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平成の合併が過ぎ、今私はここで暮らしている。 ほくえんの風を 身体中に感じながら。
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初めて、この小学校に行ったのは、7年前だたっけな~。
地元の人と話をしながらお酒を飲んだっけ。

遠山の人は木沢地区の人は、この小学校に愛着を持ち存続している。

木沢木造小学校の説明
木沢小学校は明治5年に修身学校の名で発足し、はじめは八幡神社境内の回り舞台で授業が行なわれていました。
現校舎は昭和7年に作られたもので、昔ながらの木造の建物が訪れる年配客の郷愁を誘っています。
生徒数は昭和20年に310名、昭和34年に264名を数えましたが、その後は減少の一途をたどり、平成3年に休校となった時点での生徒数は26名でした。

正式に廃校が決定して以降は、研修施設やコンサート会場として臨時に利用されていましたが、木沢活性化委員会が中心となり、なかば常設の形での展示展開催が実現したのです 。
(とおやまごう秘境の旅HPから引用)

説明では、平成3年休校の時点で26名と書いてある。

ということは・・・この地区で育った人は当時小学校一年生(現在28歳の人以上)は、この木造校舎で勉強したことになる。

この地区も佐久間と同じように、過疎化が進み住民は少なくなっていっているだろうが、木沢地区活性化委員会を作り、ここの木造校舎で木沢の活性化を考えている。

ここの活性化の取り組みは・・・すごい。

いろいろなことをやっている。

その中でのひとつ、コージコナーの動画

木沢木造校舎での映像、木沢の人が出演している(^^)

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二年前、佐久間に来た○橋君は、地球緑化センターから派遣された「緑のふるさと協力隊」の隊員だった。

そんな○橋君が佐久間に来たときから、私は思っていた。

・・・・こんな若者に佐久間に定住してほしい・・・・・と。


そして、前のNPOの会合で、そんな思いをぶつけた。

が、「NPOがんばらまいか佐久間」の役員の考えは頑なで、「若い人がこんな所へ来るわけがないジャンかいね~
と一人の人が言った言葉に、何も反論する人は居なかった。

しかし、他の会員の中には、きっと、
佐久間は今いる、高齢者だけの活動ではダメ
と、思っている人は・・・・きっと居る。

そんな微かな望みを持って、その日の夜中に「地球緑化センター」にメールを送信した。

私は静岡県浜松市天竜区佐久間町にある「NPOがんばらまいか佐久間」で活動委員をしている者です。ここのNPOは事務局の人が居ない状況です。隊員の若い人が佐久間に来る事は可能でしょうか
と。

二日後の夕方、その電話は来た。

地球緑化センターの、○○です。」

回答は
緑化センターの仕事としては


この様になっているので・・・・。

都会の若者の中には、自分の働く事の意味、その他の矛盾から農山村で新しい環境での生活に糧を求めている人が多くいる。
農山村では過疎の問題がある。

その両方の問題の橋渡しをするところが地球緑化センターなのだそうだ。

佐久間町のような、大きな浜松市に合併した町村は、対応が難しいのも大きな問題だそうだ。

合併していない所では、緑のふるさと協力隊は二年三年と同じ町村に派遣され、その後その村に住むようになったという例も多くあるそうだ。

その人の話によると、若者が過疎地域にいて、その地域になじむには一長一短ではいこないこと、長い月日をかけその人の信用を作るのが大変だといっていた。

NPOがんばらまいか佐久間は12名の理事がいる。

大切な事はすべて理事会で承認され決定されていく。

理事の人に一人ひとり説明し、近い将来には佐久間にも近隣の町のように若い人の雇用の場としての、NPO法人になっているといいな~と思っている。

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あの会合から帰ってきて、このことがば走馬灯のように、私の頭の中をグルグル回る。

例えば、走ること、
「そんなもんやって何になるだいや」
そんなふうにしか見えないのかな~。

そんな時facebookで、ことような動画にであった。


そんなことをやっても何もならないかもしれない。
でも
何かろ得ようとしてやっているわけではない。

走ることは、お金、物、そんなものではない、もっと素晴らしいことが得られるのだ。

わからないだろうな~。

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病弱だった私は小学校4年生から16歳まで住吉の聖隷病院に通った。

今回はPET検査で、この病院を37年ぶりに訪れた。

受付に行って、予約権を出して、待合室で待っていて、呼ばれて、案内地図を渡され、その地図を頼りに、聖隷PETセンターの受付に行く。

PET検査とは
陽電子放射断層撮影(PET)装置を用いた検査。微量の放射性物質を含む薬剤を注射し、臓器の血流や代謝を測定するもので、癌(がん)・虚血性心疾患・認知症・パーキンソン病・統合失調症などの診断に用いられる。


聖隷PETセンターの受付で待っていると、看護師が問診票を持ってきて、これから行うPET検査のことを説明した。

微量の放射性物質を含む薬剤を注射するので、検査室内では携帯電話で支持をする。
ペットボトルに入った水を飲むように。
検査が終わったあと、トイレは男性でも座っておしっこをするように。
など・など。

この写真のように検査室には、携帯電話と更衣室のカギ、PET検査室の地図を首にぶる下げての移動。

PET検査・受診の流れ
①受付
検査前5時間は絶食します。(水はかまいません)
②更衣
検査着に着替えてください。
③問診
問診室にて検査に必要な問診を行います。
④注射
薬剤を静脈に注射します。
⑤待機室
検査薬剤が全身にめぐるよう、約1時間程度は安静にします。
⑥PET検査
検査は、約20分です。
⑦回復室
検査が終了後、約30分間は回復室にて休みます。
このあと、2回目の検査を予定しています。
8帰宅
検査結果は後日診察時にお知らせします。

検査後の生活は、お酒も食事も制限されていない。
運動もいいとのこと。

土曜日に泰阜村のマラソン大会がある。
今日、走ろうかと思ったが雨が降ってきたので・・・明日 走ることにしよう。

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今年の7月29日(金)にNHKで放送した「金とく SKE48の未来教室 ~過疎高齢化を考えます!~」の番組を録画したDVDが手に入ったので見てみた。
そして考えた・・・・佐久間のNPOの事・過疎高齢化のこと・・・・私なりに。

このテレビで言いたいことは。

★ 佐久間町は過疎高齢化になり、高齢者が高齢者を支えて町づくりをしている

★ 東栄町は過疎高齢化になったけど、都会の若い人を呼び込み町の活性化を目指している。

★ SKE48というアイドルを、そんな過疎地域に行ってもらい、過疎高齢化の現状を都会に住む若者にも知ってもらいたい・・・考えてもらいたい。

そんな番組なのではないだろうか。

こんな番組を見て佐久間に住む ある人が
「佐久間は若い人が誰もいないみたいじゃないか~(怒)」

そんな声が聞こえてきたので、私もこの番組を一度見てみたかったのだ。

なるほど~・・・確かに(笑)

だけど、この番組では「NPOがんばらまいか佐久間」の活動のことを言いたかったのだろうと思う。

高齢者が高齢者を支える・・・といっても限界がありますよ・・・と。

もっと隣町のように都会の若者を積極的に使いなさい。。。。と。

佐久間町の近くの地域、例えば水窪、そこには富士川君という若者が頑張っている。
富士川くんのブログ「水窪暮らし

例えば、平成の合併で飯田市になった「遠山郷
そこには観光協会に神奈川から来た「しんちゃん」がいる。

その地域は、facebookやTwitterで地域のいいとこを発信している。

その人他たちは、元は緑のふるさと協力隊と聞くが・・・ホントのことどうしてその地域に来たのかは分からない。

さて、佐久間を見てみよう。
私は「NPOがんばらまいか佐久間」が発足した時に、地元のコイジのみー兄に、NPOで行う「ふるさとの森づくり」の活動に誘われ、それ以来いろいろな役を任され活動に参加してきた。

活動に参加して、佐久間の偉い人、NPOの理事の人、そんな人を知るようになってきた。

そして会合で、他の近くの地域のように、佐久間も若い人を連れてきて欲しいと言い続けてきた。
が、聞き入れてもらいなかった。

今日の夜、がんばらまいかの会合がある。
「地域移住モデル検討委員会」だ。

今日も、言おうと思う。
「がんばらまいか佐久間は、今まで年寄りが年寄りを支える、そんな感じ活動してきたが、これからは積極的に若者を取り込んでいったらいいのではないでしょうか」

と。

 く( ̄△ ̄)ノガンバ・・・ル・・・ゾ。

以前の記事
 過疎高齢化を考える。
 過疎高齢化を考える。(その2 )
 過疎高齢化を考える。   (その3)

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昨日は水窪の山に行ってきた。

それは、水窪町で毎年秋にやっている商工会のイベント「峠の綱引き」に合わせてマラニックができないものかと、豊橋のヨッピーさんを誘いコースの下見をしたのだ。

コースは、水窪駅~西浦~青崩峠~兵越峠~遠山~平岡駅まで。

予定としては
水窪駅(8:30)青崩峠(10:30) 兵越峠(12;00)遠山(13:30)平岡駅(15:30)だったが。
今回は
水窪駅(8:15)青崩峠(11:50) 兵越峠(12;50)遠山(15:00)今回はここで終わり。
遠山の道の駅(神楽の湯)で温泉に入り、遠山を16時15分のバスで平岡駅まで行く。
平岡駅を17時35分の飯田線に乗り、中部天竜に18時21分着ので帰ってきた。

「峠の綱引きマラニック」は来年の10月最後の日曜日に予定している。
今回の試走から、もっと早く水窪駅を走り始めたほうがいいと思う。

中部天竜駅を6時17分、水窪駅に6時35分着の飯田線がある。
余裕を持って、水窪を7時に出発。

兵越峠では11時頃から綱引きのイベントが始まる。
12時から、遠州軍と信州軍の本番が始まるという。

前日、佐久間に宿泊してもらい、佐久間から中部天竜駅まで行き、そこで始発に乗って水窪に行き。
余裕も持って兵越峠を登っていくようにしようと思っている。

今回の試走の写真
(クリックすると大きくなります)


今回、峠ではミゾレ混じりの雨で寒かった(^^)

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再検査で、PET検査をしたほうがいい。
そのように言われた私は知り合いに肺ガンの手術をした人がいるので、電話して聞いてみた。

その人は地元 佐久間の人だ。

電話の向こうのその人はとても明るく私の質問に答えてくれた。

最後に「ガンの先輩だからなんでも聞いて」
と言ってくれた。

そして・・・もうひとり。
岡○さん、今年の浜松マラソンで出会った。
岡○さんは、スタート前に
「肺がんの疑いがあるので手術して細胞を検査したが、良性だった」
「切った跡が、痛いぞ~」
と言っていた。

私は その人の携帯番号そ知らないので、知り合いのラン友にメールして聞いた。
そして、その人に、肺がんの疑いがあって手術した経過を聞いた。

その人は、PET検査をしてよくわからないので、手術したそうだ。

そうか~。
いろいろな人がいるのだな~。

私も、そのいろいろな人のひとり。

昨日より今日、今日より明日。
まずは今日を楽しんで、明日に進もう。

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facebookから。
昨日の
八杉康夫 戦艦大和語り部
つづき。

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若者よ、君たちが生きる今日という日は、死んだ戦友たちが生きたかった未来だ

 前回の続き

昭和60年のことです。
 いつもピアノの発表会などでお会いしていた女性から喫茶店に呼び出されました。
  彼女は辺見さんが書かれた『男たちの大和』を取り出し、こう言ったのです。
 「八杉さん、実は川崎勝己は私の父です」
  驚いたなんていうものじゃありません。
  戦後、何とかしてお墓参りをしたいと思い、
  厚生省など方々に問い合わせても何の手がかりもなかったのに、
  前から知っていたこの人が高射長のお嬢さんだったなんて……。

  念願叶って佐賀にある高射長の墓前に
 手を合わせることができましたが、
  墓石には「享年31歳」とあり、驚きました。
  もっとずっと年上の人だと思い込んでいたからです。
  その時私は50歳を超えていましたが、
  自分が31歳だった時を思い返すと
 ただただ恥ずかしい思いがしました。
  そして、不思議なことに、それまでの晴天が
 急に曇天となったかと思うと、
  突然の雷雨となり、
  まるで「17歳のあの日」が巡ってきたかのようでした。
  
  天皇も国家も関係ない、自分の愛する福山を、
  そして日本を守ろうと憧れの戦艦大和へ乗った感動。
  不沈戦艦といわれた大和の沈没、原爆投下によって被爆者になる、
  そして、敗戦。
  
  そのすべてが17歳の時に一気に起こったのです。
  17歳といえば、いまの高校2年生にあたります。

  最近は学校関係へ講演に行く機会もありますが、
  現在の学生の姿を見ると、
  明らかに戦後の教育が間違ったと思わざるを得ません。
  いや、生徒たちだけではない。
  間違った教育を受けた人が先生となり、
  親となって、地域社会を動かしているのです。 
  その元凶は昭和史を学ばないことにあるような気がしてなりません。
  自分の両親、祖父母、曾祖父母が
 どれほどの激動の時代を生きてきたかを知らず、
  いくら石器時代を学んだところで、真の日本人にはなれるはずがない。
  現に「日本に誇りを持っていますか」と聞くと、
  学校の先生ですら「持ってどうするんですか?」と
 真顔で聞き返すのですから。
  
  よく「日本は平和ボケ」などと言われますが、
  毎日のように親と子が殺し合うこの日本のどこが平和ですか?
  確かに昔も殺しはありました。
  しかし、「殺してみたかった」などと、
  意味もなく殺すことは考えられませんでした。 
  真の平和とは、歴史から学び、つくり上げていくほかありません。
  鶴を折ったり、徒党を組んでデモをすれば
 天から降ってくるものではないのです。
  しかし、1流の国立大学の大学院生ですら、
  「昭和史は教えてもらっていないので分かりません」
  と平気で言います。
  ならば自分で学べと私は言いたい。
  自分で学び、考えることなしに、
  自分の生きる意味が分かるはずがないのです。

  人として生きたなら、その証を残さなければなりません。
  大きくなくてもいいのです。
  小さくても、精一杯生きた証を残してほしい。
  戦友たちは若くして戦艦大和と運命をともにしましたが、
  いまなお未来へ生きる我々に大きな示唆を与え続けています。
  復員後、長く私の中に渦巻いていた
「生き残ってしまった」という罪悪感。
  それはいま使命感へと変わりました。
  私の一生は私だけの人生ではなく、
  生きたくても生きられなかった戦友たちの人生でもあるのです。
  うかうかと老年を過ごし、死んでいくわけにはいきません。
  未来の日本を託す若者たちが歴史を学び、
  真の日本人になってくれるよう私は大和の真実を語り続け、
  いつか再び戦友たちに会った時、
 「俺も生かされた人生でこれだけ頑張った」と胸を張りたいと思います。

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今日、借りてきた「男たちの大和」を見ようと思う。

自分の今できることを、、、、頑張ろうと思う。

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私は今年から雑誌「致知」を定期購買するようになった。

facebookは去年から始めた。

そのfacebookに今年あたりから、私が”いいね”している「みんなやさしくなあれ」からの投稿がある。
その内容が、「致知」からの引用のしている内容が多い。

今回は、
戦艦大和語り部 八杉康夫さんの お話だった。

###############

若者よ、君たちが生きる今日という日は、死んだ戦友たちが生きたかった未来だ


 大和の後部が白煙を上げているのが私にも分かりました。
  なおも攻撃が続けられ、
  魚雷が的中した時は震度5にも感じられるほど激しく揺れました。
 次第に船は傾いていきます。
  砲術学校では、戦艦は15度傾いたら限界と習ってきましたが、
  25度、30度とどんどん傾いていきます。
  それでも、戦闘中は命令がない限り 
  持ち場を離れることはできません。
  その時「総員、最上甲板へ」との命令が出ました。
  軍には「逃げる」という言葉はありませんが、
  これが事実上「逃げろ」という意味です。
  すでに大和は50度ほど傾いていましたが、
  この時初めて、「大和は沈没するのか」と思いました。
  それまでは本当に「不沈戦艦」だと思っていたのです。

  もう海に飛び込むしかない。
  そう思った時、衝撃的な光景を目の当たりにしました。
  私が仕えていた少尉が日本刀を抜いたかと思うと、自分の腹を掻っ捌いたのです。
  噴き出す鮮血を前に、私は凍り付いてしまいました。
  船はますます傾斜がきつくなっていきました。
  90度近く傾いた時、私はようやく海へ飛び込みました。
  
**********

 飛び込んだのも束の間、
  沈む大和が生み出す渦の中へ巻き込まれてしまいました。
  その時、私の頭に過ったのは海軍で教わった
「生きるための数々の方策」です。
  海軍に入ってからというもの、
  私たちが教わったのは、ひたすら「生きる」ことでした。
  海で溺れた時、どうしても苦しかったら水を飲め。
  漂流した時は体力を消耗してしまうから泳いではならない……。
  陸軍は違ったのかもしれませんが、海軍では
「お国のために死ね、天皇陛下のために死ね」などと言われたことは一度もありません。
  ひたすら「生きること、生き延びること」を教わったのです。
  だから、この時も海の渦に巻き込まれた時の対処法を思い返し、実践しました。
  しかし、どんどん巻き込まれ、
  あまりの水圧と酸欠で次第に意識が薄れていきます。
  その時、ドーンという轟音とともにオレンジ色の閃光が走りました。
  戦艦大和が大爆破したのです。
  そこで私の記憶はなくなりました。

***********

 気づいたら私の体は水面に浮き上がっていました。
  幸運にも、爆発の衝撃で水面に押し出されたようです。
  しかし、一所懸命泳ぐものの、次第に力尽きてきて、
  重油まみれの海水を飲み込んでしまいました。
 「助けてくれ!」と叫んだと同時に、
  なんともいえない恥ずかしさが込み上げてきました。
  この期に及んで情けない、誰にも聞かれてなければいいが……。

  
  すると、すぐ後ろに川崎勝己高射長がいらっしゃいました。
 「軍人らしく黙って死ね」と怒られるのではないか。
  そう思って身構える私に、彼は優しい声で
「落ち着いて、いいか、落ち着くんだ」と言って、
  自分がつかまっていた丸太を押し出しました。
  そして、なおもこう言ったのです。
 「もう大丈夫だ。おまえは若いんだから、頑張って生きろ」
  4時間に及ぶ地獄の漂流後、駆逐艦が救助を始めると、
  川崎高射長はそれに背を向けて、大和が沈んだ方向へ泳ぎ出しました。
  高射長は大和を空から守る最高責任者でした。
  大和を守れなかったという思いから、
 死を以て責任を取られたのでしょう。
  高射長が私にくださったのは、浮きの丸太ではなく、
 彼の命そのものだったのです。

###############

この話・・・私は知らなかった。
ツタヤで「男たちの大和」のDVDを借りてきて見てみなくては。

 

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私の父親は、若い頃から肝臓の病気がちで病院通いが常だった。
そんな父親を見て来たので、自分自身は健康のことに気遣うようになってきた。

初めて成人病検診に行ったのは、私30歳のころ。

39歳の時に、私の兄が癌になり、4人の子供を残してこの世を去った。

49歳の時、父親が肝臓がんで亡くなった。

話は前後するが、

46歳の時に、私のランニング仲間が白血病になった。

自分なりに考えて、浜松の献血センターに行き骨髄バンクに登録しようとした。
が、登録はできなかった。

そんな時知った、「静岡骨髄バンクを推進する会」そこで走るときに掛けるタスキに出会った。

この会が毎年参加している
リレー・フォー・ライフ
がん征圧を目指し、がん患者や 家族、支援者らが夜通し交代で歩き、勇気と希望を分かち合うチャリティーイベント

来年は10月4日から5日静岡県立大学 芝生緑地が予定だそうだ。

日本人の2人に1人は がんになる時代。

成人病検査は大切だ。

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プロフィール
HN:
しんしん
年齢:
65
性別:
男性
誕生日:
1960/02/20
趣味:
走ること・空手・詩吟
自己紹介:
12市町村が合併して出来た新浜松市
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。

合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。


袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns

”しんしん”55歳  
2015/11/25現在。。。
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