残暑厳しい8月の末、土曜日の朝、浜松駅南口から天竜区佐久間町にある「上島キャンプ場」までの60㎞を走ろうというメンバーが集まってきた。
12市町村が合併して新浜松市ができ、私が暮らす北遠(ほくえん)は浜松市の一部になり、当時の合併で「旧12市町村が其々キラキラと輝くクラスター型の浜松市を目指す」そんな言葉に少しの希望を持って
自分 一人で走った、この道。
12市町村が合併して出来た新浜松市を12回目に走る仲間。
ある人は、三重県からやってきた。
先日、静岡新聞で長野県売木村村長の公演記事が載っていた。
「人が訪れる、訪れたくなる村をつくるには、内外のひととのつながりが大切」
今回、佐久間まで走ってきた走る仲間。
また、佐久間に暮らし佐久間で教職を退職し地元で地域のために暮らしている人が、私の「冷えたスイカを買って上島キャンプ場に持って来たほしい」そんな言葉に快諾して協力してくれた人。
佐久間の別荘を持ち、佐久間での田舎暮らしを楽しんでいる仲間もいる。
そんな人が、上島キャンプ場での料理を担当してくれた。
12年前、あの合併があったから
人とのつながりを、今以上に大切に暮してきた結果が、今回の「浜松縦断マラニック」になった。
「浜松縦断マラニック」60㎞
始め萩田氏に相談したとき「飯田線で佐久間に行き、佐久間に泊まってから佐久間から浜松に下ったらどうかナ」と言われたが、私は当時佐久間から浜松市街に引っ越す人が多いので、かたくなに「このマラニックは市街から山間部に登って来るのに意義がある」と言ったのを覚えている。
ダムが無い時代、アユが天竜川を遡上してきて、佐久間でも天然の大きく育ったアユが釣れたという。
そんな若鮎のように、山里の佐久間に上ってくる人を願っての「浜松縦断マラニック」だった。
最初、上って来るだけだったのが、何時しか往復になった。
浜松市のシンボル「アクトタワー」を背にした往路だったのが、今度は「アクトタワー」を目指しての走り。
天竜川沿いの道は川の流れに沿って、旧天竜市に出て、浜北区からの浜北バイパスは灼熱地獄、真っ直ぐなジリジリと照らす太陽を遮る木陰は何もない。
そんな路を「アクトタワー」目指して走る。
今回、自分は、そんな地獄から逃げ、西鹿島駅から電車でのワープをした。
そして浜松駅に到着した。
人とのつながりをつながりを大切にして、今までやってきた私のマラニック。
あの12市町村の合併があったからからこそ、ここまでやれたのかもしれない。
「浜松縦断マラニック」
縦断=縦の方向に断ち切ること。
12市町村が合併して出来た浜松市
日本でも二番目に大きくなった政令指定都市浜松市。
そこを縦断するとはスタートは中田島砂丘だとの意見も聞く。
私にとっての「浜松縦断マラニック」この縦断の意味は。
12市町村の合併をきに様々な人間ドラマがあったことを、中でも浜松市の北部は合併を機に多くの若者の流失を余儀なくされた。
巨大な行政区にして、中山間地にある多くの橋は錆びだらけ。
私「しんしん」が、桃太郎侍にふんして一刀両断に浜松市を切った(切ってしまいたい)そんな思いの「浜松縦断」であったのであった(^O^)/
第12回「浜松縦断」記録
二次会は最後までは付き合わなかった。
早めに就寝、寝床で修身のお話を思い出しながらの睡眠。爆睡。
隣で爆睡中の爆音に気が付き目が覚めた。
何時だろうか?
辺りは真っ暗、走る用意をし、布団で目をつぶるも寝付くことはできない。
夜明け前、森町三倉ムーハウスの玄関を開け、運動靴を持って外にあるソファーに座る。
外は真っ暗。AM4:00
チョットした屈伸運動を終え走りはじめた。
ハンドライトをたよりに上り坂の道路を、昨日寄った「神楽坂」方面に向けて走りはじめる。
山や木の陰で狭くなった空が時より見える。その狭い空に星が輝く。
斜面にある郷にでて、狭い空が少し広がり、私が唯一知っている星座「オリオン座」が見えた。
その横に、ひときは輝く星(後から聞いたら金星ではないかと言われる)その上に切れるような三日月が、、、、ぽっかり浮いている。
汗をかき息が弾み、峠に着いたのが5時近く、あたりは白み始めていた。
ココの峠を、北に下ると川根に至る。
峠のフェチとしては、せっかく極めた峠、下ってみたい、そして下ったところにある郷に行ってみたい、そんな衝動に駆り立たれる。
が、
少し下ったが、帰ってきた。
峠に帰り、その道を今まで走ってきた道を帰ることもできるが、もう一本の南に尾根沿いを向かう道を行くことにした。
この道は、数年前、山草人さんの後を着き走ったことがある道だ、昔の記憶を辿って走ることにした。
杉林の中のジョギング、夏の季節の終わりを告げえるヒグラシの合唱が聞こえる。
昨日、勉強会での「血・育ち・教え」その中の「血・育ち」変えることのできない昔からの自分。
横吹で生まれて横吹で育った、横吹(よこぶき)斜面集落。
山で一人で走っていると感じる。一人で気ままに走る自由さ楽しさ解放感。
血統も育ちも良くないけれど、戦後それを個性と呼ぶようになった。
個性、灰汁、だらけの自分だけど「それでいいのだ」
随分走ったが、そろそろ目的地に着いてもいいのではなっか、そう思ったころ、こんな看板が。
「美しい自然は、みんなの財産です。自然を破壊するような行為はしないで下さい」
自然保護
そこが三差路、真っ直ぐ行くと上り坂。左に折れると下り坂。
そろそろ山を下るときだと考え、左の道を選び下りの道を進んでみた。ところが右手を沢が流れる、この道。見覚えが無い、もう少し進むと何か思い出すだろうか?
ヤハリ違っている、もと来た道を帰る上る、さっきの三差路、今まで来た道を戻ろうか、それとも真っ直ぐすつづいている上り坂を行こうか、悩んだ末、真っ直ぐの上り坂を進んだ。
その上り坂を登り切ると、今まで杉林の中だったのが、広葉樹に囲まれてのコースになった。何となく昔の記憶が蘇る。
数キロ進むと下り坂、昔の記憶に重なり合いこの道ではないかと確証してきた。
不安だった気分も安堵に代わる。道は下り坂。下り坂、、、最高(^O^)/
人生下り坂最高!
こころ旅。火野正平気分(^O^)/
苦しみがあり。不安な事があったり。偶然の出会いがあったり。道に迷ったり。
毎日が旅、
am5:50 森町三倉ムーハウス、無事に帰って来ることができた。
朝食の味噌汁に感謝した。
am9:00
萩田氏「カミノ・デ・サンティアゴ巡礼の旅」報告会
別にキリストの信者でもないが、巡礼の旅に行ってきた。
萩田氏、69歳の原動力は何だろう。
莫大な資料、旅を有意義なものにする行く前の準備、普通の人では考えられない下準備。
自分の財産は、人との繋がりだという萩田氏、自分も参考にしたいところが多くある。
今回の巡礼の旅、ヨーロッパ「スペイン」の歩き旅。
私、昔書いたブログ
#旅は人生そのもの。
ノンフィクションライター沢木耕太郎の本
深夜特急新潮社
第三便 飛光よ、飛光よ
たまたま出会った本で感動し書いたブロブ
インドからバスを経由してヨーロッパまでの旅の話。
萩田氏に最後質問した。
「スペインを32日間787㎞歩いて最後サンティアゴに着き、大西洋を見た感想は如何でしたか?」
未だ海外にすら行ったことが無い自分。聴きたいことは山ほどあった。
コース設定をシッカリして、仲間を連れての旅。
当初、萩田氏が「カミノ・デ・サンティアゴ巡礼の旅」に行くことは聞いていた。
そのときは、誰かほかの人が、私の知らない萩田氏の仲間が、計画を立て、その仲間に連れられて行くのだと、勝手に思い込んでいた。
その資料をまとめ、今回の
「カミノ・デ・サンティアゴ巡礼の旅」報告会に至った。
その苦労たるものは尋常ではないだろう。
萩田氏のよく言う言葉
「時間が無い、お金がない、それはやりたくない」
萩田氏だからいえる言葉だろう。
報告会が終わり、片付けを済まし、次は希望者でアクティ森横のソバ処「ほっとり」で昼食をとることになる。
その後、希望者で「大田川ダム」へ。
このダムは、発電用のダムではない。
治水の他、河川維持用水や上水道用水確保の目的を持っている。
話によると、さっき蕎麦を頂いた近くの「アクティ森」で、ダムカレーが食べれるという。
何時か食べてみたいナ「ダムカレー」
竜川のダムカレーより工夫がされているみたい。
https://twitter.com/tsunagarubike/status/834240284657528832
一周2.5㎞の遊歩道を散歩、途中少し走る。
二日間大変お世話になった諸先輩にお礼のあいさつをして佐久間への家路を急いだ。
途中、家に夕ご飯にとピアゴ森町で寿司を買う。
周智郡森町は平成の合併で単独での道を選んだ。
袋井からの強烈の合併の話をけって単独での道を選んだ。
森町三倉は、森町の山間部の里だ、昨日は、その三倉にある「神楽坂峠の茶屋」にて夕食を食べた。
森町三倉ムーハウス
は、元佐久間町の人所有の別荘だ。
城西地区と聞く、私の兄と姉と同じ年頃だとい聴く。
佐久間町は佐久間ダムができたとき城西村・山香村・浦川町・佐久間村が合併して出来た町だ。
そして平成の合併で浜松市に編入合併を選んだ。
佐久間に帰る道程、天竜あたりに家があればどんなに楽だろう。
その様に思う時がある。
今回、森町三倉に勉強会に行く。
そんなことをwifeに告げたら。
先に書いた
「片岡鶴太郎、離婚したんだって」こんな言葉が気になった。
Yahoo!ニュース
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170818-00000002-spnannex-ent
ガビーン(≧▽≦)
「片岡鶴太郎、離婚したんだって」
Yahoo!ニュース
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170818-00000002-spnannex-ent
毎月、森町三倉ムーハウスで私たち仲間での勉強会がある。
8月19日(土)
8:15(ピアゴ森町)→8:15(ムーハウス)勉強会準備・近況報告・・・・・
勉強会は、そんな感じで始まる。
年間の計画があり、月の計画があり、勉強会があり、自分の手帳に今日の計画を入れていた。
自分が暮らしている田舎「半場」
お祭りが終わり、盆が過ぎ、盆踊りが終わって、盆踊りの片付けが雨で延期になり、丁度この日に重なった。
「用事があるから」
勉強会を優先で、森町に行くこともできたが、村の盆踊りの片付けを終わってから森町には行くことにした。
勉強会は、午後から本番
森信三先生の本「修身教授録」
この本のを読んでその講の内容を基に話し合うの勉強会なのだ。
今回は「血・育ち・教え」
「血」 → 遺伝
「育ち」→ 家族の教育
「教え」→ 家族以外の教育
森信三先生は「血」「育ち」は根強い力を持っていると言っている。
「血」「育ち」に対しては、よほど立派な教えを説かないと、このあくというものはなかなか容易なことでは抜けないと言っている。
自分の「血」と「育ち」における卑しさが、自分の言動のどこに、いかなる形態をとって現われているかということを、まず知らなければならぬと思うのです。
と言っている。
この卑しさに気づく手がかりは、気品のある(血筋も育ちも良い人)の言動から學が良い。
と言っている。
ああ、なんと、この自分の今までの言動の卑しいことか、「血」「育ち」の悪い、このあくだらけの自分よ。
そう思う。そう思っていた。そう感じ始めた。
そんな卑しい自分を直すには、「血」「育ちの」の良い人の言動を見習うこと。
私たちの周りの人で「血」「育ち」の良い人を参加者の中で上げてもらった。
関東のアノ人、関西のコノ人、近くにもいるじゃない、あの人育ちが良いのでは?
様々な人が上がった。
森信三先生の本「修身教授録」
戦前、天王寺師範学校で行われた森信三氏による「修身科」の講義録。
平成の時代に生きる中高年が、先生の本を基に勉強会。
侃々諤々と話が弾む。
そんな時、ある人が、この内容の
このあくというものはなかなか容易なことでは抜けない
「このあく、灰汁、このあくは、戦争が終わり今の時代、教育の世界では、個性と呼ぶようになった」
そんな話が合った。
個性か~。
卑しい自分に、光が差した瞬間だった。
個性か~。
卑しいランナーだった自分は
気分が良くなり本日の勉強会は終わりを迎えた。
もう、何年やってきたのだろうか、この「勉強会」
毎月一回行っている「勉強会」
予定が合わず参加で出来なかったこともあるが、なるべく参加するようにしている。
森町三倉ムーハウスで行っている「勉強会」何時もは日帰り、ここで解散だが、今回は合宿での参加者もある。
日帰り参加者は、帰っていく。
何人が宿泊するのだろう?
食事は?
夕ご飯は「神楽坂峠の茶屋」だという。
こんなとこに、御食事処があったのか。
料理もオシャレ。
アユは揚げ物
塩焼きでしか食った事なないアユ、揚げたアユもまた美味。
お酒も入って、カラオケは「ららら」
ムーハウスに帰って二次会
卑しい自分だけれど、お酒もホドホドに就寝ZZZzzz
つづく
サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路
キリスト教の聖地であるスペイン、ガリシア州のサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路。おもにフランス各地からピレネー山脈を経由しスペイン北部を通る道を指す。
ウィキペディアから。
詳しくは
心の届く「阪急交通社」
世界遺産>スペイン ↓
http://www.hankyu-travel.com/heritage/spain/santiago_way.php
そんな巡礼の旅に、知り合いが行ってきた。
そんな巡礼の旅の様子を、知り合いがラジオ生出演で話していた。
それが↓
第一歩
十里の旅の第一歩
百里の旅の第一歩
同じ一歩でも覚悟がちがう
三笠山にのぼる第一歩
富士山にのぼる第一歩
同じ一歩でも覚悟がちがう
どこまで行くつもりか
どこまで登るつもりか
目標が
その日その日を支配する
後藤静香(ごとうせいこう)
人生は旅そのもの。
楽しい人生にしたいですネ。
西鹿島駅を朝の九時
スタート。
浜松市天竜区佐久間町
そこに中部という地域がある。
中部と書いて(なかべ)と読む。
8月12日は、中部の お祭りだ。
そこの花火は「地割れ花火」といい、チョット珍しい花火だ。
地割れ花火
そんな花火を、見に行こう(^.^)/~~~
エイエイお~。
それが
「地割れ花火マラニック」
距離にして約40㎞
ルートラボ
https://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=245f1773ed0ac13049efc362609906d2
2017年8月12日(土)
参加者10名
途中まで2名
エイド参加2名
ご苦労様でした。ありがとうございました。
私が暮らす
北遠(ほくえん)
12年前に浜松市に吸収合併された。
12年前
中部の「地割れ花火を」走る仲間に紹介したくってマラニックを企画し、
走りはじめた、この道。
当初、佐久間の「上島キャンプ場」に宿をとってのマラニックだった。
それが
中部にある旅館「かぢや旅館」に宿をお願いし、数年続けた。
村の祭りは、年度の初め、役員が決まり、それからその年の行事の日程が決まる。
中部の祭りに合わせてのマラニックは難しい。
地割れ花火と関係なくマラニック、それが八月最終土日に開催する「浜松縦断」
地割れ花火マラニック
来年の開催の日程は不明です。
今年の区長からの話では、たぶん・・・お盆近くの土日。
2018年8月11日12日になるのではないかと思われます。
だから、8月11日(土)に開催。
の予定。
です。
ブログを覗いてくれる皆さん
私が富士山頂郵便局から投函した暑中見舞いです。
千里の道も一歩から
大きくなった政令指定都市「浜松市」
田舎に暮らそうとも都会に暮らそうとも良かったと言える政令指定都市を目指そう。
いま、田舎での過疎化は、新しい局面を迎えている。
昔、長男は家に残り家を守っていた。今、長男と言えども仕事が無いを理由に都会に出ていく。
人生80年時代、仕事をリタイヤひた人は田舎に帰ろう。また、そんな人を温かく迎える田舎づくりを目指そう。
千里の道も一歩から
2008年2009年2010年と富士登山競争に参加した。
そんな時から萩田氏に出会いマラニックを知り、超長距離を走る仲間に出会った。
その仲間から「富士山頂往復マラニック」の話を聴かされた。
富士市「田子の浦港」の白灯台横の海水を汲んで富士山頂(剣ヶ峰)まで持っていく。
2011年、このマラニックに挑戦してみたい、そのように思ったのが、その夏
しかし、その夏は 病気になり断念した。
2012年、初めての挑戦。
富士山頂往復マラニックは第10回目記念大会。最初の挑戦は時間外だった。
真っ暗な田子の浦みなと公園に一人でゴールした。
2013年2014年2015年はギリギリだが何とか時間内にゴールした。
去年2016年は気力が失せ富士宮駅から電車でワープしてのゴール。
今年2017年は自分にとって6回目の「富士山頂往復マラニック」
電車でラン友と合流しゴール地点である「田子の浦みなと公園」を目指した。
参加者過去最高の269人だという、顔ぶれも随分変わった。
顔見知りに挨拶をして、海岸に行き富士山頂に持っていく砂を取に行く。
(昔はフイルムケースに海水を入れていたと聞いている)
競技の説明があり、萩田氏のオカリナの演奏で参加者全員での唱歌「富士山」を歌う。
雲に隠れていた富士山が少し顔を出す。
何と、素晴らしい、富士山の山頂が少しだけだけど、見えた。
私はゼッケン88番、18時05分の出発。
1番から50番までの18時出発のランナーを見送ってからスタート。
今日は涼しいと感じていたけど、走ると蒸し暑い。
第一チェックポイント
15㎞
富士宮浅間神社(19時50分)
これからの富士登山の安全を祈願する。
神社の湧水で喉を潤す。
お腹も減ってきたので、牛丼屋で腹ごしらえ、牛丼汁だく、ビールも少し。
最終コンビニで夜食のオニギリ二つ、非常用の水分も、眠気覚ましにスルメも買った。
ココからの登山道は速足で歩く。
前を行く仲間のチカチカライトを眼印にヒタスラ歩く。
第二チェックポイント
標高1000m(23時05分)
200mくらい行ったころだろうか、手に持っていたタオルが無いのにきずく。
戻って、チェックポイントの脇にあったのを確認、良かった、そう思ったときに、ヒロ子ちゃんが声をかけてくれた。
ビックラポン。
そこから西臼塚駐車場33㎞地点まではヒロ子ちゃんの爆裂トークを聴きながらのウォークとなった。
西臼塚駐車場ではボランティアによるエイド。
ランナー生存CHECK
なるものがあり、自分のゼッケンナンバーを申告した。
第三チェックポイント
料金所跡(24時50分)
ここまで来ると大分涼しくなる、去年より涼しく感じた。
先輩ランナー シゲミツさんと一緒に歩く。
様々なお話をしながら。
お腹の調子が、トイレを借りよう。
料金所横にもあるけど仮設トイレだった。
料金所を越え少し行ったところに「富士高鉢駐車場」がある、そこのトイレを借りよう。
電気は来ていないが、すごく綺麗なトイレだった。
一人での歩き、眠気も襲ってくる。
スルメを出して、噛みながら歩く。
道路わきで仮眠している人が居る、私も道路わきで少し仮眠。
第4チェックポイント
標高2000m(2時40分)
第5チェックポイント
五合目(4時01分)
カッパを着て、コンビニで買ったオニギリを食べる。
登山道に入ろうとすると、三河のウメさんが居た。
初めての「富士山頂往復マラニック」だそうだ。
まだまだ元気な様子。
新六合目の山小屋でヒロ子ちゃんがカップ麺を食べていた。
当初、ココでカップ麺を食べようと思っていたが、コンビニオニギリでお腹は満たしていたので先を急いだ。
新七合目・元祖七合目・八合目・九合目
酸素が薄くなって苦しくなる、おもっきり深呼吸、指先を動かす、グー・パー運動をする。
この事によって、血流を促す。
(勝手にそう思っている)
九合五尺、山頂は近い。
頂上浅間大社奥宮に到着。。。。
第六チェックポイント
山頂(7時56分)
富士山頂往復マラニック
御迎え隊に歓迎を受けた。
荷物を、そこに置き、剣ヶ峰に田子の浦から持ってきた砂を置いてくる。
山頂御迎え隊から、チョコ・黒砂糖アメ・スープなどを貰う、生き返った(^O^)/
ありがとうございます。帰りも頑張ります。
山頂郵便局で、暑中見舞いを投函し、下山。
今年は富士宮登山道(もと来た道で下山することにした)
それが混んでいた。
サッキ鬼の形相で登ってきた登山道。
余流で上りの登山客を見ていた。
知り合いが登って来る。
ガンバレーと応援。
第七チェックポイント
五合目(10時06分)
コンビニオニギリ一個。自動販売機でコーラ。
ユックリだが、走りを止まないで下った。
第八チェックポイント
2000m(11時00分)
ユックリだが走りを止めない。
第九チェックポイント
料金所(11時55分)
バイキンマンと仲間たちが施設エイドをしてくれていた。
水を頂いた。
西臼塚駐車場 エイド
水分補給・糖分補給。。。。
ランナー生存CHECK
にゼッケンナンバー申告。
第十チェックポイント
1000m(13時00分)
調子がいいゾ~。
しかし、ここらあたりから歩きが出てくる。気持ちが切れてくる。
ワープも考えてくる。
私設エイドが、、、。
ワッキーだ(涙)
感謝・感謝・感謝。。。。
そんな時「必ず完走します」そんなことを口走ってしまった(笑)
それからは、次のエイド(浅間大社)を湧水で熱くなった身体を冷やすのを目指して走った(歩いた)
第十一チェックポイント
浅間大社(15時00分)
ここの水は美味しい。どこの水より美味しく感じる。
ボロボロの身体に染み渡る。
残りは15㎞
浅間大社を後にしてフラフラ歩いていると、何時ものアイスサービスボランティア。
ありがとうございます。
キュウリも。
ワサビの金山寺を付けて食べた。
富士宮駅をパスした。
去年ワープしたところだ。
次は、新東名の高架橋を目指す。
それが遠くに感じる。
やっとの思いで、新東名高架橋をパス。
次は、東名の高架橋。
西富士道路の高架橋出前を右折。
ココから県道353号、後はこの道を真っ直ぐだ。
この道は帰り、東側を通らないと、田子の浦みなと公園に行けない。
知らない人が、間違えた人が、西側の歩道でコースマップを見ている。
大きな声で叫んだが、聞こえないみたいだ。
まっ
先を急いだ。
富士田子の浦みなと公園が近くなる。
知り合いから「お帰りなさい」と声がかかる。
ゴール
田子の浦みなと公園(17時36分)
無事に、何とか、今年はワープをせずに完走することができた。
富士山は雲で隠れて見えない。
雲の間から虹が出ていた。
ボランティアのみなさん、主催者萩田さん
本当に、ありがとうございました。
感謝!!
浜松市天竜区佐久間町。
ココは佐久間地区・半場地区・中部地区がある。
天竜川が蛇行していて、三つの地区に分かれているのだ。
其々の地域が其々
お祭りをしている。
其々の地域が夏祭りだ。
半場のお祭りは、その地域の中でも一番最初にやる夏祭りだ。
お祭りの前、区民会館前の広場に集まり、御囃子や神楽舞の練習を毎夜おこない、祭り本番に備える。
お祭り当日、
半場区民会館に集合し、半場の氏神様を大日神社までお向かいに行く、夏祭りだから暑さで熱中症にならないかと心配だ。
神社で神楽を奉納し、子供会の宝探し、持ち投げ、御神輿にご神体を乗せ村に下してくる。
神事を済ませ、夜、7時半、花火が上がる。
たった15分間の花火だけど、多くの人の協力があってこその花火。
半場には、その昔、花車は無かった。
私が、ココに越してきたとき、私の家の近くの空き地で、廃車になったジムニーの解体をしていた。
それが、いつの間にか、半場有志の会の人たちの手で花車になった。
その花車が今まで29年、半場の祭りに色を添えれくれている。
佐久間町(佐久間地区・中部地区・半場地区)は佐久間ダムで栄えた町だ。
ダムができた60年前は、日本の中でも注目された地域だった。
日本のエネルギーを支えた地域だったのだ。
そんな地域で、そこの一員として、ココの祭りに参加できることを誇りに思う。
佐久間の体育協会に籍を置くと、毎年この時期に「北遠グランドゴルフ大会」のボランティアがある。
船明ダム運郷公園に旧天竜市・春野町・佐久間町・水窪町・龍山村の役員が集まり「北遠グランドゴルフ大会」のお手伝いをする。
もう何年、同じことを繰り返しているのだろう。
去年のブログ
第21回北遠グランドゴルフ大会~。。。。
毎年だが、このグランドゴルフで、私が一番聞きたいのが、天竜区の議員の先生の挨拶。
浜松市会議員の先生は三人。
そのうち一人は所要のタメ欠席だそうだ。
7月の開催で炎天下の中での挨拶は、高齢者の参加者に気を使ってか短めの挨拶だった。
その中で、一人の先生の挨拶が気になったので、ココに記しておこうと思う。
「全国で、色々な統計がありますが、この町に住みたいこの県に住んでみたいところの一位が長野県です。三番目が実は静岡県になってきました、何故かというと自然と一緒に共に生活をしたいというのが大きな理由だと思います。そういった土地柄・地域になりますので如何か健康づくりと生きがいづくりを目指してがんばっていただきたいなと思います」
そんな挨拶があった。
認定NPO法人
ふるさと回帰支援センター
2016年移住希望地域ランキング公開
のページがあった。
自然と一緒に共に暮らしている。
ココに暮らしていることに感謝!
『合唱劇カネト』
飯田線中部の前身「三信鉄道」の建設時に、測量技師・現場監督を務めた、アイヌの技術者「川村カネト(川村カ子ト)」氏の生涯を題材とした合唱劇です。
飯田線ものがたりは、
合唱劇カネトの水窪講演から始まっています。
第一部で、
著者の一人が
飯田線の歴史を辿り、カネトの足跡を訪ね歩く。
第二部で、
著者の二人目が
豊橋駅から195,7㌔の各駅停車の飯田線の旅に出る、そのような構成だ。
今年、5月3日(水)
私は中部天竜6時15分発の飯田線に乗った。
目指すは、10時59分着となる岡谷駅。
4時間44分の飯田線の旅。
丁度、水窪町では山火事で、電車の窓から水窪バイパスを走る消防団の車が見えた。
川村カネトのことは知っていた。合唱劇カネト水窪公演の話も知っていた。
しかし、「飯田線ものがたり」そんな本を出すために飯田線で各駅停車の旅に出て其々の駅を巡っている人がいることは知る由もなかった。
飯田線を利用して信州に行くのは、まだ若き日、飯田の風越山登山マラソンに参加して飯田駅を利用したのが最後だ。
そこから北へは今回が初めてだった。
飯田線は三信鉄道(三河川合~天竜狭)まではトンネルが続く、天竜峡からはトンネルは無い。
伊那谷と言われる、長野県南部、天竜川に沿って南北に伸びる盆地、そこを飯田線は北へ行く。
チャレンジマラニックin遠山郷
で、信州のランナーが集まり 長野県歌「信濃の国」を歌ったのを思い出す。
あるテレビで聴いた「長野県では中学生の生徒は自分の住んでいるところの3000m級の山に登る」
そんなことを長野に人に聴いたら、普通に「そうそう」自分の子供が今年登ったと答えた。
静岡では富士山も登ったことが無い人が多いというのに、この違いはなんだ。と思った。
飯田線は伊那松島駅で14分乗り換えがあり、岡谷駅に1分遅れの11時に到着した。
飯田線は、南の豊橋駅から北の辰野駅まで、そこからは中央線経由で岡谷駅まで4時間44分の旅が終わった。
この日、自分の、本当の旅は。
萩田氏が、2016年の春から企画した。
長野県(諏訪湖)釜口水門から天竜川沿いに自分の足で天竜川河口まで走るマラニックを、今年は自分の足で辿ってみることである。
「飯田線ものがたり」を読んだ。
天竜川リバーサイド・マラニック
を、走り終え、飯田線の最終列車で中部天竜駅に降りた。
明日をつくる今日がある。
2017年5月3日(水)
中部天竜6時15分発~岡谷まで4時間44分の旅。
2017年5月5日(金)
豊橋駅~中部天竜駅、約二時間。
「飯田線ものがたり」を読んだ。
地元に住んで、地元に暮らし、もっともっと自分の地元を愛する人が増えてくることを期待しています。
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。
合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。
袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns
”しんしん”55歳
2015/11/25現在。。。
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