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致知出版社から本の購入と同時にメール登録もした。
その便りで、下のような内容のメールが来た。
2年前の東日本大震災の後、
世界の国や地域が義援金を被災地に送ってくれた。
その中でずば抜けて多かったのが、
台湾からの200億円を超す援助だった。
日清戦争直後から先の大戦の終わりまで約50年間、
日本による植民地統治を受けた。
しかも戦後、日中国交回復のさいには日本から一方的に断交された。
それでも台湾の人々の日本に向ける温かい視線は変わっていない。
台湾の風土のようなものもあるが、
この間、多くの日本人が身を粉にしながら、台湾のため働いたという
歴史によるところも大きい。
その一人が台湾総督府の技師、八田與一である。
広大な平野は、夏には集中豪雨による氾濫。
逆に乾季には、水不足で農作物はほとんど取れない不毛地帯。
八田は烏山頭にダムを造り、そこから平野に水を流すことを考え、
宿舎に家族と泊まり込みで指揮をとった。
前例のない大工事は難航をきわめ、
工事現場では大事故で50数人が命を落とすという大惨事にも見舞われますが、
亡くなった遺族から、ここでやめたら死んだ人が浮かばれない。と懇願され
着工から10年という歳月をかけてついに巨大なダムが完成。
広大な平野は台湾最大の穀倉地帯へと変貌し、
「嘉南大しゅうの父」として永遠に人々の心に刻まれることとなった。
この八田の活躍は、戦前までは日本人の間でもよく知られていた。
しかし戦後、日本の植民地統治をすべて否定する歴史観がはびこるとともに
忘れられていった。
これに対し台湾では、戦後も中学校の教科書に載るなど
「嘉南大しゅうの父」として敬愛されてきた。
致知出版社メールから引用。
日本人は日本歴史を知らな過ぎる。
ならば・・・自分で調べなければ。
いつ調べるか・・・・今でしょ(^^)
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。
合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。
袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns
”しんしん”55歳
2015/11/25現在。。。
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