土曜日は「富士山一周マラニック」だった。
富士山を時計回りに、ぐるっと一周すると100㎞。
約17時間かけて100㎞を走ったのだ。
ゴールまじか、左足の脛に痛みを感じた。
二日たった、今の写真。
左足の脛辺りが腫れている。
私のウルトラのデビューは2012年の「チャレンジ富士五湖」
練習で、友達の二人で走ったことはあったのだが、大会としての100㎞はこの大会が初めてだった。
当時のブログ。
「2012チャレンジ富士五湖 ウルトラマラソン」よいよスタート。
「2012チャレンジ富士五湖 ウルトラマラソン」私の初100km
100km ・・・・その後
二年前の時も、そうだった。
あまりの痛さに、近くの佐久間病院に行き診察してもらった。
待合室で、下平の○藤さんのおばあさんに言われた。
春○さん:「どうしただいね~」
私 :「100㎞走ったら・・こうなった」
春○さん:「もう、そんなことやるなネ」
私 :「ハイ」
そんな会話をした。
2年たった今、私は何も進歩していないようだ。
(-Å-`;;)ノモウダメ…
世界遺産の富士山を時計回りに、ぐるっと一周するマラニックに参加してきた。
100㎞もの距離を、走ったり歩いたりしながら丸一日使ってのマラニック。
疲れた身体で見上げると、そこに富士山はある。
コースは↓の地図を参照してください。
http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=091af8c3a14393866f615d89dbcb8298
来年は本番。
どの様なマラニックになるでしょうか?
多くの人に、この感動のマラニックを味わってほしいものです。
Welcome to Mount Fuji
Welcome to Shizuoka
Welcome to Japan
<業績>
日比野寛(ひびのかん)は,マラソン校長として愛知県はもちろんのこと日本のスポ-ツ界にその名を刻んだ人物である。彼は第一高等学校(現 東京大学)2年生の時に,検診で胃腸病を発見された。以後彼は,健康のため「歩き方・姿勢」に気を配るようになり,健康が回復した後に国家の役人となった。
役人だった彼が,母校の第一中学校(現 旭丘高校)の校長に赴任したのが1899年(明治32)のことである。授業ボイコットなどの学校騒動の最中に望まれての人事であった。彼の教育理念は,「抱き鯉主義」(水に入って鯉になれ,鯉の泳ぎと共にこれをつかまえるように教育も生徒の中に入って指導せよ)と呼ばれた。彼が校長第1日目からテニスコ-トに立つと,次第に校内の騒動はなくなっていった。健康面で苦労した彼は,生徒に「病める者は医者へ行け,弱き者は歩け,健康な者は走れ,強壮な者は競走せよ」と呼び掛け,日本で最初にマラソンを本格的に教育界に導入した。「マラソン校長」のゆえんである。
17年間校長を勤めあげた彼は,退職後に日比野式走法(上体はまっすぐ腰の上,運動は手と足でする)を多くの人に広めていく。
<年譜>
1866年(慶応2) 中島郡大里村(現稲沢市)に織田文斎の三男として生まれる
1885年(明治18) 愛知県第一中学校(現 旭丘高校)から第一高等学校(現 東京大学)へ進学
1898年(明治31) 日比野家の養子となる
1899年(明治32) 愛知県第一中学校長になる
1911年(明治44) 日本最初の生徒長距離競走を実施
1950年(昭和25) 83歳で没
愛知エースネットHPから引用
数年前、私が「中日豊橋ハーフマラソン」に参加したころ、エリートランナーは「日比野賞中日マラソン大会」を走っていた。
そんな時にマラソン校長日比野先生の話を聞いたことがあるのだった。
日比野先生の偉業を忘れない様に始まったであろう「日比野賞中日マラソン大会」も第57回大会を最後に2009年その幕を閉じた。
そんな日比野寛の銅像が瑞穂公園陸上競技場の前にあるらしい。
何時か名古屋を訪ねた時には、是非とも訪ねて行きたいところだ。
佐久間町には竜頭山(りゅうとうざん)1,352mがある。
私が元、暮らしていた村「横吹」の家の前にはその竜頭山がいつも見えていた。
半場に越してきて、佐久間からは見ることは出来ないと思っていたら、、、、。
佐久間地区から・・・その山は望むことができるのを知った。
半場に越してきたのが平成1年3月
その年の6月の初め、佐久間部品の周りを一周したのが、私のジョギング人生の始まり。
平成17年(2005年)の夏、
佐久間町が浜松市に合併し、リックを背負って国道152号線を走っているランナー数人を見かけ、ウルトラランナーと知り合いになり。
中部天竜の駅を発着点して竜頭山を登りスーパー林道を走るマラニックを始めたのだった。
佐久間・水窪スーパーマラニックのコース↓
http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=9dad67f8506f942986a7170ffa83c2c0
竜頭山スーパーマラニックのコース↓
http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=8cef2804b55bb7945da97c4b175232aa
以上。
今までの動画。
山は良いな~(^^)
カラオケの練習しョ( ^0^)θ~♪
去年も、このマラニックを走った。
ぐるっと富士山一周ウルトラマラニック(下見マラニック)
http://hokuen.blog.shinobi.jp/%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF/20130519
今年は「2014 リハーサルマラニック」とサブタイトルがついている。
去年は富士山が道の駅「なるさわ」から見えたな~。
ちょうど苦しくなりかけた頃、
一緒に走っていた清水の永山さんが
「そんなに富士山、、、に感動するのか」
そんなことを言っていた。
いつも、窓を開けたら富士山が見える。
そんなところに暮らしている人には分からない、感動を覚えた。
それは4月に走った「チャレンジ富士五湖」この日は雪で最悪の天候、当然富士山も見ることができなかった。
富士山一周の時も、走り始めた時には霧雨が降り・・・・今回も富士山見えないのかな~。
と、思ってのスタートだったので「なるさわ」で、その雄大な富士山を見た時には・・・本当に感動した。
このマラニックは、富士遊湯の郷「大野路」を深夜0時に出発、時計回りに富士山を一周するコースだ。
距離は、ちょうど100㎞。
今回、このマラニックに62人のランナーが参加する。
永山さんの名前もみつけた!!
今年も富士山の見えない、静岡県から参加します。
宜しく。。。です(^^)
肯定的・否定的 ポジティブ・ネガティブ
どうせ生きるなら前向きに。MAEMUKIに。
みんなのMAEMUKI駅伝って知っていますか?
アメリカンホーム保険会社が主催し、2012年から開催している市民ランナー参加型のチャリティー駅伝
私この駅伝、Facebookの友達、中上さんが参加するとの話から知るようになった。
キャンペーンの趣旨
アメリカンホーム・ダイレクトは、2012年にがん保険「みんなのほすピタる」の発売をきっかけに、癌と闘病ながら、あるいは癌を克服し、前向きな力で絆をつなげようという人々を応援するための「MAEMUKIプロジェクト」というキャンペーンを展開するようになり、その中核として、癌を克服した市民ランナーを襷でつなぎ、日本列島を縦断しようという駅伝キャンペーンを実施することになった。2013年は癌患者だけでなく、様々な困難を乗り越えて前向きになって生きていこうとする市民ランナーに幅広く参加門戸を広げている。
ウィキペデアから引用
駅伝のルートは↓
http://maemuki-ekiden.jp/route_map2014.pdf
私の住んでいるところはと探してみたら。
5月30日(金)
新野峠 9:00スタート
東栄町 12:30
本長篠 18:00ゴール
5月30日(土)
本長篠 9:00スタート
都田 12:30
磐田 18:00ゴール
6月 1日(日)
磐田 9:00スタート
新居 12:30
豊橋 18:00ゴール
このような予定だ。
今回、私
6月1日(日)に「売木村マラニック」の申し込みをしているので参加できないが、
このような試みは興味ある所だ。
人はそれぞれ違う、性別も年齢も暮らしている所も。
健康状態も、性格も。
皆そんな、現実の中で生きている。
みんなのMAEMUKI駅伝
応援してます。
荘川桜の話。
パンフレットの最後に電源開発株式会社初代総裁”高橋達之助”の言葉が紹介されていた。
「進歩の名のもとに、古き姿は次第に失われていく。だが、人の力で救えるものは、なんとかして残してゆきたい。古きものは古きがゆえに尊いものである」
佐久間では、さくまっぷ といって地域を歩くことをやっている。
そのウォーキングで佐久間地区や中部地区と歩いていると、原田久吉翁の話が出てきた。
地元に住んでいて、原田橋を造ったことぐらいしか知らなかった自分に呆れた。
原田久吉翁は橋を造り、中部小学校を造り、佐久間から羽ケ庄の道を造った偉人なのだ。
中部の商店街から平沢に上る途中にある石碑がある。
原田久吉翁が米寿の詠んだ歌が刻まれている。
「数つ美(み)て ほ古(こ)らぬ穐(あき)の 米俵」
原田久吉翁
大正13年に自ら米寿を祝って読んだ歌、
中部にはそんな人が居たのです。
詳しくは
http://yama-machi.beblog.jp/sakumab/2009/02/post-8b50.html
早々、出かけよう北遠、ふるさと散歩道を書いている人に連絡を取り、原田久吉翁の情報を取り入れた。
北遠が好きで町から山へ通い続け、得た原田久吉翁の話を一冊の本にまとめて送ってくれた。
佐久間の地図に、原田久吉翁縁の場所を印をつけ、
郷土の偉人
原田久翁の足跡を訪ねる
と、マップにした。
さて、これから・・・・どうしようか。
職場の友達が連休に荘川桜を見に行ったそうだ。
荘川桜の
パンフレットをいただいた。
御母衣ダムに面した国道156号線沿いの中野展望台で湖底を見守るように、どっしりと腰をろしているこの二本の巨桜は、御母衣ダム建設により湖底に沈む運命にありましたが、多くの桜を愛する人たちの情熱により、世界の移植史上例のなかった老桜の移植を成功させ、毎年ふるさとを偲ぶかのように見事な花を咲かせてくれます。
(荘川まちづくり協議会)パンフレットから引用
私がこの荘川桜のことを知ったのは、
平成17年(2005年)の夏、佐久間町が浜松市に合併し役場の職員が合併になった経緯を説明しに我が地区に来て、
「浜松市に合併すると佐久間町の将来は無い!」
そんな話を聞き憂いている・・・そんな夏の或る日、
家族で浜松に買い物に出かけている時だった。
リックを背負って国道152号線を走っているランナー数人を見かけた。
次の日
職場で昼休みに新聞を読んでいると、昨日の走っていた人の記事が載っていた。
新浜松市誕生記念マラニック
新浜松市になった12市町村の旧役場を全て走って巡るランニングだそうだ。
朝、水窪の役場を出発し翌日の昼頃、浜松市の役場に到着したそうだ。
世の中には、こんな人もいるのだな~。
そんな感じで感心していた。
この新聞で知った、このマラニックを企画している人と出会い。
フルマラソン(42.195k)以上の距離を走るウルトラランナーと知り合いになり。
さくら道
荘川桜の移植作業に魅せられ、名古屋から金沢まで桜の道を造ろうとした佐藤良二さんの話を知ったのだ。
私が暮らしている佐久間町、
御母衣ダムと同じ時期に建設が進んだ佐久間ダムがある。
この地域にも、きっと同じような物語があるだろう。
天竜川沿いを走ると、船明ダムがあり次に秋葉ダムがある。
その次に出てくるのが佐久間ダムだ。
人がそこに暮らしている限り、物語はづっと続くのである。
鳥居強右衛門勝商はその時、何を考えていたのか
歴史から考える。
今、私は何を行えばいいのか。
走ることも、その一つ。
仲間には白山ジオトレイルを目標にトレーニングを積んでいる者もいる。
世の中には様々な人が居る。
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。
合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。
袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns
”しんしん”55歳
2015/11/25現在。。。
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