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平成の合併が過ぎ、今私はここで暮らしている。 ほくえんの風を 身体中に感じながら。
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歌手:テレサテン「悲しい自由」
1989.11.24 YouTubeこの様な動画があった。。。


 

第10回「天女の羽衣ウルトラマラソン」の時に
 原子力についての走る仲間で少しの言い争いがあった。
 TKさん「原子力はヤメルべきだ!」
 KKさん「そんなことなら昔の生活に戻らなければならない」
 TKさん「今の生活は後戻りすることはできない」
 KKさん「原子力発電なしで今の生活はできない」
 TKさん「原子力なしでも電力はある現に今生活できている」
 KKさん「その他の多くの資源を使っているからだ」
 TKさんとは、私のマラニック「夢街道」90㎞を
 そんな長い距離を走ったことのない自分をサポートしてくれた仲間だ。
 2009年11月。飯田線で浜松駅に向かった。そして浜松駅から走り出した。
 一緒に真夜中二人で走って、多くの話をした。
 原子力の話も、仕事の話も、家族の話も・・・・・・・。
 中部電力に勤める走る仲間の話も聞いた。
 私は佐久間ダムの真下の町
 「佐久間町」に暮らしている。
 佐久間町は平成の合併で浜松市になり
 この地域で暮している人々が合併をきに、街へと流れていく。
 地方というところは、都会への電力事情に翻弄され続けてきた。
 夢街道90㎞
 浜松駅南口から国道152号線を走り続け
 12市町村が合併して出来た巨大な浜松市を突き抜け、遠山郷の道の駅まで走る90㎞
 私たちが走ることで
 私たちの出会いで織りなす布で
 多くの人を包み込むような活動になったらいいと思う。


小さな争いが大きな争いになる。
考え方の違いから、その人と、その話をしなくなる。
わたしは日本人だ。しかし、日本だけが日本人だけが幸せならいいのだろうか?
日本の周辺諸国には、同じ民族の間でも争っている現実がある。

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 新間勉三、私にとっての祖父(オジー)私が物心ついていたときには、もう横吹には暮らしていなかった。切開(きいなま)で新間商店、通称エンテをやっていた。そこで知らない女の人と暮らしていた。そのオジーはやがて肝臓癌になり東栄病院に入院し死んだ。幼稚園の頃だったろうか、そのオジーはエンテで葬式をした、よく覚えてはいないが切開から横吹まで歩いて帰った記憶がある、その山道で季節外れのヘビに出会ったのをなぜか覚えている。

 それから何年かたって、横吹の隣の家「峠」でマー兄が死んだ。通夜に行ってきたトーチャー(父親)に「塩を持ってこい」とい言われ清めの塩だと知り、その塩をかけた。トーチャーがカ―チャー(母親)と話していた、ある人が通夜のとき酒に酔いその家のオバーに「今度はアンタの番だ」と言ったと、そのオバーは泣いていたと言っていた。

 当時横吹の葬式は土葬で亡骸を棺桶に入れ墓地まで組合の人が担いで連れて行くのだった。最後に、その通った道に藁のムシロを置くのが習わしだった。村の人たちは、そのムシロが腐って土に帰るまで、そのマー兄のことを忘れないのである。

 斜面集落「横吹」で生まれ、育まれ、そして1975年の春、横吹を出ていった。湖西市鷲津の富士鐵工所で働くことになった。十三年間そこで暮らし、また横吹に帰ってきて、平成元年、佐久間町でも比較的便利な半場に越してきた。そこでは自分たち夫婦が地域の付き合いのことはやれとの父親からの命令があった。半場十班での暮らしが始まった。いつも回覧板を持ってきた隣の奥さんが突然亡くなったとの知らせに半場十班の人が、その家に集まった。そして葬儀の話し合いが始まった。その人の病名はクモ膜下出血だという。

 人は生まれ、やがて死んでいく、それが人生だ。

半場で暮らし、月日は流れ、白血病を知り、静岡県骨髄バンクを推進する会を知った。そこで「命のアサガオ永遠に
そんな本に出合った。平成五年白血病のため7歳で亡くなった丹後光祐君の話し、その母親である丹後まみこさんの講演を静岡県総合社会福祉会館シズエルで聴いた。

 1997(平成九年)中部の夏祭り、そこで酒を飲んでいるときに、私の13才年上の兄が転勤先で吐血して入院しているとの連絡が入った。ヤマハ発動機の営業職の兄、胃潰瘍だと思っていた。入院先の埼玉獨協病院に佐久間の家族で向かった。その病院の病室に行き兄と面会したが元気はよかった。主治医の説明があり、私は聞くことができなくて、車にて一人で待った。義理の兄が帰ってきて助手席に座って呟いた「末期の癌だそうだ」と。佐久間町まで帰って来る途中、真夜中の車の中でカーチャーが泣いていた。そして兄は三か月後にこの世を去った。無念だったろうと、思う。自分の子供に先立たれた母親の気持ち、親不孝の兄、しかし、自分の寿命は誰もわかるものではない。老少不定、和尚の説法も上の空だった。そんな日から母親の痴呆の病が近づいてきたのではないかと今思う、そんな気がする。

 2007(平成一九年)の年末、母親が特別養護老人ホームさくまの里に入所した。痴呆の病が進み私の名前さえ分からなくなっていった母親、その介護は父親の仕事だった。

 2010(平成二十二年)の春、そんな父親が佐久間病院に入院した。担当の先生に狭い小部屋に呼び出され病気についての説明を受けた。 「癌細胞が大きくなっています。もって三ヶ月、いや二か月もたないかもしれない」と。 「本人には話しますか?」の問いに躊躇したが、 「話してください、本人も今後のことを考えると思います。」と、答えた。

 それから二か月後五月の下旬の早朝、佐久間病院から危篤の連絡を受けて父親は亡くなった。死んだ父親は表の出入り口からは出られない、裏口の専用の出口から出て半場の自宅に帰ってきた、新緑の眩しい日だった。

 2010(平成二十二年)五月二十五日父親の葬儀が行われた。父親の葬儀には母親は参列することは出来なかった。葬儀が終わり家族で老人ホームさくまの里へ行き、伝えた 「トーチャー死んだ」と、何もわからない母親は「死んだ」の言葉はわかったのか「シンダ~」と答えた。長女が、その言葉を聞いて泣いた。

 そんな母親は、平成二十九年半場の夏祭りの準備のときに佐久間病院から連絡がきて危篤を知った。

 2018(平成二十九年)夏の暑い日、カーチャー母親久代は九十二歳という生涯をとじた。久代は大正十五年水窪の上村で生れ、昭和十九年十九歳の時に横吹という斜面集落に嫁いできて三人の子供を儲けました。昭和の時代を水窪と城西村で生きてきて、平成になり久代六十四歳のとき家族で佐久間町半場に越してきて八年後、長男が亡くなり、そのときから物忘れが多くなり、平成十九年十一月にさくまの里に入所、
八十歳から九十二歳までさくまの里に御世話になり、生涯を閉じました。葬儀の最後の挨拶でこんな事を言った。

 人は生れ、やがて死んでいく、それが人生だ。

 この言葉は映画「最高の人生の見つけ方」での俳優モーガン・フリーマンのセ
リフだ。
 万物流転、世の中の如何なるものは常に変化する流転するのである。一つの状
態にとどまらず移り変わっていくのである。そうどんなものも。会うは別れの始
まりである。
 

過去があるから今がある。
      今は未来に鍔がっている。



今と言う日を、未来につなげるような生き方をしなければいけない。
のである。

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藤枝市瀬戸谷地区倉田、市街地から車で45分人口は100人余り、そんな地域にやって来た、走る女「能津遊来」

その人は2019年藤枝市地域おこし協力隊として就任した人だった。
そんな女の人が萩田さん企画の
「浜松市」誕生十周年記念 水窪~浜松 160kmウルトラマラニック
にやって来たのだった。
ムチャクチャ明るい女の子でした。
その人を知ったのは、走っているとき、走っている仲間の話しでした。
「走る女が参加しているらしい」
「先日テレビに出ていた」
等々
雨の中、佐久間町の歴史と民話の郷会館のチェックポイントを過ぎ、龍山協働センターに向かう途中、秋葉ダムのエイドまで後少しのところ、後ろを振り返ると、友さんと二人で走って来た。
秋葉ダムエイドで、友さんがビールをすすめると
「アルコールは四年に一回、しか飲まないことと決めている」と。
なんか不思議な感じのする女の子だった。
 
中央の人は、進めなくても飲むのに(笑)

その人は、遅れて水窪の国盗りをスタートしたそうだ。
また、中部天竜駅で水窪駅まで行けなかった人たちが水窪に向かって走っている人を車に乗せて向かったそうだ。
遅れてスタートして、まだまだ元気印の人だった。
水窪に車を置いてきて、その車は如何するのかと聞いたら。
「また走って取りに行く」と。
今までで一番長い距離は?
そんなことをウッチャンが聞いた。
「250㎞」
モンゴルのゴビ砂漠のマラソンを走った。
そんな話をしてくれた。

春野町、秋葉神社、下社のエイドに着き、休憩し、ヒロ子ちゃんエイドでウドンを食べた。
今まで並走していて話していたが、正面から見ると二十代若い乙女がキラキラしていた。
雨が強くなり、その走る女は薄いカッパを羽織ってドラエモンのような格好で一人で下社エイドを後にした。
とにかく明るい人だった。
「明朗は健康の父、愛情は幸福の母」

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バスのなかで
この地球は一万年後どうなるかわからない
いや明日どうなるかわからない
そのような思いで、こみあうバスに乗っていると
一人の少女が綺麗な花を
自分より大事そうに高々とさしあげて乗り込んできた
その時わたしは思った
ああこれでよいのだ
たとい明日
この地球がどうなろうと
このような愛こそ
人の世の美しさなのだ
たとえ核戦争で
この地球が破壊されようと
そのぎりぎりの時まで
こうした愛を失わずに行こうと
涙ぐましいまで清められるものを感じた
いい匂いを放つまっ白い花であった
坂村真民詩集「宇宙のまなざし」のなかの詩である。

坂村真民(さかむら しんみん、1909年1月6日 - 2006年12月11日)は、日本の仏教詩人。本名昂(たかし)[1]。一遍の生き方に共感し、癒しの詩人と言われる。
ウィキペディアから

7月5日日曜日
西鹿島駅から18時25分発の北遠バスに乗った。
料金800円、相月駅までの約一時間のバスの乗車
北遠バスの運転手さんは水窪に暮らす人、今年の佐久間駅伝で山香チームの慰労会で知り合った人だった。
たとえ地域がどうなろうと
ぎりぎりの時まで
助け合って暮らしていけたら
と、思う。

 

拍手[6回]

路。人や車の行き来するみち。「路傍」道のほとり。 ②物事のすじみち。道理。「理路」物事の道理。考えや話などの筋道。

遥。はるか/距離や時間が遠いなどの意味をもつ漢字。

昨日の水窪~浜松160㎞(100マイル)ウルトラマラニック
12市町村が合併して新「浜松市」となってから15年がたちました。
もう・・・ほとんど忘れられてしまった過去のことと思いますが
もう一度、北の水窪から浜松まで約160km、12の地域自治センターを走って結び
東西約52km、南北約73kmが一体となった大きさ(広さ)を肌で感じてみませんか。
過去4回開催しましたが、15周年記念として再度企画しました。
楽しく走り、いい汗をかきましょう。

そんな呼びかけで集まった仲間が目指した100マイル先の浜松市役所、わたしは浜北区役所で区切りをつけて終わりにした。
浜北区役所までは、地図通りに巡った浜松市であった。
路は遥かなり。

浜北区役所から浜松市役所までの19㎞
一人での道程
路は遥かなり。

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俺たちは、地球という星で生活を営み、地球の長い歴史の中で生きる仲間だ。
西暦2001年から西暦2100年までの100年間、21世紀に人間として生活を共にする仲間なのだ。
そんな仲間の中で走ることが長い長い距離を走ることが好きだという人たちが集まり、15年前に12市町村が合併して出来た、日本で二番目に大きくなった浜松市を最北端の水窪協働センターから佐久間協働センターへと思い出を振り返り中ながら走り巡った。
 
地中は一つ。
その中の、日本、日本の都道府県の静岡県、その中の政令指定都市「浜松市」15年前に12市町村が合併して出来た巨大な浜松市を体験してほしいと企画したのだと申込用紙に書いてあった。
水窪協働センターを4日10時にスタート、佐久間協働センターに12時24分、龍山協働センターに15時35分、春野協働センターに19時27分、天竜区役所に1時18分、浜北区役所には夜明けの4時20分だった。
三人で行動を共にして、中の一人が遠鉄電車に乗ることを決めた。
また一人の人がコースマップに沿って進むことを選んだ。
わたしはリタイヤを決めた。
浜北駅前のベンチで横になった。
そんなときに女性ランナーが一人、浜北からのスタートを宣言して走り始めた。
私たちの、水窪からの想いを繋げてくれると走り出した。
 
浜北区役所までの89㎞、様々な思い出がある。
秋葉ダムでのウドンの味、秋葉神社下社の土産物屋ご好意で雨風をしのげたこと、ヒロ子ちゃんエイドに癒された、春野協働センターでの出会い、そこからの真っ暗闇のなかを天竜区役所を目指して進んだ。長い上り坂を上り、やっと着いた道の駅にエイドがあったこと。
コンビニで電話がかかってきて、思わぬエイドの話し、大雨で靴が濡れ足の裏がふやけて皮がむけ、着地の度に足の裏が痛い。
それでも前に進んだ。が、浜北区役所で終わりにした。
 
浜北駅前で、ゴールである浜松市役所を目指すことに決めた。目標は、。
湯風景しおり
https://yufukeishiori.com/
そこの駐車場で車に乗っていた知り合いにバッタリ出会い、風呂に入って積もる話をした。
 
仮眠室で寝ていると、ラインが来た。もう16時、着替え浜松市役所に向かった。連尺交差点には慶ちゃんがいた。
足元を見るとワラーチが運動靴に変わっていた。
ゾクゾクと走る仲間が集まってきた。16時55分、みんなで浜松区役所にゴールした。
 
2020年7月4日午前10時
水窪協働センターを走り始めた。
2020年7月5日午後5時
浜松市役所にゴールした。
新浜松市になる前の市町村を全て巡ることはできなかったけれど、とりあえず生きて帰って来ることが出来た。
ありがとうございました。
主催者にも走る仲間にも、出合った仲間にも。


15年前に新浜松市は12市町の合併により誕生した。
そのとき45歳だった私は60歳、還暦の年になった。
何処に暮らそうとも、この地球に生命体として生まれてきた仲間、みんな仲間だと思う。
ざまざまな出会いに、感謝します。

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相月のお寺「東林寺」から坂村真民の詩集を頂いた。そして読んだ。

坂村新民は高校の教師をしていて、自費出版で詩集を十冊以上刊行し、続いて刊行した個人詩誌『ペルソナ』も思うようにいかないで大変だったときに、森信三先生に会い、二度三度と合っているうちに「人生二度なし」と腹がすわり、月刊誌『詩国』を発刊を決意したそうだ。
そのときから、あらたな世界が展開するようになったと書いてありました。

まさに
『人間は一生のうちに逢うべき人には必ず逢える。しかも、一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に。』
この言葉のとおりだ。

四冊の詩集の
「念ずれば花ひらく」「宇宙のまなざし」「二度とない人生だから」「朴のしおり」
歴史の川は下っていく
二十一世紀は宇宙の時代である。宇宙というのは、差別、対立のない庶民の時代ということである。
歴史というものは、川を下るように、差別のない庶民への時代へと自然に下っていくものである。決して逆流して上っていくことはない。
原文まま

明日は「浜松市誕生記念160㎞ウルトラマラニック」だ。
逆らわずに自然にまかせて走って行こう。

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岐阜県に池田山がある。そこの標高800mにあるハングライダー離陸ポイントがある。若きころ、そこから飛び立たことがある。
先行く人はサーマルをとらえて旋回し天高く上って行った。わたしもその人の後に続いた。
高度計が無くどの位の高度なのか分からないが1000m以上は高かったと思う。
池田町の景色が綺麗だった。

あれから35年、私はドローンを買った。
そして空から北遠の景色、また自分を見た。

ドローンが高く上がり、自分は小さくなる。もっと上がると北遠の景色も小さくなる。
 もっと上がると日本の全体が見えるだろう。
もっともっともっと大気圏を突き抜けて宇宙から見れば丸い地球が見えるだろうか。

私のドローンは中国メーカーのDJIです。
Mavic Mini
重さが200gを下回ったことで、航空法の規制対象外になる”というメリットが受けられるすぐれものです。
このDJIのメーカーはドローンのシェア70%だとも言われています。

丸い地球は誰のもの。
今、近所では佐久間に暮らしたい人が土地の問題で小さなイザコザがある。
丸い地球は誰のもの。
日本と中国の間にも尖閣諸島の領土問題がある。
丸い地球は誰のもの。
争いのない世界は出来ないものだろうか、いつも考えている。

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コロナウイルスが大変だ。


しかし、静岡県の浜松市近くの人だけで、遠山郷を目指した。


メンバーは、ウッチャン山草人さん友さんヒロボーしんしん五名


わたしは今年還暦になった、夢街道は今年10回目だった。


50歳の春、走り始めた夢街道、今年はコロナで様々な事を考えた。


4月、夢街道の中止を決めた。


六月の始め、夢街道の道を初めて走ったときサポートしてくれた竹さんに連絡した。原点に帰って二人で走りたいと。


叶わなかった。


そして、今回のコソット夢街道2020になったのだ。


50歳の、春走り始めた夢街道、今年はコロナで様々な事を考えた。


10年前に始めた夢街道、それぞれの思い出がある。


浜松駅から町の中をただひたすら走り西鹿島、天竜川に架かる橋を渡り、それからは天竜川沿いに国道を北上、北遠を走り峠を越えて遠山郷に到着する。

浜松駅から遠山郷、目標は未来

未来に向かって走るマラニック

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行く理由は一つでなない。
貫地谷しほり・又吉直樹、夫婦役で共演 ほのぼのふれあいストーリー “YAMADA”ブランドTVCM「くらしをシアワセにする、ぜんぶ。」
そんな動画がある。

貫地谷しほり・又吉直樹、夫婦が電気屋に洗濯機を見に行く時のシーンだ。
「くらしをシアワセにする、ぜんぶ。」
電化製品を買いに行く、如何して?
家の洗濯機が調子悪くなったから新しいのを買いに行く。
今までの洗濯機より良い機能がついて、より便利になり使い勝手がよくなった。
便利=幸せ

幼きころ、横吹で暮しているころ、夏の暑い日に、井戸で冷やしたスイカを食べた。
その頃は、そんな些細なことで美味しいと思い楽しかった。

夢街道90㎞
今年はコロナの影響で、大人数での移動は避けた。
4人で遠山を目指すことにした。
遠山郷に行く理由は一つではない。

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プロフィール
HN:
しんしん
年齢:
65
性別:
男性
誕生日:
1960/02/20
趣味:
走ること・空手・詩吟
自己紹介:
12市町村が合併して出来た新浜松市
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。

合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。


袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns

”しんしん”55歳  
2015/11/25現在。。。
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