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夏祭りの多い、佐久間地区
私の地区「半場」
その中でも一番。。。。。
毎年、7月の最後の土日と、だいたい決まっている。
昨日(日曜日)は、お祭りの準備のための地域総出で草刈りがあった。
そう。あった。
予定では、
土曜日に佐久間高校野球部の応援
日曜日に半場クリーン作戦
その様に決めていたのだけど・・・・・。
高校野球の開会式が雨のため一日延びて、佐高の試合も、草刈りの日程に重なってしまった。
今回は、試合を見るのはできないと思ったが、やはり佐久間高校は来年は分校になる。
最後の試合
何としてでも見ておきたい、自分の目で見て、その様子を自分の脳裏に焼き付けておきたいとの思いがあった。
佐久間高校での最後の試合。。。。。
そこで、
いつも走る用事で、迷惑いっぱいかけている奥様に、、、、俺の代わりに草刈りに出てほしいとお願い、、、した。
そう。
昨日(日曜日)は、お祭りの準備のための地域総出で草刈りがあった。
だが、私は隣のオジサンと二人で佐久間高校野球部の応援のために浜松球場に向かったのであった。
球場近くの有料駐車場に車を止め、球場に向かう。
人人ひと。
多くの人。
遠く佐久間の山奥から来た人。
今は浜松に暮らしている佐高のOB。
多くの一般の人が集まるのが佐高の浜松市の山奥の高校の特徴。
応援席には、夢街道90㎞でお世話になったT木君
メガホンを片手に熱い応援!!!!
が、結果は、御覧の通り。
敗退。
でも、いい試合だった。
多くの地元応援団に見守られ、のびのびした試合になったと思う。
佐久間高校としては、夏の大会、最後の試合
浜松市に合併した北遠(ほくえん)に走りに来てもらい、色々な話を聞いた。
ある人は
「多きな市に吸収され、こうなるのはショウガナイ」
その人は静岡市葵区の人だ。
昔
佐久間町が合併を決めた時
当時の佐久間町の役場の職員が私の暮らしている地域(半場)に来て合併の経緯を説明に来た。
最後に
静岡市に合併した井川地区が衰退の一途をたどった姿をパソコンで見せて「佐久間町もイズレこうなるでしょう」と言って帰っていった。
合併から10年以上たった今、佐久間町もその人が言っていたとうりになってきた。
浜松市はその後、政令指定都市になり、私が暮らす北遠(ほくえん)は天竜区の一部、天竜区の中でも山間部
佐久間・水窪・龍山は存在が危ぶまれる。
ある人
その人は静岡市の葵区
わたしが暮らす北遠は天竜区
ショウガナイのかナ~。
残ったもんんが貧乏クジ引いたじゃ~ダメだぞ!!
2015/03/21 (Sat)
私が書いたブログ
着実にそんな世の中に進んでいるような気がする。
byしんしん
私の定期購買している雑誌に
米国カルフォルニア州 弁護士
ケント・ギルバート氏
と
参議院議員
山谷えり子氏
の対談があった。
ケント・ギルバート氏と言えば親日派で有名
前、氏の本を読んだ事がある
まだGHQの洗脳に縛られている日本人
まさに目から鱗の話が満載だった(笑)
いま、後世に語り継ぐこと
【日本人としての自覚を促す視点】
【実感する日本人の変化】
【教育で大事なのは子供の判断力を養うこと】
【平等という言葉をはき違えてはならない】
【惨めに感じられることも実は恵みに溢れた経験】
【ご恩返しの気持ちは大きなエネルギーを生む】
【日本人の思考を歪めたアメリカの洗脳プログラム】
【国家主権が侵されても怒らない日本人】
【自分の国も自分で守れない依存憲法のままでいいのか】
【日本が世界に発信していくべきこと】
【信頼、感謝そして社会参加】
外国の人だから感じられる日本人の変なところ
世界を知らない日本人のこと
ギルバート
「お花畑の住人になっていて全然危機感が無いですね」
まさにその通りだと思う。
また、成人式の講演で、新成人んが騒いでいると
ギルバート
「君たちは自分を何様だと思っているんだ?君たちは誰のおかげでこんな素晴らしい日本ができたと思っているんだ?君じゃないことは確かだよな。じゃあいったい誰だ?ご先祖様でしょう。お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、お父さん、お母さん、その他地域社会や国の指導者、さらには外国の援助も受けて今があるのに、何だその態度は。もっと感謝しなさい」
と激を入れるそう。
いまの国ができたのは、いま生きている人間のおかげじゃない。だから感謝の気持ちを一生持ち続けけなさい。と。
ケント・ギルバート氏は
1971年アメリカの大学在学中にモルモン教の宣教師として初めて日本に来たという。
その時は、日本という国は何処にあるのかさえも分からなかったと。
いまは日本人より日本を愛し、日本の事を考えている。
そんな気がする。
ブログ
「ケント。ギルバートの知ってるつもり」
からも、そんな感じがよく分かる。
遠山郷のマラニック
「チャレンジマラニックin遠山郷」が、今年の大会で第10回目となる。
私は、今年完走すると第10回完走となる。
事務局から、そんな私に、メッセージを書いてくれという連絡が来たので
ココに、その内容を記してみます。
浜松市から参加の新間といいます。
浜松市といっても、その浜松市は平成の大合併で北は水窪までもが浜松市になり日本でも二番目に広い市になりました。
私は水窪の隣の町、佐久間町からの参加です。
11年前、平成の大合併があり、東京マラソンが始まり、参加費1万円でチョット高いと思っていたが、その東京マラソンに申し込みをした。ところが年末に落選メールが我が家に届いた。
次の年の冬、水窪で開催される北遠駅伝の待合室で、萩田さんに「遠山郷というところでマラニックがあるらしい」といわれ、その年の春に行われた「第一回 チャレンジマラニックin遠山郷」に参加したのが始まりです。
水窪より山奥の、そのマラニックは、遠山郷の木沢小学校からスタートしました。
神奈川県から来た渓流釣り愛好家の前田さんが、木沢地区の人と交流があり、遠山郷が過疎化と高齢化で大変なのを知り、何とかならないかと考えているときに
同じ神奈川県でマラニックを企画している最勝寺さんと出会い、「チャレンジマラニックin遠山郷」が開催されるようになっと聞いています。
第一回の時は遠山川を奥まで走り、南アルプス聖岳・光岳・易老岳への登山口である便ヶ島まで行って手打ちそばを食べたのが良い思い出です。
コース上では雪に輝く聖岳が綺麗でした。
ココの最大の呼び物はエイドでの遠山郷独特の豪華な食べ物、また、走る前の前夜祭、走り終わってからの後夜祭ではの地元の人との飲めや唄えの楽しいひと時を味わった。
また、こんなに接待されて、東京マラソンとおんなじ値段には、びっくらぽん!!といわずにはおれない。
本当に遠山の人たちの大歓迎には、感謝・感謝・感謝である。
そんな遠山郷のマラニック、第一回目から毎年参加して今年完走できれば10回完走となります。
10年間「チャレンジマラニックin遠山郷」では様々なことがありました。
神奈川県から来た若者が立ち上げたマラニックも、その二人の思いが地元の人たちの心の活性化に火を付け、おとずれるランナーにも気持ちが通じ、今では人気大会になって走りたくても参加できない状態です
。
「チャレンジマラニックin遠山郷」
通い続けて10回目になる。
その間、遠山の人と触れ合って自分なりに考え方が少し変わってきた。
多くの思いやりというボールをランナーに投げてくれた遠山の人たち。
次は、こちらからお返しするばんだ。
11回目からは、ボランティアで大会に携っていこうと思う。
一人でも多くのランナーに、この遠山郷に来ててほしいと思うから。
佐久間町 新間 勉
こんなレポートを送ろうと思う。
観光協会のシンちゃんにだいぶ削られると思うが、今の自分の気持ちを書いてみた
(^O^)/エイエイ
byしんしん
私のマラニック
夢街道90㎞
が、もうすぐだ。
今回、第6回目。
第一回目は20人の参加だった。
そのとき走った仲間は、私のホームページにしまってある。
それが↓
http://run2.ina-ka.com/yumekaidou/sionomiti.htm
どうして、こんな事、始めたんだろう。
どうして、こんなに夢中になっているのだろう。
その一つに。
私の生まれ育った村がある。
その村は横吹(よこぶき)、今56歳になる私は、29歳の時に
その村から引っ越した。
横吹は山の中腹にある村で、どこの村でも村道が開通している時代に、その村は村道を造ることができなかった。
村人の中での揉め事が多い村だったから。
貧乏な村だったから。
様々な問題をはらんでいただろう。
少ないが先祖の残した財産もあるからと
父親は佐久間を出ることは望まなかった。
引っ越した先は、数年前母親が同じ横吹の人の紹介で購入した半場の家だった。
半場と言えば佐久間ダムのおひざ元。
まだまだ、ダムの恩恵があり豊かな便利な地域だった、当時。
子育てをして、幼稚園も小学校も中学校も近くに合って、恵まれていた。
が、近くが故に、子どもたちは贅沢に育ったともいえる。
ニャン(≧▽≦)
半場の消防団でお酒を飲む機会があり、地元を出ていく人を憂いていると
(当時の自分、横吹から考えると恵まれている地域を出ていく人の気持ちがわからなかった)
「新間クンも横吹を出ていったではないか」
と一括されたことがある。
そう、そんな言葉が、私を突き動かしていると感じる。
バンク(≧▽≦)
横吹、限界集落。
今、ギヨンドのケー兄も子供の所へ引き取られたという。
残っているのは
ワゼ・オウド・シンモウの三軒だけだ。
どの家も高齢者たちだ。
何時かは、なくなるのかもしれない横吹、しかし、最後まで見届けるのが、今の自分にできる事だと信じて
夢街道90㎞
続けていこうと思っている。
byしんしん
「ほくえん旅ラン」
夢街道90㎞
が、今週末に近づいた。
PEACE RUN
hokuen journey RUN
走る目的だけでなく、走ることで日本で生まれ今の平和な世の中に暮らせる事を
感謝してほしい。
また、今の平和な世の中は、先人たちの苦労の上にあることも実感してほしい。
推定1,000万個の地雷が埋められているとされるアフガニスタンでは、普通の生活すら安らかにできない。
日本で暮らし、それなりに齢を重ね。
この様なことができることに感謝しよう。
世界中、どこに行っても、マラニックできる世界になることを願います。
PEACE RUN
hokuen journey RUN「ほくえん旅ラン」
byしんしん
修身教授録は森信三先生が戦前の師範学校で修身の授業を行っている様子を書いたもの。
勉強会では、その本を読み、森信三先生は、教師の道を志す生徒に何を伝えたかったのか、年齢も違う性別も職業も違う人たちが森町の三倉の別荘「ムーハウス」に集まり侃々諤々と話し合っている。
同志の集まり。
萩田さんのマラニックでよく出会う仲間が参加する勉強会だ。
その勉強会で、気になる話があったので、ココに記しておきたいと思います。
休憩のとき、このような話が出た。
小笠山トレイルランの問題だ。
国の管理している小笠山で、管理者が大会の規制をかけているという話だ。
どうにかその問題をクリアして、様々な管理者からの難題を答えて、大会の存続に苦労しているという話。
また、「そこまでしてやることが良いのか」そんな話だった。
私は、そこまでやらせたくないのなら、素直に辞めるべきだと思った。
が、口には出さななかった。
また、富士山一周マラニックの話が出た。
地域住民から朝早くランナーの騒ぎ声を発端に騒動になった話だ。
非を認めた呼びかけ人に、被害を被った人の心の動揺も治まって、次の大会にも顔を出してくれるとの約束をしてくれた。新しい仲間が出来たと嬉しく思った。
そんな時に、ある人が。
「そんな問題は軽いもの、ランナーが死んでしまったら、こんなもんではない」
と。
また、萩田さんに、こんなことをやっていると、いつか必ずそんな日が来る。
とも言っていた。
私は背筋に冷たいものを感じた。
萩田さんは、承諾書を残してある。
といったものの
その人は
「その人が死ねば、近親者から裁判を起こされたら、何も言うことは出来ない」
と、言った。
萩田さんは、これからは近親者からの署名も書いてもらう。
と、言った。
富士山頂往復マラニック
などは、200名以上のランナーが集まり、もう私は見たことのない人までがいる。
たしかに走っていて危ない、そんなこともある。あった。
だけど、私は思った。
ある人が言った言葉。
こんなことやっていたら、いつか必ずそんな日が来る。
それは、あまりにも醜い言葉だと思った。
また、そうは思って居ても口に出さないことも同じことだ。
そう思ったら、そうならないように考えるのが同志ではないかと思う。
同志→「こころざしや主義・主張を同じくする人」
走る人が、一人ひとり、注意し合いマナーを守って、目標であるゴールを目指す。
このマラニックに参加する人は同志でなけれないけない。
走るだけではなく、主義や主張も。
大人の遠足(マラニック)
それなりの人が参加するような、大会になって欲しい。
自己責任を、それなりに重く感じてくれる人。
ワガママでない人の参加。
1990年代
私がフジユニバンス水窪事業所で働いていころ
またバブル景気が一段落したころ
ブラジルから、その会社に働きに来ていた青年がいた。
多くの人が水窪で共同生活をして、水窪事業所で工作機械を相手に働いていた。
その中に
日系三世のパドロフ(仮名)がいた。
工場の夜勤作業の休憩の時に、片言のパドロフの日本語で話をした。
家族で日本に来て働いているパドロフは、日本でお金を貯め、トラクターを購入し
ブラジルで農場を経営する
そんな夢を語ってくれた。
当時の夜勤作業は男性ばかり
男同士での話となると、どうしても出てくる話はスケベ話。
ある人が
コールガールの話を持ち出した。
何処の国のが良いダ~
見たいナ。
パドロフは
「ア○○カ人ダメダメ」
とかいって笑っていた。
そんなパドロフが
私に
ブラジルの彼女の写真を見せてくれた。
日系三世の綺麗な子だった。
そして、その彼女が日本に働きに来ると嬉しそうに私に話してくれた。
働くところは富山県のあるホテルだそうだ。
同じ職場の先輩、ケンジさん(仮名)に、その話をした。
「ホテル、、、そりゃーヤラレテよしだワイヤ」
俺も、そんなことを心配した。
俺はパドロフに言った。
彼女の事が心配だと、その働くところは大丈夫なのかと。
次の日から
パドロフは仕事に来なくなった。
俺は職場の班長に怒られた。
「余分な事を言わがって」
と。
彼女を心配したパドロフは富山県に行ったのだろうか?
あれから20年
あのときのパドロフ、今頃はブラジルで農場を経営しているだろうか。
byしんしん
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。
合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。
袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns
”しんしん”55歳
2015/11/25現在。。。
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S | M | T | W | T | F | S |
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