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平成の合併が過ぎ、今私はここで暮らしている。 ほくえんの風を 身体中に感じながら。
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今年で72回目になる北遠駅伝大会、参加チーム20の中で
我が「さくまRC」は19位だった。
一区  0:19:17
二区  0:26:14
三区  0:21:38
四区  0:19:26
五区  0:22:31
六区  0:11:00
総合タイム 2:00:06
スタート
00:19:17
00:45:31
01:07:09
01:26:35
01:49:06
20:00:06
と、タスキは無事にゴールまで繋ぐことが出来た。
私の暮らすところは佐久間町である。佐久間駅伝は、五十回で終わりになった。
昭和の合併で「浦川町」「佐久間村」「山香村」「城西村」からできた「佐久間町」は50年前、四町村をタスキで繋ぐ駅伝を始めた。私が中学校三年生の頃のことだ。
それが
平成の合併で、人が減り、ボランティア確保が難しくなり、佐久間体育協会の苦渋の選択で終わりを迎えた。
私が63歳の夏のことだ。
人生も、駅伝も、スタートがあればゴールもある。
幼稚園で白血病になり小学校一年で世を去った人がいる。
知らない人はいる。その命があって、今のドナー登録の人を押し上げていることを。
今年で72回目になる北遠駅伝大会、私は骨髄バンクランナーズのTシャツを着て走ることにした。
それは、名古屋シティーマラソンで出会ったサバイバーランナーの出逢いから続いている。
多くの人に知ってもらいたい、骨髄バンクのこと。
初めて北遠駅伝に参加したときのこと、今とはコースは大部違った。
バイパスにあった役所前をスタートして西浦までの坂道だらけの一区だった。
私は何時も二区を走った。二区中継所でトップランナーはガッツポーズでタスキ渡しをしていた。
ところが二位三位とみな満身創痍で二区中継所にやってきた。一区での、あの激坂は多くのドラマが展開しただろうと想像する。
二区は西浦から池島(当時の三遠南信草木トンネル)まで、ここも激坂ばかりだった。曲がりくねった登坂を永遠と登って行った。やっと池島に中継地点が見えた。タスキ渡しだ。すると「三遠南信道をもう少し上ってコーンを廻ってきてください」と、審判の無常の声が耳に焼き付いた。車で走れば何も感じない坂が壁に見えた。
それに比べて三区は転がり落ちるような下り坂だった。
フジユニバンス水窪事業所で働いて、そこのチームで参加していた時は、永遠の二区走者だった。
当時の四区は、西浦から水窪平沢文具店、二区を走り終わった私は車にて応援に廻っていた。車を置いて大原から町中に行くと、応援はものすごい声援と熱気とに包まれていた。それは、多くの小中学生の声援だった。走る恩師を応援する子供たちの声援がこだましていた。
あれから30年
子どもたちは減り、声援は少なくなったけど、山間部ならではの温かさは今尚続いている。
最後の役員の挨拶で、もう少し参加メンバーを増やしたいとの言葉があった。
北遠駅伝は多い時で60チームとか言っていた。
多くのランナーよ。老いも若きも、北遠に集おう。
2025年は
2月23日(
だという。

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昨日は第3回天竜区駅伝大会等実行委員会佐久間地域部会(第47回天竜区・佐久間駅伝大会)だった。
まッあ簡単に言えば今年行った第47回佐久間駅伝の報告と反省、来年行う第48回佐久間駅伝についての話し合いだったというわけだ。
議事事項
(4)第48回天竜区・佐久間駅伝について
開催日 令和3年 1月24日(日)31日(日)
走路  5区間   6区間
どちらにしようかの話し合い。
ココには書いてなかったが、予算の問題、ボランティアの問題、警察からの道路使用の問題があり来年開催する天竜区・佐久間駅伝までには問題や多くイバラノ道だというわけだ(涙)

ボランティア問題、佐久間町に籍を置き佐久間体育協会での一員として私のやるべきことは、、、お願いすること。
しかし、山香チームとして走っている自分は、お願いしたとき。
「如何して、おまえらが趣味で走っているのを、俺たちがボランティアしなけはいけないのだ!!
と言われたことがある。
もっとものことだとも思う。
ボランティア→一般的に、自発的に他人・社会に奉仕する人または活動を指す。

天竜区駅伝大会等実行委員会佐久間地域部会として決まったことは、
開催日は令和3年1月31日
走路は6区間(城西から浦川まで)


自分としてはボランティアの人員確保を考え、事あるごとに他の人に話していこうと思っている。
佐久間町の住民だけでなく、他地区の人にも。
(写真は記事とは異なっているかも(笑))

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正式名称は

天竜区北遠駅伝大会
水窪も今は浜松市という大きな行政区に吸収されたのだ。
住所も浜松市、そこの天竜区の一部なのだ。

この大会、なんと!
今年で第67回なのだ!!!
 
数年前の写真


佐久間町に帰って来て、水窪の富士鐵工所で働くようになって。
参加した北遠駅伝、第40回大会の記念大会ということで、参加賞が腕時計だったのを覚えている。

 

この北遠駅伝、その頃とはコースが大きく変わっている。


当時のコースは、水窪町の役場からヒタスラ西浦に向かって上り坂が続いた。
一区は上りダラケ、曲がりくねった道路は辛かったと思う。わたしは二区だったので一区の選手が鬼の形相で走ってくる姿が目に焼き付いている。


二区はというと、まだまだ上っていく西浦最北まで走り、三区の選手が居たとホットしてタスキを渡そうとしてら、三遠南信道路を少し上って折り返してくださいと言われた(笑)


今は、その西浦最北まで行くコースは省略された。

凄まじいコースだった。が。

懐かしい。

今回、我がチームの記録は
41チームの中
17位
6区間23.6㎞を
1時間40分12秒で駆け抜けた。

28年前、第4区、西浦から水窪の小畑地区に入ると多くの水窪中学生や小学生だろうか、先生を応援している「先生頑張って~」の声援で街が沸いていた。

応援の垣根は途切れなく続いて選手と応援する人が触れ合わんばかりだった。

今回、水窪中学生が地元「水窪」を紹介するパンフレットを販売していた。
「残り二冊、350円」と、生徒が声を張り上げて売っていた。


閉会式を終え、記録を頂き、水窪町を後にした。

 
ありがとうございました。

浜松市の北の果て気候的には寒いけど気持ち的には暖かな郷だ。
水窪。。。

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2019年が初まって、初詣ランを走って、湖西連峰トレイルランを走る。


1月の最終日曜日は恒例の
佐久間駅伝大会


毎年恒例、同じことの繰り返し、ルーティン。


と思いきや、変わりゆくことがある。


去年は、走り終わり、区間を走った仲間が集まり、トン汁を食べて其々の話をしてビールを飲んだが。


今年は、走り終わってからトン汁を作った大鍋を浦川キャンプ場にかえす役になってしまった。
車の運転があるのだ。ビール飲めない(涙)

また、いままでチームを応援してくれた、あの人は、今回はいない。


今回、その人を偲ぶため喪章(もしょう)を付けて走るようになった。

チームの一人が、その選手の奥さんが、手作りしたという、その喪章。


毎年恒例、同じことの繰り返し、ルーティン。


かと思う、日々の繰り返し、しかし確実に変わりゆくことがある。


それは歳月を重ねること。


何時か自分も大空の星となる日が来る。こと。


死を考えること、それは生を考えること。


生きている間にすべきこと。


毎日の些細なことに感謝すること。

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今日は、第46回佐久間駅伝大会に出すトン汁の準備をしてきた。

昨日は駅伝大会役員の打合せで、区間や選手誘導などを手伝ってくれるボランティアの人たちへの説明会たった。

毎年、その役員会には参加していたのだが、今回はトン汁の準備も手伝ってほしいとの支部長からの話があり参加する様になったということだ。


佐久間駅伝、毎年、当たり前のように食していたトン汁


今朝は中部「竜のモニュメント」横の浜松市営駐車場に集合し、浦川キャンプ場にある大鍋を持ち行った。


集まった人は、支部長・副部長・がんばらまいか佐久間の中○さん、とわたし。


浦川キャンプ場の大鍋が重くて大変だからと要請があったというわけだ。


ソレゾレの軽トラに便乗して浦川のキャンプ場へ。レッツらGO

久しぶりの浦川キャンプ場。
昔、よく通って酒を飲んだ。
その時のブログ↓
今宵もはじまりました(^.^)/~~~in佐久間(昔のワル) 

浦川キャンプ場の○野さんも今は浜北の人となった。

佐久間という中山間地の過疎地に暮らすということは、多くの仕事が増えるということだ。

それでも、ココで暮していく自分は 誇り を感じていいる。
ブライドというものを。

大鍋を佐久間・歴史と民話の郷会館の駐車場に持って行き、大鍋やその他の器具を洗い、トン汁を造る場所に設置し、後はNPOの女性群がトン汁を作れるように用意した。

 

毎年の佐久間駅伝。
走り終わって汗かいて、走った人でトン汁食って騒いでいたが、今年のトン汁はチョット違う味がするかもしれない(涙)


トン汁の思い出には、こんなのもあった。
2014年の話
第41回佐久間駅伝はトン汁が無かった。

たったイッパイのトン汁
その中には多くの人の汗と涙がと想いがあるのだ。

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今年で66回目を迎えた北遠駅伝。
日本が戦争に負け、敗戦の何もない時代、水窪の人は駅伝を始めた。
当時の人は、いったい何を思って北遠駅伝を始めたのか?
 
1952年(昭和27年)
北遠駅伝が始まった。
水窪町は昔、奥山村だった。それが
1925年(大正14年)5月10日

まだ佐久間も城西も山香も村だったが、いち早く町になった。
それだけ栄えていたいたのか、山の価値がそうさせたのか、街道沿いを歩く人が多く宿場として栄えたのか。

わたしの産まれたところは城西地区の横吹。
その後、城西地区は佐久間ダムで潤った佐久間町へと合併する。
1956年(昭和31年)9月1日

日本のエネルギー 電気の時代の幕開け。

今、静岡県の山間地は若者の流失が激しい、ダムで出た電気のエネルギーは都会へと流れてく。

66年前、水窪の人が始めた北遠駅伝、其々の大会ごとに多くのランナーが走り競い争った。
その66回目に参加できたことに感謝する。

チーム名 さくまRC
順位 21位
記録 1時間46分57秒

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北遠駅伝の思い出。。。

むかし、むかし、私がフジユニバンス水窪事業所で働いていた頃。
北遠駅伝は1月に開催だった。
コースも、今とは大分違っていた。
一区(役場前から西浦の途中島まで)
二区(途中島から池島まで)
三区(池島から途中島まで)
四区(途中島から平沢文具店前)
五区(平沢文具店から向外戸)
六区(向外戸から役場前)
だった。
私は毎回、二区だった。
どうしてかな~。

一区は、今の水窪協働センターより城西よりの警察署横に役場は有り、そこがスタート地点。
走りだして、平坦なのはバイパスのわずかな所だけ、西浦に向かって登りの連続である。
途中島まではクニャクニャの曲がり道ばかり、それも上り坂。。。
私は二区で、そんな一区を走っている人を何人も見てきた。
トップで来た選手は、ガッツポーズで次の選手にタスキ渡しをしたが。
後の選手は満身創痍で倒れ込んでいる人が多かった。

我がチーム(フジユ二バンス水窪事業所)は、その過酷な一区の選手は毎年決まっていた、それは長尾の清さん。
私は何時もその清さんからタスキをもらっていた。
二区のコースは、ここも一区に負けず劣らずに上りのコースだ。
水窪でも奥の方だから、応援もかなりまばら
自分にとってはあんきで気に入っていた。

二区だから、早く走り終わり、チームの車に乗って自分のチームを応援しに行こうと話があり。
西浦方面から小畑の商店街に行こうと話が出たとき。
商店街の応援の凄さに驚いた(*'▽')
両脇に応援する人たちが大勢いて、今にも手が触れんばかりの声援だった。

今回の北遠駅伝。。。

今回、メンバーを集めるのに苦労した。
去年まで走っていたメンバーに連絡するも、用事ができて走れない人や、身体の調子がイマイチな人。
そこで、職場でお世話になっている人に、迷惑を承知で聞いてみたら、
軽くokしてくれた。
また、遠くは長野県塩尻のラン友達にも連絡して、来てもらった。

メンバーが集まらないと走れない。
一人ひとりの協力があって、感動のゴールがある。
今回も、なんとか北遠駅伝を参加して完走することができた。
良かった良かった。
(記録とか順位は聞かないでネ。私二区からのタスキ渡しのときは最下位でした)
最後尾の車に後ろから追っかけられて走るのは初体験でした(^O^)/
ゴールのときは最後尾ではなかったョ。
三区からの選手が頑張ってくれたのだ。。。

チームメートや大会関係者の皆様。
本当に
ありがとうございました。
byしんしん

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若かったころ、走る事なぞ考えもしなかったころ。
湖西市に住んでいて、佐久間に帰るようになって、水窪のフジユニバンスで働くようになって、職場の仲間から誘われたのが
佐久間駅伝だった。
チーム名は「フジユニバンス水窪事業所」
数年たって、地元 半場の消防八分団の会合時に団長から話が合った。
「佐久間駅伝の参加チームを半場消防八分団から出せないだろうか?」
話が盛り上がり、半場消防八分団だからチーム名は「ハッチ」にしよう(^O^)/
となった。
団長がポケットマネーでユニホームを買ってくれた。
選手は佐久間小学校横の消防器具置き場に夜7時に集合して練習した。
盛り上がった。
数年たって、佐久間町でもずば抜けて俊足だったO君が半場に引っ越してきたとの話が合った。
選手の一人が佐久間高校の同級生だとの事で、そのO君を半場チーム「ハッチ」に誘った。
その年、半場チーム「ハッチ」は町内在住在勤の部、三位だった。
半場チームは盛り上がった。
ところが二年後、O君は佐久間からいなくなり、半場チームは走る人もいなくなり、半場八分団も中部の消防団と合併するようになった。
そんな時、隣村の「川合」から、お誘いがあった。
「川合」では、川合の花の舞という伝統芸能がある。
川合花の舞チームからのお誘いだ。
無理言って、ハッチという名前を残してもらった。
「ハッチ&花の舞」
というチーム名で、何回も走った。
ところが、そのチームも、今年はメンバーが集まらなく参加できないと、私の携帯に連絡が来た。

今回、私が走ったチームは

「山香A」

町内在住在勤の部、第二位。

山香、西渡(にしど)の人たちと佐久間駅伝の慰労会。
西渡バス停横の「みどり屋」での飲み会だった。
初めての「みどり屋」多くの料理が出てきた。
西渡の人たちと、多くの話をした。
西渡の街を盛り上げようと頑張っている人たち。
佐久間町全体を見ても、これほど盛り上がっているところは、今は無いだろう。
佐久間町を日本で例えると

〆の「みどり屋」特製のラーメン。
ショッパさが疲れた身体と心に染み入った何とも言えない格別な味だった。
しんしん

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平成27年度第43回天竜区駅伝大会等実行委員会佐久間支部会
(第43回天竜区・佐久間駅伝大会)
こんな長ったらしい名目で、
3月30日(水)
今年度の佐久間駅伝の地域部会の連絡が来た。

携帯に予定を入れといたのだが、仕事から帰って来て何時ものようにビールを飲んでいい気分になっている時、
その体協からの封書が目に入った。
・・・・・・・・。
忘れていた。
慌てて役場まで向かったのだった。

定刻になり
支部長の挨拶から
協議事項は始まった。

(1)第43回天竜区・佐久間駅伝大会事業報告
(2)第43回天竜区・佐久間駅伝大会会計決算報告
   第43回天竜区・佐久間駅伝大会会計決算の監査報告
(3)第43回天竜区・佐久間駅伝大会への意見等について
(4)来年度の佐久間駅伝大会について
(5)その他

事務局からの「何か意見はございませんか?」の問いに
挙手があり
今年走った、ある選手からの意見があった。
「数年前にも言ったのだが、タスキの紐の通す穴が多きすぎるので何とかしてほしい・・・。」
「そのためタスキ渡しのとき、穴から抜けてしまう時がある」
その様なことを言っていた。
支部長が
「ミシンの使い方を教えてくれれば、私たちで縫ってみようか」
そんなことを言っていた。
役場の担当の職員に、気を使っての言葉なのか。
大きすぎるとは、どのくらいなのかナ~?
自分は三区を走ったが分らなかった。慰労会でその他の区間を走った人にも、そのような話は・・・なかった。
そういえば、だいぶ前の話になるが、この穴が小さすぎて大変だったことを覚えている。
自分は、そのとき初めて一区間を走り、、、やっぱり大変だった。
木の棒を拾ってきて、その棒を利用して無理やり入れた(≧▽≦)


さて、これが、今回の最大の焦点ではないか。
旧国道の土砂崩れ。


 (4)来年度の佐久間駅伝大会について
1、背景
  国道152号線(旧国道)の相月地内で発生した災害による、来年度の天竜区・佐久間駅伝の対応策について検討する必要が生じた。
2、状況整理
 ・災害の状況は、法面崩壊と路肩決壊。
 ・平成28年度に災害復旧工事で対応。
 ・現在のところ工期は未定。
3、対応の選択肢
  対応策には、次の選択肢がある。
①再度検討(課題)
・工事の発注を待って、再度検討する。
・工期が大会開催日前であっても、天候等による工期延長の可能性がある限り、現コースで募集する。
②コース変更(課題)
・新国道(相月トンネル)側に変更する。
・距離が短くなるため、二区中継所が混雑する。
・警察との協議が必要。
・警察から安全対策面への指示があった場合、これ以上のスタッフの増員は難しい。
③休止(課題)
・来年度の大会を休止する。
・再来年度の市負担金額が未定である。
来年度の駅伝大会を検討し、天竜区駅伝大会実行委員会佐久間地域部会としての結論を出す。
(最終的には天竜区駅伝大会実行委員会へ報告する)
 
この課題にとっての部員からの意見の中に
今回は休止にしよう。そのような話は全くというほどに出てはこなかった。
せっかく44回目を迎えようとしている佐久間駅伝の火を消すことは忍びないと思っていることだろう。
しかし、守っていくのも大切なことだが、時代に沿うように変化していく事も、また大切なことだと思う。
駅伝は多くの予算を必要とする。いま、浜松市になり、ここ佐久間は巨大な政令指定都市浜松市の片隅 天竜区の一部なのだ。

そう。
私は、マラソン大会にするのがベターだと思っている。
予算も駅伝ほどかからないし。スタッフは駅伝より少人数で済むし。
と前々から思っているのだが、、、。

この会合では、何も言わなかった。


(5)その他

コース変更(課題)の中の

・警察から安全対策面への指示があった場合、これ以上のスタッフの増員は難しい。
とあるのだが。
役場の職員として
佐久間から天竜や浜北などに引っ越していった人への気遣いが感じられる。
ワザワザこのようなところまで来てもらうのは大変だと。
それは違うと思うのだが、、、。
もっと積極的に、町から田舎でのイベントに応援に来てほしいとアピールするべきだと思う。
また、町に出ていった人もそんな誘いがあったなら、大変だけで時間適余裕があるのなら協力したいとの思いがある人が、きっといると思う。
佐久間町は平成の合併で巨大な浜松市の一部になることを決め、当時山間部の役所に勤める人たちはそれぞれの自分の生き方を決め道を進んだ。
今現在、暮らしているところは違えども佐久間は故郷なのだからきっと帰って来ると思う。

そう思う。
byしんしん


 

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自分が生まれれる前からの
駅伝大会。
北遠駅伝大会に行ってきた。

64年前というと
1952年(昭和27年)
戦争が終わって7年後に行われた駅伝大会だ。

飯田線が水窪に通るようになったのが30年11月と書いてあるから
http://yamaiga.com/rail/iida_sakuma/main.html
飯田線もない時代に
この「北遠駅伝」は始まったのだ。

今回は、このメンバーでの「北遠駅伝」参加になった。

チーム名は「さくまRC」だが、寄せ集めのメンバーだ。
職場の仲間や佐久間駅伝ではライバルチームだった人に助っ人を頼んだ。
昔、水窪で勤めていた会社「フジユニバンス」の仲間も一緒に走った。

私は当初、2区を走るはずの予定でいたが、朝、マボーから電話で
「俺が二区を走るので三区と変えてほしい」
と連絡を受け
急遽、三区を走るようになった。
三区は
城西の向皆戸(むかいがいと)が中継地点だ
走る前のウォーミングアップで走っていたら遠くに城西小学校が見えた。
 
この小学校は、私の母校。
横吹から飯田線で通った学校だ。
しかし、この城西小学校も再来年で閉校するという。

浜松市に合併し、人々はより便利な都会へと離れていく、住む人が少なくなり子供たちも少なくなり
学校が閉校していくのは、いざ仕方ない事なのだろうか。

私の走る区間三区は
城西の商店街を駆け抜ける。
知り合いも多く、私を知る人は、声をかけてくれる。

このゼッケンをつけ
第三区
城西向皆戸橋~小畑平澤文具店前までの4.1㎞
を、身持ち良く走ることができた。

27年前
ここ佐久間に帰ってきて
フジユニバンス水窪事業所で働くようになって
職場の仲間に駅伝を走らないか?
と誘われ、走るのが趣味となった。

その頃、山口ゆきに~という人がいて
自分は
「こんな年寄りでも走ることができるのだ」
そんな風に思った。
今はそんな山口ゆきに~よりも年寄りになった。

年のよりより、無理出ずに、それなりに、走っていこう(^O^)/

byしんしん

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プロフィール
HN:
しんしん
年齢:
64
性別:
男性
誕生日:
1960/02/20
趣味:
走ること・空手・詩吟
自己紹介:
12市町村が合併して出来た新浜松市
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。

合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。


袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns

”しんしん”55歳  
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