1970年(昭和45年)11月25日に、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた。後に割腹自殺をした。
三島と楯の会の隊員1人が切腹自殺した。
そのとき三島由紀夫は何を訴えていたのか?
当時バルコニーにでの全文
おまえら、聞け。静かにせい。静かにせい。話を聞け。男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ。いいか。それがだ、今、日本人がだ、ここでもって立ち上がらねば、自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。諸君は永久にだね、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。(中略)
おれは4年待ったんだ。自衛隊が立ち上がる日を。……4年待ったんだ、……最後の30分に……待っているんだよ。諸君は武士だろう。武士ならば自分を否定する憲法をどうして守るんだ。どうして自分を否定する憲法のために、自分らを否定する憲法にぺこぺこするんだ。これがある限り、諸君たちは永久に救われんのだぞ。
ウィキペディアから
この時、隊員のヤジで三島の声は聞き取れなかったという。
才能に恵まれ、作家として男として人生を真直ぐに生きた男、三島由紀夫。
「万物流転」
この世にあるすべてのものは、絶え間なく変化してとどまることがないということ。の意味。
人生もそうだ、いつか必ず死という日が来る。
三島由紀夫は自分の人生をも一つの小説の様に劇的な最終章で締めくくった。
「情報不変」
情報は変わらない。三島由紀夫が遺した文学は小説は語り継がれている。
ある日のこと、極楽の蓮池の周りを散歩していたお釈迦様は、地獄で苦しむ亡者どもの姿を眺めていた。そしてその中にカンダッタという男がいたことに気付く。そのカンダッタは生前は大泥棒として悪事の限りを尽くした男だった。
お釈迦様はこのカンダッタも、たった一つだけ良いことをした事を知っている。ある時、蜘蛛の命を奪わずに助けたことがあったのだ。何とかこの悪人を救い出そうと、お釈迦様は極楽の蜘蛛の糸を蓮池から下ろされた。
カンダッタは蜘蛛の糸を見つけ蜘蛛の糸を上る。
自分は助かると思う。
ところが他の亡者たちも、その蜘蛛の糸を上ってくるではないか。
蜘蛛の糸が、このままでは切れてしまうかも知れない。
そう思ったカンダッタは、糸を振ってなんとか亡者を振り落とそうと試みる。
亡者は落ちない、カンダッタは「これは俺のものだ」と叫んだ、そのとき。プツリと音を立てて、糸は切れてしまう。カンダッタはくるくると回りながら、真っ逆さまに血
の池地獄に落ちていった。
この一部始終を見ていたお釈迦様は悲しそうな顔をなさると、再び極楽をぶらぶらと歩いていくのであった。
小学校の国語?道徳?の授業の教科書で見た「蜘蛛の糸」
カンダッタは蜘蛛の命を奪わずに助けた、この縁で蜘蛛の糸が下りてきて、その糸で助かろうと必死に上った。が、「これは俺のものだ」と叫んだ途端に、蜘蛛の糸は切れた。
私は田舎に暮らしている。
先週の日曜日、国道をジョギングしているとレジャーの人なのか、車の上に船を積んだ車が北上ししてくる。
たまの休み、空気の良い田舎に遊びに来る。しかし、不要不急の外出を控えなさいと言っている。
私はカンダッタにはならない様に、気を付けよう。
「運命を拓く」「ほんとうの心の力」「怒らない恐れない悲しまない」
中村天風という人物とは
日清日露戦争当時は軍事探偵として活動するも、戦後病(結核)を得て人間の存在そのものを理解すべく世界を遍歴。インドでのヨーガ修行を経て健康を回復する。日本に帰国後、一時は実業界で成功を収めるも、自身の経験と悟りを伝える使命に目覚め講演活動を開始。現在も公益財団法人天風会(中村天風財団)としてその教えは引き継がれている。その教えを学んだ各界の著名人の中には、松下幸之助氏など日本を代表する実業家も含まれている。
心身統一道を提唱。
ウィキペディアから
「ほんとうの心の力」
「船に乗ったら船頭任せ、病気になったら医者任せ」
病気だと、あれこれ迷わずに、専門家に任せておけと言う格言
今の世の中、スマホで専門知識が分り、自分で知ったかぶっている人が多い。
「物言えば唇寒し秋の風」芭蕉
人の短所を言ったあとは、後味が悪く、寂しい気持ちがする。転じて、何事につけても余計なことを言うと、災いを招くということ。
「丸い卵も切りようで四角、もののイイヨで角が立つ」
丸い卵も切りようで四角とは、同じ意味のことを言うにも、言い方によって受け取られ方が違ってくるというたとえ。
自分の肉体を自分の自分の肉体だと思ってはいけない。あくまで自分の魂の借り物なのです。
例えば借り物の肉体が、病になった、癌になったとする。癌を治癒することは大切なことだ、しかし魂までも病になってはいけない。
魂がハツラツとしていれば自然治癒力で病から逃げていく、そんな考え方だ。
真の平和とは
の頁で
「請う先ず隗より始めよ」
大きなことはまず身近な事から始めなさい
とある。
真の世界平和建設の重要な要素は、いうまでもなくすべての個人個人の家庭生活をまず真に平和なものとすることに努力すべきである。
原文まま
心身一如
その基礎には,東洋の宗教の修行法や東洋医学の考え方がある。たとえば,禅やヨーガや道教などの瞑想(めいそう)法や修行法は,心の働きと身体の働きが一体になった〈心身一如〉の境地を理想として追求している。また東洋医学の考え方は宗教と関係が深い。
コトバンクから
こんなメッセージが来た。
「ひとりじゃないよ、って思いを、共有してみました」
「まだ、後蘭になってないかと思って。。。」
こんな動画と共に。。。。
3月15日(日)
愛知県民の森~宇連山~棚山高原~鳳来寺山~湯谷温泉までを4人で走った。
次の土曜日、森町三倉で勉強会、次の日曜日が西鹿島駅~走って磐田に行ってカラオケ♪
コロナ騒ぎを上の空で聞いていた。他人事と感じていたのか。
コロナで志村けんが死に、4月になって24日岡江久美子さんの死去のニュースを知った。
安倍首相は16日夜、新型コロナウイルスの感染者が増え続けている状況を踏まえ、緊急事態宣言を出した。期間は4月16日~5月6日まで。
大型連休で人々が動き回り、感染の拡大を危惧しての緊急事態宣言と思う。
フィリピンでは新型コロナウイルスの対策に当たっていた警察官が、外出制限に従わない男性を射殺した。
日本では連休に走りに行こうとの誘いが来た。
ネットでも、ドラッグストアのタッチパネルが殺菌してないとコロナウイルスに過剰な反応、小さな争いが始まった。
今、自粛しても、5月6日まで我慢しても、その後も今の状態が変化するっことは無い。大半の意見だ。
がしかし、まずは5月6日まで我慢しようと思っている。
今は一人で走ろう。
キットまたみんなで走ることができる時が来る。そう信じて今は我慢しよう。
沢木耕太郎の本は「深夜特急」から好きになり読んだ。今回、この本は森町三倉での勉強会のときに知り合いから頂いた。
ベトナムの一人旅、ホーチミンからハノイまでを国道一号線をバスで旅する物語、だ。
ベトナムといえばベトナム戦争があった、アメリカ軍がベトナム軍が潜む森林に『枯葉剤』をまいた話が昔あったと記憶する。
ベトナムは、もともとはフランスの植民地だった、それが第二次世界大戦がはじまり、戦争の時代のとき日本軍も進駐した、
1945年(昭和20年)に第二次世界大戦は終結し、日本は敗戦を迎え、日本軍が去った。ベトナムではホー・チ・ミンが独立宣言をおこない、「ベトナム民主共和国」が誕生、しかし、ベトナムはフランスの介入で争い事が収まりませんでした。そして1954年(昭和29年)北緯17度線を停戦ラインとしてベトナムを南北に分かれたそうです。
様々な争い、ベトナムにアメリカが介入、ベトナム戦争は壮絶さを増していった。
アメリカ軍が『枯葉剤』をまき、ベトナムではその後奇形の子供が生まれるようになる。
その戦争は、表面的には「北ベトナム」対「南ベトナム・アメリカ軍」の戦いでしたが、本質的には「共産主義」対「資本主義」の戦争だった。
5分でわかるベトナム戦争
https://honcierge.jp/articles/shelf_story/4522
参照
本では、旅の途中、日本人の墓と出会う。
昔読んだ本、櫻井よしこ「何があっても大丈夫」そこに、櫻井さんがベトナムで暮したことが書いてあった。
戦争で『枯葉剤』をまいた事実、その影響で、下半身がつながった結合双生児として生まれた「ベトちゃん・ドクちゃん」そんな報道の記憶がある。
今、武漢にある研究所から新型コロナウイルスが外部に漏れたのではないかと、トランプ大統領が中国を批判している。
いい加減、愚かな戦いは辞めてほしい。。。
この本は、森町三倉での「勉強会」で、ある知り合いから頂いた。
森信三先生の言葉に
『人間は一生のうちに逢うべき人には必ず逢える。しかも、一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に。』
と、ある。
本との出会い、人との出会い。
天からの声が聞こえる。
「125号線を北上せヨ」
「秘境遠山郷を行く」埋もれた記憶を探しに。
ページを開いて、この言葉が書いてあった。
はじめに、遠山郷との出逢い。都会での秘境ツワー、それで秘境に出会い、都会では感じられない癒しを得る。
その人は平成22年(2010)6月から遠山郷に通いだしたと書いてある。
中央構造線の谷・遠山様・豊かな森林資源・明治イギリス人が行くーアーネスト・サトウの旅日記・明治25年の宿帳ー429人の宿泊人情報・と続く。
次に
戦中戦後の当直日誌・学校日記ー木沢小学校
興味深い内容がある。そんな日誌を遺した木沢の人々。それを発見し一冊の本に記した著者、長野県の下伊那の遠山郷の当時の様子が観得る。
なかでも
昭和19年の宿直日誌
4月24日
I先生に召集令状が来る。
4月26日
送別会
4月28日
出征を見送り。
などがある。
学校からの戦争の記憶である。
「限界集落」
限界→これ以上は無理、ギリギリのこと。
「限界集落」集落の死の直前、という意味なのか。
今、コロナで芸能人が亡くなった。
人の死に、現実感が希薄になった。
「限界集落」を提唱したのは高知大学名誉教授、大野晃先生だ。
最後、筆者が「チャレンジマラニックin遠山郷」を走ったとある。
遠山郷に二人で行くはずだったけど、コロナ騒ぎで相棒が行くことを止めた。
急遽、私一人で行くことにして、遠山郷で一人マラニックをした。
遠山郷は今、道の駅にある「かぐらの湯」がポンプの故障で休業状態だ。
バイパスで行けば木沢地区は近い。
木沢小学校の桜も満開だった。
下栗の里を登り、半場亭まで行って雪に照らされた南アルプスを見た。
コロナ騒ぎだけど「いっぷく亭」は満員だった。
ビールを飲んだ。
下栗で畑仕事をしているオバサンと話す。
聞けば、浜北からお嫁に来たそうだ。
いろりの宿「島畑」に宿泊、ご主人と酒を飲んだ。
コロナ騒ぎでキャンセルが続く言っていた。
コロナとうウイルスは小さい、誰に感染しているか分らない。自覚症状が無い人もいる。
だから、外出は控えなさい。
それは、わかる。が、しかし。
「秘境遠山郷を行く」そんな本を買ってきた。
日本の年金制度は、若い世代が支払う保険料を財源として高齢者世代に年金を給付する仕組みになっている。
世代間で支え合う仕組み、これを賦課方式という。
賦課方式では高齢者世代の生活の不安を取り除き、若い世代の今後の老後の不安や年老いた親への仕送りの心配を取り除く役割を果たしている。のだそうだ。
また、年金の運用の仕方には「賦課方式」と「積立方式」とがありそれぞれのメリット・デメリットが説明してあった。
税金・社会保障教育HP
https://www.mmea.biz/column/
半場に越してきたころの夏、消防団で盆踊りの警備をしたときの話し、私より五つくらい年上のある方が高齢の人に向かって「年金もらっている奴がエラソウコクじゃない!!」と怒鳴っている場面を目の当たりに見た。
横吹から引っ越してきた私には考えられない行為だった。高齢者は労わるものだと思っていた。町だと様々な人がいると思った。
それから数年たって、その五つくらい年上のある方は病気で亡くなった。その高齢の人は施設に入ったが元気に今も暮らしていると聞いている。
NHKの討論番組があった。団塊の世代、第二次世界大戦直後の1947年(昭和22年)~1949年(昭和24年)に生まれた人たちが60歳になり多くの人が定年退職を迎える。そんなとき。
その団塊の世代の人と団塊ジュニアの人たちとの討論番組だったと記憶する。人口ピラミッドの頂点の人たちが退職し日本はこれからどうなるのか、子を産み育てる若い世代はワーキングプアとか引きこもりなど様々な問題がある。そんな問題を若者と高齢者の間で議論する言葉のバトルだった。
多くの意見の中を割ってアナウンサーが「ちょっと待ってください」と話を遮り、あるビデオを見せた。定年退職を迎えた年代の人が豪華化客船で船旅をするシーンだ。若者の間でため息が漏れていた。
ビデオが終わり、議論が始まり、若者から非難の声が出ているときに、団塊の世代の中から女性のある人が手をあげて指名された。その人は。
「私たちは戦後の復興で多くの苦労をした、自分の金でそのような事をやって何で悪い」と、言ったのだ。場内はシーンとした。
その人の胸には教師と書いた名札が着けてあった。
今日からできる、誰にでもできる!「60歳を人生のピークに持っていく法」そのまんま東の本がある。そのまんま東の本は他に「芸人学生」も読んでいる。自分の波乱万丈の人生を面白おかしく書いてある良い著作だ。
その「60歳を人生のピークに持っていく法」の一部を抜粋する、p38中ほどから
そんな日本再生のカギは、60歳から70歳の世代の方たちが握っている。この方たちが「もう僕らは年金なんていらない。そんなのアテにしなくても、若い世代をアテにしなくても、自活して行けるよ」と言えるくらい心身共に健やかであるなら、日本もかつての勢いを取り戻していけるのではないだろうか。ほとんど破城している公的年金。この不安感が高齢者予備軍の方たちに翳りを落としているのだろうか。僕は社会人の責務として、今の高齢者を支えるために年金を納めているけれども、僕が受給者の年齢になってきてもきっと受け取ることはないだろうと思う。
昭和10年生まれの父親は60歳で年金を貰い始めた。しかし、病気ぎみの父親は佐久間病院に行き、せっせと病院にその金を納めた、病院友が沢山いた。大正15年生まれの母親は会社勤めの父親のおかげで年金をもらえていたと思う。がしかし、派手な買い物はしなかったと記憶する。私たち大家族を支える食料品の買い物の時に半額は母親が負担してくれた。
公的年金は、老後の生活の大きな支えとなるもの、日本の年金制度は賦課方式で、若い世代が支払う保険料を財源として高齢者世代に年金を給付する仕組みになっている。
働けるうちは働いて、保険も税金も納めるようにしたいものだ。
昨日は第3回天竜区駅伝大会等実行委員会佐久間地域部会(第47回天竜区・佐久間駅伝大会)だった。
まッあ簡単に言えば今年行った第47回佐久間駅伝の報告と反省、来年行う第48回佐久間駅伝についての話し合いだったというわけだ。
議事事項
(4)第48回天竜区・佐久間駅伝について
開催日 令和3年 1月24日(日)31日(日)
走路 5区間 6区間
どちらにしようかの話し合い。
ココには書いてなかったが、予算の問題、ボランティアの問題、警察からの道路使用の問題があり来年開催する天竜区・佐久間駅伝までには問題や多くイバラノ道だというわけだ(涙)
ボランティア問題、佐久間町に籍を置き佐久間体育協会での一員として私のやるべきことは、、、お願いすること。
しかし、山香チームとして走っている自分は、お願いしたとき。
「如何して、おまえらが趣味で走っているのを、俺たちがボランティアしなけはいけないのだ!!」
と言われたことがある。
もっとものことだとも思う。
ボランティア→一般的に、自発的に他人・社会に奉仕する人または活動を指す。
天竜区駅伝大会等実行委員会佐久間地域部会として決まったことは、
開催日は令和3年1月31日
走路は6区間(城西から浦川まで)
自分としてはボランティアの人員確保を考え、事あるごとに他の人に話していこうと思っている。
佐久間町の住民だけでなく、他地区の人にも。
(写真は記事とは異なっているかも(笑))
近江の国とは今の滋賀県琵琶湖近くの場所を言う。近江商人とは江戸時代に大阪商人・伊勢商人とならんで全国的に活躍した商人である。
その近江商人の「三方よし」という、考え方があることを知っているだろうか。
「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」
近江商人は、この「三方よし」の考え精神を基に商売をしてきた。自らの利益のみを求めることなく、多くの人に喜ばれる商品を提供し続け少しずつ信用を獲得していったのです。
この「三方よし」の考え精神は、多くの経営者の中でも受けつがれている、今もその精神で経営を進めている企業が日本にはある、いや世界にもある。
三方よし研究所
http://www.sanpo-yoshi.net/study/idea.html
こんなHPがある。
5月に佐中還暦同窓会を企画している。
「主催者よし」「集まる同級生よし」「会場のホテルよし」
そんな還暦同窓会になるようにしたい。
が、しかし、、、、。
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。
合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。
袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns
”しんしん”55歳
2015/11/25現在。。。
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