先日、facebookでこのような投稿があった。
人の一生を一周24時間
に例えたお話がある。
君達は夜中の0時に
正にこの世に生まれた。
この世に生を受けた。
大学の先生かなんかが、卒業式に巣立っていく生徒に送った挨拶なんだろうか?
若いときやり直しがきくのだ、なんでもチャレンジしなさい。
チャレンジするのを止め、時間を止めてしまったはよくないと言っている。
この、人の一生を一日と例えると。を自分にあてはめてみようと思う。
私、53歳だから。。。。時間で言うと夕方5時ごろ。
もうすぐ日没だ。
これから闇の世界になってくるのだ。
なんか淋しい \(+_<)/
人生には限りがある。
必ず最後の時がある。
面白いのは、それがいつ来るのかは分からないところに人生の面白さがあるのだ。
だけど、寿命というものがあり、人間でいうと80歳くらいは生きられるのではないか・・・・・と思っている。
80歳生きるとして、私は残り27年生きられる・・・・・かな (^^)
それも保証されたものではない。もっと早く人生の炎が消えるかもしれない。
また、もっと長く炎は消えずに燃えているかもしれない(炎∇炎) ごぉぉ!!
それよりもなにより、遠い先のことを考えて悩むより、まずは明日を頑張ろう。
先日、この次の日曜日にある泰阜村マラソンのお誘いの電話が来た。
このマラソンを頑張ろうと思っている く( ̄△ ̄)ノガンバレェェェ!!
若いから頑張れ・・・ではなく、おっさんでもチャレンジする心は持ち続けた方がいいと思うな~。。。。
ジャン・ジャン。。。。。
もう10年くらい前の話になるだろうか?
私が住む浜松市の北部(山の中)の高校の野球部の生徒が、練習試合で負けた時に自分の家まで走って帰ってきた時があった。
浜松へ車で買い物に行く途中に、そんな野球部の生徒に出合ったことが何回かあった。
その後、佐久間町は合併し、私は一人でこの道を走ってみようと思った。
浜松駅南口から佐久間町までの60K。
浜松駅の雑踏を抜け、ザザの交差点を右折して国道152号線を北上した。
浜松市の役所を左に見て、ホテルコンコルドを通り過ぎていく。
浜北のバイパスでは、サンストリート浜北が完成まじかで道路も路肩を整備している途中だった。
天竜に着き、船明ダム湖岸を走り、新しくできた横山トンネル・秋葉トンネルを抜けたら秋葉ダムが目の前に見える。
ここまでくると何故かホットする。
田舎の緑に囲まれた道。
10年前の野球部の生徒もきっと、このような感じで走ったであろう、田舎の道。
西鹿島から佐久間町まで約40㎞
浜松駅から佐久間町まで約60㎞
若い人も、年を重ねた人も、無理ではない距離。
佐久間町が浜松市に吸収され、佐久間町という自治区は消滅した。
そんな年の夏、一人で走った道。
この新しく誕生した浜松市を一人で、浜松駅南口から佐久間町まで走った60㎞。
それから浜松市も政令指定都市になり住所も
静岡県磐田郡佐久間町から静岡県浜松市天竜区佐久間町に変わった。
なにが浜松市だ!なにが天竜区だ!なにが政令指定都市だ!
お上の方で全て決められ進められていく、そんなことへの淋しさ・不安・怒り。
そんなことを思いながらの、一人の走り旅だった。
ような気がする。
次の年から、長距離を走る仲間が集まり、一緒に走った。
一人より二人、二人より三人。
浜松市の中心、浜松駅から北遠をめざし。
住む場所により、いいところもあるだろうし、大変こともあるだろう。
ここに住もうと決めた、それは自分が決めたことだから、自分が楽しく生きていこうと決めた私のマラニック。
「浜松縦断マラニック」
今年は、6人の人が、この道を走ってくれる。
秋葉ダムの公園で、仲間がエイドのボランティアをしてくれる。
ありがたいことです。
感謝!!
佐久間町と六ヶ所村、私なりの考えを書いていこうと思う。
佐久間町(さくまちょう)は、かつて静岡県磐田郡に存在した町。
2005年(平成17年)7月1日、周辺12市町村とともに浜松市へ編入合併され消滅し、2007年(平成19年)4月1日に浜松市が政令指定都市へ移行したことに伴い、天竜区の一部となった。
2005年(平成17年)7月1日に地方自治法第202条の4に基づく「佐久間地域自治区」が設置された。
同地域自治区は2012年(平成24年)3月31日をもって廃止。
六ヶ所村(ろっかしょむら)は、青森県の下北半島太平洋岸に位置する村である。
原子燃料サイクル施設などの原子力施設の他、国家石油備蓄基地や、やませを利用した風力発電基地等、エネルギー関連施設が集中している。
ITER(国際熱核融合実験炉)の建設候補地として誘致を推進していたが、カダラッシュ(フランス)に建設されることが決定した。
佐久間町は
1956年(昭和31年)9月30日浦川町・佐久間村・山香村・城西村が合併し佐久間町となる。
2005年(平成17年)7月1日浜松市に編入され消滅。
六ヶ所村は
1889年(明治22年)4月1日 に倉内村、平沼村、鷹架村(たかほこ)、尾駮村(おぶち)、出戸村、泊村の周辺六ヶ所の集落が合併し今に続いている、村だ。
佐久間町は、昭和27年に佐久間ダムの工事が着工し昭和30年完成した。
それとともに、世の中は電気の生活が始まり便利で豊かな生活ができるようになってきた。
電気製品はその後、どんどん進化し、今に至っている。
佐久間ダムが完成してから数十年たち、発電施設も水力・火力・原子力となり、六ヶ所村では平成になり原子燃料サイクル施設などの原子力施設の誘致を決定した。
佐久間町は佐久間ダムで潤った時期があったのだが、平成の合併で佐久間地域自治区は消滅した。
六ヶ所村は 原子燃料サイクル施設などの原子力施設などの誘致により、明治22年に周辺の六か所の集落が集結して出来た村が、今なお続いている。
佐久間町から青森県に行くには、東京の中心を走る首都高を通るコースが最短のルートだ。
今回、この首都高を通るときは深夜だった。
大都会東京。 真夜中でも眠らない街、東京。
電力施設で翻弄されている、いわゆる田舎の地域にすむものの一人として、
今回、首都高を車で走っていて夜景を見て、複雑な思いをした。
PS
facebookなどで、原子力反対の声が聞こえる。
毎週金曜日に総理大臣官邸前に集結して原発再稼働の反対を訴えたなどの声が聞こえてくる。
私には言えない。
だた「原子力反対!!」などとは。
私にできること、それは無駄な電気は使わない。自然エネルギー、太陽光発電に協力すること。
家内の実家のお父さんが去年亡くなり、今年は初盆だ。
今年の夏は、家族で青森県の家内の実家に行ってきた。
車で約1000km。
車の運転があまり得意でなないけど、今回は息子が運転してくれる。
首都高の運転は任せた。
東名高速・首都高・東北自動車道・八戸自動車道を経て八戸の町に入り、そこで昼食。
「函太郎」という回転寿司屋で昼食。
家内の実家は、青森県の六ヶ所村、あの原子力発電の再処理工場を誘致した地域だ。
私は最初、ここを訪れた時にはそんな話は何にもなった。
ところが結婚して次の年にそのような話が進み、そんな施設もいろいろ建設される様になってきた。
淋しい漁村の町も、仕事ができ色々な人が来て町は賑わってきた。
そんな、家内の実家に帰省して、家で広報六ヶ所を見ていると、ここ六か所で国際的なトライアスロン大会を開催しようとの話が記載されていた。
「下北国際トライアスロン」
私は1998年に参加した。
最初で最後の思い出の大会だ。
そのゴールが、ここ六ヶ所運動公園のタータントラックの陸上競技場だった。
私の第二の故郷。
60余年前に佐久間ダムを誘致した佐久間町、20余年前に原子力核廃棄物処理施設を誘致した六ヶ所村。
どちらも故郷。
昨日、中部のお祭りでの花火、早々YouTubeに出ていた。
静岡県浜松市の北部、佐久間町の中に中部(なかべ)という地域がある。
ここでの夏祭りに奉納される花火、地割れ花火がなかなか見ごたえのある花火だと宣伝し、走る仲間を集って浜松駅から佐久間町まで60㎞を走ってきたのが6年前のことだった。
佐久間町は浜松市に合併し、町の役場の職員は浜松市の職員になり、大きな浜松市の中の佐久間町になっていった。
町に住む誰もが、ここはもうダメだと感じている、若い人も年寄も・・・・・自分も。
そんなとき、走った浜松駅南口から佐久間町中部(なかべ)までの「浜松縦断マラニック」60㎞
私の呼びかけで集まってくれたのは8名。
中部に泊まって花火を見る人は5名。
泊まった場所は「上島キャンプ場」
中部の花火が始まり、最初の花火を見て私・・・・・感動した。
地割れ花火を見て、町から来た人が・・・・・・・喜んでくれた。
今回のメンバーから噂が広がり、次の年にもやった。
宿泊場所を変え、かぢや旅館を予約した。
そんな感じで行っていた、「浜松縦断マラニック」60㎞。
第3回まで、中部のお祭りの日だったが。
旅館を切り盛りしているオカミサンが、体調を崩し、お祭りの日に泊まることが難しくなって、日にちを変えて泊まる場所を変えての「浜松縦断マラニック」60㎞になった。
今年は、8月31日(土)
メンバー6名。
集合場所である、ふじのくに田子の浦港公園でデジカメを起動し画面を見たら・・・・・SDカードがありません ( ̄□ ̄;)ガーン
・・・・残念!!
とりあえず色いろんなところから写真を お借りしてブログを書いていきます。
今回は参加人数が増え、名簿の上では175名、当日キョンセルが20名ぐらいあったそうなので150名余りのランナーが富士山往復に参加、この大会は年々増えているそうです。
そんなランナーがスタート地点である、田子の浦港(白灯台)の前に集まる。
皆集合すると、白灯台が少ししか見えない。
今回は、参加人数が多いためウェーブスタート、私は最初のグループ、8月3日(土)18時ちょうどスタートになった。
富士山は今年もスタート地点からは望めない、山頂はどうなっているのだろうか?
カミナリ様の仮装での参加の人もいる、山頂で雷が鳴ってなければいいのだが。
富士宮浅間大社(CP-1)に着いたのが19:50
ここで富士山御神火まつりをやっていて、ランナーはその人ごみの中に紛れ浅間神社に参拝をし、これからの安全を祈願して富士山頂に行く。
標高2.000m(CP-2)に着いたのが22:36
料金所跡(CP-3)に着いたのが0:15
去年は、ここでエイドがあって、食料や水分の補給ができたのだが、今年は何もなかった・・・・・もしかしたら今年も、と思ったのだが残念だった。
この大会に参加するなら、富士宮の最後のコンビニから富士山五合目のところまでは何も補給できないことは覚悟して参加しなければならない。
その間の、飲み物は各自用意しなければならないのだ。
(施設エイドが一つあった、本当に助かった、そこでもらったコーラが何とも美味しかった)
標高2.000m(CP-4)には2:05
富士山新五合目(CP-5)3:31
ここで、服を着替え合羽を着て、ランニングシューズを足袋に書き換えた。
去年より涼しい気がする、去年は合羽を着なかったような。
7合目付近から息が苦しい、意識がもうろうとしてきた。
無理をせずに、休みを多くとって山頂を目指した、去年はこんなにも大変だったけな~?
この時点で、今回は去年より遅いので完走は諦めていた、帰りの五合目でリタイヤしバスで帰ることも考えていた。
富士山頂3.776m(CP-6)7:45
去年はここを7:35
去年と同じくらいのペースだ。
山頂のお迎え隊に名前とゼッケン番号を告げ、山頂剣ヶ峰に向かった。
途中、サングラスをかけた旅行者にスマホで写真を撮ってくれる様にお願いすると、その人は外国の人で日本語はわからないようだった。
それでも、身振り手振りで撮影してもらった。
山頂の天気は良かった。
バックは剣が峰3776m。
山頂を後にして同じ道を下山すると、呼びかけ人のヒロボーさんと出会う、
「五合目に10時までに行けば、完走できるよ」
そんな言葉に励まされ、下山を急いだ。
ところが、朝からの登山者が増え、上り優先で待ち時間んがあり、なかなか下山することができない。
そんな時、道を譲ってくれる人もいて、本当に助かった。
中には、下山の待ち時間にゼッケンの"海抜0メータから富士山を往復する"との文字を読み、「弾丸登山じゃない、ダメだよ」との声もかかった.。
世間の目は、ニュースで県知事が弾丸登山の禁止を訴えていたので、弾丸登山=悪 となっているのか。
それでも、今の私には夢がある、去年時間外で田子の浦港に着いたのは6時50分、誰もいない駐車場で夜、自分の写真を写した。
去年の写真
今年こそは時間内に完走できるかも、と思っての下山なのだ。
富士山新五合目に帰ってきたのが9:35
10時前に帰ってこれた、ここからよほどのアクシデントがない限り完走はできそうである。
標高2.000m(CP-8)
に10時42分
料金所跡(CP-9)
標高1.000m(CP-10)
は記入を忘れた。
この間、自動販売機もなく、手持ちの水分も底をついてきた。
そんな時に、であった施設エイド、ペットボトルを一本もらい正に命の水を手に入れた。
富士宮で、富士山焼きそばの屋台があったので、そこで焼きそばを食べる。
富士宮の町に入るとコンビニがあるので、ここでアイスを買うのを楽しみに走っていると、途中道路の路肩に
「富士山頂往復マラニックの選手の皆さんご苦労様間です。麦茶です」と冷えた麦茶と梅干をセットしてあるではないか。
地元の誰かがセットしてくれたのであろう。
感激してしまった。
今回の富士山頂往復マラニック、施設エイドに助けられた、最初の渡辺さんとミドさんのエイドから始まり、暗い料金所手前での施設エイド、
ここで私は持っていたタオルを忘れ、もう諦めていたけど帰りにも同じところにエイドがあり、忘れたタオルも帰ってきた。
新五合目では、富士山頂往復を走るランナーの仲間だろうか、女性のランナーが居た、そこでも一杯の飲み物を頂き手持ちのオニギリを食べた。
新五合目からの帰り、手持ちの水分が何もないとき、途中のトイレで水を汲もうとしたら、雨水なので飲めませんと書いてあり、補給をあきらめた。
去年エイドがあった料金所跡を通過するとき警備の人の麦茶が美味しそうに見えたな~。
そのすぐ後、これも誰かこのマラニックの参加者のラン友からペットボトルを頂いた。
料金所跡から富士宮の町まで(自動販売機があるところまで)が長い、そんな時、去年あった施設エイドのところに今年もあった。
そこでコーラとトマトジュースを頂いた。
富士宮に出るが、浅間大社までが遠いのなんの、やっと着いた浅間大社ではお祭りで大渋滞、子供たちのヨサコイが始まるところだった。
見たかったけど制限時間が迫っている、ゆっくりとはしていれない。
浅間大社(CP-11)14:20
富士宮の駅でランナー発見、電車に乗りそうな感じ、声を掛けたら・・・・山頂のお迎え隊をやってくれたサダさんだった。
「まだ十分間に合うよ、ガンバレ!!」
と励ましてくれた。
ここから15㎞
新東名の高架をくぐり行くと、施設エイドの人にスポーツドリンクを頂く、また行くとアイスを頂く。
俄然勇気がわいてきた。
目の前に見えてきた東名高速道路の高架橋を西富士道路と間違え右折してしまった。
なんかおかしいな~。
と思って、散歩途中の人に道を聞く。
何とか西富士道路に戻り、この道を南に田子の浦港に向かう。
時間は、5時、間に合うか・・・・・どうか。
せっかくここまで来たのだから、時間内に完走しなければとの思いから、走った。
歩道橋を渡り、自分の車が止めてある駐車場を横に見て。
去年の私のゴール地点だったところを過ぎ、今回はゴール地点のふじのくに田子の浦港公園に上った。
そしてゴールである、田子の浦港(白灯台)前にゴールした。
到着時間17時51分
総合時間23時間51分
ありがとう。
呼びかけ人であるヒロボーさん。
数々のボランテェアの皆さん。
そして富士登山では道を譲ってくれた登山者の人たち。
富士登山ではたくさんの外国人の登山者がいました。
すれ違いこちらから「こんにちは」とあいさつすると「コ・ン・二・チ・ハ」とあいさつを返してくれました。
こんな素晴らしい「富士山頂往復マラニック」来年も絶対参加したいです。
来年はゴール後に、美味しいビールを飲みたいから電車での参加をしなければ(^^)
富士山の見えない静岡県に住む私は、今日、富士山に登る。
静岡県は"ふじのくに"という。
静岡県公式ホームページにも"ふじのくに静岡県公式ホームページ"となっている。
http://www.pref.shizuoka.jp/
その中に「富士山憲章」のページがある。
http://www.pref.shizuoka.jp/bunka/bk-223/fujisannohi/kensyou.html
平成11年6月7日に設置された富士山憲章。
今 新たに、富士山憲章の全文世読み・・・・・・・そのことを踏まえ今日の出発を迎えよう。
そういえば、佐久間町にも"富士山"の見えるところがある!!
竜頭山の山頂近くにある展望台からだ。
(山頂からは見えない)
天気が良いに日、東側に少しだが見えるときがある。
明日の「富士山頂往復マラニック」
3年前に、このマラニックを知り、申込用紙を取り寄せて、その用紙に書いてある。
日本一の富士山を、海抜〇メートルから山頂3776メートルまで、24時間以内で往復する
まさに、標高差日本一の大会に挑戦してみませんか。
この言葉に魅せられ参加するようになった。
大会の趣旨は
参加者は、食料、水、防寒衣、ライト、(雨具)他、走るために必要と思われるもの全てを
デイバック等に入れ背負う等してして、コースマップに従って走ります。記録のみにこだわらず
24時間というなかで、海抜0メートルから日本最高峰富士山3776メートルを往復し
走ることを通して富士山の素晴らしらを感じ、楽しみながらゴールを目指し、並びに参加する
ひとりひとりが各々の行動に責任を持ち、安全には十分注意の上
「富士山頂往復マラニック」を楽しみます。
富士山が世界遺産になり、弾丸登山を止めるようにと静岡県・山梨県の両知事が言っていた。
しかし、それなりの準備をして私たちはマラニックを楽しもうとしている。
ただの観光ではなく、マラニックを通して富士山の素晴らしさを感じ、楽しみながらゴールを目指す。
そして走ることを楽しむ「富士山頂往復マラニック」を楽しむのです。
明日が楽しみ。.::・’☆(=^・^=)☆。.::・’
「富士山登山競争」
http://www.fujimountainrace.jp/forms/top/top.aspx
を知っているだろうか?
私は、この大会を聞いてはいたが参加することを躊躇していた。
ところが、新城の仲間が「富士山登山競争に行かないか」と誘ってもらい、私47歳の頃、初めて参加することになった。
当時は、初参加で山頂コースにエントリーできたのだった。
前日、新城の本長篠に三人が集まり、山梨県に向かった。
富士山の見えない静岡県に住む私はせっかく来たので富士山を見たかった、が、富士吉田市あたりに来たのに富士山は姿を見せなかった。
ところが、富士吉田市役所で前日受付をしていると、その富士山は顔を出した。
そして、この大会に何度も参加している新城の仲間は、その富士山をみて「あそこがゴールだ」と言った。
日本で一番過酷なハーフマラソン(21km)明日はあの富士山を走って登るのだ、18歳の頃、職場の仲間と登った富士山がそこにあった。
八合目の山小屋の屋根が輝いて見えた。
この大会に参加するための練習は、佐久間にある山「竜頭山(標高1351.58m)」に登った。
最初の舗装道路が肝心だと聞き、ほうじ峠にもよく走って上った。
インターネットでみると、この大会に向けての練習で富士山に足を運ぶ人もたくさんいるそうだ。
しかし自分は、地元にいいコースがあるので、ここで一人で練習した。
そして、初めて参加した富士山登山競争のスタート前、二〇〇〇人余りの富士山頂を目指す集団の中に私は入っていた。
そこの場所で聞いたことがある「山頂の女神に会いに行く」と。
その年、奇跡的に四時間二七分で山頂にたどり着くことができ、次の年は八合目でリタイヤ、次の年は悪天候のため五合目までで中止。
体力的にもう無理かなと思い、次の年からヒロボーさん呼びかけの「富士山頂往復マラニック」に参加するようになった。
ユックリ走るマラニックだけど、富士山の山頂までは遠く長い、それなりの練習をして望まないといけない。
今年はどんなドラマが待っているだろうか、山頂の女神は・・・・・微笑んでくれるだろうか?
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。
合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。
袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns
”しんしん”55歳
2015/11/25現在。。。
03 | 2025/04 | 05 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ||
6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 |
27 | 28 | 29 | 30 |