私は今年から雑誌「致知」を定期購買するようになった。
facebookは去年から始めた。
そのfacebookに今年あたりから、私が”いいね”している「みんなやさしくなあれ」からの投稿がある。
その内容が、「致知」からの引用のしている内容が多い。
今回は、
戦艦大和語り部 八杉康夫さんの お話だった。
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「若者よ、君たちが生きる今日という日は、死んだ戦友たちが生きたかった未来だ」
大和の後部が白煙を上げているのが私にも分かりました。
なおも攻撃が続けられ、
魚雷が的中した時は震度5にも感じられるほど激しく揺れました。
次第に船は傾いていきます。
砲術学校では、戦艦は15度傾いたら限界と習ってきましたが、
25度、30度とどんどん傾いていきます。
それでも、戦闘中は命令がない限り
持ち場を離れることはできません。
その時「総員、最上甲板へ」との命令が出ました。
軍には「逃げる」という言葉はありませんが、
これが事実上「逃げろ」という意味です。
すでに大和は50度ほど傾いていましたが、
この時初めて、「大和は沈没するのか」と思いました。
それまでは本当に「不沈戦艦」だと思っていたのです。
もう海に飛び込むしかない。
そう思った時、衝撃的な光景を目の当たりにしました。
私が仕えていた少尉が日本刀を抜いたかと思うと、自分の腹を掻っ捌いたのです。
噴き出す鮮血を前に、私は凍り付いてしまいました。
船はますます傾斜がきつくなっていきました。
90度近く傾いた時、私はようやく海へ飛び込みました。
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飛び込んだのも束の間、
沈む大和が生み出す渦の中へ巻き込まれてしまいました。
その時、私の頭に過ったのは海軍で教わった
「生きるための数々の方策」です。
海軍に入ってからというもの、
私たちが教わったのは、ひたすら「生きる」ことでした。
海で溺れた時、どうしても苦しかったら水を飲め。
漂流した時は体力を消耗してしまうから泳いではならない……。
陸軍は違ったのかもしれませんが、海軍では
「お国のために死ね、天皇陛下のために死ね」などと言われたことは一度もありません。
ひたすら「生きること、生き延びること」を教わったのです。
だから、この時も海の渦に巻き込まれた時の対処法を思い返し、実践しました。
しかし、どんどん巻き込まれ、
あまりの水圧と酸欠で次第に意識が薄れていきます。
その時、ドーンという轟音とともにオレンジ色の閃光が走りました。
戦艦大和が大爆破したのです。
そこで私の記憶はなくなりました。
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気づいたら私の体は水面に浮き上がっていました。
幸運にも、爆発の衝撃で水面に押し出されたようです。
しかし、一所懸命泳ぐものの、次第に力尽きてきて、
重油まみれの海水を飲み込んでしまいました。
「助けてくれ!」と叫んだと同時に、
なんともいえない恥ずかしさが込み上げてきました。
この期に及んで情けない、誰にも聞かれてなければいいが……。
すると、すぐ後ろに川崎勝己高射長がいらっしゃいました。
「軍人らしく黙って死ね」と怒られるのではないか。
そう思って身構える私に、彼は優しい声で
「落ち着いて、いいか、落ち着くんだ」と言って、
自分がつかまっていた丸太を押し出しました。
そして、なおもこう言ったのです。
「もう大丈夫だ。おまえは若いんだから、頑張って生きろ」
4時間に及ぶ地獄の漂流後、駆逐艦が救助を始めると、
川崎高射長はそれに背を向けて、大和が沈んだ方向へ泳ぎ出しました。
高射長は大和を空から守る最高責任者でした。
大和を守れなかったという思いから、
死を以て責任を取られたのでしょう。
高射長が私にくださったのは、浮きの丸太ではなく、
彼の命そのものだったのです。
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この話・・・私は知らなかった。
ツタヤで「男たちの大和」のDVDを借りてきて見てみなくては。
東京帝国大学卒の戦艦大和の搭乗員、吉田満氏が、昭和24年に出版した本です。
でも違う様です。
以前致知は、講読していましたが、この一節は読んだ記憶あります。
大和級戦艦には、他に『武蔵』と『信濃』が有りますね。『信濃』は、とても悲運な船でした。
海軍に引き渡されて10日で沈んでいます。
確か遠州灘に沈んでいます。
不沈戦艦と言われた、『大和』『武蔵』のニ隻が日本人には、有名ですが、アメリカにも同等の戦艦が、四隻も造られて居ます。全く同格の船です。
終戦時に降伏調印式を書いた船がその一つの船です。
『戦艦ミズーリ』です。ミズーリは、アイオワ級戦艦の三番艦として1944年に就役し1992年に退役しています。
湾岸戦争の際には、トマホークが打てる様に改造を加えられて居て、最初にミサイルを発射した船です。
退役後は、記念艦として、あの真珠湾の戦艦アリゾナの近くに保存されています。
ぺリー海軍提督が、新造船『サクケハナ』に乗り開国を迫り、日米和親条約並びに日米修好通商条約を結んだんです。
この時の修好通商条約を結んだ際にペリーが乗り付けた、同じ東京湾の海域の戦艦ミズーリの甲板で、マッカーサー陸元帥は、ミニッツ海軍元帥と共に乗り、ペリー海軍提督が開国の際に持ち込んだ当時の星条旗を持ち込み降伏調印式が行われました。
ミズーリの名は、当時の大統領トルーマンの出身州のミズーリ州の名から命名されてもいます。
開戦の地、真珠湾に終戦の降伏文書を書いた船を開戦時に沈められた船と共に飾り、降伏調印文書の調印式には、あの不平等条約と言われた、修好通商条約を結ぶ際にペリーが乗りつけた同じ海域で行ったと言う事、ペリーが持ってきた星条旗を持って来てるのです。
これらの話しって上手く出来ているでしょう。アメリカ人の政治家は、ちゃんと歴史を学んでいる証拠に思えます。
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。
合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。
袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns
”しんしん”55歳
2015/11/25現在。。。
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