昔、佐久間高校の野球部の部員が浜松方面から走ってきたことがある。
車で、その部員に出会ってビックリしたことがある。
「道路を走らせるなんて危険だ!」
町民の間ではそんな声が聞こえた。
山間部の国道は歩道もなくカーブが続き、車で走っていると左側の山影から人が突然出るとビックリ!
そんな国道を、佐久間ダムから砂を運ぶ大型トラックが走っている。
危険=そんなことやめた方が良い
しかし、道路は公共の物。
車だけの道路ではない。
何年前だろうか、国道で歩行者の事故があった時に「あんなところをフラフラ歩いているもんで」そんな声が聞こえた。
佐久間町が浜松市に合併し、役場の若い職員が次々と佐久間を出て行ったとの話を聞く。
佐久間では働くところが無くなるので今のうちに便利な所にこ行った方が・・・・・との考えだろう。
合併をして、佐久間町はますます過疎になっていくのだろうな~と思っていた。
そんな時から"五年に一度くらいは佐久間で同窓会"そんな思いで名簿作りから始めた佐久間中学校同窓会も一回目二回目は浦川の清流荘でやったのだが、
三回目の同窓会は浜松での開催となる。
合併をして、佐久間町はますます過疎になっていくのだろうな~と思っていた。
これからの佐久間(山間部)での生活はと憂いている時、家族で浜松に買い物に出かけようと車で国道152号線を走っていると・・・・・。
リックを背負って走っているランナーを見つけた。
次の日の新聞で「新浜松市誕生記念マラニック」の記事を見つけ、世の中にはこんな人もいるのだな~と思った。
そして自分でも・・・・・・・。
「遠い昔の事を思い悩んでいるより・・・今を楽しもう」そう感じるようになり自分なりのマラニックを始めた。
先日走った「ぐるっと富士山一周ウルトラマラニック」真夜中空を見上げると、始めは見えた星空が少しずつ見えなくなり途中から冷たいものが頬に・・・・・空は完全な曇り空。
富士五湖100㎞でも見れなかった富士山が今回も・・・・諦めていた。
ところが、鳴沢の道の駅で富士山は大きな姿を見せた。感動した。
後半の走りは辛かったが富士山が見え勇気づけられた。
ゴール後の懇親会で、コース上でトラックの通行が多い所があると、コースの変更を望む意見が出た。
乙武炎上
乙武さんが予約したレストランの店主と口論になり、頭に来た乙武さんは冷静さを失いツイッタ―に書き込んだ。
そして色々な意見が出ての炎上。
まだ国道が狭かったころ、水窪警察署の標語が「譲り合いありがとう」だったと思う。
合併し、今標語も「車は昼間もライトオン」になり、ライトを点けた車がスピードをだし急いで走り抜ける。
”車も人も自転車もオートバイもトラックも、町に住む人も田舎の人も、金持ちも貧乏人も、弱者も強者も、みんなこの地球に住む仲間、譲り合って行こうじゃないか。”
ヤッパリ標語は「譲り合いありがとう」がいいね(^^)
8月6日広島原爆ドームから8月9日長崎原爆落下中心地公園までのリレーマラソン。
走る事が趣味の私は去年の「富士五湖100km」から、私はウルトラの世界に足を踏み入れ、今ではマラニック、一般の道を気ままに走る事が楽しいと思えるようになってきた。
日曜日に ヒロボーさん企画の「ぐるっと富士山一周ウルトラマラニック(下見)」に参加し色々な人に出会い、facebookの友達が出来た。
その一人の人のページに「広島長崎リレーマラソン 」の紹介があった。
広島と長崎に原爆が投下されてから今年で68年目になります。
核兵器は非戦闘員を含む多くの人々の命を一瞬にして奪い、あるいは深い傷を負わせ、後遺症による苦しみを与え続け、地球環境を破壊する非人道的で残虐な最悪の兵器です。その核兵器は1986年の約7万発から約2万発まで削減されたとはいえ、人類を何度も滅亡させられるだけの破壊力を持っている状況に変化はありません。
日本は第二次世界大戦で多くの人々に被害を与え、日本人も大きな被害を受けました。それを踏まえて制定された日本国憲法第9条では「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」ことを謳い、国際紛争を平和的な手段で解決することを宣言しました。この考えが日本だけでなく、世界に広まっていくことこそが、核兵器と戦争のない平和な世界の実現につながると思います。
また一昨年は、絶対安全であるはずだった原子力発電所で放射能漏れという大変な事故が起きました。
私は核兵器も戦争もテロも原発事故もなく、世界中のどこでも自由に走ることのできる時代になることを願います。
広島と長崎では、今年も原爆が投下された8月6日と8月9日に核兵器のない世界を願って、犠牲になられた方の追悼と平和を願う集会が行われます。
その日に合わせて、2013年の夏、平和な世界の実現を願いながら、広島から長崎までリレーして走ってみませんか。
去年この「広島長崎リレーマラソン 」の話は知り合いからシャツを送ってもらい、このブログでも書いた。
http://hokuen.blog.shinobi.jp/%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%88/%E5%BA%83%E5%B3%B6%EF%BD%9E%E9%95%B7%E5%B4%8E%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%82%BD%E3%83%B3
いつの日か走ってみたいリレーマラソンだ。
昨日の朝の番組で「乙武炎上」の事を聞いた。
乙武さんが、5月18日の夕方、食事に行った銀座のイタリアンの店での対応についてツイ―トしたことで始まったそうだ。
内容は
“今日は、銀座で夕食のはずだった。○○○というイタリアンが評判よさそうだったので、楽しみに予約しておいた。が、到着してみると、車いすだからと入店拒否された。「車いすなら、事前に言っておくのが常識だ」「ほかのお客様の迷惑になる」――こんな経験は初めてだ。
これについて乙武さんのTwitterは炎上したのだ。
乙武さんへの同情、店の名前をネット上に出した乙武さんへの批判。
このことを乙武さんのブログに書いてある。
http://ototake.com/mail/307/
色々な立場の人がいる。
いつか仲直りして、このブログに二人の写真がアップされるといいなーと思った。
PS
朝の番組で「私はツイッタ―なんかやらないので、よく分かんないけど」とニヤニヤ言っていた司会者が気になった。
2006年6月24日、新城の○川さん、地元の竹○さん、私の3人で走り始めた「佐久間・水窪スーパーマラニック」
サポートは佐久間中学校時代の同級生、纐○に頼んだ。
コースは、今よりも長く山住神社から水窪ダムの方を周り水窪町に出た。
国盗りで昼食、日記には「てんぷらうどんに、ソフトクリームも食べた」と書いてある。
6時出発、帰ってきたのが17時35分 11時間35分・・・・だった。
次の年、コースも短くした(山住神社から向市場距)距離も約60㌔
「佐久間・水窪スーパーマラニック」
2008/6/21「第3回佐久間・水窪スーパーマラニック」
あれから7年!!
今年も「佐久間・水窪スーパーマラニック」の日が来週に迫ってきた。
4月に「富士五湖100㌔」を走ったのだが・・・・・あいにくの天気で・・・富士山は一度も見ることはできなかった。
それが、このマラニックの時には富士山が顔を出してくれた。
(富士山の写真)
http://www.facebook.com/media/set/?set=a.364502923670152.1073741832.100003313417010&type=3
走る前は、咳が出て、水鼻も・・・。
それでも走った100㌔。
今回は走るのやめようかな・・・・・とも思ったけれど。
ヤッパリ走ってよかった。
(走りながら撮った写真)
http://www.facebook.com/media/set/?set=a.364507127003065.1073741834.100003313417010&type=3
人生、楽ありゃ苦もあるさ~♪
マラソンを走る時も色々なコンデションの時があるものだ(^^)
リンク先はfacebookのアルバムになっています。
走った直後に、抵抗力は著しく低下し、
その後1週間ほどかけて徐々に回復する。
マラソンなどの強い負荷を身体にかけると抵抗力は低下し、
その時に風邪のウイルスが侵入する危険性が高まるのだ。
走っているときは平常時よりもより多くの呼吸をします。
とくに冬の夜などはかなり冷え込みますから、
冷たく、しかも乾燥した空気を多く吸い込むのです。
気管支やのどは、うるおいがなくなりウィルスが侵入。
そのうえ目一杯走りこむと疲労によって免疫力も低下、
また、冬でも走っている時はかなり汗をかきます。
走った後にすぐに汗を拭かないで
そのままにしておきますと一発で体が冷えて、
風邪をひいてしまうのです(TT)
風邪はウイルス感染、
家族で風邪気味の人がいるときには十分気を付けなければ。
それでも風邪を引いたならば・・・・酒を飲んで十分な睡眠をとる。
致知出版社から本の購入と同時にメール登録もした。
その便りで、下のような内容のメールが来た。
2年前の東日本大震災の後、
世界の国や地域が義援金を被災地に送ってくれた。
その中でずば抜けて多かったのが、
台湾からの200億円を超す援助だった。
日清戦争直後から先の大戦の終わりまで約50年間、
日本による植民地統治を受けた。
しかも戦後、日中国交回復のさいには日本から一方的に断交された。
それでも台湾の人々の日本に向ける温かい視線は変わっていない。
台湾の風土のようなものもあるが、
この間、多くの日本人が身を粉にしながら、台湾のため働いたという
歴史によるところも大きい。
その一人が台湾総督府の技師、八田與一である。
広大な平野は、夏には集中豪雨による氾濫。
逆に乾季には、水不足で農作物はほとんど取れない不毛地帯。
八田は烏山頭にダムを造り、そこから平野に水を流すことを考え、
宿舎に家族と泊まり込みで指揮をとった。
前例のない大工事は難航をきわめ、
工事現場では大事故で50数人が命を落とすという大惨事にも見舞われますが、
亡くなった遺族から、ここでやめたら死んだ人が浮かばれない。と懇願され
着工から10年という歳月をかけてついに巨大なダムが完成。
広大な平野は台湾最大の穀倉地帯へと変貌し、
「嘉南大しゅうの父」として永遠に人々の心に刻まれることとなった。
この八田の活躍は、戦前までは日本人の間でもよく知られていた。
しかし戦後、日本の植民地統治をすべて否定する歴史観がはびこるとともに
忘れられていった。
これに対し台湾では、戦後も中学校の教科書に載るなど
「嘉南大しゅうの父」として敬愛されてきた。
致知出版社メールから引用。
日本人は日本歴史を知らな過ぎる。
ならば・・・自分で調べなければ。
いつ調べるか・・・・今でしょ(^^)
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。
合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。
袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns
”しんしん”55歳
2015/11/25現在。。。
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