびしい。さびしいだけではなく、むなしい。むなしい人生は、なにか大きな困難にぶつかったときに、つづかない。人生の目的は「自分の人生の目的」をさがすことである。自分ひとりの目的、世界中の誰ともちがう自分だけの「生きる意味」を見出すことである。へんな言い方だが、「自分の人生の目的を見つけるのが、人生の目的である」と言ってもいい。私はそう思う。そのためには、生きつづけていてこそ・・・』
五木寛之 1932年(昭和7年)産まれ。
戦後、軌跡の復興で日本は世界の有数の新興国になった。欲福の国になった。
しかし、その陰で、この国は毎年3万人余りの人が自殺する国になった。
この本では
心が乾いていった日本人
としている。
稲盛和夫 1932年(昭和7年)産まれ。
1984年には私財を投じ稲盛財団を設立し、理事長に就任。同時に国際賞「京都賞」を創設し、毎年11月に人類社会の進歩発展に功績のあった方々を顕彰している。他にもボランティアで、全96塾(国内56塾、海外40塾)、12,084人の若い経営者が集まる経営塾「盛和塾」の塾長として、経営者の育成に心血を注いでいる。
このままでは日本はダメになってしまう。
家の娘、33歳
「お父さん私のこと心配せんでいいよ。コンビニがあるから食っていける」
小さいころからゲームで遊び、自分の思い通りになってきた生き方がそうさせた。
コンビニがあれば食事もできるしお茶も、真夜中だってやっているコンビニ、お金さえあれば生きていける。
その様に講演で話していた徳野先生
日本の家族のことについて語る。家族と世帯とは違う。
家族の絆。佐久間町民の絆。天竜区の絆がシッカリ繋がればキット住んでいる人が少なくても過疎でも、地域は何とかやっていく。
家族とは?
家族とは世帯とは違う。
家族は世帯を超えられる。
世帯は住民台帳に乗っている人だ。
家族とは今は一緒に住んでいないけど絆で繋がっている近親者
それは、死んで行った両親だったり、まだ生まれていない子供だったりする。
究極の日本という国が良くなるためには、日本の国全体が一つの家族のようになること。
過疎の地域の悩みを東京の人が考える。
大都会で便利な生活になれ結婚しなくなりコンビニに依存する生活が多くなったことを、田舎の人が考える。
家族、
婚姻によって成立した夫婦を中核にしてその近親の血縁者が住居と家計をともにし,人格的結合と感情的融合のもとに生活している小集団。
地域の人々が家族のように暮せたら。
昔は地域の人々が家族のように暮らしていた。
一日休みを頂いて、佐久間から一時間もかけて、行ってきた市民交流会議、行ってきただけではもったいない。
今日は講演の内容について自分なりに復習してみようと思う。
講演
>熊本大学名誉教授 徳野貞雄
「『集落ドクター』から見た地域再生:世帯と家族は違う。子供は近場にいる」
教授の写真ではありません。
<プロフィール>
徳野貞雄(とくのさだお)
1949年大阪府貝塚市生まれ、熊本大学名誉教授。
食と農の専門家として道の駅を考案・命名した。また、家族や集落の状況を把握し将来を見通す「T型集落点検」考案者としてもよく知られ、「集落ドクター」とも言われる。
日本全国の農山村に出かけ、フィールドワークをこなす活動派研究者である。
一般社団法人 トクノスクール・農村研究所HPから抜粋
今、全国で見られる「道の駅」それを考案した氏は、ほんとうは住民・民間がやればいいと言っている。しかし、お金の面で厳しい、そこで国交省、しかし行政は・・・・。
合鴨農法、有機農業の一種、氏はその組織の頂点、農学部の先生は合鴨農法なんてことはしません、農業生産はみますけど消費者の事を考えることはやらない。・・・とか。
今までの地域創生は学問とか行政が邪魔することがイッパイある。枠の中だけで見ようとする学者・行政。
そんな氏は文学部青年だったそうだ。
浜松市の北部、天竜区は人口が減っている。浜松市でも全体の人口は減っている。日本国全体でも。
しかし、過去を見ていると明治時代・江戸時代、日本の人口は五千万人以下。それが戦後の高度成長で人口が増え一億二千万人。それが今減って来て行政が経済界が減った減ったと民衆をあおっている。
私の体重は、かつて100㎏以上あったが今ダイエットして80㎏、これを痩せてると言えるでしょうか?
等々
昔は江戸・大阪・京都、そこには人口は多くいたけど他の地域は少なかった。
どうしてか、浜松市もそうだけど大きな川の近くでは人は住めなかった。それは川が氾濫し住めるものではなかった。
そう、今は河口近くの天竜川両岸地域に住宅街が広がっているけど昔、まだ船明ダムが無かったころ台風の被害で大変だった。
システム過疎。
過去、人が増えたからと学校を多く造った。今、高齢者が多いと福祉施設を造りそのうちその施設に人がいなくなる。行政は同じ轍を踏みそうだ。
ここで問題なのは、人口減っているけど何とかガンバレでななく、本当の問題は、、、。
個々人が自分のことばかり考えるため、ここでは住めないと出ていく人々多いこと。
行政の職員んが佐久間のためにとアワビの陸上養殖をして、ココに雇用を作ろうと心血を注いでいるのに、一方ではその行政で働いている人たちが出て行っている事実。
それは、郵便局の職員だったり農協の職員だったり。農家のための農協職員だったはずがいつしか自分のための職員になってしまった。
それを人々はアタリマエというションナイという。。。
また、今のふるさと応援隊また各地域でのイベント、そんなことやって地域が潤うか?
とか。
あと、ここでは言えないことまでバンバンとしゃべりつくした講演だった。
実際、佐久間という過疎地域に暮らす自分は、ふるさと応援隊や各地域でのイベント。
それはそれでいいと思う。
過去に行われた地方創生一億円より。
過去書いたブログ↓
ふるさと創生事業
国は地域に金をばらまいた時代。
今、国は人を送り込もうとしている。
わたしは思う。
これからは今まで各地域に居た人が帰って来るような考え方をしてほしい。と。
過去、自分がお世話になったところに恩返しをする時代だと思う。
そのためにはライフライン、せめて道路整備は進めてほしい。
浜松市の中山間地の地域づくりの可能性を考える交流会議
「まちむらリレーション市民交流会議」
に、行ってきたのだ。
場所は二俣、テピヤが昔あったとこらへん。懐かしいナ~。。。
水窪のNPO山に生きる会で呼びかけがあり、今日は運転免許証の書き換えがあったのでついでに行くことにした。
内容は下記
第一部
基調講演
>熊本大学名誉教授 徳野貞雄
「『集落ドクター』から見た地域再生:世帯と家族は違う。子供は近場にいる」
第二部
>講演
静岡文化芸術大学 船戸修一
「浜松市の中間山地の集落を残していくために:船戸ゼミによる佐久間町調査から」
第三場
>講演
浜松市市民協働・地域政策課 北嶋秀明
「浜松市の中山間地政策について」
徳野先生のお話は強烈だった。
ふるさと応援隊として都会の若者を呼び込もうとする行政の政策に喝
自分の娘・息子が都会に出て行っているのに、縁もゆかりもない他人が、、、来るか。。。
等々。
片手をズボンのポケットに突っ込んでの講演は、感心したり驚いたりだった。
次の文化芸術大学の船戸先生はというと、
なんか早口。
先の先生の話しで時間を使い過ぎたか。
パワーポイントの使い方がスマート。
おっと、、、内容
佐久間町の、ある集落の調査の話
羽ヶ庄の話かな~。
オバサンがいるので聞いたことがある。
「大学の先生が来た話していった」と
オバサンは諦めきっているけど、船戸先生はあきらめてはいない。
次は、よいよわたしが聴きたかった話し、北嶋さんのアワビのこと。
その前に浜松市の中間山地地域振興策についての話
★龍山の森林文化会館の管理運営を地域に人に委ねることにより、地域のコミュニティ活動を活性化させる。
★市内観光事業ということで春野の山の学校に都市部の小学生が行くことにより中山間地の魅力を体験する事業。
★毎年、ソラモでで開催しているザ・山フェス、だいたい4万人ぐらいの人が集まり中山間地のアピールをして山に行っていただけるよう切っ掛けづくりのイベントをやっている。
★地域づくりインターン事業、都市の大学生が、中山間地域集落に短期滞在し、地域の課題やまちづくり活動について考える活動。
★移住の話、29年度で今現在493人の方が移住の事について相談に来ている。多くの人が中山間地に住んでみたいとの人が居る。いろいろな方と話をしてつなげていきたい。
移住したいという方で、問題となるのが仕事。
そこで、アワビの陸上養殖、、、、そんな感じでアワビの話に繋がっていった。
よいよ始まった。何故、何故と思った事が、今解明される。
北嶋さんが今の部署にきて中山間地を廻って思った事元気が無い、市は何をやっているのか地域振興とはいうけど何処も同じようなことをやっている。
金太郎飴と同じ。これでは中山間地には注目を浴びない。
そのときある中山間地でトラフグの養殖の話を聴いた。これだ!!
山の中で海の物を育てる。それがアワビに繋がった。そうだ。
アワビが始まり佐久間に何回も通った、がんばらまいか佐久間のオバちゃんが「大変ですネ~」と言ってくれた。
浜松の市役所から佐久間町まで約2時間。
物理的距離はは変わらないが心理的距離は変わった、佐久間までが短く感じてきたのだ。
女性たちのパワーはに圧倒されアワビ養殖は続いていった。
アワビの殻をイヤリングにしたりストラップにしたり。
可能性が広がって来る。
わたしがやりたいのはアワビがやりたいのではなくアワビによる地域づくり
不可能だということに地域の人と挑戦することに意味がある。
過疎はチャンスだ!!
と話を結んだ。
長かった市民交流会議、外に出たら薄暗くなっていた。
一日職場で休みをもらって参加した市民交流会議、過疎の地域佐久間で暮らす一人として大変参考になりました。
夢を持って楽しく頑張ること。
また、続けていれば応援してくれる人が必ずいるということを知りました。
を見た。
ブータン王国に農業技術を伝授し、国王から「最高に優れた人」を意味する”ダショー”の称号を与えられた日本人・西岡京治さんの話。
向井 理が見た、幸せの国のキセキ
読売テレビ・日本テレビ系で、本日午後3時00分~4時25分までだった。
世界で一番幸せな国・ブータン。
如何してブータンは、ブータンの人たちは幸せを感じるのだろうか。
いま、テレビを見て思った事は、仏教だったり、住民が素直だったり、多くの自然に囲まれての生活がそうさせているのではないか。
などと思う
が、どうだろうか。
国土の大半が山岳地帯で食糧事情も厳しいブータン。
そこに派遣された一人の日本人西岡京治さんのブータンに人々に残したものは計り知れない。
俳優 向井 理が話している
人の思想や努力はずっと残るんだと今回強く感じました。西岡京治という日本人が、敬虔なる仏教国家であるブータンで認められた唯一の外国人であることをすごく誇りに思います。
ブータン
私が暮らす「北遠」、中間山地。
ココで暮せることの幸せを感じることのできるようにしたい。
幸せ、それは自分が感じるもの。
先日
たつやま凸凹マラニック
で訪ねた、寺尾集落の家に饅頭を持ってお邪魔した。
そこのオバサンの笑顔が、ブータンの人とダブって見えた。
ブータンが愛した日本人
ウソ
「人生、報われる生き方」渡部昇一
を、読んでいる途中。
幸田露伴とは
1867年~1947年 慶応3年~昭和22年に生きた人、 小説家・随筆家・考証家。江戸下谷 生まれ。本名,幸田成行
そんな昔の人が書いた小説を自分には読めない。と思っているときに出会った本
「人生、報われる生き方」渡部昇一
この本は、そんな幸田露伴の「努力論」を読んで渡辺昇一さんが書いた本だ。
自分でも何とか言わんとすることがわかる。
惜福・分福・植福
惜福、惜しむ福と書いて惜福(せきふく)
昔、自分が働き始めたとき、給料が少ないと嘆いていると、ある人が
「20万貰っても20万使えば残りは0円。10万貰って8万使えば残りは2万」
「この生活を10年続ければ後者には20万の貯金が残る。前者には貯金は無い」
そんなことを言って諭してくれた先輩がいた。
今思えば、こんなことが惜福かな。
惜福とは「ケチ」とは違う、自分の使うお金を全て使い果たさずに、一部別に置いとくということ。
分福(ぶんぶく)
文字通り、自分の福を分け与えること。
惜福で残した物を他者に分け与えて二重の幸せを得る、そんな考え。
福を、お金を独り占めする、そんな生き方は良くないと言っている。
のだ。
植福(しょくふく)
自分の持つ力や情、知恵を使って世の中に幸福をもたらす、こと。
福を植える、こと。
植えることによって、その木はやがて実が付き大きな収穫がある。そんなこと。
100歳を超え現役の医師として働いた聖路加国際病院名誉院長日野原氏は、少子化で今の時代は小児科は儲からないと知りながら増設した、そんな生き方が植福なのではないかと思う。
保守派の論客で英語学者の上智大名誉教授、渡部昇一さん
2017年(平成29年)4月17日ご逝去された。
歯に衣着せぬ発言の人だった。
そんな先生の本
人生、報われる生き方
自分の、これからの生き方を考えながら読み進めていこうと思う。
しんしん
佐久間ダム往復10㎞
仕事が終わり、今日は佐久間ダムまで走ることにした。
せっかくダムまで走るのだ、佐久間ダム電力館によってダムカードをもらおう。
そう思って走り出した。
佐久間ダム
静岡県浜松市天竜区佐久間町と愛知県北設楽郡豊根村にまたがる一級河川・天竜川本流中流部に建設されたダムである。
工事が着工したのが1953年 完成したのが1956年、わずか三年で完成した。
日本の高度成長時代、電気の時代の幕開けの大事業だった。
仕事も多くあり、多くの人であふれていた佐久間の時代だった。
あれから62年、当時観光客でいっぱいだった佐久間ダムも、昨夜ふった雪がうっすらと残った山々に囲まれひっそりとしていた。
わずか三年で完成した佐久間ダム
その工事で犠牲になった人が居る、慰霊碑には96名の名前が、尊い命が犠牲になった。
自分たちの今の平和な豊かな生活は、このような犠牲の上に成り立っていることを知らなければならない。
佐久間ダム電力館に行くと三名の職員の方がいた。
知った人ばかりだ。
働くところがあり、ココに暮らしていける。
それだけで幸福を感じる。
ダムカードをもらい家路を急いだ。
ダムカードは「夢街道」の初参加者にコースマップを送るときにオマケとしてつけようかと思っている。
ダムカードは一回の入館で佐久間ダムと秋葉ダムのダムカード二枚もらえる。
何回ダムランできるだろうか?
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。
合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。
袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns
”しんしん”55歳
2015/11/25現在。。。
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