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平成の合併が過ぎ、今私はここで暮らしている。 ほくえんの風を 身体中に感じながら。
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何年か前に空手に出会い、先生から空手道を教えて頂き、空手道に少し足を踏み入れた。

そんなで世界にいて気になっていた本があった。

新渡戸稲造の「武士道」、
それを本屋で手に入れて読んでみたものの最後まで読まずに終わった。

それが今年度から定期購買している致知出版社から「いつか読んでみたい日本の名著シリーズ」として『学問のすすめ』『武士道』『西郷南洲遺訓』『代表的日本人』『五輪書』『歎異抄』の発売を知り・・・購入。

その「武士道」を読んだ。

明治の時代に、日本人の心を世界に伝えた新渡戸稲造の思いに心打たれた。

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仕事が終わり、ジョギング。

スマホのNIKE+RUNNINGアプリを起動して走り始めた。

このアプリ、自分の走ったコースを走り終わった後にGoogleマップに表示してくれる。

また、走っている途中に、一㌔毎にスプリットタイム、ラップタイムをイヤホンから教えてくれるのだ。

それも、好きな曲(スマホに入っている曲)を聞いている途中にその曲が小さくなって機械音声で知らせてくれる。

とっても優れもののアプリなのです。

今日走ったコースは↓

 


私の住む佐久間から国道437号を浦川まで走り、帰りは早瀬の方から帰ってきた。

下川合のバイパスを走り、今話題の「原田橋」を渡り、帰りは国道を行くのをやめ佐久間高校の西門からお邪魔して中部の街に出た。

下の地図でその様子↓

私の今日のジョギングNIKE+RUNNINGアプリのページ
http://secure-nikeplus.nike.com/plus/activity/running/detail/2139017623?external_share_id=bf491a74-461d-4105-8a83-933f3adce7b5&is_new_meta=true&fb_source=feed_opengraph


まったくよくできたソフトだ、このソフト、老人介護の問題、痴呆老人の徘徊問題で使えると思うのだが・・・・・どうだろうか。

スマホを携帯していれば、どこかに行っても、家にいてGoogleマップでその人の行動がマップ上に出て一目瞭然とか。

スマホのNIKE+RUNNINGアプリ、まったくスマホの進化には頭が下がる思いだ (*_*) マイッタ

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遠山で2007年に「チャレンジマラニックin遠山郷」が行われるようになり、私は第一回目から参加している。

遠山郷の人と知り合いになり、遠山郷の地域おこしを知り、遠山郷によく行くようになった。

私が住んでいいる佐久間町では合併後「NPOがんばらまいか佐久間」を作り地域おこしに頑張っている人が集まっている。

そんなNPOの会合に参加するようになり、女性活動委員の活動を知った、ある人が・・・他の団体はどのような問題があるのか・・・・・「他の地域に視察に行こうか!!」 いう話が出た。

私は「是非遠山に視察に行かない、遠山は色々な事やっているよョ」

と言ったのだが・・・・・・。

その人から出た言葉は「遠山じゃね~。」だったのだった。

何故・・・・そんな言葉が出たのか。

せっかくの一日使っての視察旅行、こんなに近くでは面白くない・・・・・だから出たのか。

佐久間と比べて、・・・・・・遠山じゃね~っと出たのだろうか。

そのどちらの意味も踏まえての・・・遠山じゃね~、だったのではないだろうか。

天に吐いたツバはやがて自分の顔に落ちてくるという。

どこかで誰かに「佐久間じゃね~」と言われているのだろう。





佐久間じゃね~」・・・そんな所だけど、、、、私は、こんな佐久間に住んでいる。

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遠山郷に温泉「神楽の湯」が出来て、私は遠山郷によく行くようになった。そのころはまだバイパスも工事の途中だった。

山梨県に兄がいたので中央高速を使うときには、ここを遠山郷を通って飯田に出た。

その時は、まだ道路は狭く、飯田側からも静岡県側からも狭い道路を抜けようやくたどり着いた遠山郷だった。

今年の4月、私は一人、佐久間町から遠山郷に走って行った。

遠山郷は今、道路工事が所々で始まっている。




 


後二年もすれば、ここもずいぶん変わってくるだろう。

10年もたてば、三遠南信の青崩トンネルができ、また今までとは違った遠山郷になるだろう。


その時・・・・私の住む佐久間町はどうなっているだろうか?
 

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佐久間の家を朝早くに出発!!

三遠南信を通れば、一時間チョットで浜松に到着。

今日は、パパ、ママに用事があるので私たちが この子と一日一緒にいる。


最初のうち、機嫌が良いのだが・・・・・。

こんなふうに、泣いてしまうことも。

夕方、五時前にはパパが帰ってきた・・・・今泣いていた子もパパのを見ると泣き止んだ。


泣いても、笑っても、孫と言うものは可愛いものだ(^^)

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ゴールデンウイークの最初(27日28日)を使って遠山郷に行ってきた。

佐久間駅を6時19分の飯田線に乗り、相月駅を6時24分に降り、そこから国道152号線を走る。
今日は良い天気、絶好の行楽日和。

相月バイパスのトンネルを抜けると、切開(きいなま)の村が見える。

城西の町を行くと知り合いに数名出会う。

水窪の町から今から行く青崩峠の方を望む。


水窪の外れ大原に着くと、またまた知り合いが。昔働いていたユニバンスでの知り合いだ。

カシ兄「なんだっちゃいや!どこ~行くダ~!」

 私 「遠山、神楽の湯に浸かりビールョ(^^)」

 私 「丁度いいとこにいた。シュウ兄の家はどこだいネ」

カシ兄「あそこの軽が止まっている家ヨ」

シュウ兄は、私の故郷「横吹(よこぶき)」のひとで、マサミ君の携帯番号を教えてもらった。

ここからは上り坂、浜松市最北端の店「はくりや」までは頑張って走ろう。

「はくりや」でパンと飲み物、ヒル対策の塩を買う。

ここからはパンを食べながら歩きになってくる。

ミナの里、西浦小学校が左手の上に見える。

西浦を歩いていると・・・・・第一町人発見!!

ユニバンス時代の仕事仲間、タツ兄。

家の前の広大な空き地でトラロープをまとめていた。

 私 「何やってるダイネ」

タツ兄「ミナの里での駐車場ヨ」

 私 「うまいチャイネ、駐車場で丸儲けだね~」

タツ兄「ダメだわいや、あんなもの。小学校でも羊を飼うみたいだが、昔はオラも勝手に入れただが今は・・・・・」

 私 「佐久間より良いじゃんかいね。佐久間はダメだ!水窪がうらやましいゾ~」

タツ兄「佐久間の方がまだいい。水窪はダメだワイヤ~!」

タツ兄「今にロケットが飛んできてみんなコロっとだワイヤ~」

 私 「ロケット?・・・・北朝鮮かいね」

 私 「まあ、生きてるうちに色んなことやるゾ~。じゃあネ~」

タツ兄「気を付けて行けよ。クマに」

そんなような会話をして先を急いだ。

途中島で青崩れの方に進む。

青崩峠で記念写真。



少し戻って、兵越峠に行く遊歩道を進む。


兵越峠からひたすら峠を下る。

このたの村に出る。

農作業の人とお話し、この人は網に囲まれた畑の中で農作業・・・??

答えは村を下って行ったら分かった。

ある家の屋根に野生のサルが遊んでいた、サルよけの網をまたいで悠々としているではないか。

田舎のこれが現実、人が少なくなり、野生動物がはびこっている。

たまに来て、景色が良いですね・・・・などと簡単には言えないような感じになった。


 

遠山郷に到着。


 

神楽の湯 に浸かり疲れを癒す。

温泉を出て、ビールで一人で乾杯。

宿に着き、睡眠。

次の日、朝5時半から平岡駅に向かって歩き出す。

狭い国道も、ところどころ新しい道が出来ていた。



 

平岡の町には町営のガソリンスタンドが駅横に作られていた。

以前、新聞で知った、あのスタンドだ。

平岡駅に着き、9時56分の電車で佐久間に帰った。

とても有意義な二日間ありがとう。家に帰って今度は家のことをやらないと。

家庭菜園の畑仕事に汗を流す(^^)

 

 

 

 

 

 

 


 

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今月25日に肺炎のため都内の病院で亡くなった「バタヤン」こと田端義夫さん、

朝の番組で、「バタヤン」こと田端義夫さんの死を知った。

バタヤンは、今は亡き私の父親が大好きだった歌手だ。



父親の話によると、バタヤンは少年のころ大変貧乏で学校に弁当持って行けたかた、お昼の時間になると「俺は用事がある」と言ってみんなの弁当を食べているのを避け、一人河原に行き石を投げてたと。

そんなことを、話を父親は私にした。 貧乏でも負けんなよ!!・・・・・・と私に言っていたのだろう・・か。

そんな「バタヤン」こと田端義夫さんが無くなった(享年94)。

そんなバタヤンのドキュメンタリー映画「オース!バタヤン」の公開を5月18日に控えていた・・・そうだ。



昭和の偉大なる歌手、バタヤンこと田端義夫。

瞼を閉じれば、父親の思い出と共にバタヤンの唄が聞こえる。

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先日母親がお世話になっているホームから電話がかかってきた。

佐久間病院に入院したそうだ。

最近、ホームにも顔を出していなかった、バカ息子。

たまには親の顔を見に来い!

っと熱を出したのかもしれない。


母親の若いときは、子育てに追われ、子供から手が離れると、日雇いの土方の仕事で日ゼニを稼いだ。

化粧などしている姿は見たことはなかった。

そんな母親は今年6月に88歳になる。

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4月14日(日)に歩いた、ほうじ峠。

今回は、二年前に一緒に歩いた○橋さんから連絡があった。

○橋さんは、私より13歳年上の佐久間町出身の人だ。
今回は高橋さんは1962年(たぶん)に卒業の佐久間中学校同級生を連れて参加だという。
19名の同級生は飯田線JR佐久間駅で記念写真を撮り、ほうじ峠へと歩き始めた。


そして、その同級生の一人の実家が、羽ヶ庄にあり、その家の庭のモクレンが満開なのだ。


佐久間に住んでいる人、今は佐久間に住んでいいない人、そんな同級生が集まって、佐久間のほうじ峠を歩いた同級生たち。
きっと楽しい思い出が出来たことだろう。

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45歳から始まった、私たち昭和34年35年生まれの佐久間中学校同窓会。

45歳50歳と続き、今までお正月にやっていた同窓会も次は夏に開催になり、2014年の8月23日に仮予約をしたそうだ。

45歳の同窓会を始める時に私が作ったhomepage
http://run2.ina-ka.com/sakuma75.htm

その時、掲示板も作った。
http://320.teacup.com/tsutomu/bbs#

来年も、なつかしい友に再開できる。

今から、楽しみなのである(^^)

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プロフィール
HN:
しんしん
年齢:
65
性別:
男性
誕生日:
1960/02/20
趣味:
走ること・空手・詩吟
自己紹介:
12市町村が合併して出来た新浜松市
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。

合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。


袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns

”しんしん”55歳  
2015/11/25現在。。。
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