facebookから。
昨日の
八杉康夫 戦艦大和語り部
つづき。
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「若者よ、君たちが生きる今日という日は、死んだ戦友たちが生きたかった未来だ」
前回の続き
昭和60年のことです。
いつもピアノの発表会などでお会いしていた女性から喫茶店に呼び出されました。
彼女は辺見さんが書かれた『男たちの大和』を取り出し、こう言ったのです。
「八杉さん、実は川崎勝己は私の父です」
驚いたなんていうものじゃありません。
戦後、何とかしてお墓参りをしたいと思い、
厚生省など方々に問い合わせても何の手がかりもなかったのに、
前から知っていたこの人が高射長のお嬢さんだったなんて……。
念願叶って佐賀にある高射長の墓前に
手を合わせることができましたが、
墓石には「享年31歳」とあり、驚きました。
もっとずっと年上の人だと思い込んでいたからです。
その時私は50歳を超えていましたが、
自分が31歳だった時を思い返すと
ただただ恥ずかしい思いがしました。
そして、不思議なことに、それまでの晴天が
急に曇天となったかと思うと、
突然の雷雨となり、
まるで「17歳のあの日」が巡ってきたかのようでした。
天皇も国家も関係ない、自分の愛する福山を、
そして日本を守ろうと憧れの戦艦大和へ乗った感動。
不沈戦艦といわれた大和の沈没、原爆投下によって被爆者になる、
そして、敗戦。
そのすべてが17歳の時に一気に起こったのです。
17歳といえば、いまの高校2年生にあたります。
最近は学校関係へ講演に行く機会もありますが、
現在の学生の姿を見ると、
明らかに戦後の教育が間違ったと思わざるを得ません。
いや、生徒たちだけではない。
間違った教育を受けた人が先生となり、
親となって、地域社会を動かしているのです。
その元凶は昭和史を学ばないことにあるような気がしてなりません。
自分の両親、祖父母、曾祖父母が
どれほどの激動の時代を生きてきたかを知らず、
いくら石器時代を学んだところで、真の日本人にはなれるはずがない。
現に「日本に誇りを持っていますか」と聞くと、
学校の先生ですら「持ってどうするんですか?」と
真顔で聞き返すのですから。
よく「日本は平和ボケ」などと言われますが、
毎日のように親と子が殺し合うこの日本のどこが平和ですか?
確かに昔も殺しはありました。
しかし、「殺してみたかった」などと、
意味もなく殺すことは考えられませんでした。
真の平和とは、歴史から学び、つくり上げていくほかありません。
鶴を折ったり、徒党を組んでデモをすれば
天から降ってくるものではないのです。
しかし、1流の国立大学の大学院生ですら、
「昭和史は教えてもらっていないので分かりません」
と平気で言います。
ならば自分で学べと私は言いたい。
自分で学び、考えることなしに、
自分の生きる意味が分かるはずがないのです。
人として生きたなら、その証を残さなければなりません。
大きくなくてもいいのです。
小さくても、精一杯生きた証を残してほしい。
戦友たちは若くして戦艦大和と運命をともにしましたが、
いまなお未来へ生きる我々に大きな示唆を与え続けています。
復員後、長く私の中に渦巻いていた
「生き残ってしまった」という罪悪感。
それはいま使命感へと変わりました。
私の一生は私だけの人生ではなく、
生きたくても生きられなかった戦友たちの人生でもあるのです。
うかうかと老年を過ごし、死んでいくわけにはいきません。
未来の日本を託す若者たちが歴史を学び、
真の日本人になってくれるよう私は大和の真実を語り続け、
いつか再び戦友たちに会った時、
「俺も生かされた人生でこれだけ頑張った」と胸を張りたいと思います。
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今日、借りてきた「男たちの大和」を見ようと思う。
自分の今できることを、、、、頑張ろうと思う。
私は今年から雑誌「致知」を定期購買するようになった。
facebookは去年から始めた。
そのfacebookに今年あたりから、私が”いいね”している「みんなやさしくなあれ」からの投稿がある。
その内容が、「致知」からの引用のしている内容が多い。
今回は、
戦艦大和語り部 八杉康夫さんの お話だった。
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「若者よ、君たちが生きる今日という日は、死んだ戦友たちが生きたかった未来だ」
大和の後部が白煙を上げているのが私にも分かりました。
なおも攻撃が続けられ、
魚雷が的中した時は震度5にも感じられるほど激しく揺れました。
次第に船は傾いていきます。
砲術学校では、戦艦は15度傾いたら限界と習ってきましたが、
25度、30度とどんどん傾いていきます。
それでも、戦闘中は命令がない限り
持ち場を離れることはできません。
その時「総員、最上甲板へ」との命令が出ました。
軍には「逃げる」という言葉はありませんが、
これが事実上「逃げろ」という意味です。
すでに大和は50度ほど傾いていましたが、
この時初めて、「大和は沈没するのか」と思いました。
それまでは本当に「不沈戦艦」だと思っていたのです。
もう海に飛び込むしかない。
そう思った時、衝撃的な光景を目の当たりにしました。
私が仕えていた少尉が日本刀を抜いたかと思うと、自分の腹を掻っ捌いたのです。
噴き出す鮮血を前に、私は凍り付いてしまいました。
船はますます傾斜がきつくなっていきました。
90度近く傾いた時、私はようやく海へ飛び込みました。
**********
飛び込んだのも束の間、
沈む大和が生み出す渦の中へ巻き込まれてしまいました。
その時、私の頭に過ったのは海軍で教わった
「生きるための数々の方策」です。
海軍に入ってからというもの、
私たちが教わったのは、ひたすら「生きる」ことでした。
海で溺れた時、どうしても苦しかったら水を飲め。
漂流した時は体力を消耗してしまうから泳いではならない……。
陸軍は違ったのかもしれませんが、海軍では
「お国のために死ね、天皇陛下のために死ね」などと言われたことは一度もありません。
ひたすら「生きること、生き延びること」を教わったのです。
だから、この時も海の渦に巻き込まれた時の対処法を思い返し、実践しました。
しかし、どんどん巻き込まれ、
あまりの水圧と酸欠で次第に意識が薄れていきます。
その時、ドーンという轟音とともにオレンジ色の閃光が走りました。
戦艦大和が大爆破したのです。
そこで私の記憶はなくなりました。
***********
気づいたら私の体は水面に浮き上がっていました。
幸運にも、爆発の衝撃で水面に押し出されたようです。
しかし、一所懸命泳ぐものの、次第に力尽きてきて、
重油まみれの海水を飲み込んでしまいました。
「助けてくれ!」と叫んだと同時に、
なんともいえない恥ずかしさが込み上げてきました。
この期に及んで情けない、誰にも聞かれてなければいいが……。
すると、すぐ後ろに川崎勝己高射長がいらっしゃいました。
「軍人らしく黙って死ね」と怒られるのではないか。
そう思って身構える私に、彼は優しい声で
「落ち着いて、いいか、落ち着くんだ」と言って、
自分がつかまっていた丸太を押し出しました。
そして、なおもこう言ったのです。
「もう大丈夫だ。おまえは若いんだから、頑張って生きろ」
4時間に及ぶ地獄の漂流後、駆逐艦が救助を始めると、
川崎高射長はそれに背を向けて、大和が沈んだ方向へ泳ぎ出しました。
高射長は大和を空から守る最高責任者でした。
大和を守れなかったという思いから、
死を以て責任を取られたのでしょう。
高射長が私にくださったのは、浮きの丸太ではなく、
彼の命そのものだったのです。
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この話・・・私は知らなかった。
ツタヤで「男たちの大和」のDVDを借りてきて見てみなくては。
昨日は、浦川小学校でケビンと二人、空手の稽古だった。
今日は、半場のある人の住宅でアユパーティー。同じ年齢の人が集まり・・・・飲み会^^
(この日は、名古屋ハーフの申し込み開始)
26日(木)ケビンと空手の稽古
(毎月佐久間小学校での稽古だったが今月は浦川小学校で稽古をした。稽古日も4日と頑張った。
来月からはまた佐久間小学校にしようと思う、稽古日も月に一回として。。。
そして来年度からは体協から脱退しようかと思っている)
27日(金)がんばらまいか佐久間 地域居住モデル事業検討委員会 毎年行っているソバの花の観賞会についての話し合いだ。
10月13日は「ぐるっと浜名湖一周マラニック」100k
10月20日は「水窪の山を走る」
10月26日(土)は「泰阜とんじろ雲上マラソン」
10月27日(日)は「しまだ大井川マラソン」フル
そんな感じで予定を立てている。
先日、遠山郷のマラニックで先輩のランナーが
「五年先まで計画が立ててある」
と話していた。
目標や夢を決め、それに向けて頑張る・・・・・大切なことだと思う。
夜中に電話が・・・プルルルル・・・・・。
隣の奥さんからだ。
「近くで散歩をしていた人が、マムシに噛まれたそう。そのマムシは殺していないから・・・まだその辺におるので気を付けて」
マムシは、毒蛇だ。
昔 私がまだ子供のころ、横吹(よこぶき)という山の中の村に住んでいた。
学校帰り、村までの山の道を帰る時、そんなマムシに出会ったことは多々あった。
大人たちはマムシに出会うと、そのマムシを殺した。
殺すことができず逃げられた時には、その場所に目立つように木の棒を目印にと立てた。
マムシは、自分の住んでいる所をあまり移動しない習性があるそうだから、横吹で住む人はそんな事をやっていた。
そんなマムシが、家の近くにいるらしい。
私のジョギングコースだ。
電気を持って、足元をよく確認して走るようにしなければ。
携帯も持って、なんかの時には頼りになる相棒を(^^)
PS
その人は
散歩中、なんか足の甲にチックとした感じがしたので、一緒に歩いていた人に電気で照らしてもらたらマムシがいたそうだ。
マムシに噛まれた時、そんなに痛いとは感じないものなのだろうか。
分からない・・・・・。
昨日「がんばらまいか佐久間」の広報委員会があった。
秋に発行する広報誌の内容などの話し合い・・・・・。
そんな話し合いの合間、話が脱線し地元での色々な事の話が始まった・・・・・・そんな時、
わたしは話した。
この前、「がんばらまいか佐久間」がNHKで放送されたようですが、この内容を見たある人が
まるで佐久間は年寄りばかりが活動していて、東栄は若い人が頑張っている、そんなような感じの内容で頭に来た(○`ε´○)プンプン!!
との話を聞いたのですが・・・・・どうでしたか????
(このテレビ、私はYouTubeで一部は見たのだが放送は見ていなかった)
少ないけど佐久間にも若い人がいるのだから、「がんばらまいか佐久間」も若い人を取り込んで、今やっている広報誌作りもできるようになればな・・・・・・(^-^)
と話した。
もともと「がんばらまいか佐久間」は合併後、佐久間が過疎化していく中、残された高齢者が頑張らなければと立ち上げたNPOだからしょうがないかも。
とも。
佐久間にも今のNPOとは違う、若い人達が活躍できるNPOが必要なのかもしれない。
PS
このブログは、佐久間で暮らす自分が経験した事、感じたことを、ただ漠然と書いているだけです。
この地域をこんなふうにしたいなぞとだいそれた事は思っていません。
世の中には色々な考えの方がいます。
私もその一人です。
「他人と過去は、変えられない。自分と未来は、変えられる」
こんな思いでここでいろいろなことをやっています(自分なりに)
色々な人に出会い、自分の未来を変えていきたいと思っています。
昭和の合併で、3村1町が合併しできた佐久間町。
その後、平成の合併で浜松市になり佐久間町は、その長き歴史を閉じた。
私が生まれ育った横吹(よこぶき)では、私が育った昭和40年代では、山の中の生活といえど子供たちが多くいて賑やかな山の生活だった。
上の写真んは、最近出会ったブログに有った写真だ。
佐久間町のような、北遠の山村の衰退を憂いて立ち上げたブログであろう。
佐久間町は浜松市になった。
浜松市は中心地である浜松駅周辺は昔のような賑あいは無くなった。
浜松市として、北遠の衰退より、今は駅周辺の活性化が大事なのだろう。
私は思う。
地域を守るのは、そこに住む人。
自分の地域を活性化させるのは、その地域に住む人が頑張らなければならないと。
家内の実家のお父さんが去年亡くなり、今年は初盆だ。
今年の夏は、家族で青森県の家内の実家に行ってきた。
車で約1000km。
車の運転があまり得意でなないけど、今回は息子が運転してくれる。
首都高の運転は任せた。
東名高速・首都高・東北自動車道・八戸自動車道を経て八戸の町に入り、そこで昼食。
「函太郎」という回転寿司屋で昼食。
家内の実家は、青森県の六ヶ所村、あの原子力発電の再処理工場を誘致した地域だ。
私は最初、ここを訪れた時にはそんな話は何にもなった。
ところが結婚して次の年にそのような話が進み、そんな施設もいろいろ建設される様になってきた。
淋しい漁村の町も、仕事ができ色々な人が来て町は賑わってきた。
そんな、家内の実家に帰省して、家で広報六ヶ所を見ていると、ここ六か所で国際的なトライアスロン大会を開催しようとの話が記載されていた。
「下北国際トライアスロン」
私は1998年に参加した。
最初で最後の思い出の大会だ。
そのゴールが、ここ六ヶ所運動公園のタータントラックの陸上競技場だった。
私の第二の故郷。
60余年前に佐久間ダムを誘致した佐久間町、20余年前に原子力核廃棄物処理施設を誘致した六ヶ所村。
どちらも故郷。
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。
合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。
袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns
”しんしん”55歳
2015/11/25現在。。。
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S | M | T | W | T | F | S |
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