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平成の合併が過ぎ、今私はここで暮らしている。 ほくえんの風を 身体中に感じながら。
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毎年5月の連休に諏訪湖から天竜川を河口まで走る企画をしている人がいる。
わたしは
2016年 佐久間でボラ
2017年 早稲田から迂回路の新野峠から富山村・佐久間ダム・佐久間駅で仮眠、西渡(にじど)からバスで西鹿島、天竜川河川敷を走り時間外ゴール。
2018年 平阿岡駅から大嵐駅まで飯田線、あとはワープ無、完走。
2019年 体調不良のため、富山村からの参加

中部天竜駅から大嵐駅まで飯田線で移動、そこから富山村エイドステーションまで歩いていると、第一ウルトラ人発見! 丁度富山村名物「ハートの崖崩れ」の前だったので、写真を撮った。

話しは変わるが、朝のNHKBSで「おしん」を再放送でやっている。昔若かったころよく見た、そして泣いた。
昨日は奉公先で、おしんが大切に持っていたハーモニカをふまれ、おしんはお嬢様と取っ組み合いの喧嘩になりお嬢様が脳震盪をおこして終わった。
昔見て、知っているけど、見たかった。
エイドステーションで、それ「おしん」を見て走り始めよう。そう思ったが、エイドステーションにはテレビは無かった(泣)
無いか~。一度は諦めたが、待てよ「おしん」を見ようと頑張ってみた。先日、八嶽山(やたけさん)に登った時に知り合った人の家へ行って見た。
超長距離・ウルトラマラソンを走るようになり「諦めない心」こんな時に役だった(笑)

2019年天竜川リバーサイド、富山村エイドステーションを5月4日にスタートした。
佐久間町中部に親戚を持つ柿○さんと一緒に、柿○さんは二週間前にさくら道ネイチャーを走ったばかりだという、わたしの走力では、こんな実力の最上位の人とはとても走りながら話せないけど、今回かなりの距離短縮で話せた良かった。
柿○さんに富山村の信号機をつくった経緯を話し、押しボタンを押してもらった。
柿○さんは、諏訪湖からもう100㎞以上走っている不眠不休で。わたしは富山村から15㎞くらい走った。その時、柿○さんは道路わきの岩のところで少し寝ると言った。
そして私は一人で佐久間ダム湖岸を走った。しばらくして後ろから私を呼ぶ声が、何んと○澤さんだ。
彼女もかなり速い人、わたしは今年、腰筋肉の調子が悪く富山村からのスタートとした。諏訪湖から富山村まで100㎞以上のワープをした。ワープをして良かった~っと思った瞬間だった。
何もない佐久間ダム湖岸の道路に唯一ある砂置き場、そこの水道で水を補給すると、そこで働いている人が居たので声をかけた。
「ここの水は、山水なので沸かしてから飲んでいる、良かったら御湯をやるョ」
といってくれ、○澤さんは給水ボトルに御湯を貰った。
少し行くと、ヒロボー・しもさんエイドがあった。
わたしはコーラを貰った。ヒロボーさんは昼寝の最中だった。
ここから佐久間ダム湖岸で沢山なトンネルが続く、最後の「うなぎだる隧道」は長いトンネルが曲がりくねって自分の声も共鳴して誰か他に近くで話しているような感覚になる。
幽霊が出る、そんな噂も、なんとなくわかるような気がする。もっと昔は、もの隧道照明が無い時代があった。
昔オートバイ、DT250に乗っていてこのトンネルを抜けた後、ライトのヒューズが飛んで真っ暗なトンネルを他人の車の後を追いかけて走って帰ったことがある(怖)
 歩きが多くなってきたが、最後の「うなぎだる水道」走って佐久間ダムに出た。

長い長い(富山村から約25㎞)ようやく静岡県に入る、ココから浜松市になる。なんか一安心、そんな気分になるけど浜松市広いんですョ~。日本で二番目に。
長かったナ~富山村からの25㎞

この人は諏訪湖から走ってきた。
 
この元気、凄すぎる。
佐久間ダムのダムカードを欲しいと電力館にも寄ってみた。
佐久間ダムを下って、原田橋の建設業況を覗いて、少し行ってところで中部に下りる遊歩道に行く、佐久間病院の横を通り、なかっぺ橋を渡り、カズの横を通り、中部天竜駅、佐久間小学校、飯田線の鉄橋横の歩道を歩いていた頃に大粒の雨が、なんとヒョウが降ってきた。

(中天駅をスタート昔の写真)

急いで佐久間のスーパー「コープ」に行って休憩した。
外は大雨、他の連中 大丈夫かな~。。。。
そこで(泡)を買って外で休憩していると他の同じような人が次々と来た。
○澤さんが「行くョ」というので着いていった。
西渡に行く手前で、○澤さんはドンドン先に行ってしまう。
凄いナ~。素晴らしい。ひょうひょうと走る姿は美しい過ぎる。いや怖い、かな。
自分が情けないか(泣)
西渡のバス停で先に行ってはずのナオミちゃんが居た。
大輪の「ワタナベ商店」でナオミちゃんと別れ、わたしは真っ直ぐに行く。
後から来た柿○さんに抜かれた。
「途中眠く倒れるかも、行けるとこまで行きます」
凄いナ~。どんな身体しているのだ。筋肉の質が違うのか。わたしの身体はボロボロ。。。
4日18時30分、龍山のお風呂で休憩することにした。
展望風呂の浴槽から道路を見たが、暗い道路には走る人は見かけなかった。
休憩室で仮眠、20時15分前に、そこを出た。
秋葉ダム公園に、もしかしたら施設エイドがあるかもしれない、行ったら無かった。
トボトボと走り、船明ダムにもしかしたら施設エイドがあるかもしれない、行ったら無かった。
船明ダム堰堤を渡り、鹿島橋横を歩き、飛龍大橋(国道152号)を行く時に道路沿いに歩いてしまった。突き当り、そこを右に大回りをして飛龍大橋(国道152号)を渡る、長かった飛龍大橋、次の交差点で迷わづに二俣のコンビニに行くことにした。腹が減ったから。欽ちゃんヌードルで腹ごしらえ。
5月5日午前3時半、重い腰を上げ、天竜川河川の最後の行程を楽しんだ苦しんだ。

天竜川橋(新東名高速道路、浜松市浜北区、磐田市)
浜北大橋(静岡県道61号浜北袋井線)
あった。サポートの人だ。ヒロボーさんの知り合いの方だナ~。ボランティアを集めるのが大変といっていたナ~。
そんなヒロボーさんの熱い気持ちが伝わった人だ、感謝しかない。寒い時、あったかなココア身も心も温まった。
橋を数えての、この道、橋と橋の間がメチャ無茶長い。車だとあっという間なのに。
かささぎ大橋(静岡県道374号浜松袋井線)
天竜川橋(東名高速道路、浜松市東区、磐田市)
新天竜川橋(国道1号、浜松市東区、磐田市)
新新天竜川橋(国道1号、浜松市東区、磐田市)
あった。あった。エイド。
豊川の人だと言っていた。ありがとうございます。美味しかった。フルーツポンチ。
天竜川橋(静岡県道261号磐田細江線、浜松市東区、磐田市)
天竜川橋梁(JR東海東海道本線)
天竜川橋梁(JR東海東海道新幹線)
朝日がでて暖かくなり、眠気も出てきて途中自転車道路で横になり寝た。
サイクリストが行き倒れかと心配して声をかけてくれた。
「大丈夫です」と答えた。
 掛塚橋(国道150号、静岡県道316号舞阪竜洋線)
遠州大橋(国道150号、掛塚バイパス)
本当は、コースマップ上は、掛塚橋を潜り真っ直ぐ行くはずが、今回はトモゾウさんの道案内で違う道を行く。最後の遠州大橋は潜りましたョ。
そこから、太平洋までがケッコウ長い、1キロぐらいか、見えているが遠い。太平洋に注ぎこむ天竜川の最後、そこは水の勢いが無く砂に埋もれている。そこに釣り人なのか何台もの4輪駆動車、本当の河口は、ほんとうの河口はそこから東に、まだ先に。トモドウさんと二人、その河口を臨んだ茂垣苦しんだ行程を何のために苦しんだのか何のためになったのか、答えはわからない。
天竜川から注ぎ込んだ水と太平洋の海水が入り混じって波が立っている。そこに魚が多くいるのか釣り人がいる。竜洋モータースと書いた軽トラのオジサンが「どうだ」と聞いてきた。
一瞬走ることだと思ったが、すぐに釣り人の様子とわかり「釣れてませんね」と答える。

2019年の天竜川リバーサイドは終わりを迎えようとしている。
振り返り灯台からゴール地点を見るも、防潮堤の建設だろうか?、見えるはずのゴール地点が見えない。前を行くランナーを追いかけトモドウさんとゴールに飛び込んだ。

ビールはエビスとスパードライ、迷わずエビスの缶ビールを手にした。
発泡酒より、エビスビールは美味かった。
おわり。

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人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。
ご存じ徳川家康の遺訓である。
 
人の一生というものは、重い荷を背負って遠い道を行くようなものだ。急いではいけない。
不自由が当たり前と考えれば、不満は生じない。
心に欲が起きたときには、苦しかった時を思い出すことだ。
がまんすることが無事に長く安らかでいられる基礎で、「怒り」は敵と思いなさい。
勝つことばかり知って、負けを知らないことは危険である。
自分の行動について反省し、人の責任を攻めてはいけない。
足りないほうが、やり過ぎてしまっているよりは優れている。
今の心境に響く言葉だ。
 
先日の勉強会、萩田さんがお寺から頂いたウチワに書いてある言葉をみんなで話した。
生きていることは、借りをつくる事
生きて行くことは、その借りを返す事
今、自分は生きている。多くの人や物に支えられて生きている。
これからも、生きて行こうと思う。こんな自分でも誰かを支えることができるようにと。
 
人という字は、よーく見ると、長い方が短い方に寄りかかっている様に見える。
そんな見方もあるが、やはり人という字は支えたり支えあったりする見方にする方がイイと思う!(^^)!

喧嘩したり、争たりして、最後は仲良くなる。
人の一生は、そんなもの。最後は笑っていたいものだ。

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何時の日だったか、わたしの職場に元佐久間町役場の職員(今浜松市の職員)がきて「体育協会の今泉さんが体調が悪いので、代わりに事務局長をやってくれないか」そんなことを言った。
噂には聞いてはいたが、かなり悪いのか?
その人の息子は、わたしの息子と同級生、また最後の県市町村駅伝で大変御世話になった人だ。断る理由など一つもない
「こちらこそ、できる事はやらせてもらいます」と答えた。

まだ原田橋が通ることができて、わたしは浦川の方面まで走りに出かけた。帰り、今泉さんの家の前で孫を抱っこしている今泉さんに出会った。話をして、その姿を携帯で撮った。
体協の仕事や会議で夜、佐久間協働センターに行き様々な事をやるようになる。当時佐久間体育協会の支部長は浦川の人だった。
その人も、区長をやったりナンダカンダで大変だと話していた。支部長の変わりはいないかと探していた。
ある日、体協の集まりがあり、支部長が半場の元体育の先生に○井さんから電話連絡してくれないかと、アポをとってくれないかと話があった。
「今どこです~。話したいことがあるのだけど」こんな時、女性の優しい声が武器になる、と思った。
そして、支部長に「半場だから、そこへ連れってくれと」いきなり言われた、ドッキリ。
そこに行き、支部長が、その人と話をして、協働センター帰ってきた。

その人とはノリオ先生、話はうまく言ったそうで次の年度から、ノリオ先生が佐久間体育協会の支部長となった。
 
ノリオ先生はわたしが佐久間中学校一年生のとき、教員として新規採用されノリオ先生も先生として一年生だったそうだ。
その後、佐久間町や竜川の中学校に勤めたそうだ。佐久間町で佐久間町の中学校を在学した人には結構名の知れた先生だ。

わたしが佐久間町に帰ってきて、佐久間駅伝に初めて参加したときの支部長は、北村ショウ兄だった。当時開会式は浦川中学校のグランドだった。佐久間病院の先生は軽部先生で走る前の注意事項を話した。
北村ショウ兄の挨拶はガラガラ声で、ノリオ先生と少し似ている。

そんな佐久間体育協会、今自分の個人的な問題がある。
それは、もう一つ役員としてやっている安全協会のこと。安全協会は前任者が半場の祭りのときに体調不良で倒れ、そのあと自分のところへ代わりにやってほしいと服を持って来た。
その倒れた現場に居た自分は断ることができなかった。 「他を当たったてョ」なんて言えなかった。しかし、用事があるときは出来ないとは言った。
その問題とは、佐久間駅伝大会に山香のチームで参加をしていること。
その佐久間駅伝大会は、佐久間町の安全協会のメンバーもボランティアとしてでなければいけない。
去年までは、ある人が、そのボランティアを安協をやっていてくれたのに、わたしの配慮が足りなかったせいだろうか、やれないと言われた。
いくら地元のボランティアだと言っても、一日中道路に立っているのも苦痛だとは思う。
その人に安協を頼んだ人は山ちゃん。その山ちゃんは子供と一緒に暮らすと佐久間町には長くはいないという。
どうなっていくんだ佐久間町、この問題、浜松市全体の問題として考えてもらいたい。

チョット大げさかな(笑)

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平成から令和に、
その平成31年4月28日、私は家内(青森県)の実家に行くために出かける用意をして車で中部天竜駅横の浜松市営駐車場に行った。
軽く口喧嘩をしながら中部天竜駅の改札口を抜け、11時21分初の特急伊那路に乗った。
そしてポケットにあるはずのスマホを・・・・・。
無い、無い、無い。。。
さっきまで角張ったのがスマホだと思っていたものが、実はデジカメだった。
スマホは、、無い(泣)
家に電話をすると、コタツの下にあるとの答え。

4日間、スマホの無い時を過ごした。
本は八ッ塚実さんの「人間学」中村文昭さん・大嶋啓介さん「僕たちの夢のつかみ方」の二冊持ってきた。
丁度いい機会だ本を読もう。と思った。
大嶋啓介さんはどんなに悪いことがあっても、ピンチをチャンスに変えると書いてある、全て肯定的に考える。発想の転換をしてピンチをチャンスに変える。

平成の28日~令和の1日までスマホの無い時は充実していた。

無事に帰ってきてスマホを見たら、多くの人からのライン、FB、ブログのコメントが来ていた。
また何時のも時に戻った(笑)

俺の忘れ物は本物、首にぶら下げるとの案もあった、考えなければいけない、かな(笑)

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昨日の修身教授録、勉強会&読書会、主催の萩田さんの悩みの話があった。
それは保険屋さんが良く言う「2人に1人はガンになる」「3人に1人はガンで死亡する」という言葉からガン保険に入ろうか入らまいかの悩みであった。

私は、この会に出会い、悩める自分の心が落ち付いてきたと感じる一人である。
自分、このままでいいのだろうか?
とか思っていた、そんなときがある。あった。
「やらないで後悔するより、やって後悔した方が良い」
そんな言葉で励まされたことがある。

誰だって悩みがある。
自分の昨日の悩みは、スマホを忘れた事。
たぶん家に、自分の部屋の寝床の枕元にスマホを充電したままになっていると思う。
もしかしたら、西渡(にしど)のミドリ屋で塩大福を買おうとするときにジャージのポケットから落としたのかもしれない。
悩んだ。

森町三倉の勉強会&読書会が終わり、家路を急いだ。
佐久間までの車の運転、最近の腰痛で難儀だ途中、龍山の やすらぎの湯によって腰を揉んで帰ろうと思って寄った。
大きな風呂に入り、ストレッチをして、マッタリして、腰の調子も少し良くなった。
脱衣所で着替え、ボーっとしてたのか、休憩室に行って、またストレッチ。
受付の人に挨拶をして、駐車場に行って車に乗って秋葉ダム堰堤を走っていると時計が無いのに気づいた!
慌てて やすらぎの湯に戻って脱衣所に行ったら、あった、大切な時計。
は~。

そこから佐久間を目指し、まだ車での移動、ようやく家に到着、部屋に行って枕元・・・あった。スマホがあった。助かった。ホッとした。
一日スマホのない不安な時だった。スマホがあるとホッとする♥
スマホを起動して予定を見ると、なんと、夜7時半半場親睦会の会合の日だった。
悩み事は誰でもある。人それぞれいろいろな悩みが。

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今回わ。。。
第7講「大志を抱け」
志を立てるということは、ローソクに火を点すようなもの、ローソクは、火を点けられて初めて光を放つものである。
同様に人間も志を立てて初めて人としての真価が現れるもの、志を立てない人間は酔生夢死の徒に過ぎない。
真の志とは、この二度とない人生をどのように生きたら、真にこの世に生まれてきた甲斐があるかということを考えて、心中につねに忘れぬということ、結局最後は、「世のため人のために」という所がなくては、真の意味での志とは言いがたいのです。
原文から
酔生夢死 (すいせいむし)
何もせずに、むなしく一生を過ごすこと。生きている意味を自覚することなく、ぼんやりと無自覚に一生を送ること。酒に酔ったような、また、夢を見ているような心地で死んでいく意から。
最後の話し合いで
私:「佐久間中学校では立志式をやってるョ」
立志式とは
元服にちなんで(数え年の)一五歳を祝う行事。参加者は、将来の決意や目標などを明らかにすることで、おとなになる自覚を深める。
旧佐久間中学校では中学校3年生の時に将来の夢を書き、体育館前の真珠が丘の中に保存して二十歳の時にそこから出して見ることを続けていた。たぶん。
昔の記憶では、そんなことをやっていたような気がする。たぶん。

第8講「気品」
気品とは
どことなく感じられる上品で気高い趣。「気品のある物腰」「気品の感じられる文章」
goo辞書から
気品とは先祖代々続いて出来てくるもの、後天的な人間一代の努力や修養だけでは出来ないもの。
相月駅から見上げた横吹の斜面部落で育った私には、気品だだよう品性ある人間になることは無理だ。
いや、多様性、気品ある人も、わたし達のように武骨な人間も、またいいのだ(^O^)/
武骨洗練されていないこと。無作法なこと。また、そのさま。「―な振る舞い」

最後萩田さんからの言葉。
縁尋機妙(えんじんきみょう) 多逢聖因(たほうしょういん)
https://ameblo.jp/dokugakuman/entry-11927730731.html
生きていることは、借りをつくる事
生きて行くことは、その借りを返す事
平成のときの勉強会は終わりました。
令和の時代に、また逢いましょう。
おわり

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14日(日)に、ホウジ峠に走りに行った時から右臀部から太腿後ろ側が深部に違和感が、一週間走るのを控えていた。
金曜日の昼、調子が悪いので仕事を半日で終え、豊田町の成良治療室にて身体のケアをしてから余呉湖を目指した。
ラインで猪肉を持っていくョと連絡、ウッディパル余呉湖に夜七時に着いた。

身体のケア、揉みほぐしたその時はよいが、やはり違和感が。
そんな感じで前夜祭を終わり、バンガローの帰って睡眠ZZZzzz
20日(土)7時
ウッディパル余呉湖のスキー場をスタートした。

今回も、楽しい仲間が集まり走り出した。
昨日マッサージしたが、やはり、足が〜~痛い~。
騙しだまし、走った。

途中、いつものように踏切でストップ。
余呉湖に入って、一周二周、お、ユーレイが居た。
着物では走りにくいのか、裾をあげて生足をモロダシで走っている。
鼻耳ブ~
(* ̄ii ̄)ブー

手前のTシャツの人もたくさんいた。
飲むなら走れ、走ったら飲め

こんな人にも抜かれた。
「ナニ?」と聞いたら
「ブドウ」だって。
ネットで買った、そうだ。
あ、ワラーチじゃん。
凄すぎる。

私より、10歳以上も年上の山草人さんと並走、「もうダメ、先に行って」
今日はダメだ、もう少し走ったらリタイヤしよう。そう思ていた時に
7週目「下を向くじゃない、まっすぐ前を見よ」私にカツを入れる人が来た。
ヒロボーさんだ。
わかっちゃいるけど足が痛い。
ヒロボーさんの背中も小さくなってくる。
最後、周回、満身創痍、歩を止めないように進んだ。
朝7時スタート。制限時間は10時間、ゴールは17時
自分がゴールしたのは16時59分
しんしん五回目50周余呉湖を回った。
50週目は
ボロボロのゴールだった。

余呉湖、
天女の羽衣伝説ウルトラマラソンの楽しみは後夜祭
 

楽しい仲間と楽しく苦しく走って、最後に(酒)
そんな滋賀県余呉湖のイベントだった。

それにしてもユーレイ、チーム車座の人だと聞く、後夜祭のときもユーレイだった。
本物の顔はどんなんだかナ~、気になる(笑)

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それはイメージ。

先日ラインで エミール、クーエの法則の話が来た。

イメージが大切だと。

たとえば五円玉を木綿糸で吊るし、自分の目の前で持っていたとする。

その五円玉を、右左にスムースに動かそうと自分なりに努力しても簡単にはスムーズには動かない。ぎこちない揺れ方をする。

しかし、その五円玉を「動け。左右に動け」と頭の中でイメージすると。

あーら不思議。しばらくすると、その五円玉が左右にユラユラ揺れる。


イメージが大切だと、その人はタップダンスで観衆の前で演じている人だ、そんな人だからこそイメージの大切さを教えてくれた。

私が暮らしている佐久間町、誰が何と言おうとも楽しい。

そんなイメージを持ちたい(笑)

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2001(平成13)年、私の所に佐久間町の役場の人が来た。その人はわたしより一学年先輩の角兄(カクに~)
佐久間中学校で一学年先輩だ。
その角兄が言うには「井辺君を県市町村駅伝に誘ってほしい」ということだった。
井辺君とは朝のジョギング時によく出会う。そんな時に角兄の話を伝えた。
佐久間中学校時代の二年先輩の太田マーボーも走っている、そんなマーボーの娘と私の娘も市町村駅伝の予選に参加した。
それからマーボーも私も市町村駅伝の練習に参加した。
2002(平成14)年、静岡県市町村駅伝の佐久間でのチームを選択する予選会があった。男性40歳以上の部、マーボーとデットヒートの末勝ち取った補欠の枠だった。
ま、補欠だから選手の付き添いだから、気は楽だ。った。
それでも静岡新聞に自分の名前と顔写真が記載されコメントも書いてある。それも見た知り合いから電話もあった。
2002年11月29日の金曜日、仕事を半日で終わり、役場の前で多くの職員に見送られマイクロバスに乗って佐久間町から静岡市に向かった。
静岡市のグランシップで市町村駅伝の開会式は行われた、佐久間町と書いたプラカードを先頭に選手の一人として私も行進した。
観覧席からは地元小学生の「佐久間~~」の声援が聞こえた。壇上には静岡県の市町村の首長が勢揃いしている。我が佐久間の町長 小原侃之輔さんは背が高く頭が光っていてひときは目立っていた。
 
平成12年~14年、NHK学園で学び卒業した。そして平成15年にNHK社会福祉学科に入学し、二か月に一回名古屋の愛知東邦大に通った。
NHK社会福祉学科を選択したのは、この学科を卒業すれば介護福祉士の免許を受けることができるからだ。
2004(平成16)年、この年、その介護福祉士の学科の試験が1月25日愛知県の大同工業大学であった。とても多くの人がいた、受験番号を頼りに教室を捜し、やっと見つけたその教室には自分の番号だけが無かった。おかしく思い会場の人に聞くと、チョットした手違いで間違ったそうだ。急遽違う棟に移り机に座った。はじまる前からやな感じがした。ところが数日後合格のハガキが届いた。
 
走る方も、それなりに頑張っていた。
介護福祉士の学科の試験の帰り名古屋からの帰りの途中で、新城運動公園によって5㎞軽くギョギングした。思いで多い新城運動公園だから近くに来たので寄ってみた。
その年の
2月2日森町ロードレース21㎞ 1時間33分43秒
2月23日天竜杉の里21㎞    1時間39分00秒
3月 7日、介護福祉士の実技試験の日、場所は愛知県の同朋大学、電車で行く名古屋では雪が舞っていた。
勝負服に2000年2月20日自分の40歳の誕生日に走った青梅マラソンのTシャツを着て臨んだ介護福祉士の実技試験、そのモデルは男性だった。噂によると女性のモデルの方が合格率が低い、とか。少し安心した。

3月21日 豊橋ハーフ     1時間40分01秒
貧血気味で、タイムも振るわない。
4月04日 秋葉ダム桜マラソン10㎞ 39分44秒
何もかも順調に進んでいると思っていた。次は、次のマラソン大会は4月27日の小笠・掛川マラソンが目標だった。
2004年4月13日火曜日、仕事を6時に終わり自転車で佐久間小学校に行き、私のもう一つの趣味「空手」の稽古をするために体育館に入り師範に「中学生を相手に組み手を」といわれ、その中学生を相手にしているときに、頭の遠くで不吉な痛さが、少し休憩すれば治ると思っていたが、だんだんその痛さが増してきた。携帯を貰い119に電話した。
佐久間病院は、仮設の病院だった。CTで撮った写真を見てドクターが「出血してます」と、外はもう日が暮れ真っ暗、ドクターヘリは飛ぶことは出来ない。
佐久間病院から三方原聖霊病院まで搬送が決まった。曲がりくねった国道を走る様子がなんだか記憶している、ような気がする。
記憶が無くなって五日、土曜日の昼、自分は病院のベッドの上だった。病室の洗面台に行き鏡で顔を見ると右の頭に大きな絆創膏を貼った無精ひげの自分が鏡に映っていた。

リスクとベネフィット
世の中のものには、プラス面とマイナス面があります。
プラスの面をベネフィット(便益)といい、マイナス面をリスクといいます。
リスクは日本語の「危険」とは違い量的な意味で使用され、望ましくない害が起こる可能性の程度(確率)を指します。
 実際に発生した時の害の大きさが異なる場合には、その大きさと発生する確率との組み合わせで定義されることもあります。
ベネフィットは大きければ大きいほど良く、リスクは小さければ小さいほど良いのです。
しかしながら、人がベネフィット得るために何らかのものを利用しようとする限り、いくらかのリスクは避けられず、それを完全に無くすことは決してできません。さらにいえば、リスクを完全に無くしてベネフィットだけを得ることは不可能です。

今日読んだ、ある冊子のコラムに書いてあった。

「リスク(危険性)とベネフィット(便益)」
世の中の全ての物には、必ず良い面と悪い面がある。
2012/04/12 (Thu)に書いた自分のブログ「ほくえんの風」から。
走ることにも、良いことも悪いことも、有るのかナ~。
 

FB(フェースブック)をやっていると、続けていると、何年か前の自分が投稿したことが帰って来る。
日記は、自分が読み返して初めて、あのときこんなことを思っていたのか、と回想するが、FBの場合自分の過去の投稿がスマホの画面に現れる。
また、FBの友達からの投稿も。続けていると仲間も増えてくる。自分の考え方趣味その他の繋がりで友達が増えてくる。
中には商売繁盛を願って、選挙運動での自分の考えを示すために、また自分の孫自慢、子供自慢の人もいる。

拍手[3回]

2000(平成12)年、静岡県市町対抗駅伝が始まった。町の広報で、その駅伝大会の佐久間町のメンバーを集っていた。
自分は速くはないし、ただ趣味として走っているし、短い距離よりハーフマラソンやフルマラソンに興味を持っていたし、気にはなったいたが参加はしなかった。
夜、仕事が終わり、ジョギングをしていると、そのメンバーと思われる人たちが佐久間中学校の校庭で練習に励んでいた。

自分の記録をさかのぼると、当時の2000(平成12)年、小笠掛川マラソン(現掛川新茶マラソン)を3時間31分23秒で走っている。けして40歳の男性としては速い記録ではない、その後、3時間30分を切りたいとフルに挑戦した、しかし、その夢は叶わず還暦を迎えようとする老いた自分の自己ベストとして今尚自分の記録として残っている。
2000年2月20日は私の40回目の誕生日、丁度その日は東京都の青梅市で行われる青梅マラソンに参加した。30㎞を2時間40分39秒で走っている。
インターネットで自分のホームページをつくり、私のページを見た東京の多摩市の男性(中村さん)と仲良くなり、その人を訪ねて東京行の新幹線に乗っていた。その年の冬。
熱海の駅で、50歳前後の女性が隣に座り話だし東京にフラダンスの発表会に行くのだと聞いた、月に一回は東京に行く「やっぱり東京はイイ」と話していた。
東京駅に新幹線は到着した、多くの人でごったがえす東京駅、中村さんに電話をかけ丸の内中央口で待ち合わせをした。
初めて会ったその人は優しそうな穏やかそうな人だった。二人で皇居の周りをユルク走り、彼のラン友だと女性のランナー数名を紹介してくれた。
彼の後を着いて電車にゆられ、着いたところが多摩市、そこの駅近くのビジネスホテルを予約してある。私はホテルへ彼は自分の家へ、夕方再開して夕ご飯を一緒に食べようと話して別れた。
予約したホテルのロビーでチェックインして鍵を貰い、エレベーターに乗って部屋に向かった。せまいホテルの部屋の窓から見た大都会東京、多くの人であふれている東京、そこにネットで知り合って仲良くなったラン友を頼りにやってきた。大都会東京。

いや、目的は彼だけではない。
その年、私は通信制の高校NHK学園に入学、東京都国立市にあるその学園に陸上部がありネットでそのメンバーも青梅マラソンを走ることは知っていた。その陸上部の顧問の先生ともネットで話し青梅マラソンで会おうと約束していたのであった。
2000年2月20日の朝、青梅行の電車にて青梅駅を中村さんと目指した。青梅駅は中部天竜駅とさほど違わない狭い駅だった。その駅に多くのランナーが集まっていた。
第34回 2000年2月20日(平成12年)開催 出場者数: 13,241名
初参加の自分は最後尾でのスタートになった。まるで満員電車の中で多くの乗員が移動しているような状態、道路の脇に立つホテルの窓からも応援している人がいる。また演歌歌手松原和子の「帰ってこいよ」のレコードを大音量でかけていた。
一万人以上のマラソン大会は、この大会が初めてだった。
青梅マラソン30㎞のコースは、青梅市役所付近から奥へ行き折り返してくる往復コースだ。
 往路はほとんど人人人でみんなのペースに合わせるしかなかった。それが幸いしたのか復路に快適に走れ清々しくゴールで来た。
30㎞を2時間40分39秒 13,241名の中で3225位だった。

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プロフィール
HN:
しんしん
年齢:
65
性別:
男性
誕生日:
1960/02/20
趣味:
走ること・空手・詩吟
自己紹介:
12市町村が合併して出来た新浜松市
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。

合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。


袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns

”しんしん”55歳  
2015/11/25現在。。。
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