朝5時、まだ薄暗い中、117名のランナーが三つの班に分かれ時差スタート。
エイドでは、知り合いのラン友が沢山いて、走る人をサポートしてくれた。
エイドの内容も、流石、走る仲間、お粥あり、ゼリーあり、ウナギのお茶漬けありと、要所要所で私たちの欲しいな~っと思う物を用意してくれている。
気賀の関所手前の みおつくし橋の下のエイド(ウナギが待っている)
プリンス岬を通って、三ヶ日青年の家からは走行困難な遊歩道に行くことにする。
(先週の台風18号の影響で、歩道に砂・ジャリが打ち上げられ、ショートカットの車道との選択コースになっていた)
歩道を選んだわけは、今年も礫島(つぶてじま)見たいと思ったからだ、この礫島には巨人ダイダラボッチ伝説がある。
一緒に走っていたランナーにダイダラボッチ伝説の話をしながら一緒に走った。
かなり、私の記憶とは違うので↓のページで参考にしてください。
http://homepage3.nifty.com/y-iwata/densetu/tubutejima.htm
60kmエイドに着くと、天竜の人が夫婦でエイドをしていた。どちらも走り、夫婦仲良く理想の夫婦ランナーだ。
ここからは未経験のコース、猪鼻湖を一周する。
レークサイドウエイは車で何度も走ったことがあるのだが、自分の足で走ったのは初めて、別荘地の中の綺麗な景色は三ヶ日のイメージが私の中で変わっていった。
78.8kmエイド、知波田の駅で天浜線に乗ろうかとの迷いを振り捨て、入出の方に歩みを進める。
新所で日が暮れてきて、ライトを点灯させる。
前を行くランナーの点減灯を追いかけながら、歩みを進める。
よ~やくたどり着いた、95kmエイド。
制限時間は16時間、夜の9時にはゴールは撤収される。
今、6時半、少しの余裕を残し、残りの5kmを弁天の開春楼に向かう。
新居弁天を暗闇の中、走っているとラジオの音だろうか、畑の中から聞こえてきた。
国道1号線で、サポートに誘導され、浜名湖の三番の橋を渡り、二番の橋を渡り。
弁天島駅前の地下道を潜り、サポートから残り100mですよと言われ、開春楼入口に引いてある赤シュータンのゴールにたどり着いたのだった。
到着時間20時29分。(時差スタートで二組の集団)15時間28分かけて浜名湖を楽しみました。
私の第二の故郷、湖西市。
私が生まれ育ったのは当時、磐田郡だった佐久間町、その佐久間町の中でも山の奥(山の上?)の横吹という村に住んでいた。
飯田線の相月駅から向かいに見える山の中腹に私の家はあり、今思うと大変不便な生活をしていた。
そんな私は佐久間中学校を卒業した1975年、横吹出て、湖西市にある自動車部品工場で働くことになったのだ。
湖西で独身時代を過ごし、結婚して新居町で新婚生活を始めた。
この地は私の青春時代の思い出が沢山ある思い出の場所なのだ。
明日は、ヒロボーさんのマラニック「第1回 ぐるっと浜名湖一周100kmウルトラ・マラニック」がある、一日 浜名湖を私の青春の思い出と共に楽しもうと思っている。
動画サイトで「さくら道」を見つけた。
http://www.pideo.net/video/pandora/3082424657374b8d/
途中で終わるので、後は有料でお楽しみください(^^)
佐藤良二さんが名古屋から金沢まで植えた、桜の道(250km)は今「さくら道」と言われている。
そのさくら道を走る「さくら道国際ネイチャーラン」が毎年、桜が咲くころに行われている。
物語は、佐藤良二さんの孫が、おじいちゃんの植えた桜の道を「さくら道国際ネイチャーラン」に参加して走り始めるところから始まっている。
中国との関係が危ぶまれる昨今、今こそ佐藤良二さんの思いを皆で繋げよう。
荘川桜(しょうかわざくら)は、岐阜県高山市荘川町(旧荘川村)中野の国道156号沿い、御母衣ダム湖岸樹齢450年と推定される2本のエドヒガンの古木。
ごく淡いピンク色の花弁とごつごつした幹が特徴。
樹高約20m、幹囲目通り約6m。岐阜県指定天然記念物。
御母衣ダム建設によってダム湖底に沈む運命にあった桜を1960年12月、ダムを建設した電源開発株式会社(Jパワー)の初代総裁高碕達之助の発案で、同社により移植され、保守されている。
移植後、桜のあった旧荘川村に因んで「荘川桜」と名づけられた。
ウィキペディアより。
この荘川桜の物語から感銘を受けた国鉄バスの車掌佐藤良二さんは、名古屋から金沢を結ぶ国道を桜の街道にしたいと、12年間をかけて2,000本もの桜を植えた頃、佐藤さんは志半ばにして47歳という若さでこの世を去りました。
この話は、「さくら道」として小学校の道徳で紹介されたり、映画化されています。
この感動的な荘川桜物語、実生(みしょう)の「荘川桜二世」がたくさん誕生し全国各地で、荘川桜の「子」や「孫」が育てられているそうです。
その中の一本が、浜松市の天竜区龍山町戸倉の「やすらぎの湯」の駐車場に植えてあるのです。
JR東海バス名古屋支店地内にある「1号桜」の碑がある。そこに書いてある詩を今日のブログの最後にします。
「この地球の上に、天の川のような美しい花の星座をつくりたい。 花を見る心がひとつになって、人々が仲よく暮らせるように」
先日、広報委員での会合で、各広報委員が 各委員会での記事をまとめて21日(金)までに持って来るように決まった。
表紙は「地域おこし活動委員会」の「そばの鑑賞会」の記事にしよう。見開き2ページ3ページは敬老会の記事にして写真を沢山のページにしようとの意見がでた。
佐久間は高齢者が多いので、敬老会の写真を浦川地区・佐久間地区・山香地区・城西地区となるべくたくさんの人が映っているような写真を載せようとの意見がでた。
メールで○尾さんが27日(木)事務局で第21号がんばらまいか佐久間の広報誌を作り始めると言うので、私も行ってみた。
私は、○尾さんの作業を見ていただけだが(^^)
10月2日(火)午後7時から広報第21号編集会議開催。
各委員会から6名の広報委員が来た。1名は用事があると連絡が来たのだが、2名は連絡がなかったそうだ。
○尾さんが作った広報誌を6名12個の目でよ~っく見て誤字・脱字、直した方が良い所を探す。
ここの言い回しは・・・・・ここの字はもっと強調した方が良いのでは、等々・・・・。
敬老会の記事の話し合いの時に、○見さんから。
○見:「敬老会で88歳の人に写真を送るのだが、どうにかならないものかな・・・」
敬老会の事を何も知らない私は何が何だかわからなかった。
聞いてみると、佐久間の敬老会は、毎年恒例で88歳の敬老者に大きな写真をプレゼントするそうだ。
○見さんの意見は、毎年おんなじことをやるより、NPOがんばらまいか佐久間でやるようになったので、いろいろ考えて行った方が良いのではとの考えだと思う。
前にも私このブログで書いたのだが、活動委員は何もできない。
理事の人が、我々の活動委員の人の声に耳を傾けてくれないと、私たちはただ委員会で話していることしかできない。
ここで私は思う。
理事会の承認を受けて今の NPOがんばらまいか佐久間は色々なことが決まるのだけれど、こうやって頑張っている活動委員の会員の意見も耳を傾けてくれるようになればと思う。
話が少し脱線した。
今日は、第21号がんばらまいか佐久間の広報の話し。
ところが会合は、敬老会の88歳の写真の話、紅白まんじゅうの話、江戸芝の寿司の話などに及んだ。
最後は、自分が88歳の時には写真はいらない…(とか。
最終的に、○見さんや○野さんたちみんな、委員長の○尾さんに一任、残りの編集作業を他の活動委員が「すいませんが後はお願いします。」
っと終わった。
○尾さん一人では大変かと思い、私「編集作業の時にはメールして」と伝えたが。
10月3日(水)の今日、○尾さんからメール。
「仕事の都合がつき早めに編集作業を行いました。明日事務局に確認してもらいます」
今回、私は最終的にどんな広報になったのかわ分からない。
回覧板で回ってくるまでの楽しみに待っていることにしよう(^^)
2010年から「がんばらまいか佐久間」ではそばのオーナー制度を始めた。
ぞばのオーナ制度とは↓
http://www.npo-sakuma.net/subpageH.html
浦川の上市場地区に900坪の耕作地を借り受け、地域おこし活動委員会・女性活動委員会と連携し始まった。
このそばのオーナー制度を行うために新たな委員会「交流住居モデル事業検討委員会」がこの時に出来たのだ。
私は誰に誘われたのか、当時からこの事業に参加している。
この「交流住居モデル事業検討委員会」は、どうしてできたのだろう。
ある人が、こんな事業がどうだろう???っと提案し、がんばらまいか佐久間の理事会に掛け理事の人に承認してもらい事業が誕生したのだろう。
私は、ただの活動委員、理事たちが承認した活動を手伝うだけだ。
佐久間町が浜松市に合併して7年・・・NPOがんばらまいか佐久間が出来て7年、これからもこの地域に暮らし続けて行こうと思っている私は、微力ではあるがこの活動を手伝っていこうと思っている。
佐久間だけではなく、浜松市に合併し過疎が益々進んだ山間部の暮らしのために。
PS
「NPOがんばらまいか佐久間」活動委員の私は、この活動をボランティア活動として行っています。
ボランティアとは↓
http://www1.tst.ne.jp/wakaba/guide/bora/bora1.htm
最近のこの活動の動きを見ると、参加してくれる人がいないから・・・手当を・・云々・・と言う話が出ていることに疑問を感じます。
byしんしん(^^v
私の住む佐久間では、浜松市に合併したときNPO法人「がんばらまいか佐久間」を立ち上げた。
そのがんばらまいか佐久間は7つの委員会で構成されている。
「総務委員会」「保健・福祉活動委員会」「地域おこし活動委員会」「文化・スポーツ社会教育活動委員会」「環境づくり委員会」「女性活動委員会」「世代間交流活動委員会」
私は○野侃○さんが委員長の「地域おこし活動委員会」に所属するようになり、民話の里会館で行われる各コンサートの時に駐車場係などのお手伝いをするようになってきた。
そんな私に○野侃○さんが来て、地域おこし活動委員会の中の広報委員になってほしいと言われ、やれることはやって行こうと承諾した。
がんばらまいか佐久間の各委員会の広報委員は、年に4回発行するがんばらまいか佐久間の広報誌を作成するため事務局に集まり発行する広報の内容を決めるのだ。
先日、その広報委員会の会合があり、話し合い、各委員会の人が活動内容をだし、委員長である、○尾さんがまとめてパソコンで広報誌の原版を作っている最中だ。
先日の土曜日に行った「そばの花 鑑賞会」の写真を入れて完成するそうだ。
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。
合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。
袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns
”しんしん”55歳
2015/11/25現在。。。
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