退院後、次の日、妻と二人で夕方、家の前の散歩コースを歩くようになった・・・。
ところが、体のバランスが取れないでいる私は、妻の歩くスピードについていけない。16日間の病院生活2週間のベットの上で安静は、いろいろな筋肉が衰え、歩くこともままならない身体になっていたのだった。
ゆっくりゆっくりその散歩コース(佐久間部品の周り)を一周する。
退院後、夕ご飯を食べると、妻と二人でその散歩コースを周るのが日課になった、日一日と歩く距離も伸び、歩く姿勢、歩くスピードも早くなってきた、体重のほうも、退院後57㌔だったのが、 1ヶ月で60キロ台に戻ってきた、外に出る時は、携帯電話を持って出る、もし何かあったときのため。
外に出て歩くのは気持ちが良かった、家でテレビを見ているより、外に出て歩く、以前、走っているときより、たくさんのことを感じる、景色、川の音、昔通った中学校の様子など。
6月30日
成人病検診を聖隷病院で受ける、3ヶ月前に頭の手術をしたのに大丈夫かなー。血液検査、心電図、胃のレントゲン、くも膜化出血をする前には貧血気味だったけど、今回それが元に戻っていた、手術前の血色素が11.0くらいと女性並みだったのが今回は14.6だった。
最後の病院の先生の問診の時にくも膜化出血になった話をする、(先生)「少しずつ大きくなった、動脈瘤がたまたま、破裂したのです、今は大丈夫なのでしょう」(私)「はい」「スポーツのほうはしていいですか?」(先生)「これからの40才台、血圧の管理は大事です、軽い運動はやった方がいいです4~5㌔くらい」(私)「マラソンは」(先生)「無理はよした方がいいでしょう」(私)「・・・」
朝、散歩の時、少し走ってみる、100mくらいか、走れる。
夏になり、朝は佐久間中学校に行くようになった、佐久間中学校まで歩いていき、そこのグランドを軽く走って一周して帰る、それを2周3周と増やしていった。
9月25日
朝 佐久間中学校に行くと、相撲取りのおじさんが稽古をしていた。
三井さんだ、昔、ここに越してきて、走るようになり、この人を見て、佐久間には変わった人が居るもんだ、と思ったけ。寒い朝も、ふんどし一丁で稽古をしている。
この人は、相撲の稽古をやっており、初めて会った時から、ギンギン、ムキムキですごいのだが、小学校の時には、小児麻痺で歩けない時があったそうだ、そんな時があり、今の自分がいるんだな。
44歳の自分にとって、60才以上のこういう人達は目標であり目指す人である。
少しずつ走れるようになり始めたころ、佐久間駅伝の話があった、「ハッチ&花の舞」で走ったことがある、走らなくていい、監督で名前を出しておく、という話があった。
そのときに「第一回浜松マラソン」の申し込み用紙が手に入った、第一回目だ、浜松の町の中を走ってみたいな~。でも今回はまだ・・・・、と思っていた。
12月20日、諦めていた、その「浜松マラソン」の申込用紙が、また手に入った。そして21日その申し込みを出した。
その日から、ゆっくりでもいいから長い距離を走ろうと思った。
『13日にくも膜化出血のため入院。今日、16日繰りに半場に帰ってきた。いろんな人に心配をかけた、俺は44才、子供は二女がまだ中学生、自分の子供が働くようになるまでは・・・、生きていて良かった走れなくても、空手で黒帯が取れなくても、生きていれば良いときも楽しいことも来る。16日間いろいろな事、いろいろな人に出会った感謝と言う言葉を忘れないようにしよう』
退院してきて、家に来て、寝る前に書いた、俺の4月29日の日記だ。この日は、病院から、父の車で、家に帰り、長く車に乗っていたので、疲れたのか、夜九時前には、寝ることにした。
次の日、朝五時に目が覚め、外に散歩に出た、携帯電話を持って、ゆっくり歩く、いや ゆっくりしか歩けない。
ひと月前には、早朝ジョギングに向かう時に歩いていた道、でこぼこの道がうまく歩けない、自分の体を支えるのがやっとだ。
いつもの、俺のジョギングコースを歩く、朝の空気は気持が良い、天竜川を見て、佐久間の景色を見て、またこの景色を見れる自分に感動した。川の流れる音を聞き、「もう少し、小学校の裏まで歩いていて行こうか」、自分に聞いた。いや、今日はここまでにしよう。
http://run2.ina-ka.com/www3/Untitled3.html
その日の昼インターネットで、「くも膜化出血」を調べた。なんと恐ろしい病気なんだ、見なければ良かった、外に出て一人になりたくなった。遠くの山を見ていた。「これからどうならるのだろう・・・」その時、○山さんから電話が来た、その○山さんの父親もくも膜化出血だったらしい、病院に運ばれ、家に帰ってきて車椅子の生活だったけど、脳梗塞を併発して亡くなったらしい。
その○山さんが、「勉ちゃは、身体のことに気を使い、鍛えていたし、タバコも吸わないので、ここまで快復したんだよ」と励ましてくれた。自分がへこんでいる時、○山さんの電話は本当に励みになった。
5月1日、相月のお寺にある、お墓を拝みに行く。
半場に引っ越す前に、私はこっちの方に住んでいた、半場より山の奥深いところだ、新緑の山が、お茶畑が目にまぶしかった、お寺の和尚さんが、お墓で草取りをしていた「先日、救急車で運ばれた様だが、いかいだね?」「何とか無事に帰ってこれました、ご心配かけました」和尚さんは、私が佐久間病院に運ばれた時に、佐久間病院にたまたま居たらしい。
家に帰ってきて、暇で、やることがない、いつもなら、ゴールデンウイークは自転車で外に出ていたのに。本を読むことにした、テレビを見るより、パソコンでネットサーフィンするより、気が休まる。昔読んだ本「人生の目的」を読み出した、30歳代半ばでこの本を読んだその時と、今、とでは、またちがう、この本の、内容が心に染みる、その中の一部を書かせてもらう、
『人生に決められた目的はない、と私は思う。しかし、目的のない人生はさびしい。さびしいだけではなく、むなしい。むなしい人生は、なにか大きな困難にぶつかったときに、つづかない。人生の目的は「自分の人生の目的」をさがすことである。自分ひとりの目的、世界中の誰ともちがう自分だけの「生きる意味」を見出すことである。へんな言い方だが、「自分の人生の目的を見つけるのが、人生の目的である」と言ってもいい。私はそう思う。そのためには、生きつづけていてこそ・・・』
こんな時、自分「人生の目的」、目標をと思い、中学の時の同窓会をやろうと思ったのだった。
そういえば病気する前に、佐久間に居る人だけで、同級生のやっているすし屋「江戸芝」で飲み会をやった、その時も、その話が出た。とりあえず、一人で佐久間中学校の卒業アルバムを見て住所録作りを始めた。
44歳の春。クモ膜化出血になり、なにもやることもなく自暴自棄になっていた時に、職場からの帰り道、中学校の同級生に会い、同窓会をやらないかと言われ始めた。佐久間中学校同窓会。
目的、目標ができたら、なんか気分がスーっとした。
あれから幾日たったのだろう・・・。
私の記憶にあるのは、大部屋の出入り口側のベットの上だった。右手には点滴用のカテーテルをつけていた。ふらふらする、出された食事も、ミキサー食で味もそっけもなかった。大部屋で付き添いの人がいないときに、洗面台に行き、鏡を見たら、左の頭に絆創膏をつけた無精ひげの、自分がいた。
これからは、点滴と一緒に、トイレも行く、おしっこは、する度に、出した量を尿瓶に入れ、量を測り、記録していく、水・ジュース類(口から入れる水分)も量を測り記録していく、脳内の水分が不足するのが怖いので水分はたくさん取るようにと言われた。
そのうち病院側から、2人部屋の方に部屋を変わってほしいといわれ、その二人部屋に移動する。前の部屋とは違いテレビもあるし快適な部屋。その代わり部屋代も高い。同室の人は、85歳の脳梗塞で入院している人だった。三ケ日でみかん農家をやっている人だそうだ。
この部屋に来たときには体もずいぶん快復してきた、点滴をぶる下げて病院内を移動できた。
病院下の玄関付近で「ハーモニカコンサート」をやるっと放送があり。看護士さんに断って、そのコンサートを聴きに行く。その、ハーモニカを吹いてくれた人は、脳梗塞で倒れ、もう好きなハーモニカも吹けないと思ったけど、リハビリにと少しずつ練習してやっとここまでなった、と言っていた。
入院している時に、いろいろなことを考えた、なぜ、俺は、この病気になったのか、走りすぎなのか、もう自分は、走ることができないのか、フルマラソンでは3時間30分を切ること、一回でいい、フルのトライアスロンに参加すること、そんな夢があった。それが今は、歩くこともままならない、明日はもしかして、何らかの後遺症が出るかもしれない、そんな恐怖が何時も付きまとった。
4月18日その「小笠・掛川マラソン」を走った、ランニング仲間が、病院に来てくれた、真っ黒に日焼けした姿は、今日のレースを物語っていた。
同級生のMさんも来てくれた、Mさんは、「小笠・掛川マラソン」のT シャツをもって来てくれた。そのほか、親戚の人達、近所の人達・・・、色々な人に心配をかけた。隣のおじさんが「人生長く生きているといろんなことがあるぞ」と言っていた、たしかにそうだと自分の中で納得していた。
4月26日脳外科の先生たちによる、検診があった、3人の先生が来て、メガネをかけている先生が、「順調のようだね、脳血管撮影検査の方は、何時するのだね」というような会話があり、早くしないと、ゴールデンウイークまでに退院できないという話になっていた。主治医の先生は火曜日と木曜日が当番、急遽、次の日、27日に、動脈にカテーテルを入れて、脳の血管に造影剤を入れて、撮影する脳血管撮影検査をやることになった。
この検査をするにあたって、親近者の誓約書が必用になるのっで、妻に来るようにたのむ、それにしても急だった、そんなに、急いでやるので、脳血管撮影検査とはどんな検査だか、よく解からなかった。それは、腕の動脈から、カテーテルを通して、頭の血管付近までもって行き、そこで、造影剤を頭の血管に入れ、レントゲンでその血管の写真を撮るという分けだ。
前開きの手術着に着替え、ふんどし見たいなのをはき、右手を板で固定して、ストレッチャーに乗って、1階の手術室に行く。
手術室に入いると「見学の学生がいますがいいですか」と言われる。もうどうにでもしてくれ、まな板の上の鯉の状態だ、麻酔は、カテーテルを入れる、部分だけなので、その他の部分は、はっきりしている、身体を、ベルトで固定され、顔は上しか見れない、看護士さんが様態を聞いてくる、右手で何かやっている、今、カテーテルが入っているところだろうか、時間が長く感じる、ある先生は普通に世間話をしている、普通の職場って感じか、こっちは恐怖におののいているのに。そのうち、頭の中が、カーっと熱くなる、先生や看護師さん達が、忙しく何かやっている、そのうち、手術室の外から見ていた人達も出てきて、何か騒ぎ出した、「どうなっているんだ」「もう一回やって見ろ」なんだなんだ、何が起こったんだ、医療ミス、手術の失敗、頭の中ではそんなことが渦巻いていた。看護師さんも何処にいるのかわからない、「ど・う・し・た・んですか?」震える声で聞いてみた、そしたら、マスクをかけて先生が、「機械の調子が少し悪いんです、検査の方は順調ですから」と言ってくれた。何時間かかっただろうか、カテーテルを抜いて、検査が終わった、最初言っていた時間より長くかかっていたらしい。昼ごはんがなかったので、3時にパンと牛乳が出た、忘れられないパンの味だった(生きてて良かった)。
検査の結果は、その日の夕方には出た、先生から説明を受ける、「クリップはちゃんと付いているようです。機械の故障の方は、血管の写真を撮るのですが。その写真を、もっと解かりやすく、画像にする機械を最近買ったのですが、それが調子よくなかったのです。」との説明があった、手術後に撮った写真では、私たちでも解かるような写真だった。クリップもちゃんと付いているのがよく解かった、そこで先生が「もう、退院してもいいです、何時退院しますか、明日にでも?」といってきた、「明後日くらいには・・」話が終わった。
部屋に帰って、家に電話をした、「検査の結果は良かった、明日にでも退院できるって、明日着れる?」次の日、4月29日(みどりの日)に退院することに決めた。
入院生活16日、聖隷病院の人達にはいろいろお世話になりました。掃除に来ていた「アタゴ」のおばさん、調理師の皆さんには直接会わなかったですが出された食事は残さずに食べました。看護士さん達には、励まされました。
明日退院するけど、でも、まだまだ、ふらふらする。頭を手術から12日しかたっていないもんなー。
29日の朝、今日退院できる、今日は暦の上では先勝、午前中に退院することにする。退院の手続きをして、病院の外に出る、久しぶりに吸う、外の空気だ、スリッパしかないので、履物を買わなければ、駐車場で携帯の電源を入れる、友達に電話をかけ、今日退院することになったことを伝える。父の車で、佐久間へ帰る、浜松からだんだん、山のほうに向かう、山の緑がまぶしい帰ってきた、俺はやっぱり、山のほうがいい、落ち着く、家に着き、居間に座ると、なんともいえない気持ちになる、ひさし繰りに良く歩いたせいか、疲れた、その日は、眠りが深かった、目がつぶり疲れるほどの眠りだった、病院ではよく眠れていなかったんだろう。
2003年(平成15年)一年の始まりの日記には書いてあった、私43歳の時の言葉。
「NHK学園専攻科(社会福祉学科)今年は老人ホームでの実習がある。
そして来年の冬には、介護福祉士の国家試験。今年はその目標に向かって一生懸命努力すること。
空手の方も去年の末に3級になった、こっちの方も稽古納めの時に先生が言ったように、あわてず、2年3年後に初段と思って稽古をしていこう。
マラソンは去年、袋井マラソンを脚が痛くて参加できなかった。
今年は、まずは完走を目標にしよう。遅くても良い、やっぱりマラソンは完走しなくては。
トライアスロンは最近忙しくやれないけど水泳だけは続けて行きたいな~。
自転車も、夏の豊橋富山サイクルマラソン(180km)に参加したいな。」
介護福祉の勉強も、空手も、マラソンも自転車も。
それなりに順調に、頑張っていた。
2004年(平成16年)私は、小笠・掛川フルマラソンで3時間30分を切りたいっと目標を書き。介護福祉士の試験も合格できるよう頑張ると書いていた。
その年から、朝は、テープレコーダーに録音した介護福祉士問題の過去問を聞きながらのジョギングから始まった。
空手の方も中学校の子供達は初段を取得しに静岡の本部に行くようになっていた。
私は空手は、ボチボチ稽古、あわてずユックリと思っていた。
1月25日の朝5時に車で介護福祉士(学科)の試験会場の名古屋の大同工業大学に行く。
介護福祉士の試験、大きな学校内は、試験会場がアッチコッチに分かれ、迷路状態。やっと見つけた指定された校舎に行き教室に入ると・・・・受験番号の席がないのではなっか?
係りの人に聞き、手違いが分かり、一安心。・・・でもナンカいや~な予感(T_T)
ところが試験の方は、案外順調。NHK学園での練習問題と似たようなのが沢山あって、時間的にも余裕があり、問題の読み直しも2回くらいできた。
名古屋から車で帰ってくる途中、新城運動公園で30分ジョギングをして、家に帰ってきたのは7時30分だった。
その年の、1月29日の日記に、天竜皮膚科クリニックに行ったと書いてあった。足の指先が赤くはれていたのだ。先生に診てもらったら「しもやけです!」即答された・・。
朝のジョギングで霜焼けになってしまったのだろう。その日から靴下二枚はくようになった(^◇^)
介護福祉士(学科)試験の合格通知が家に来た。
次は、実技試験だ。
2月15日
磐田の東海文化専門学校に介護福祉実技模擬試験に行ってきた。
おるおる、100人くらい、男性は3人。
実技のしやすい服装、前明きはダメ。動きやすい靴、運動靴がベター。爪は切り、腕時計は外す。名前をチャンと言い。自分のやることを利用者に説明する。実技をする前に介護の内容を書いてあるので、それを見てシュミレーションする。
実技の試験まで残り20日 頑張るぞ。
2月20日
介護福祉士実習ビデオを見ながら、最近痴呆が進んで着た母を相手に練習をしてみる。
なかなか、思うようには行かない。
2月28日
水窪のデイサービスセンターに行き、自転車仲間の若林さんがそこに勤めているので、若林さんに介護技術を教わりにいた。介護者を立てかける時のボディーメカニックスとか、車いすの使い方、ベッドメーキング。
3月7日
介護福祉士(実技)試験当日。
場所は名古屋の同朋大学・高等学校 今回は街の中の試験会場なので、電車で行くことにする。
朝5時29分の飯田線で中部天竜駅を出発した。
試験会場には、朝の9時には着いた。近くの公園で本を開き勉強、しかしこの日は寒かった。
同じような、本を開いているおばちゃんが、富士市から来たそうだ。
その人と、喫茶店に入り、コーヒーを飲みながら、12時の集合時間まで時間をつぶした。
名古屋の同朋大学の体育館で、実技の順番を待つ。緊張している時だ、私は40歳の時走った、青梅マラソンのシャツを勝負服として、介護福祉士実技の試験に挑んだ。
待合室で、試験課題を渡される。
〖試験課題〗
伊藤宏さん(76歳)は右半身の不全麻痺があり、右手を使うよう心がけています。移乗や移動には一部介助が必要です。
居室でいすに座っている伊藤さんを、レクリエーションのため、車いすで白線に沿って隣室に移動介護してください。車いすのまま、ボール・お手玉・色紙のどれか一つを使って一緒に活動し、途中であっても2,3回で終えてください。
なお、移動の途中には段差があります。伊藤さんは、「はい」、または「うなずく」のみです。
(試験時間は5分以内です。)
介護者は、専門学校の男子生徒だった。
緊張した5分間は、何とか終わり、同朋大学・高等学校を後にして名古屋から佐久間に帰った。
やるだけのことはやった。後は結果を待つのみ まさに「人事を尽くして天命を待つ」心境だ。
3月22日
豊橋ハーフマラソン。
最近、貧血気味で調子が悪い。折り返し地点まではゆっくり走る。そこから少しスピードを上げる。1時間40分01秒。
4月4日
秋葉ダム桜マラソン
この日は、なんと10kmを、39分50秒。
今まで、貧血気味で、練習も少し控えていたのに・・・この分なら今年の「小笠・掛川マラソン」・・・・狙えるかかも(^◇^)
4月13日(火)
いつものように、自転車で出勤。
6時半に仕事を終わる。
今日は、空手の日。佐久間小学校の体育館へ自転車で向かう。
何時も様に、挨拶をして空手の稽古を始める。
他の人は、組手の稽古をしている。先生に、中学校の生徒との組手と言われ、緊張しながら組手を始める。最初 少しづづ、なんか頭の遠くのところが・・・・・。
お・か・し・い。
先生に行って、休憩していることにした。
ますます、頭が痛くなってきた。
今まで経験したことのない頭痛だ。
家の人を呼んでもらう。
自分で携帯から、119番「頭が・・・普通の痛さではありません。今車を呼んで佐久間病院に行きます。そのことを伝えてください」
佐久間病院で、CTを撮り、「血が出てますね・・」
夜なのでドクターヘリは飛ばない、救急車で浜松の聖隷病院に転送されたのだった。
当時の仕事が、鉄工場での熱処理の仕事だった。
その仕事で、色々な免許証を取得するための勉強をさせてもらった。
乙四危険物取扱者・特定化学部室・有機溶剤 等。
また、働く人々の技能を検定し、国として証明する技能の国家検定制度があり。それも挑戦するようになっていった。
そして、「金属熱処理」「金属材料試験」の検定に挑戦して、技能士の称号を会得したのだ。
合格証は、二級には県知事の名前。一級には労働大臣の名前が入っていた。
有る日、佐久間図書館で国家資格の本を眺めていたら、「介護福祉士」の資格が目に入った。
介護福祉士の免許を取るには、介護現場での3年以上の経験が必要。また、福祉の専門学校での勉強を終え、試験を受け所得する方法もある。
私は、通信教育 NHK学園の「社会福祉学科」を選び、平成13年42歳で勉強を始めた。
佐久間図書館で資格の本に出会ってから、5年たった春の事だった。
佐久間体育協会の話で初心者教室を行うと、「上限1万円の補助が出るよ」と聞き、今回初めての試み。
佐久間体育協会 空手道 初心者教室を行うことになった。
10月の末に、佐久間町内の小学校と水窪小学校に「佐久間体育協会 空手道 初心者講習会」なるポスターを掲示してもらうよう校長先生に話に行った。
その他、町立図書館・スポーツ店・ガソリンスタンドなどに掲示してもらった。
小学生の子を持つ親にも、数名話をしたけど、なかなか反応は悪かった。
そして迎えた、今日「佐久間体育協会 空手道 初心者教室」当日。
やっぱり、誰も参加者はいなかった。
保険代やコピー代・通信費・印刷代・その他計算して体育協会への報告書を書かなければ。
がんばらまいか佐久間の活動の中に、世代間交流活動委員会があり、その中で「ふれあいワイワイ講座」をやっており。今日は「登山教室」竜頭山登山をやるそうだ。
登りなれている竜頭山、今日は子供たちとユックリ登る事になるだろう。
来年の、「佐久間・水窪スーパーマラニック」その時のための道しるべ用の杭を何本か用意して登ることにした。
それと、明日の「佐久間体育協会 空手道 初心者教室」の呼び掛けもやろう。
朝、8時に平和竜頭山登山口に集まった時に、「佐久間体育協会 空手道 初心者教室」の呼びかけをしたのだけれど、明日の日曜日は用事のある子ばかりで、なかなか空手に興味のある子はいない様子だった。
また、他の空手道場に通っている子もいて、初心者教室に興味はなさそうだった。
私は、リックに木の杭と、ハンマーを入れ、最後尾で登山を始めた。
中間地点の「青ナギ」までは、皆まとまって登って行けた。私はそこから、先頭を歩き、ハイキングコースと中級者コースとの分岐点のところで、例の杭を打ち込んだ。
そのころから、早く登れる人と、遅い人との間が離れていったのだ。
途中、景色の好い所で休憩して、最後尾の人を待っていて、最後の浦川小学校の○○君と役場の○園さんと3人で、ユックリ山頂を芽出すのだった。
竜頭山は、何回も登っているが、今回みたいにユックリは流石に、かったるい。それに山頂に近ずくにつれて、風も強くなり体感温度も下がり、寒さが増してきた。
登山道の、最後の沢沿いを歩くようになってから山頂までの長いこと長いこと。人のペースに合わせることは、本当に大変だな~っとつくづく思った。
それでも、ユックリでも。少しづつ山頂は近付いてきて、どうにか1時までには、山頂展望台に到着したのだった。
展望台では、遠く富士山も雪をかぶった姿を現していた。
寒さをにも負けず頑張って登ってきて本当に良かったと思える瞬間。
5時間かけての竜頭山の登山。
私の家内は、青森県六ヶ所村の人。
1996年、家内の実家に里帰り。
六ヶ所村は、例の原子力を受け入れ、財政的に裕福になった地域だ。
そこの、六ヶ所村の公報を見ていたら。
1997年に「第一回 下北国際トライアルロン」開催との記事を見つけた。
スイム 2 km 1時間15分
バイク 122 km 5時間45分
ラ ン 22.2 km 3時間00分
計 146.2 km 10時間00分
バイク 122kmの距離には、少しビビッタが、よ~っしやるぞ~(^◇^)
そんな気持ちにした。
そして私は、1998年 平成10年7月26日の第2回下北国際トライアスロンに参加したのだ。
総合順位 336位
Swim 0時間25分57秒
Bike 5時間13分54秒
Run 2時間14分06秒
総合タイム 7時間53分57秒
絶好調の時の思い出(*^^)v
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。
合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。
袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns
”しんしん”55歳
2015/11/25現在。。。
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