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平成の合併が過ぎ、今私はここで暮らしている。 ほくえんの風を 身体中に感じながら。
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仕事中、携帯の着信が・・・・・・。

「鈴木○○さん」

の名前がスマートフォンの画面に出た。

25年前、私が夢中になっていた趣味「ハングライダー」をやっていた時の仲間の名前だった。
ほくえんの風(ハングライダー)
http://hokuen.blog.shinobi.jp/Entry/81/#comment

今日は、オートバイで佐久間まで遊びに来ていると言う話であった。

職場の正門で待ち合わせ、25年ぶりの再開に話がはずんだ。

年賀状では、趣味も空から海、ヨットに乗って三河湾を遊覧していると言っていた。
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今日は、愛車「トライアンフ」に乗って佐久間にツーリング、幾つになっても青春真っ最中の私の昔の良き仲間との再開であった。

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今朝は久しぶりの朝ラン、雪の降るなか  国道473号を走っていく ほっほっほ・・・・・・・・・と。
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先日 親戚の人が亡くなったと・・・噂で聞いた、・・・・・ウソだろっと思っていたが、お通夜に行って顔を見て・・・・・・・・本当なのかと思った。

今日は、その人の葬儀の日だ。

「ツトム どうしただいや・・・朝っぱらから・・」

「雪の降る中、寒いちゅうに・・きずけてとべよ~」

(この地方では走る事を”とぶ”と言う、”気を付けて”を”きずけて”とも)

そんな、感じで話してくれた、その人はもう居ない。

葬儀から帰るとき、ほくえんの山々は、朝の雪で白く化粧をしていた。
私が小さなころ見た景色と ちっとも変わらない・・・・・・・・城西小学校から見える雪景色・・・・時は過ぎ、季節は廻る。
来月になると、"ほくえん"は 春の花咲く季節を迎える。

合掌
 

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先日 お寺から手紙が来た。
平成23年度の檀徒割り・役料・茶湯料 などを書かれてある手紙だ。
去年 父が亡くなったので、今年からは自分が全てやらなければ。

今日は、それを持て、相月(あいずき)のお寺(東林寺)へ新年の挨拶に行くことにした。

走って!

半場を出たのが9時30分、国道沿いの日の当てってない所は寒い~~。
竜頭山の登山口には今日も沢山の車が止まっている。
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佐久間駅伝3区中継所 付近から和泉(いずみ)の村に上る、ここからは歩き、向かいの瀬戸の村が見える。
下の方に小さく、佐久間駅伝3区中継所が見える。
下日余(しもひよ)を通り、遠くに私が住んでいた横吹(よこぶき)が見える。
 

生前の父と寄った、中山ま~に~の家(今は空き家)に寄り、お墓を拝んで、相月に到着。
時計は12時。
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和尚さんに新年のご挨拶。
今年くる、亡き父の一周忌を5月にお願いすることにした。
来年には三回忌が その後、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十五回忌、二十七回忌、三十三回忌、と続くそうだ。

帰りは、そのまま国道152号線に出て、佐久間駅伝2区3区のコースを走って帰ってきた。

半場に着いたのが3時30分。

隣のオバちゃん(なっちゃん)が居た、
 私     「父の一周忌の話を和尚さんとしてきた」
なっちゃん「大変だね~」
 私      「生きていても、死んでまでもお金がかかる」
なっちゃん「生きている人の務めだよ」

そう、これからは自分が頑張らないとp(^^)q
 

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日々是好日(にちにちこれこうじつ)

「人生 楽ありゃ、苦も有るさ~」

晴れの日も、風の日も、雨の日も有る。

これも、人生の経験として、前を向いて歩いて行こう。

いや、ランナーだから走って行こう。

 

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朝起きて、今日は走ろうか、走るのを止めようか。

そんな選択に迫られる。

宴会に出ようか、辞めようか。

生きて行くに当たって、どっちにしようかという分かれ道に出会う場面は、非常に多い。

右か左か・・・・。

宴会に出て、人生を変えるような出来事・出会いが待っているかもしれない。

飲みすぎるのは、体のために良くない。

しかし、御付き合いは大事なコミュニケーションだ(^-^)
 

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お昼休み、ご飯を食べようと思っていたとき NHKのニュースで「巨人の木村拓也内野守備走塁コーチが7日午前3時22分、くも膜下出血のため、広島市内の病院で・・・・」っとアナウンサーの声が聞こえた。
37歳 まだこれからだというのに。

思いだす。6年前、ちょうどこの時期だった。
44歳の春、4月13日(火曜日)仕事を終わって、空手の稽古をしている時だった。

今日 仕事を終わって、歩きで帰ってくるとき・・・空にはトンビが旋回し川には鵜が泳いでいる、みんな生きている。

大切な一日、生きるということ、生かされていると言うこと。

誰かが、生きたいと思っている大切な一日。

自分は、大切に生きているだろうか。

今から、「さくまRC」の練習会だ。

 

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2005年2月12日浜松マラソン
朝、早く目が覚める、朝ごはんを食べて外に出る、外はまだ真っ暗、空は星がまたたいている、車のエンジンを掛けに行く、フロントガラスは霜で真っ白だ。
車を暖めている間、マラソンに行くための準備、久しぶりに大きなリュックサックを使う、着替えに、レース用のシューズ・・・、参加申し込み書も忘れないようにしないと。
その、大きなリュックサックを背負って、半場の家を後にする。車で15分くらい走ると待ち合わせの場所に着く、暗い駐車場 太田さんはもう待っていた。
P2120018.jpg北遠(山)の人達は、浜松の方に行く時、佐久間方面と水窪方面の合流地点のここの駐車場を利用する。

太田さんの車に荷物を移し、二人で西鹿島へ、秋葉ダム湖の直線を走っていると時に、外はだんだん明るくなってきた、今日は良い天気だ、風も少ない、走るにはちょうどよい天気みたいだ。
西鹿島駅を6時55分発の遠州鉄道で上島まで行く(370円)、そこから歩き、会場に着いたら、たくさんの人が集まっている、自分のゼッケン(ハーフの593)の所に行き、受付を済ます、携帯で新城の中川さんに連絡を取り、その人達が集まっている、メインスタンドの方に移動する、久しぶりに会う仲間。
「大丈夫」「今日は無理しないで、参加するだけ、制限時間の1時間55分までに何とかなるら」なんて話をする。

Image1.jpg中学校時代の同級生村谷君から携帯に着信、「メインスタンドに居るよ」彼のところに行き、メインスタンドのゴール手前の目立つところに、ランニングクラブの横断幕をそつける、この横断幕は彼の手作り、ちょっと変わったやつで(一見の価値あり)人がたくさん居るマラソン会場では良い目印になる。
記録を狙う人はそろそろ、ジョギングを始めた、俺は今回、完走が第一だから、ジョギングはしないで、ストレッチくらいにしていた。
 
ハーフスタート、15分前、選手はスタート地点、第3コーナーに集まってくる、他の仲間は、前の方に行ったけど、俺は一番後ろの方に並んでいた、中川さんが隣に来てた、「最近調子悪いから、一緒に行きましょう」9時30分ハーフマラソンスタート、ゆっくり走り始める、何千人のランナーがハーフマラソン(21.097km)のゴールを目指して走り始めたのだ。

四つ池の陸上競技場を一周して、外の道路に出て、また、陸上競技場に戻ってくる、ちょっと変則的なコース、二週目の陸上競技場を抜けたら、中川さんは少しずつ、先に行ってしまった、後を着いて行こうかと思ったけれど、今日はあくまで完走、1時間55分までに帰ってくれば良いと、心に決め、ゆっくりなペースを守って走る。

その道路を登りきり、テクノ道路を横切り、ホンダ技研の正門前を過ぎる、そこからは単調な、直線が続く、まっすぐな道路をランナーたちが走っていく、その先の空に、中日新聞のヘリコプターがホバーリングしているのが見える。

自分にとって気持ちよいペース、息が荒れないペースを守って走る、頭の中はいいのか、血圧は異常に上昇していないのか、心配なことはないではない、でも今走っている自分の感覚は楽しい、走ることが楽しい、走らない人にはわからないかもしれないけれど、今こうやって走る仲間と、走れる喜びを感じながら走っている。

5㌔地点、28分、早い、この調子なら、11㌔の関門は大丈夫だろう、そのうちトップランナーが走ってくる、早いなー、ハーフの先頭だろうか、女子の先頭の人がちらほら走ってくる、見覚えのある顔も見えてくる招待選手の松田明美さんだ、これはハーフじゃない10㌔だった。

ハーフの先頭が来た、速い速い、10㌔の先頭と同じくらいな速さのように感じた、何時もそうだが、トップランナーとすれ違うとペースが乱れる。あの頑張りを見ると、こっちももっと頑張らなきゃーと思いついオーバーペースになってしまう、気持ちを抑えながら走る、まだまだ10㌔以上あるのだから。

そのうち片桐さん村谷君 太田さんと続いてくる、1時間30分をきろうかという人達だ、村谷君は公認コースだから、ここで30分をきりたいと言っていた。

P2120015.jpg0㌔の地点の看板を持っている人が、なんか見たことがある顔が、佐久間から浜名高校に行った少年だ、ボランテアをやっているんだな~「ご苦労さん」っと声をかける。

中間地点を過ぎ、残り半分、マラソンは半分からが大変なのだ、調子がいいので少しスピードを上げる、だんだん、汗も出てきた、自分の走りを見ていると調子がよく気持ちよく走れる時があったり、こんなに走っていいものかと不安になったりしていた。
「こんなことしていて、また、脳の動脈は爆ぜるぞ」っと誰かがささやく、大丈夫だろうか、あの病気をして、もうマラソンなんかやらんほうが良いといってくれる人も居たのに。

おれ自身も、マラソンなんかもう走らない、普通に暮らせればと思った、けど、退院して家に帰り、散歩をするようになり、少しずつ走るようになった、そして、12月このマラソンの申し込み締め切り、ぎりぎりに、参加申し込みをした。”もう一度、走りたい”っと言う気持ちがふつふつと湧いてきた。
走るならばハーフマラソン、それだけ長く、自分と会話ができる、そう思って申し込んだ.

P2120012.jpg走っていると、いろいろなことがある、「こんな大変なことして何が面白いんだ」「あそこのパチンコ屋でパチンコしていた方が楽しいぞ」そんなことを、もう一人の自分がささやきかける。
そんなもう一人の自分と対話しながら、最後の苦しいところを乗り越えてくる、四つ池の陸上競技場に向かって道路を下り、最後の折り返しを曲がり、陸上競技上に入ってくる、ゴールに向かって走った、1時間42分18秒。
ゴール後、振り返って、さっきまで私の耳元で囁いていたもう一人の自分に、頭を下げた、「ありがとう。また この次の大会で合おう」っと。

 

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2005年1月2日 日曜日(佐久間中学校、75同窓会)
毎年1月2日は新城のランニング仲間と初詣ラン(新城運動公園から田峰観音へ往復42km)だった。
今年は違う。半年前から、佐久間中学校を1975年に卒業した人の同窓会をやろうと、佐久間に居る人で計画をしていたのだ。今日はその同窓会当日なのだ。

天気は良い同窓会日和だ、ミーやん会長と、纐纈と早めに同窓会会場「清流荘」へ行く、10時に中部の電話ボックスの所で待ち合わせ。ユキからメールが着た、ユキも一緒に行って手伝ってほしいので、ユキの来るのを待っていた。
ミーやん会長からメール、平賀竜兄が清流荘のバスに乗り、みんなが乗ったかバスガイドをやってくれるとメールが来た。

ユキを連れて、中部の待ち合わせ場所へ、ミーやん会長と纐纈、ユキ、俺で「清流荘」へ、その前に、佐久間のconvenience store「辰美屋」によって、酒、正月限定の「冷おろし」と辰美屋の兄ちゃーが進めてくれた、清酒を買って行く。
車の中で、ミーやん会長が清流荘に「竜兄が佐久間病院で待っているので、城西に行く時に乗せていってください」と連絡する。

浦川、上市場、清流荘の方に行くと、道路が凍っている、車のタイヤがすべる、下の駐車場に車を止め、そこから荷物を持って、会場に、CDプレーヤで昔懐かしい吉田卓郎の歌を流し、ノートパソコンを持って行き、「同窓会DE、com」の説明をしようと思っていた。同窓会参加者の名前と同級生のメールアドレスをコピーを用意した。
朝作ってきた、同窓会参加者49名(生徒48名、先生2名)の名札を机に上においてもらう。

インスタントカメラ3個、を買ってきたので、A組B組C組の代表の人に渡して、その組の集合写真を写してもらおう、後は適当に、みんなの写真を写してと言おう。
会費の方をもらっていない人が、何人かいるので、ここの受付に来るように言おう。

はじめ、ゼットが来た、よくパソコンの掲示板に書き込んでくれるのだが、本人に出会うのは、25年ぶり、おっおおおーって感じだった(^_^)
次は、神谷、守屋が車で、清流荘に来た、昔の顔が、そのまま45歳のおじさん顔になっている、(自分もリッパにおさんだが)。
バスが清流荘に到着、「わーわーーーーがやがや」すごい、みんな、久しぶりの再開で、大騒ぎ、自分も、久しぶりに見る、同級生に驚くやら、感激するやら。

会費のほうは、銀行振り込みにしたので、当日集めたのは10万くらいだた。良かった、これを当日みんなの分を集めるようになったら、大変だっただろうな。

ミーやん会長の挨拶、三井副会長の乾杯の挨拶で同窓会が始まった、先生の挨拶は、乾杯の後だった、当時、A組の担任だった浅井先生は今は豊浜小学校の校長先生で佐久間は久しぶりに来たそうだ。
次の挨拶は、当時、体育の先生をしていた鈴木教夫先生お願いします、もう、わいわいがやがやで、聞いている人が居るのかなー、って状態だった。

後で聞いたら、後ろのほうは、何を言っているのか、さっぱり解からないそうだった。
ここで反省、次の時は、音響の方をちゃんと設定しなくては、それと、先生の挨拶は、乾杯をする前にしよう。

宴も盛り上がってきましたが、そろそろ、しめです、仲市(今は佐久間小学校の先生)君が指揮を取り、佐久間中学校の校歌をみんなで歌って解散した、バスに乗って帰る人はバスが出ます、二次会に行く人は、ミーやん会長が二次会会場を浦川のスナック「ノア」を予約してあります。
私は二次会に行きたいと思っていたけど、やっぱり、病み上がり、心配だから、バスで帰ってくる。

家に帰って、子供たちに、ゼットさんから貰った、ベトナムのお土産をやる、ウエハースはウエハースの味がした、もうひとつのお土産は、「うーーん」って味だった、ベトナムの人の味だ(^_^)
次の日の朝、「清流荘」に走って車を取りに行く、清流荘に着いたのが、7時半ごろかな、部屋に行ったら、ゼットさんはもう出掛けた後だった、コウリュウは爆睡中だった。
 

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退院後、次の日、妻と二人で夕方、家の前の散歩コースを歩くようになった・・・。
ところが、体のバランスが取れないでいる私は、妻の歩くスピードについていけない。16日間の病院生活2週間のベットの上で安静は、いろいろな筋肉が衰え、歩くこともままならない身体になっていたのだった。
ゆっくりゆっくりその散歩コース(佐久間部品の周り)を一周する。
退院後、夕ご飯を食べると、妻と二人でその散歩コースを周るのが日課になった、日一日と歩く距離も伸び、歩く姿勢、歩くスピードも早くなってきた、体重のほうも、退院後57㌔だったのが、 1ヶ月で60キロ台に戻ってきた、外に出る時は、携帯電話を持って出る、もし何かあったときのため。
外に出て歩くのは気持ちが良かった、家でテレビを見ているより、外に出て歩く、以前、走っているときより、たくさんのことを感じる、景色、川の音、昔通った中学校の様子など。
6月30日
成人病検診を聖隷病院で受ける、3ヶ月前に頭の手術をしたのに大丈夫かなー。血液検査、心電図、胃のレントゲン、くも膜化出血をする前には貧血気味だったけど、今回それが元に戻っていた、手術前の血色素が11.0くらいと女性並みだったのが今回は14.6だった。
最後の病院の先生の問診の時にくも膜化出血になった話をする、(先生)「少しずつ大きくなった、動脈瘤がたまたま、破裂したのです、今は大丈夫なのでしょう」(私)「はい」「スポーツのほうはしていいですか?」(先生)「これからの40才台、血圧の管理は大事です、軽い運動はやった方がいいです4~5㌔くらい」(私)「マラソンは」(先生)「無理はよした方がいいでしょう」(私)「・・・」

朝、散歩の時、少し走ってみる、100mくらいか、走れる。
夏になり、朝は佐久間中学校に行くようになった、佐久間中学校まで歩いていき、そこのグランドを軽く走って一周して帰る、それを2周3周と増やしていった。
9月25日
朝 佐久間中学校に行くと、相撲取りのおじさんが稽古をしていた。
三井さんだ、昔、ここに越してきて、走るようになり、この人を見て、佐久間には変わった人が居るもんだ、と思ったけ。寒い朝も、ふんどし一丁で稽古をしている。
この人は、相撲の稽古をやっており、初めて会った時から、ギンギン、ムキムキですごいのだが、小学校の時には、小児麻痺で歩けない時があったそうだ、そんな時があり、今の自分がいるんだな。
44歳の自分にとって、60才以上のこういう人達は目標であり目指す人である。

少しずつ走れるようになり始めたころ、佐久間駅伝の話があった、「ハッチ&花の舞」で走ったことがある、走らなくていい、監督で名前を出しておく、という話があった。
そのときに「第一回浜松マラソン」の申し込み用紙が手に入った、第一回目だ、浜松の町の中を走ってみたいな~。でも今回はまだ・・・・、と思っていた。
12月20日、諦めていた、その「浜松マラソン」の申込用紙が、また手に入った。そして21日その申し込みを出した。
その日から、ゆっくりでもいいから長い距離を走ろうと思った。

 

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『13日にくも膜化出血のため入院。今日、16日繰りに半場に帰ってきた。いろんな人に心配をかけた、俺は44才、子供は二女がまだ中学生、自分の子供が働くようになるまでは・・・、生きていて良かった走れなくても、空手で黒帯が取れなくても、生きていれば良いときも楽しいことも来る。16日間いろいろな事、いろいろな人に出会った感謝と言う言葉を忘れないようにしよう』
退院してきて、家に来て、寝る前に書いた、俺の4月29日の日記だ。この日は、病院から、父の車で、家に帰り、長く車に乗っていたので、疲れたのか、夜九時前には、寝ることにした。

次の日、朝五時に目が覚め、外に散歩に出た、携帯電話を持って、ゆっくり歩く、いや ゆっくりしか歩けない。
ひと月前には、早朝ジョギングに向かう時に歩いていた道、でこぼこの道がうまく歩けない、自分の体を支えるのがやっとだ。
いつもの、俺のジョギングコースを歩く、朝の空気は気持が良い、天竜川を見て、佐久間の景色を見て、またこの景色を見れる自分に感動した。川の流れる音を聞き、「もう少し、小学校の裏まで歩いていて行こうか」、自分に聞いた。いや、今日はここまでにしよう。
http://run2.ina-ka.com/www3/Untitled3.html

その日の昼インターネットで、「くも膜化出血」を調べた。なんと恐ろしい病気なんだ、見なければ良かった、外に出て一人になりたくなった。遠くの山を見ていた。「これからどうならるのだろう・・・」その時、○山さんから電話が来た、その○山さんの父親もくも膜化出血だったらしい、病院に運ばれ、家に帰ってきて車椅子の生活だったけど、脳梗塞を併発して亡くなったらしい。
その○山さんが、「勉ちゃは、身体のことに気を使い、鍛えていたし、タバコも吸わないので、ここまで快復したんだよ」と励ましてくれた。自分がへこんでいる時、○山さんの電話は本当に励みになった。

5月1日、相月のお寺にある、お墓を拝みに行く。
半場に引っ越す前に、私はこっちの方に住んでいた、半場より山の奥深いところだ、新緑の山が、お茶畑が目にまぶしかった、お寺の和尚さんが、お墓で草取りをしていた「先日、救急車で運ばれた様だが、いかいだね?」「何とか無事に帰ってこれました、ご心配かけました」和尚さんは、私が佐久間病院に運ばれた時に、佐久間病院にたまたま居たらしい。

家に帰ってきて、暇で、やることがない、いつもなら、ゴールデンウイークは自転車で外に出ていたのに。本を読むことにした、テレビを見るより、パソコンでネットサーフィンするより、気が休まる。昔読んだ本「人生の目的」を読み出した、30歳代半ばでこの本を読んだその時と、今、とでは、またちがう、この本の、内容が心に染みる、その中の一部を書かせてもらう、
『人生に決められた目的はない、と私は思う。しかし、目的のない人生はさびしい。さびしいだけではなく、むなしい。むなしい人生は、なにか大きな困難にぶつかったときに、つづかない。人生の目的は「自分の人生の目的」をさがすことである。自分ひとりの目的、世界中の誰ともちがう自分だけの「生きる意味」を見出すことである。へんな言い方だが、「自分の人生の目的を見つけるのが、人生の目的である」と言ってもいい。私はそう思う。そのためには、生きつづけていてこそ・・・』
こんな時、自分「人生の目的」、目標をと思い、中学の時の同窓会をやろうと思ったのだった。

そういえば病気する前に、佐久間に居る人だけで、同級生のやっているすし屋「江戸芝」で飲み会をやった、その時も、その話が出た。とりあえず、一人で佐久間中学校の卒業アルバムを見て住所録作りを始めた。

44歳の春。クモ膜化出血になり、なにもやることもなく自暴自棄になっていた時に、職場からの帰り道、中学校の同級生に会い、同窓会をやらないかと言われ始めた。佐久間中学校同窓会。
目的、目標ができたら、なんか気分がスーっとした。
 

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プロフィール
HN:
しんしん
年齢:
65
性別:
男性
誕生日:
1960/02/20
趣味:
走ること・空手・詩吟
自己紹介:
12市町村が合併して出来た新浜松市
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。

合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。


袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns

”しんしん”55歳  
2015/11/25現在。。。
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