ヒロボーさん企画のウルトラマラニック今回で二回目となる。
去年は、私、佐久間でボランティアでエイド
今年の始め佐久間から佐久間ダムに行く道(県道1号)が、崖崩れ、ヒロボーさんからどんな様子か問われ見に行った。
そんな時、今年もボランティアでエイドの話をしたが・・・・やはり225k経験するのも・・・っと考え、申し込んだ。
2月 222.5㎞
3月 342.0㎞
4月 280.5㎞
と、走り込んだ。
そして迎えた2017年のゴールデンウィーク。
5月3日、飯田線の始発列車(6時15分)でスタート地点である諏訪湖の岡谷駅に向かった。
所要時間4時間44分
岡谷駅から諏訪湖まで歩いて移動。
諏訪湖の釜口水門に行く。
もう集合時間は過ぎている。
急いで着替え受付を済ませる。
多くの仲間と目指すは静岡県磐田市竜洋海洋公園レストハウス「しおさい竜洋」
今回、西渡バス停~西鹿島までバスでワープ。
約20㎞短縮した。
それでも、疲れた身体での西鹿島からの25㎞は大変だった。
途中、名倉さんのエイドに助けられた。
果物を腹いっぱい頂いた。
元気が出て快調に走れだしたが道程が長く、掛塚橋までモウロウとしだしたとき
よっぴーとヒロコちゃんが来てくれた。
そこで回復して、掛塚橋をくぐり、道行く人に写真を撮ってもらった。
最後の「遠州大橋」をくぐり土手に登って天竜川河口を眺め掛塚灯台を回り込んで竜洋海洋公園レストハウス「しおさい竜洋」につくも誰も居ない。
携帯で電話して宴会場に顔を出しゴールをした。
風呂に入り、宴会に加わり、美酒に酔いしれた。
尋常ではないウルトラマラニック。
大変だった。
しんしん
57才の挑戦。
途中ワープもあったけれど、自分なりによくやったと思う。
3時間も遅れてきたけど、自分なりに達成感があり満足している。
ありがとう。
ヒロボーさんを始めボランティアのみなさん、多くの人に応援していただいて何とか遠州灘にたどりつくことができました。
感謝です~♪
走る先生の授業、 「明日の学びの舎」を読んだ。
この本との出会いは、森町三倉での森信三先生の本「修身教授録」の読書会だった。
走る仲間での勉強会に、若い体育の先生が現れ
その先生が、森信三先生の「修身教授録」に感銘を受け
「子ど向けの修身教授録があってもいいと思い、今、そんな本を書いています」
そんな話をした。
先月の勉強会で、またその先生が現れ本が完成したと報告に来たのが、この本との出会いだった。
「明日の学びの舎」
走る先生の授業がキミの人生を変える。
1、立志編 学ぶということ
4月~8月
国語・算数・理化・社会
2、志込編 走るということ
9月~12月
体育・道徳・図工・音楽
3、実走編 生かすということ
1月~3月
外国語・家庭・総合学習
シロフネ小学校の6年生を教える二見先生
課外体育のみを担当する非常勤講。
一年を通して
生徒への授業で課外体育をもとに
「生きること」「学ぶこと」「走ること」を教え、お互いに学び合って、自分も生徒と共に成長していく。
「明日の学びの舎」
明日は
天竜川リバーサイドウルトラマラニック225k
だ、何時までも学んでいきたい。
明日は
体育の授業。
いや
長野県から愛知県・静岡県を見て回る
地域の授業だ。
byしんしん
「平成28年度の活動を振り返って」
活動テーマの「活動の継続を意識しながら今求められている私たちの役割を再確認しよう」
1.県内9000人のドナー登録者確保のための確実な取り組み。
会としては東・中・西の献血ルームに月一回説明委員を派遣して、献血に訪れてくれる方に登録を呼びかける活動をしている。
・・・・・。
2、造血幹細胞提供における公的支援制度導入に対する働きかけ強化
移植に伴うドナーさんの休業休暇や雇用主さんの損害を公的に、つまり税金によって賄ってもらうと言う「公的支援制度」
3、社会的な責任を自覚した活動の具体的な展開
4、組織力強化対策の展開
マンパワー不足・資金不足の状態が続いている。
広報誌で「会員募集」を呼びかけているが、なかなか新しいメンバーを得ることができない、どうすれば魅力ある活動になるのか?
テーマが多少重いものである事から、ひたすら楽しいだけでも困るということも原因していると思います。
一方確実な収入源を持たないがため、資金不足が続いています。実際会員の持ち出しに依存している部分もあるのが事実です。ここ数年「活動運用費」のやりくるで何とか・・・・・・・。
最後に
静岡県立こども病院医学図書室司書
塚田薫代さんの 講演があった。
もがき・闘い・葛藤
心理的な成長
PTSD(Post Traumatic Stress Disorder :心的外傷後ストレス障害)
詳しくは↓
https://makeyousmile.info/media/2693/
様々な本の紹介も。
会が終わり。
静岡駅ビル内で慰労会。
新幹線・飯田線を利用して佐久間に帰ってきた。
に、行ってきました(^O^)/
場所は静岡県静岡市 駿府公園近くの
10年前、初めて行ったときには飯田線の始発の電車に揺られて参加してみた。
それが、2014年
東海道を走って静岡まで行こうと思い立ったのでした(^O^)/
日曜日は「静岡骨髄バンクを推進する会」の総会だった。2014
掛川駅から日坂峠を越え島田に出て、大井川の橋を渡ってすき家で牛丼食って、もっと頑張ろうと思ったが、チョット無理だと考えて藤枝駅から電車で静岡駅に行って総会に参加した。
今年、2017年
そいじゃ~。
今年は、菊川駅から走ろうと計画して実行した(^O^)/
藤枝駅から北上し藤枝市に合併した岡部町を通り宇津ノ谷峠を越えて静岡市に入った。
岡部町の観光協会でパンフレットをいただき、宇津ノ谷峠の説明をしてもらった。
明治のトンネル・大正のトンネル・昭和の平成のトンネルの話。
蔦の細道の話。
チョットふっくらした観光協会の女性は、岡部町・東海道の説明を丁寧に語ってくれた。
そこの地で出会った人が、そこの地の第一印象を自分に印象付ける。
岡部町は初めて行った土地だけど、自分にとっては好印象の地域に感じた。
今回、宇津ノ谷峠で明治のトンネルに向かった、半袖のTシャツで走っていた自分に「トンネル内は寒いですョ」と若い女性が声かけてくれた。
明治のトンネルを抜け、宇津ノ谷峠地区カントリートレイル案内図の看板を背に写真を撮ってもらう。
その人の連れの女性が
「どこから走ってきたのですか?」
そう言われたので
「藤枝駅から」
と、答えた。
また、
「これから駿府公園を目指します」
と言うと。
「頑張ってください」
と笑顔で答えてくれた。
宇津ノ谷峠地区は東海道の宿場町そのままの綺麗な街並みだった。
自分は東海道を忠実に走るつもりはなかった、それぞれの街が地域がどんなになっているか、そんなことを感じたかった。
綺麗な街並みは、そこに暮らす人たちの気持ちで維持されているのだと思う。
そのまま静岡市の駿府城跡の公園に、ちょうど2時ごろ到着
に行って。
「静岡県骨髄バンクを推進する会」の総会に参加しなければ(^O^)/
つづく。
三月の終わり。
送別会があり、多くの人が佐久間を出て行くのを見送った。
そして、先日
見送った、ある人から
お礼の、贈り物とハガキをいただいた。
大過なく職務を全うできた。
大過なく→大きなあやまち。大変な失敗。
今、私が読んでいる本
「明日の学びの舎」
走る先生
若い体育の先生の授業をもとに進んでいる内容の本だ。
その中に
大変→大きく変化すること
と書いているところがあった。
しんしん、56才
今年のゴールデンウィークには
天竜川を諏訪湖から河口の太平洋まで走ろうと思っている。
「天竜川リバーサイドマラニック」
大変なこと、大きく変化すること。
先日、行った
中田島砂丘を未来につなげるシンポジュウム
九州大学准教授 清野 聡子先生の
「景色が悪くなると人がいかなくなる、どうでもよくなる」
そんな言葉が気になる。
私が暮らす浜松市の天竜区
特に、佐久間・水窪・龍山
多くの物が無くなっていく。
私が暮らしている半場、28年前には酒屋があり食堂ありスーパーもあった、今は何処も営業を辞め、なにも無くなった。
最近は、車で3㎞先の店に買い物に行っている。
浜松に出た時に買い物を済ましてくる。
もし、今、自分の家が無くなって、次に、どこに家を建てようか、家族で相談してみるときが来たとする。
また、今の半場に建てようか?
そんな答えは出るだろうか?
家族のそれぞれが、今の暮らしているところで知り合いができ、コミュニティが形成されている。
ここ北遠(半場)に暮らしたいけれど、今までの北遠(佐久間・水窪・龍山)ココに暮らしていて、57年間、ココの北遠の移り変わりを目の当たりに見て、それでもココで暮らしたい、そういう地域になっているだろうか?
九州大学准教授 清野 聡子先生の
お・こ・と・ば
「景色が悪くなると人がいかなくなる、どうでもよくなる」
私は横吹という山の中腹にある斜面集落を出た。
それは、今これからの車社会の時代に村道を造ることができないことに覚悟を決めて越してきた。
その横吹の家は畑は、昔の面影など何もない正にどうでもよくなった状態になった。
今、時代が変わり。
28年前の横吹を出た時とは変わり。、
私たちの暮らす、北遠(佐久間・水窪・龍山)も、このままではどうでもよくなる、そんな所になっていく、住んでいて浜松市の行政の対応、でそんな雰囲気が漂ってくる。
去年11月に
近畿大学名誉教授・文化功労者
野本寛一先生の記念講演があった。
第30回 常民大学合同研究会 だそうだ。。。
その先生の、第一声に
われわれ一人ひとりの主体性をどうするか、一人ひとりが主人公で考えなければならない。行政が悪い政治が悪いそんなこと言っててもはじまらない、自分はどうだなのだ。だからどうするんだ。というふうに考えなければならない。
そんな言葉があった。
私の敬愛するヒロボーさんからコメントがあった。
近江商人の商道に
「三方よし」という教えがある。
これは
あなたよし
私よし
世間よし
これが・・・三方よしです。
浜松市も
山間部よし
海岸部よし
中心市街地よし
の「三方よし」の地域になって欲しい。
九州大学准教授 清野 聡子先生の
「景色が悪くなると人がいかなくなる、どうでもよくなる」
このままでは どうでもよくなる地域になるかもしれない北遠(佐久間・水窪・龍山)
本当に「三方よし」の地域になって欲しい。
浜松市。
に、行ってきました。
数年前、遠州灘に防潮堤を造るという話があり、浜松市南区に暮らしているラン友が松の伐採が始まったとFBで投稿していた。
丁度そのとき、次女が馬込川近くにアパートを借り引っ越しに行った。
そんなとき書いたブログ
http://hokuen.blog.shinobi.jp/%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0/%E6%9C%9D%E3%83%A9%E3%83%B3%EF%BC%88%E6%B5%9C%E6%9D%BE%E7%B7%A8%EF%BC%89
中田島砂丘が無くなる。
シンポジュウムで講師が話していた。
人の手で砂丘に、何らかの対策をすることによって、砂丘独特の風紋が無くなり草原化していく。
また、今、心配している防潮堤を造ることによって、中田島砂丘がタダの砂浜になり、また砂浜も無くなるかもしれない。
しかし、浜松市街地に暮らしている人は、防潮堤は欲しいだろう。あの東北の大震災、津波被害を目の当たりにして、そんな気持ちはわかる。
何かやることには、良いこともあれば悪いこともある(リスクとベネフィット )世の中の全ての物には、必ず良い面と悪い面がある。
次の講師は女性の講師だ
九州大学准教授清野 聡子先生
http://hyoka.ofc.kyushu-u.ac.jp/search/details/K003606/
軽快な口調でのお話、日本のあらゆるところで砂浜が無くなっていく現実、人の営みを津波から守るため壁で囲まれた漁村。村民の「今まで海を見ながら育ってきた、海を見たい」そんな要望に壁に海を見る穴を施した行政の話。
防潮堤を地域の人に知らせるためのパンフレットには砂浜が無く、川もない。
中でも、私の心に残った話
「景色が悪くなると人がいかなくなる、とうでもよくなる」
今年の3月11日
私は中田島砂丘に行った。
始め、浜松駅前で城西小学校同窓会の打合せのため駅前で終わりにするはずだった。
丁度3月11日、中田島砂丘まで足を延ばした。
http://hokuen.blog.shinobi.jp/%E5%9F%8E%E8%A5%BF%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%90%8C%E7%AA%93%E4%BC%9A/%E5%9F%8E%E8%A5%BF%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%90%8C%E7%AA%93%E4%BC%9A%E3%81%AE%E6%89%93%E5%90%88%E3%81%9B%E3%80%82
質問者の中に舞坂の人の話が合った。
「防潮堤を造ることによって、天竜川などに津波が集中して二次災害になることはあり得るでしょうか?」
「浜名湖、今切れ口からの津波が心配です」
リスクとベネフィット
浜松市は、中心地の事ばかりを考えるのではなく、過疎地にことも考えてほしい。
それは、上から目線で、これをやっている、そういうのではなく、もっと地元の人と会話して一歩進む、そんなことを考えてほしいと思った。
公務員は人の役に立ってこその公務員なのだから。
byしんしん
話は前後するが
幼稚園のときの先生が
サンタカ先生
(記憶はないが、名前は何故か覚えている)
城西小学校
一年のときが
櫻井先生
(水窪で母親が同級生だったそうだ。優しい先生だった)
二年のときが
鈴木先生
(女の先生でヒステリックでヤタラ張り倒させた思い出がある)
三年のときが
新間先生
(優しく何時もニコニコしていたような)
四年のときが
横田先生
(厳しい先生で、無精ひげのときは覚悟を決めていた・・・、また忘れ物をしてその罰にと職員室に呼ばれ「何で呼ばれたかわかるか」と問い、額に油性のマジックで×と書かれた)
五年・六年のときは
伊藤先生
(穏やかな神々し先生、そう頭のツルツルだった先生だった)
隣の二組の先生
北野先生
(音楽の先生で、授業中ふざけていると、いつもスぺリオでたたかれた)
この様な先生方に、城西小学校時代
私は慈愛に満ちた教育を施されて育っていった。
城西小学校のときは、二クラスだったが、佐久間中学校では三クラスになった。
A組・B組・C組
私はB組になった。
担任は深田先生、今でも名前を聴くだけで背筋が伸びる。
幸か不幸か、佐久間中学校三年間は深田先生の下での学生生活になったのであった。
ジャンジャン
つづく。。。
飯田線、相月駅、
そこの
水窪川の向こうの山の中腹にあるのが横吹(よこぶき)
しんしん少年が生まれたところだ。
1960年(昭和35年)の冬
産声を上げた。
1956年(昭和31年)
佐久間町は3村1町(佐久間村・城西村・佐久間村・浦川町)が合併して出来た町だ。
その当時、佐久間町は東洋一と言われる佐久間ダムが完成し、好景気に浮かれたいた。
私の生まれた横吹は城西地区。
城西村の村長は、議員の人たちは佐久間町への合併を選んだのだろう。
町立幼稚園が出来、私は城西幼稚園一期生だ。
横吹の山の中腹にある家から、一円玉でくるんだハンカチと定期券を首にブル下げて幼稚園に送り出したと、昔、母親が言っていた。
無事に家に帰ってきたときにはホットシタとも言っていた。
横吹は山の中腹の村だが、当時は子供も多く、楽しい毎日だった。
しんしん少年は、城西小学校に入学した。
一年生のときは木造校舎。二年生の時に鉄筋コンクリートの今の校舎になっている。
城西地区では、町民大会(町民大運動会)を、毎年やっていた。
城西地区のなかでも山奥の横吹の人たちは、町民大会では大活躍をしていた。
小学校低学年までは、横吹にもお店があった。
テラクボ(苗字は久保)
駄菓子やクジなどを売っていた。
店にはハンというオバアサンが店番していた。
久保ハン
耳の遠いオバアサンだったが、悪口を言うと返事をした。
横吹の山の上の店に、商品を運ぶ時がある。
山の麓(国道152号)で商品をサクドウ(ゴンドラのような物)に乗せ山の中腹の村に運ぶのだ。
村の子供はエキサイトした。
そんな時期に、村に道路を造る話が合いをしに父親が村の集会所に行くようになった。
「これからは車の時代だ」
父親が言っていた。
また、こうも言っていた。
私の家があったところの街道は、チョンマゲを結った人が歩いた道。
その下の街道は、大八車が通った道。
水窪川沿いの国道152号線、車が通る通。
そう、これからは車の時代だ!
しんしん少年、佐久間中学校へ行く。
今まで飯田線 相月駅から水窪方面に電車に乗っての通学だったのが、これからは佐久間方面へ行くのであった。
途中、長い峰トンネルを行けると空気が変わった。
佐久間中学校を卒業してくる子供は、城西小学校の児童とは違うように見えた。
キラキラと輝く都会の子供に見えた。
クラスは三クラス。
A組・B組・C組
一クラス30人での授業となった。
中学校から英語の授業が始まる。
先生は爬虫類のような顔つきで背広の肩には何時も白い粒が着いていた。
「デスイスア・・ペン」
つづく。。。
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。
合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。
袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns
”しんしん”55歳
2015/11/25現在。。。
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S | M | T | W | T | F | S |
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