何時の日だったか、わたしの職場に元佐久間町役場の職員(今浜松市の職員)がきて「体育協会の今泉さんが体調が悪いので、代わりに事務局長をやってくれないか」そんなことを言った。
噂には聞いてはいたが、かなり悪いのか?
その人の息子は、わたしの息子と同級生、また最後の県市町村駅伝で大変御世話になった人だ。断る理由など一つもない
「こちらこそ、できる事はやらせてもらいます」と答えた。
まだ原田橋が通ることができて、わたしは浦川の方面まで走りに出かけた。帰り、今泉さんの家の前で孫を抱っこしている今泉さんに出会った。話をして、その姿を携帯で撮った。
体協の仕事や会議で夜、佐久間協働センターに行き様々な事をやるようになる。当時佐久間体育協会の支部長は浦川の人だった。
その人も、区長をやったりナンダカンダで大変だと話していた。支部長の変わりはいないかと探していた。
ある日、体協の集まりがあり、支部長が半場の元体育の先生に○井さんから電話連絡してくれないかと、アポをとってくれないかと話があった。
「今どこです~。話したいことがあるのだけど」こんな時、女性の優しい声が武器になる、と思った。
そして、支部長に「半場だから、そこへ連れってくれと」いきなり言われた、ドッキリ。
そこに行き、支部長が、その人と話をして、協働センター帰ってきた。
その人とはノリオ先生、話はうまく言ったそうで次の年度から、ノリオ先生が佐久間体育協会の支部長となった。
ノリオ先生はわたしが佐久間中学校一年生のとき、教員として新規採用されノリオ先生も先生として一年生だったそうだ。
その後、佐久間町や竜川の中学校に勤めたそうだ。佐久間町で佐久間町の中学校を在学した人には結構名の知れた先生だ。
わたしが佐久間町に帰ってきて、佐久間駅伝に初めて参加したときの支部長は、北村ショウ兄だった。当時開会式は浦川中学校のグランドだった。佐久間病院の先生は軽部先生で走る前の注意事項を話した。
北村ショウ兄の挨拶はガラガラ声で、ノリオ先生と少し似ている。
そんな佐久間体育協会、今自分の個人的な問題がある。
それは、もう一つ役員としてやっている安全協会のこと。安全協会は前任者が半場の祭りのときに体調不良で倒れ、そのあと自分のところへ代わりにやってほしいと服を持って来た。
その倒れた現場に居た自分は断ることができなかった。 「他を当たったてョ」なんて言えなかった。しかし、用事があるときは出来ないとは言った。
その問題とは、佐久間駅伝大会に山香のチームで参加をしていること。
その佐久間駅伝大会は、佐久間町の安全協会のメンバーもボランティアとしてでなければいけない。
去年までは、ある人が、そのボランティアを安協をやっていてくれたのに、わたしの配慮が足りなかったせいだろうか、やれないと言われた。
いくら地元のボランティアだと言っても、一日中道路に立っているのも苦痛だとは思う。
その人に安協を頼んだ人は山ちゃん。その山ちゃんは子供と一緒に暮らすと佐久間町には長くはいないという。
どうなっていくんだ佐久間町、この問題、浜松市全体の問題として考えてもらいたい。
チョット大げさかな(笑)
平成から令和に、
その平成31年4月28日、私は家内(青森県)の実家に行くために出かける用意をして車で中部天竜駅横の浜松市営駐車場に行った。
軽く口喧嘩をしながら中部天竜駅の改札口を抜け、11時21分初の特急伊那路に乗った。
そしてポケットにあるはずのスマホを・・・・・。
無い、無い、無い。。。
さっきまで角張ったのがスマホだと思っていたものが、実はデジカメだった。
スマホは、、無い(泣)
家に電話をすると、コタツの下にあるとの答え。
4日間、スマホの無い時を過ごした。
本は八ッ塚実さんの「人間学」中村文昭さん・大嶋啓介さん「僕たちの夢のつかみ方」の二冊持ってきた。
丁度いい機会だ本を読もう。と思った。
大嶋啓介さんはどんなに悪いことがあっても、ピンチをチャンスに変えると書いてある、全て肯定的に考える。発想の転換をしてピンチをチャンスに変える。
平成の28日~令和の1日までスマホの無い時は充実していた。
無事に帰ってきてスマホを見たら、多くの人からのライン、FB、ブログのコメントが来ていた。
また何時のも時に戻った(笑)
俺の忘れ物は本物、首にぶら下げるとの案もあった、考えなければいけない、かな(笑)
昨日の修身教授録、勉強会&読書会、主催の萩田さんの悩みの話があった。
それは保険屋さんが良く言う「2人に1人はガンになる」「3人に1人はガンで死亡する」という言葉からガン保険に入ろうか入らまいかの悩みであった。
私は、この会に出会い、悩める自分の心が落ち付いてきたと感じる一人である。
自分、このままでいいのだろうか?
とか思っていた、そんなときがある。あった。
「やらないで後悔するより、やって後悔した方が良い」
そんな言葉で励まされたことがある。
誰だって悩みがある。
自分の昨日の悩みは、スマホを忘れた事。
たぶん家に、自分の部屋の寝床の枕元にスマホを充電したままになっていると思う。
もしかしたら、西渡(にしど)のミドリ屋で塩大福を買おうとするときにジャージのポケットから落としたのかもしれない。
悩んだ。
森町三倉の勉強会&読書会が終わり、家路を急いだ。
佐久間までの車の運転、最近の腰痛で難儀だ途中、龍山の やすらぎの湯によって腰を揉んで帰ろうと思って寄った。
大きな風呂に入り、ストレッチをして、マッタリして、腰の調子も少し良くなった。
脱衣所で着替え、ボーっとしてたのか、休憩室に行って、またストレッチ。
受付の人に挨拶をして、駐車場に行って車に乗って秋葉ダム堰堤を走っていると時計が無いのに気づいた!
慌てて やすらぎの湯に戻って脱衣所に行ったら、あった、大切な時計。
は~。
そこから佐久間を目指し、まだ車での移動、ようやく家に到着、部屋に行って枕元・・・あった。スマホがあった。助かった。ホッとした。
一日スマホのない不安な時だった。スマホがあるとホッとする♥
スマホを起動して予定を見ると、なんと、夜7時半半場親睦会の会合の日だった。
悩み事は誰でもある。人それぞれいろいろな悩みが。
今回わ。。。
第7講「大志を抱け」
志を立てるということは、ローソクに火を点すようなもの、ローソクは、火を点けられて初めて光を放つものである。
同様に人間も志を立てて初めて人としての真価が現れるもの、志を立てない人間は酔生夢死の徒に過ぎない。
真の志とは、この二度とない人生をどのように生きたら、真にこの世に生まれてきた甲斐があるかということを考えて、心中につねに忘れぬということ、結局最後は、「世のため人のために」という所がなくては、真の意味での志とは言いがたいのです。
原文から
酔生夢死 (すいせいむし)
何もせずに、むなしく一生を過ごすこと。生きている意味を自覚することなく、ぼんやりと無自覚に一生を送ること。酒に酔ったような、また、夢を見ているような心地で死んでいく意から。
最後の話し合いで
私:「佐久間中学校では立志式をやってるョ」
立志式とは
元服にちなんで(数え年の)一五歳を祝う行事。参加者は、将来の決意や目標などを明らかにすることで、おとなになる自覚を深める。
旧佐久間中学校では中学校3年生の時に将来の夢を書き、体育館前の真珠が丘の中に保存して二十歳の時にそこから出して見ることを続けていた。たぶん。
昔の記憶では、そんなことをやっていたような気がする。たぶん。
第8講「気品」
気品とは
どことなく感じられる上品で気高い趣。「気品のある物腰」「気品の感じられる文章」
goo辞書から
気品とは先祖代々続いて出来てくるもの、後天的な人間一代の努力や修養だけでは出来ないもの。
相月駅から見上げた横吹の斜面部落で育った私には、気品だだよう品性ある人間になることは無理だ。
いや、多様性、気品ある人も、わたし達のように武骨な人間も、またいいのだ(^O^)/
武骨→ 洗練されていないこと。無作法なこと。また、そのさま。「―な振る舞い」
最後萩田さんからの言葉。
縁尋機妙(えんじんきみょう) 多逢聖因(たほうしょういん)
https://ameblo.jp/dokugakuman/entry-11927730731.html
生きていることは、借りをつくる事
生きて行くことは、その借りを返す事
平成のときの勉強会は終わりました。
令和の時代に、また逢いましょう。
おわり
14日(日)に、ホウジ峠に走りに行った時から右臀部から太腿後ろ側が深部に違和感が、一週間走るのを控えていた。
金曜日の昼、調子が悪いので仕事を半日で終え、豊田町の成良治療室にて身体のケアをしてから余呉湖を目指した。
ラインで猪肉を持っていくョと連絡、ウッディパル余呉湖に夜七時に着いた。
身体のケア、揉みほぐしたその時はよいが、やはり違和感が。
そんな感じで前夜祭を終わり、バンガローの帰って睡眠ZZZzzz
20日(土)7時
ウッディパル余呉湖のスキー場をスタートした。
今回も、楽しい仲間が集まり走り出した。
昨日マッサージしたが、やはり、足が〜~痛い~。
騙しだまし、走った。
途中、いつものように踏切でストップ。
余呉湖に入って、一周二周、お、ユーレイが居た。
着物では走りにくいのか、裾をあげて生足をモロダシで走っている。
鼻耳ブ~
(* ̄ii ̄)ブー
手前のTシャツの人もたくさんいた。
飲むなら走れ、走ったら飲め
こんな人にも抜かれた。
「ナニ?」と聞いたら
「ブドウ」だって。
ネットで買った、そうだ。
あ、ワラーチじゃん。
凄すぎる。
私より、10歳以上も年上の山草人さんと並走、「もうダメ、先に行って」
今日はダメだ、もう少し走ったらリタイヤしよう。そう思ていた時に
7週目「下を向くじゃない、まっすぐ前を見よ」私にカツを入れる人が来た。
ヒロボーさんだ。
わかっちゃいるけど足が痛い。
ヒロボーさんの背中も小さくなってくる。
最後、周回、満身創痍、歩を止めないように進んだ。
朝7時スタート。制限時間は10時間、ゴールは17時
自分がゴールしたのは16時59分
しんしん五回目50周余呉湖を回った。
50週目は
ボロボロのゴールだった。
余呉湖、
天女の羽衣伝説ウルトラマラソンの楽しみは後夜祭
楽しい仲間と楽しく苦しく走って、最後に(酒)
そんな滋賀県余呉湖のイベントだった。
それにしてもユーレイ、チーム車座の人だと聞く、後夜祭のときもユーレイだった。
本物の顔はどんなんだかナ~、気になる(笑)
それはイメージ。
先日ラインで エミール、クーエの法則の話が来た。
イメージが大切だと。
たとえば五円玉を木綿糸で吊るし、自分の目の前で持っていたとする。
その五円玉を、右左にスムースに動かそうと自分なりに努力しても簡単にはスムーズには動かない。ぎこちない揺れ方をする。
しかし、その五円玉を「動け。左右に動け」と頭の中でイメージすると。
あーら不思議。しばらくすると、その五円玉が左右にユラユラ揺れる。
イメージが大切だと、その人はタップダンスで観衆の前で演じている人だ、そんな人だからこそイメージの大切さを教えてくれた。
私が暮らしている佐久間町、誰が何と言おうとも楽しい。
そんなイメージを持ちたい(笑)
2001(平成13)年、私の所に佐久間町の役場の人が来た。その人はわたしより一学年先輩の角兄(カクに~)
佐久間中学校で一学年先輩だ。
その角兄が言うには「井辺君を県市町村駅伝に誘ってほしい」ということだった。
井辺君とは朝のジョギング時によく出会う。そんな時に角兄の話を伝えた。
佐久間中学校時代の二年先輩の太田マーボーも走っている、そんなマーボーの娘と私の娘も市町村駅伝の予選に参加した。
それからマーボーも私も市町村駅伝の練習に参加した。
2002(平成14)年、静岡県市町村駅伝の佐久間でのチームを選択する予選会があった。男性40歳以上の部、マーボーとデットヒートの末勝ち取った補欠の枠だった。
ま、補欠だから選手の付き添いだから、気は楽だ。った。
それでも静岡新聞に自分の名前と顔写真が記載されコメントも書いてある。それも見た知り合いから電話もあった。
2002年11月29日の金曜日、仕事を半日で終わり、役場の前で多くの職員に見送られマイクロバスに乗って佐久間町から静岡市に向かった。
静岡市のグランシップで市町村駅伝の開会式は行われた、佐久間町と書いたプラカードを先頭に選手の一人として私も行進した。
観覧席からは地元小学生の「佐久間~~」の声援が聞こえた。壇上には静岡県の市町村の首長が勢揃いしている。我が佐久間の町長 小原侃之輔さんは背が高く頭が光っていてひときは目立っていた。
平成12年~14年、NHK学園で学び卒業した。そして平成15年にNHK社会福祉学科に入学し、二か月に一回名古屋の愛知東邦大に通った。
NHK社会福祉学科を選択したのは、この学科を卒業すれば介護福祉士の免許を受けることができるからだ。
2004(平成16)年、この年、その介護福祉士の学科の試験が1月25日愛知県の大同工業大学であった。とても多くの人がいた、受験番号を頼りに教室を捜し、やっと見つけたその教室には自分の番号だけが無かった。おかしく思い会場の人に聞くと、チョットした手違いで間違ったそうだ。急遽違う棟に移り机に座った。はじまる前からやな感じがした。ところが数日後合格のハガキが届いた。
走る方も、それなりに頑張っていた。
介護福祉士の学科の試験の帰り名古屋からの帰りの途中で、新城運動公園によって5㎞軽くギョギングした。思いで多い新城運動公園だから近くに来たので寄ってみた。
その年の
2月2日森町ロードレース21㎞ 1時間33分43秒
2月23日天竜杉の里21㎞ 1時間39分00秒
3月 7日、介護福祉士の実技試験の日、場所は愛知県の同朋大学、電車で行く名古屋では雪が舞っていた。
勝負服に2000年2月20日自分の40歳の誕生日に走った青梅マラソンのTシャツを着て臨んだ介護福祉士の実技試験、そのモデルは男性だった。噂によると女性のモデルの方が合格率が低い、とか。少し安心した。
3月21日 豊橋ハーフ 1時間40分01秒
貧血気味で、タイムも振るわない。
4月04日 秋葉ダム桜マラソン10㎞ 39分44秒
何もかも順調に進んでいると思っていた。次は、次のマラソン大会は4月27日の小笠・掛川マラソンが目標だった。
2004年4月13日火曜日、仕事を6時に終わり自転車で佐久間小学校に行き、私のもう一つの趣味「空手」の稽古をするために体育館に入り師範に「中学生を相手に組み手を」といわれ、その中学生を相手にしているときに、頭の遠くで不吉な痛さが、少し休憩すれば治ると思っていたが、だんだんその痛さが増してきた。携帯を貰い119に電話した。
佐久間病院は、仮設の病院だった。CTで撮った写真を見てドクターが「出血してます」と、外はもう日が暮れ真っ暗、ドクターヘリは飛ぶことは出来ない。
佐久間病院から三方原聖霊病院まで搬送が決まった。曲がりくねった国道を走る様子がなんだか記憶している、ような気がする。
記憶が無くなって五日、土曜日の昼、自分は病院のベッドの上だった。病室の洗面台に行き鏡で顔を見ると右の頭に大きな絆創膏を貼った無精ひげの自分が鏡に映っていた。
リスクとベネフィット
世の中のものには、プラス面とマイナス面があります。
プラスの面をベネフィット(便益)といい、マイナス面をリスクといいます。
リスクは日本語の「危険」とは違い量的な意味で使用され、望ましくない害が起こる可能性の程度(確率)を指します。
実際に発生した時の害の大きさが異なる場合には、その大きさと発生する確率との組み合わせで定義されることもあります。
ベネフィットは大きければ大きいほど良く、リスクは小さければ小さいほど良いのです。
しかしながら、人がベネフィット得るために何らかのものを利用しようとする限り、いくらかのリスクは避けられず、それを完全に無くすことは決してできません。さらにいえば、リスクを完全に無くしてベネフィットだけを得ることは不可能です。
今日読んだ、ある冊子のコラムに書いてあった。
「リスク(危険性)とベネフィット(便益)」
世の中の全ての物には、必ず良い面と悪い面がある。
2012/04/12 (Thu)に書いた自分のブログ「ほくえんの風」から。
走ることにも、良いことも悪いことも、有るのかナ~。
FB(フェースブック)をやっていると、続けていると、何年か前の自分が投稿したことが帰って来る。
日記は、自分が読み返して初めて、あのときこんなことを思っていたのか、と回想するが、FBの場合自分の過去の投稿がスマホの画面に現れる。
また、FBの友達からの投稿も。続けていると仲間も増えてくる。自分の考え方趣味その他の繋がりで友達が増えてくる。
中には商売繁盛を願って、選挙運動での自分の考えを示すために、また自分の孫自慢、子供自慢の人もいる。
2000(平成12)年、静岡県市町対抗駅伝が始まった。町の広報で、その駅伝大会の佐久間町のメンバーを集っていた。
自分は速くはないし、ただ趣味として走っているし、短い距離よりハーフマラソンやフルマラソンに興味を持っていたし、気にはなったいたが参加はしなかった。
夜、仕事が終わり、ジョギングをしていると、そのメンバーと思われる人たちが佐久間中学校の校庭で練習に励んでいた。
自分の記録をさかのぼると、当時の2000(平成12)年、小笠掛川マラソン(現掛川新茶マラソン)を3時間31分23秒で走っている。けして40歳の男性としては速い記録ではない、その後、3時間30分を切りたいとフルに挑戦した、しかし、その夢は叶わず還暦を迎えようとする老いた自分の自己ベストとして今尚自分の記録として残っている。
2000年2月20日は私の40回目の誕生日、丁度その日は東京都の青梅市で行われる青梅マラソンに参加した。30㎞を2時間40分39秒で走っている。
インターネットで自分のホームページをつくり、私のページを見た東京の多摩市の男性(中村さん)と仲良くなり、その人を訪ねて東京行の新幹線に乗っていた。その年の冬。
熱海の駅で、50歳前後の女性が隣に座り話だし東京にフラダンスの発表会に行くのだと聞いた、月に一回は東京に行く「やっぱり東京はイイ」と話していた。
東京駅に新幹線は到着した、多くの人でごったがえす東京駅、中村さんに電話をかけ丸の内中央口で待ち合わせをした。
初めて会ったその人は優しそうな穏やかそうな人だった。二人で皇居の周りをユルク走り、彼のラン友だと女性のランナー数名を紹介してくれた。
彼の後を着いて電車にゆられ、着いたところが多摩市、そこの駅近くのビジネスホテルを予約してある。私はホテルへ彼は自分の家へ、夕方再開して夕ご飯を一緒に食べようと話して別れた。
予約したホテルのロビーでチェックインして鍵を貰い、エレベーターに乗って部屋に向かった。せまいホテルの部屋の窓から見た大都会東京、多くの人であふれている東京、そこにネットで知り合って仲良くなったラン友を頼りにやってきた。大都会東京。
いや、目的は彼だけではない。
その年、私は通信制の高校NHK学園に入学、東京都国立市にあるその学園に陸上部がありネットでそのメンバーも青梅マラソンを走ることは知っていた。その陸上部の顧問の先生ともネットで話し青梅マラソンで会おうと約束していたのであった。
2000年2月20日の朝、青梅行の電車にて青梅駅を中村さんと目指した。青梅駅は中部天竜駅とさほど違わない狭い駅だった。その駅に多くのランナーが集まっていた。
第34回 2000年2月20日(平成12年)開催 出場者数: 13,241名
初参加の自分は最後尾でのスタートになった。まるで満員電車の中で多くの乗員が移動しているような状態、道路の脇に立つホテルの窓からも応援している人がいる。また演歌歌手松原和子の「帰ってこいよ」のレコードを大音量でかけていた。
一万人以上のマラソン大会は、この大会が初めてだった。
青梅マラソン30㎞のコースは、青梅市役所付近から奥へ行き折り返してくる往復コースだ。
往路はほとんど人人人でみんなのペースに合わせるしかなかった。それが幸いしたのか復路に快適に走れ清々しくゴールで来た。
30㎞を2時間40分39秒 13,241名の中で3225位だった。
平成12年5月
職人魂
このようなブログを書いた。
今回、またキーチャにお願いした。
隣りの家との境のところ、から家の玄関まで、を。コンクリートにしてほしいと。
隣りの人は、同じ横吹から半場に越してきた人で私より4歳年上の人だ。
自分と同じで朝早起きで、隣りの人は家周囲の草取り。私は朝ラン。
どちらも変わり者、と見られているかナ(笑)
ところが、その人は、朝すれちがっても、こちらから「おはよう」といっても何時も黙っている。
その人の母親が半場に来て横吹の話をした、仕事から帰って来るのが楽しかった。
その人の母親は、なっちゃん。
こんなブログを書いた。
なっちゃん
なっちゃん2
その人の弟も喋らない人で、たまに半場に来ても、顔を見ても、挨拶ひとつない。
なっちゃんが言うには、小さいころ郵便やさんに「おまえの家には聴覚障碍者がいるカ~」と言われたそうだ。
「そんな育て方した覚え はないが」と言っていた。
何しろ喋らない。東京で数学の先生をやっているという。教員にも様々な人がいるナ~。。。。
自分の家が隣より少し高い所にある、コンクリートにすることを、隣りの家に話しておいたほうがいい。
隣りの人は奥さんの方がよく喋るので、旦那さんは仕事で会う機会がないから、その奥さんに聞いてみた。
しかし、やはり、そこの旦那さんにも話した方が、と思っていた、4月11日木曜日の朝ランの途中、丁度その旦那さんが居たので話してみた。
そのとき、いきなり言われた言葉だった。
「お前は好きなことばかりやって、偉そうなことを言っているがやることやらない」
「如何して」と聞くと。
「安全協会を変わりにやっても、挨拶ひとつない」
「親睦会、葬式にも出てこない」
と。
駅伝は走りたいナ~。親睦会も自分の用事があるときには出れないョ~。葬式?半場10班の付き合いはやっているつもりだがナ~。。。。
売り言葉に買い言葉、わたしからも反撃した!
「た~ぶれんナ。やることやってるワ!」
「お前こそ、いろいろなこと経験しにゃダメだゾ~!!!」
といって、その人を背に、残りのジョギングコースを急いだ。
頭に来た!。
同じ横吹から来た人だからと思っていたが、、、、。
ところが、走っていると火照った頭が、冷静になってきた。
家の周りの草取り、彼は何時もやっている。
私は毎週外に遊びに行っている。
彼から見れば、自分は、そのように感じているのだ。と。
人は自分中心に考える。
思いやる。そうゆうことはあまりできない。
そこで争いがおこる。
昨日、左官屋キーチャがきて、庭のコンクリートをやってもらった。
その仕事を私も手伝った。大変な仕事だ。だった。
休憩中に、キーチャの昔修業時代の話を聞いた。厳しかったと、その厳しさがあり今を楽に感じるのだと。
その隣との関係も話した。聞いてもらった。
「新間君ほど村の仕事やっている人はいないョ。神楽だってやっているし、オカシイよ、それは」と。
そんな言葉が嬉しかった。。。
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。
合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。
袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns
”しんしん”55歳
2015/11/25現在。。。
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