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平成の合併が過ぎ、今私はここで暮らしている。 ほくえんの風を 身体中に感じながら。
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サバイバー とは
生存者。 生き残った人々。 遺族。 また、逆境に負けない人。
浜松市サバイバーとは、政令指定都市新浜松市の北部に暮し続けている人たちを、そう呼ぼうと今、私は思った。

サバイバー とは
生存者。 生き残った人々。 遺族。 また、逆境に負けない人。
浜松市は2005年(平成17年)7月1日周辺12市町村を巻き込んで新浜松市として誕生した行政区だ。
巨大な行政区は、その合併から1年9か月後の平成19年4月に政令指定都市になった。

サバイバー とは
生存者。 生き残った人々。 遺族。 また、逆境に負けない人
山に生きる会、そんなNPOがある。
山を大切に思っている人々がいる。
不便だと思うこともあるが故郷を思い山道の整備に汗を流している人がいる。

浜松市サバイバー
浜松市の北部は学校が無くなり子どもを育てることが難しい地域となっていく、それでも。
浜松市サバイバー
ココで生きていくと決めた人たちなのだ。

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佐久間町は3村1町が合併して誕生した町だ。
城西村・山香村・佐久間村・浦川町、当時佐久間ダムが完成し佐久間町になった。
日本の電力の礎を築いた佐久間ダムの恩恵は絶大だったと思う。
佐久間ダムができたことにより、飯田線は迂回をした、そして線路がない城西地区に飯田線ができた。
佐久間町になり城西地区に待望の飯田線が走るようになった。
しかし、その飯田線は城西の多くの家のある場所には駅を設備しなかった。

この写真のように、城西の小学校のあるところには駅は出来なかった。
子どもの頃、城西小学校に手前にある城西駅から歩いた。
私が小学校低学年の頃、城西小学校は鉄筋コンクリートの小学校になった。
小学校高学年になりプールもできた。
しかし、飯田線の城西駅からの道路は狭く通学には車の往来が恐かったと記憶する。

今、小学校は閉校して今は無い。
朝、通りすがりに鉄道マニアだろうか、眼鏡をかけた女性が伊那路号が「S型鉄橋」を通るのを待っていた。
渡らづの橋「S型鉄橋」がある。
無くなって行ったものを数えるのではなく、今ある観光資源を空から撮影したくてドローンを買った。
渡らづの橋「S型鉄橋」如何して城西の町の近くに駅を造らなかったのか?
子供達は城西駅までの距離を歩いた。

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バスターとは
 英語で「退治する者」「逮捕する者」の意味、今日は水窪のNPO「山に生きる会」での活動、山ヒル・バスターに行ってきた。
山ヒルって知っていますか?
知らない人のため、先ずはユチューブ↓

今日の山ヒル・バスターは水窪から池の平までの山道での活動になった。
私は「山に生きる会」に会員でいるけど、今回この山ヒル・バスターは初めての参加です。
どんなのか、山ヒルは知っているけど、割り箸で取るとは聞いていたけど。初めての参加でドキドキした。
山道を歩きながら、目線を道に落としヒタスラに山ヒルを探しながら歩く。
「いた~」「一匹ゲッド」「またいた~」
そんな声が山に響いた。
水窪の女の人たちは元気がイイ。
今回は男性4人女性4人での山ヒル・バスターだった。
 
私はそんな声を聞き焦る。
目を凝らしても分からないのだ。一匹も取れない(涙)
そんなとき足元を見たら、山ヒルが上ってくる「ギャ~」割り箸で捕まえて塩の入った瓶に入れた。
そんな時にも
「いた~」「一匹ゲッド」「またいた~」「でかいゾ~」とか言って水窪の女の人たちは山ヒルをたくさん退治していた。

山ヒルはスギの木の枯れた枝が多い所に多いそうだ。たしかに杉林のところで
「いた~」「一匹ゲッド」「またいた~」「でかいゾ~」「長靴をはってるゾ~」
そんな声が、山に響く。
そんなとき誰かが
M 「杉の木はロクナもんじゃない」とか言った。「山ヒルのよい隠れ家になって。」
「杉は花粉でも大変な思いをしている人がいる」
話が政治の話になって、今の法律の番人が賭けマージャンをした話から、今の政権が野党に押させている話から。
今回、10万配ったのも国民へのワイロ、とか。
おまえらこの金で黙ってろ
とか言っているんじゃない。
そう言って笑った。

M嬢「この金もみんなの税金だから、子供達にこの付けを回すことになる」
 私  「今に生きる人がタ~ブレて生きると、後に残るものが大変だ」
M嬢「・・・・・」
そこで
N嬢「ダデ、山ヒル取りを真剣でやっているダイネ」
 

今回の私の山ヒルは25匹
中には100匹以上取った人もいた。
全員で335匹
 
どんな事でもイイ。
地域のために、何かを一生懸命やる。
山ヒル・バスター
そんな活動で、水窪の人たちの地域を思う心意気が伺えた一日だった。

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この本は二年前、職場の人に勧められて読んだ本だ。
感動した。
百田尚樹の「影法師」を読んだ。
今回、いい本だから自分の手元にも置いておきたいと思いブックオフで購入した。
そしてまた読んだ。

江戸の時代、米が全てだった。
侍の階級は石高で決まった。
一石は米1,000合
一食成人が食う米の量が一合、一日で3合、一年間で
3合×365日=1,095合
一石とは成人1人が1年間に食べる米の量なのだ。

下級武士の子、勘一が竹馬の友 彦四郎と刎頸の契りを結んだのは百姓一揆の為、百姓の親子が処刑される現場を見に行った帰りの出来事だった。
当時、百姓一揆をおこすということは厳しい年貢米に絶えることが出来なかったから。主犯格の百姓は妻、親、子供も同罪として処刑されたのである。
その様な光景を見に行った帰り、勘一と彦四郎は刎頸の契りを結んだ。そのとき勘一が政(まつりごと)の話をした。大放潟を新田に出来ないかと言った。
勘一は五歳の小さな吉田(きった)の死に際を見て、万作(まんさく)が泣きながら息子の名前を叫んだのを聞いて、茅島藩がなすべきはそれだと言った。
そして勘一は彦四郎に、その夢を託したいと思っていると。言った。

しかし、二人の生き方は違った。
彦四郎は影法師の様に生きた、そんな物語だった。

日本は、そんな時代を経て今の平和な世の中に続いている。
私たちが生きている、この時も何時の日か歴史になる。
私の暮らした横吹の段々畑も、先祖の積み上げた一つ一つの努力の結晶なのだ。

 

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長野県飯田市天竜狭、そのに三遠南信道の路が進んでいる。その自動車道が天竜川に架かる橋がある。天竜峡大橋だ。全長280m
その橋の下に飯田市は「そらさんぽ天竜狭」という遊歩道を設備した。高さ80m
今回、その「そらさんぽ天竜狭」を走る仲間三人で歩いた。
眼下には飯田線の線路と天竜川の流れが見える。

飯田市は天竜峡に「そらさんぽ天竜狭」を設備した。
三遠南信自動車道は、山の向こうの遠山郷を目指している。
 遠山郷の人々は三遠南信自動車道の進捗を待ち望んでいる。

遠山郷の高齢者は、未来の遠山郷に目線が向いている。

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「遠山郷に行ってきた」
飯田線佐久間駅を朝7時46分の電車に乗って、峰トンネルを抜けると私の思いである相月駅だ。
鉄橋を渡ると眼下に水窪川がある。橋のたもとに横吹に上る細い道がある、小学校中学校と歩いた道だ。
トンネルを抜け、城西駅、渡らずの橋、S字鉄橋を経て向市場駅に着いた。7時59分
 

向市場から遠山郷まで歩こうと決めたのには理由がある。
一つは
耳塚酒店で誠二に出会い、横吹同窓会のラインのメンバーに入ってもらう。
もう一つの理由は、水窪ダムカードをもらうこと。
そこは「みさくぼの路の里
ダムカードは、タダ。
しかし、そのカードは店にある。
何か買わなければ、と思い。なるべく安い値段、待っていくのにかさばらない、その二点をクリアしたお菓子を持ってレジに進んだ。
そのとき「水窪ダムカードもください」と言った。

水窪ダムカードはネットで検索すると、もう一つ水窪ダムは山形にも有るそうだ。
山形県米沢市金池五丁目9番5号
どちらのダムも型式(ロックフィルダム)
ご縁を感じる。

小雨降るなか、水窪のバイパスを歩く、遠くに見える山なみには霧がかかっている、バイパスは小走りに走った。
上り坂は歩く、大小原、長尾、西浦、浜松市最北端の酒屋「はくりや」そこで缶ビール、注入。
しばらく休憩した、ポンチョに着替えて出発した。
途中島で青崩峠と兵越峠の分岐がある、兵越峠の方に進んだ三遠南信草木トンネルを目指した。
新しく掘りはじめた青崩トンネルが草木トンネルの横にある、遠山の人たちは、その青崩トンネルの開通を持ち望んでいる。
草木トンネルを抜け草木の集落を下に見て、山に生きる会の「山の駅」の横を歩き、兵越峠を目指した。
兵越峠に着いたのは13時、こんな時間になってしまった。体力落ちたナ~。ポンチョの下は蒸れている暑い、ポンチョを脱いだ。
後は下り小走りに走った。小雨降る中気持ちよく走った。
遠くの山なみに霧が沸き幻想的な風景の中走った。

このた、でラインに平岡駅から歩いた人から連絡が入った。
もう遠山に着いたそうだ、ビールを先に飲んでいるそうだ。
このたの斜面集落を下り、遠山のバイパスを走り、佳江サクラで手を合わせ、下市場トンネルを抜け、休館中の「かぐらの湯」の横を走り、本日のゴールである「ヨシマルヤストアー」にゴールした、そこで缶ビールを買って店の前のベンチで(泡)
つづく

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この本は、本を読んでくれた人に最後、訪ねている。
君たちは、どう生きるのか。
と。

そして自分は、どう生きるのかと考えた。
その前に、自分はどう生きたのかと振り返ったのが「ほくえんの風」なのだ。
 
『君たちはどう生きるか』吉野源三郎の小説。
この本は軍国主義による閉塞感が高まる1930年代の日本において書かれた本である。

1930年(昭和5年)
この本は昭和恐慌のときに書かれた本だ。
好景気から急速に不景気になってきたとき、この本は書かれた。

1930年代には昭和恐慌、不景気、「 モノが売れなくなる 」 ことで、失業者が増えた、 倒産する企業も多くなる。 
その不景気の中で、日本国内では軍部がさかんに  『 大陸進出( 侵略 )を行えば、不景気から脱出できる 』  と説い た。 
それは
・大陸進出には軍事力が必要になるので、軍事産業が活発になり、失業者を救うことになる。 
・大陸進出によって植民地を獲得できる。 
・植民地で日本で売れないものを売りつける( = 新たな市場となる )ことができたり、植民地から 原料や食料を安く手に入れることができたり、植民地の人々を安い賃金で働かせたり ―― などメリットは大きい。 と。
 
そんな時代を経て、1941年(昭和16年)12月8日、日本はハワイの真珠湾を攻撃して太平洋戦争が始まった。
そして、1945年(昭和20年)8月15日 日本国民へ玉音放送(終戦の詔)が流れ戦争は終わった。
 

終戦後、日本人は日本を復興させた。

君たちは、どう生きるか。
そんな本が出てから、日本はどうなったのか、歴史は物語っている。
今こそ、コペル君が書いたノートを思い出す時だ。
僕は、すべての人がおたがいによい友だちであるような、そういう世の中が来なけらばいけないと思います。人類は今まで進歩してきたのですから、きっと今にそういう世の中に行きつくだろうと思います。
そして僕は、それに役立つような人間になりたいと思います。
原文まま

 

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コペル君は親友を裏切った。
そう感じて悩んだ。
卑怯者・卑怯者・卑怯者~。。。。

悩んで悩んで悩んだ。
卑怯者・卑怯者・卑怯者~。。。。
 
しかし、

誠実に対応して、友だちと仲直りした。
裕福な人、親の手伝いをしなければ学校に通えない人、様々な友だち親友の絆が深まった。

最後、コペル君がノートに書いた。
僕は、すべての人がおたがいによい友だちであるような、そういう世の中が来なけらばいけないと思います。人類は今まで進歩してきたのですから、きっと今にそういう世の中に行きつくだろうと思います。
そして僕は、それに役立つような人間になりたいと思います。
原文まま

そして最後作者は、この本を読んでくれた人に訪ねている。
君たちは、どう生きるのか。と。

『君たちはどう生きるか』吉野源三郎の小説。
この本は軍国主義による閉塞感が高まる1930年代の日本において書かれた本である。

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「雪の日の出来事」
裏切り、コペル君は友達を裏切った。

コペル少年は、そのことで悩んだ。

しかし
僕たちは、自分で自分を決定する力を持っている。
だから、誤りから立ち直ることもできるのだ。
そして、コペル君、君のいう「人間分子の法則」の運動が、他の物質の分子の運動と異なるところも、また、この点にあるのだよ。
原文まま

君たちは、どう生きるか。
コペル君の御父さんは、早くに亡くなった。
コペル君お御父さんは、義弟に自分の一人息子を立派な大人にしてほしいと願って他界した。
そして、この物語は進んでいる。

親が子に繋いでいくこと、それは命だけではない。

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「ナポレオンと四人の少年」
コペル君が友達数人と友達の家に行き、そこの姉さんに勇敢な「ナポレオン」の話を聞く。
そして家に帰り、オジサンにその話をした。

そして
オジサンのノートで、そのナポレオンの話を詳しく語っている。
 ナポレオンの生涯、貧しい少年時代があり、ナポレオンの活躍したときがあり、捕らえられ島流しにされてこと。
英雄と言われる人たちは、非凡な人たちだ、普通の人たち以上の能力を持ち、普通の人以上に努力した人たちだ、と。

君たちは、どう生きるか。
戦前、比較的裕福な少年「コペル君」に、立派な大人になって欲しいと、オジサンのノートで語りかけている。

その後、日本は戦争があり、敗戦を迎えて考え方が変わってきた。
でも真実は一つだ。

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プロフィール
HN:
しんしん
年齢:
65
性別:
男性
誕生日:
1960/02/20
趣味:
走ること・空手・詩吟
自己紹介:
12市町村が合併して出来た新浜松市
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。

合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。


袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns

”しんしん”55歳  
2015/11/25現在。。。
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