あれから幾日たったのだろう・・・。
私の記憶にあるのは、大部屋の出入り口側のベットの上だった。右手には点滴用のカテーテルをつけていた。ふらふらする、出された食事も、ミキサー食で味もそっけもなかった。大部屋で付き添いの人がいないときに、洗面台に行き、鏡を見たら、左の頭に絆創膏をつけた無精ひげの、自分がいた。
これからは、点滴と一緒に、トイレも行く、おしっこは、する度に、出した量を尿瓶に入れ、量を測り、記録していく、水・ジュース類(口から入れる水分)も量を測り記録していく、脳内の水分が不足するのが怖いので水分はたくさん取るようにと言われた。
そのうち病院側から、2人部屋の方に部屋を変わってほしいといわれ、その二人部屋に移動する。前の部屋とは違いテレビもあるし快適な部屋。その代わり部屋代も高い。同室の人は、85歳の脳梗塞で入院している人だった。三ケ日でみかん農家をやっている人だそうだ。
この部屋に来たときには体もずいぶん快復してきた、点滴をぶる下げて病院内を移動できた。
病院下の玄関付近で「ハーモニカコンサート」をやるっと放送があり。看護士さんに断って、そのコンサートを聴きに行く。その、ハーモニカを吹いてくれた人は、脳梗塞で倒れ、もう好きなハーモニカも吹けないと思ったけど、リハビリにと少しずつ練習してやっとここまでなった、と言っていた。
入院している時に、いろいろなことを考えた、なぜ、俺は、この病気になったのか、走りすぎなのか、もう自分は、走ることができないのか、フルマラソンでは3時間30分を切ること、一回でいい、フルのトライアスロンに参加すること、そんな夢があった。それが今は、歩くこともままならない、明日はもしかして、何らかの後遺症が出るかもしれない、そんな恐怖が何時も付きまとった。
4月18日その「小笠・掛川マラソン」を走った、ランニング仲間が、病院に来てくれた、真っ黒に日焼けした姿は、今日のレースを物語っていた。
同級生のMさんも来てくれた、Mさんは、「小笠・掛川マラソン」のT シャツをもって来てくれた。そのほか、親戚の人達、近所の人達・・・、色々な人に心配をかけた。隣のおじさんが「人生長く生きているといろんなことがあるぞ」と言っていた、たしかにそうだと自分の中で納得していた。
4月26日脳外科の先生たちによる、検診があった、3人の先生が来て、メガネをかけている先生が、「順調のようだね、脳血管撮影検査の方は、何時するのだね」というような会話があり、早くしないと、ゴールデンウイークまでに退院できないという話になっていた。主治医の先生は火曜日と木曜日が当番、急遽、次の日、27日に、動脈にカテーテルを入れて、脳の血管に造影剤を入れて、撮影する脳血管撮影検査をやることになった。
この検査をするにあたって、親近者の誓約書が必用になるのっで、妻に来るようにたのむ、それにしても急だった、そんなに、急いでやるので、脳血管撮影検査とはどんな検査だか、よく解からなかった。それは、腕の動脈から、カテーテルを通して、頭の血管付近までもって行き、そこで、造影剤を頭の血管に入れ、レントゲンでその血管の写真を撮るという分けだ。
前開きの手術着に着替え、ふんどし見たいなのをはき、右手を板で固定して、ストレッチャーに乗って、1階の手術室に行く。
手術室に入いると「見学の学生がいますがいいですか」と言われる。もうどうにでもしてくれ、まな板の上の鯉の状態だ、麻酔は、カテーテルを入れる、部分だけなので、その他の部分は、はっきりしている、身体を、ベルトで固定され、顔は上しか見れない、看護士さんが様態を聞いてくる、右手で何かやっている、今、カテーテルが入っているところだろうか、時間が長く感じる、ある先生は普通に世間話をしている、普通の職場って感じか、こっちは恐怖におののいているのに。そのうち、頭の中が、カーっと熱くなる、先生や看護師さん達が、忙しく何かやっている、そのうち、手術室の外から見ていた人達も出てきて、何か騒ぎ出した、「どうなっているんだ」「もう一回やって見ろ」なんだなんだ、何が起こったんだ、医療ミス、手術の失敗、頭の中ではそんなことが渦巻いていた。看護師さんも何処にいるのかわからない、「ど・う・し・た・んですか?」震える声で聞いてみた、そしたら、マスクをかけて先生が、「機械の調子が少し悪いんです、検査の方は順調ですから」と言ってくれた。何時間かかっただろうか、カテーテルを抜いて、検査が終わった、最初言っていた時間より長くかかっていたらしい。昼ごはんがなかったので、3時にパンと牛乳が出た、忘れられないパンの味だった(生きてて良かった)。
検査の結果は、その日の夕方には出た、先生から説明を受ける、「クリップはちゃんと付いているようです。機械の故障の方は、血管の写真を撮るのですが。その写真を、もっと解かりやすく、画像にする機械を最近買ったのですが、それが調子よくなかったのです。」との説明があった、手術後に撮った写真では、私たちでも解かるような写真だった。クリップもちゃんと付いているのがよく解かった、そこで先生が「もう、退院してもいいです、何時退院しますか、明日にでも?」といってきた、「明後日くらいには・・」話が終わった。
部屋に帰って、家に電話をした、「検査の結果は良かった、明日にでも退院できるって、明日着れる?」次の日、4月29日(みどりの日)に退院することに決めた。
入院生活16日、聖隷病院の人達にはいろいろお世話になりました。掃除に来ていた「アタゴ」のおばさん、調理師の皆さんには直接会わなかったですが出された食事は残さずに食べました。看護士さん達には、励まされました。
明日退院するけど、でも、まだまだ、ふらふらする。頭を手術から12日しかたっていないもんなー。
29日の朝、今日退院できる、今日は暦の上では先勝、午前中に退院することにする。退院の手続きをして、病院の外に出る、久しぶりに吸う、外の空気だ、スリッパしかないので、履物を買わなければ、駐車場で携帯の電源を入れる、友達に電話をかけ、今日退院することになったことを伝える。父の車で、佐久間へ帰る、浜松からだんだん、山のほうに向かう、山の緑がまぶしい帰ってきた、俺はやっぱり、山のほうがいい、落ち着く、家に着き、居間に座ると、なんともいえない気持ちになる、ひさし繰りに良く歩いたせいか、疲れた、その日は、眠りが深かった、目がつぶり疲れるほどの眠りだった、病院ではよく眠れていなかったんだろう。
2003年(平成15年)一年の始まりの日記には書いてあった、私43歳の時の言葉。
「NHK学園専攻科(社会福祉学科)今年は老人ホームでの実習がある。
そして来年の冬には、介護福祉士の国家試験。今年はその目標に向かって一生懸命努力すること。
空手の方も去年の末に3級になった、こっちの方も稽古納めの時に先生が言ったように、あわてず、2年3年後に初段と思って稽古をしていこう。
マラソンは去年、袋井マラソンを脚が痛くて参加できなかった。
今年は、まずは完走を目標にしよう。遅くても良い、やっぱりマラソンは完走しなくては。
トライアスロンは最近忙しくやれないけど水泳だけは続けて行きたいな~。
自転車も、夏の豊橋富山サイクルマラソン(180km)に参加したいな。」
介護福祉の勉強も、空手も、マラソンも自転車も。
それなりに順調に、頑張っていた。
2004年(平成16年)私は、小笠・掛川フルマラソンで3時間30分を切りたいっと目標を書き。介護福祉士の試験も合格できるよう頑張ると書いていた。
その年から、朝は、テープレコーダーに録音した介護福祉士問題の過去問を聞きながらのジョギングから始まった。
空手の方も中学校の子供達は初段を取得しに静岡の本部に行くようになっていた。
私は空手は、ボチボチ稽古、あわてずユックリと思っていた。
1月25日の朝5時に車で介護福祉士(学科)の試験会場の名古屋の大同工業大学に行く。
介護福祉士の試験、大きな学校内は、試験会場がアッチコッチに分かれ、迷路状態。やっと見つけた指定された校舎に行き教室に入ると・・・・受験番号の席がないのではなっか?
係りの人に聞き、手違いが分かり、一安心。・・・でもナンカいや~な予感(T_T)
ところが試験の方は、案外順調。NHK学園での練習問題と似たようなのが沢山あって、時間的にも余裕があり、問題の読み直しも2回くらいできた。
名古屋から車で帰ってくる途中、新城運動公園で30分ジョギングをして、家に帰ってきたのは7時30分だった。
その年の、1月29日の日記に、天竜皮膚科クリニックに行ったと書いてあった。足の指先が赤くはれていたのだ。先生に診てもらったら「しもやけです!」即答された・・。
朝のジョギングで霜焼けになってしまったのだろう。その日から靴下二枚はくようになった(^◇^)
介護福祉士(学科)試験の合格通知が家に来た。
次は、実技試験だ。
2月15日
磐田の東海文化専門学校に介護福祉実技模擬試験に行ってきた。
おるおる、100人くらい、男性は3人。
実技のしやすい服装、前明きはダメ。動きやすい靴、運動靴がベター。爪は切り、腕時計は外す。名前をチャンと言い。自分のやることを利用者に説明する。実技をする前に介護の内容を書いてあるので、それを見てシュミレーションする。
実技の試験まで残り20日 頑張るぞ。
2月20日
介護福祉士実習ビデオを見ながら、最近痴呆が進んで着た母を相手に練習をしてみる。
なかなか、思うようには行かない。
2月28日
水窪のデイサービスセンターに行き、自転車仲間の若林さんがそこに勤めているので、若林さんに介護技術を教わりにいた。介護者を立てかける時のボディーメカニックスとか、車いすの使い方、ベッドメーキング。
3月7日
介護福祉士(実技)試験当日。
場所は名古屋の同朋大学・高等学校 今回は街の中の試験会場なので、電車で行くことにする。
朝5時29分の飯田線で中部天竜駅を出発した。
試験会場には、朝の9時には着いた。近くの公園で本を開き勉強、しかしこの日は寒かった。
同じような、本を開いているおばちゃんが、富士市から来たそうだ。
その人と、喫茶店に入り、コーヒーを飲みながら、12時の集合時間まで時間をつぶした。
名古屋の同朋大学の体育館で、実技の順番を待つ。緊張している時だ、私は40歳の時走った、青梅マラソンのシャツを勝負服として、介護福祉士実技の試験に挑んだ。
待合室で、試験課題を渡される。
〖試験課題〗
伊藤宏さん(76歳)は右半身の不全麻痺があり、右手を使うよう心がけています。移乗や移動には一部介助が必要です。
居室でいすに座っている伊藤さんを、レクリエーションのため、車いすで白線に沿って隣室に移動介護してください。車いすのまま、ボール・お手玉・色紙のどれか一つを使って一緒に活動し、途中であっても2,3回で終えてください。
なお、移動の途中には段差があります。伊藤さんは、「はい」、または「うなずく」のみです。
(試験時間は5分以内です。)
介護者は、専門学校の男子生徒だった。
緊張した5分間は、何とか終わり、同朋大学・高等学校を後にして名古屋から佐久間に帰った。
やるだけのことはやった。後は結果を待つのみ まさに「人事を尽くして天命を待つ」心境だ。
3月22日
豊橋ハーフマラソン。
最近、貧血気味で調子が悪い。折り返し地点まではゆっくり走る。そこから少しスピードを上げる。1時間40分01秒。
4月4日
秋葉ダム桜マラソン
この日は、なんと10kmを、39分50秒。
今まで、貧血気味で、練習も少し控えていたのに・・・この分なら今年の「小笠・掛川マラソン」・・・・狙えるかかも(^◇^)
4月13日(火)
いつものように、自転車で出勤。
6時半に仕事を終わる。
今日は、空手の日。佐久間小学校の体育館へ自転車で向かう。
何時も様に、挨拶をして空手の稽古を始める。
他の人は、組手の稽古をしている。先生に、中学校の生徒との組手と言われ、緊張しながら組手を始める。最初 少しづづ、なんか頭の遠くのところが・・・・・。
お・か・し・い。
先生に行って、休憩していることにした。
ますます、頭が痛くなってきた。
今まで経験したことのない頭痛だ。
家の人を呼んでもらう。
自分で携帯から、119番「頭が・・・普通の痛さではありません。今車を呼んで佐久間病院に行きます。そのことを伝えてください」
佐久間病院で、CTを撮り、「血が出てますね・・」
夜なのでドクターヘリは飛ばない、救急車で浜松の聖隷病院に転送されたのだった。
当時の仕事が、鉄工場での熱処理の仕事だった。
その仕事で、色々な免許証を取得するための勉強をさせてもらった。
乙四危険物取扱者・特定化学部室・有機溶剤 等。
また、働く人々の技能を検定し、国として証明する技能の国家検定制度があり。それも挑戦するようになっていった。
そして、「金属熱処理」「金属材料試験」の検定に挑戦して、技能士の称号を会得したのだ。
合格証は、二級には県知事の名前。一級には労働大臣の名前が入っていた。
有る日、佐久間図書館で国家資格の本を眺めていたら、「介護福祉士」の資格が目に入った。
介護福祉士の免許を取るには、介護現場での3年以上の経験が必要。また、福祉の専門学校での勉強を終え、試験を受け所得する方法もある。
私は、通信教育 NHK学園の「社会福祉学科」を選び、平成13年42歳で勉強を始めた。
佐久間図書館で資格の本に出会ってから、5年たった春の事だった。
私の家内は、青森県六ヶ所村の人。
1996年、家内の実家に里帰り。
六ヶ所村は、例の原子力を受け入れ、財政的に裕福になった地域だ。
そこの、六ヶ所村の公報を見ていたら。
1997年に「第一回 下北国際トライアルロン」開催との記事を見つけた。
スイム 2 km 1時間15分
バイク 122 km 5時間45分
ラ ン 22.2 km 3時間00分
計 146.2 km 10時間00分
バイク 122kmの距離には、少しビビッタが、よ~っしやるぞ~(^◇^)
そんな気持ちにした。
そして私は、1998年 平成10年7月26日の第2回下北国際トライアスロンに参加したのだ。
総合順位 336位
Swim 0時間25分57秒
Bike 5時間13分54秒
Run 2時間14分06秒
総合タイム 7時間53分57秒
絶好調の時の思い出(*^^)v
「トライアスロンをやってみないか?」
中学校時代の同級生、ラン友のユキが俺に話しかけてきた。
フルマラソンで、死ぬ思いをしてそのうえに自転車に乗ったり、泳いだるする・・・・・。
「無理・無理・・・絶対無理・・・泳げないし!!」
そう即答したけど・・・。
やってみたい気持ちは少し有った。
1993年の春、小笠・掛川フルマラソンを走ろうと、掛川に行ったときに、ユキから月刊トライアスロンをもらった。
勤めている会社も暇になってきて、定時退勤になってきた。
湯谷温泉に温水プールができる。なんかトライアスロンをやる、環境が整ってくるではないか。
会社を休んで、その湯谷温泉「ゆーゆーアリーナ」へ行って、スイミングスクールの一日コースを体験することになったのだ。
おばさん数人と一緒に、25mプールで、け伸びから教えてもらった。
この時、しんしん生まれて初めてクロールで息継ぎを覚えたのであった。
練習の甲斐あり、次第に泳げる距離も伸び、伊良湖トライアスロンを申し込んだのであった。
スイム(2.0km)バイク(55.0km)ラン(20.0km)トータル(77.0km)
やっぱり心配なのが、スイム。
足が着く安全んなプールでは、2kmぐらいは何とか泳げるけど・・・・・海・・はたしてどうだろうか?
夏休みに、車で田原町まで行って、そこから自転車で伊良湖まで行くことにした。
伊良湖海水浴場に着く、見渡す砂浜・・・どこまで泳ぐんだろう・・・・。
平成7年9月10日(日)’95トライアスロン伊良湖大会
もう後には引けない。
前日に、伊良湖に行き受け付けを済ました。後は、伊良湖ビューホテル前で車中泊することにする。
トライアルロンはマラソン大会と違い、前夜祭がある。
外では花火も上がり、私のテンションも上がってきた。
大会当日、ユキがわざわざ私の初トライアスロンを見に来てくれたのではないか。
バーコードでチェックをして、スイムスタート枠内に入ると、ドキドキしてきた「やっぱ止めよかな~」そんな気持ちがよぎった。
花火の合図で、皆泳ぎ始める。私は一番最後にユックリ泳いで行った・・・・もう2km足は地面に着かないのか・・・?
300mぐらい泳いで、沖に出ると、遠浅なのか足が・・手が砂に届くではないか・・・。
深いところでは漁船が、我々アスリートの安全を監視している。
泳ぎ終わり、バイクに、心配だった泳ぎが何とか終わった。後は体力の限り自転車を漕ぎ出すだけ。
スピードが出る、バイクは気持ちがいい、風を肌で感じる。
バイクを終え、20kmのラン。
伊良湖の恋路が浜を走る、景勝観光地である。
やっとの思いでゴール。
ゴール後、大きなプールで身体を冷やした。
私の初トライアスロン。
スイム(47分52秒)バイク(1時間38分22秒)ラン(1時間48分45秒)合計(4時間14分59秒)
フルマラソンと同じくらいの時間を使って運動しているけど、フルマラソンより体へのダメージは優しい。
身体全体が疲労しているって感じだ。
初フルは、1991年10月の「磐田・大藤マラソン」。
4時間くらいで帰ってころるかな・・・。
そんな思いで、スタートした。
ここ、磐田・大藤マラソンは、磐田原台地の茶畑の中の単調な10kmのコースを4回まわってフルマラソン(42.195km)になっている。
ハーフまでは、気持ちよく走れたのだが、それからのハーフ。足が攣ってくるは、歩く集団に迷わず仲間に入れてもらうようになってきた。
最後の10km、浜松の年配ランナーと一緒に歩いていた。
その人は、59歳 「来年は職場を退職する。50代の記念にフルマラソンを走ってみようと挑戦」と話していた。
最後の直線100m。
「最後は、気持ちよく走ってゴールしよう」と二人で手を挙げて、ゴールテープを切った。
タイム 4時間51分04秒 。
PS
私を待っていた長男(幼稚園)は同じくらいの子供と大藤小学校で遊んでいたらしい。その子のお父さんは、3時間くらいで帰ってきて長男とさよならしたらしい。
家族は、そろそろ、家のお父さんも帰ってくるだろうと、ゴール近くでカメラを片手に待っていたのだが、帰ってこない・・・。
その日から、家族は私のマラソンには着いてこなくなった(T_T)
小学校は城西小学校、中学校は佐久間中学校。
どちらも、横吹の山を下り、飯田線の相月(あいづき)駅から飯田線に乗って通学していた。
佐久間中学校は、相月駅から飯田線に乗って、峰トンネルを抜けると次の駅 佐久間駅すぐ前にあった。
当時 佐久間町には 佐久間中学校 浦川中学校 山香中学校と三校あった。
その 佐久間中学校近くの半場に新しい家を建ち、引っ越すことになったのだ。
私 29歳の春 長男も生まれ、二児の父となり、半場を終の住処としたのだ。
水窪にある職場までの通勤には少し遠くなるけど、車がマイカーが家の前まで乗ってこられ、家の前で洗車ができる喜びは横吹に住んでいた者にとってはすご~い感激ものだった。
週末に、仕事を終えて帰ってきて冷蔵庫を開けると、ビールがない!!、そんな時も、近くの酒屋で缶ビールを買ってくる。
横吹では考えられない便利さ(^O^)
しかし、その便利が、生活習慣病を読んでいるのも知らないと・・・。
私の家族より前に、横吹を出た有る人が「横吹を出ると、太るぞ~」といった。
1990年3月に半場に越してきて、6月に家の前をジョギングするようになった。
私のジョギング人生が始まった。
佐久間駅伝 北遠駅伝を走るとき知り合った。年配の人 幸兄(ゆきに~)この人は、昔 のこぎり等を研ぐ仕事をしていて、砥石が割れ重症を負ったそうだ。
その時、死ぬか生きるかの瀬戸際の状態だったそうだ。その病が治り、健康の有りがたさを知り走り始めたと言っていた。
その、幸兄の紹介で走っった、秋葉ダム桜マラソン、10kmを44分40秒 116番目にやっとの思いでゴールしたのだ。
次の年、の秋葉ダム桜マラソンには、幸兄は用事が出来て参加できない、誰も仲間がいない会場、早く走り終わり家に帰って、モツでビールだ!!っと思ってスタート。
スタートして500mくらいのところで、私を呼ぶ声が・・・・佐久間中学校当時の同級生が後ろから走ってきた。
「どうしだだいや!」「おらも今年で30歳 健康の事を考えにゃ~」
次の年の、1991年「磐田大藤マラソン」私の初フルになる。
ハーフマラソンは、浜名湖クォーターで一回走り、1時間37分57秒だった。
後は、10kmを数回で、なんと初マラソンに申し込んでしまったのだ。
家族を連れ、自分なりには、4時間前後で・・・って考えていた。
つづく
昭和35年 佐久間ダム完成から3年後 私はここ横吹(よこぶき)に生まれた。
横吹(よこぶき)は「塩の道 秋葉海道」の道沿いに車を走らせていると、水窪に行く途中の山の斜面に点在する村々がある、そのひとつなのだ。
天竜川と水窪川の合流地点の西渡(にしど)から塩の道を来ると、瀬戸(せと)・麻庄(ましょう)・立原(たっぱら)・横吹(よこぶき)となる。
生まれた時から、横吹(よこぶき)での生活。幼稚園から横吹(よこぶき)の坂を上り下りして学校に通っていた。
ほとんどの家には子供がいて、村の中央の家(屋号ホツ)に集合して集団登校をしていた。
冬の雪が降る日は、坂道が滑る。父親が長靴をはいた足に藁縄を巻いてくれ滑り止めにして山を下るのだった。
朝起きて家の前が雪でも、山を下っていくと雨になっていたこともある。
中学生になり帰りが遅くなると、明りのない山道は電気がないと歩けない。鞄の中には懐中電灯を忍ばせて行くようになった。
今考えると、毎日が登山の様な生活だったのだ。
学校帰り、飯田線の相月駅から見上げた横吹(よこぶき)、あそこまで登るのか・・・・・・。
駅のすぐ近くの家が羨ましくも思えた。
横吹(よこぶき)の道を登っていくと、途中分かれ道が、右にいくと山道、左に行くと村道。山道はその名の通りスギ林の中。村道は、横吹(よこぶき)の村の中を行く道なのだ。
横吹(よこぶき)の家にはその家の屋号がある。"しんもう"にし"ホツ"おうど"いどばた"はまいば"てらくぼ"おおしも"みなみ"しんや"ぎよんど"わぜ"私の家の屋号は"しんや"横吹では私はしんやのつ~っと呼ばれていた。
横吹のガキ大将が名付けたのだ。他にも おおしものつ~。ぎよんどのつ~。って子もいたっけな~。
向かいの山が、近くまで迫り、平らなところは、段々畑の少しの広場。
そんな、狭い場所での草野球。
家の前からは、遠く竜頭山も顔をのぞかせていた。
そんな横吹を私は、中学校を卒業し、出ていった。
大空をトンビのように飛んでみたい。
そんな事を、横吹での竹馬の友、あきちゃんが私に言うのだった。
私20才の頃。
しばらくして二人で、愛知県一宮市のハングライダーショップを尋ねることになった。
そのショップのハングライダースクール「ロコ」、事務をしている女の人が丁寧に教えてくれたハングライダーのこと、私も飛んでるよってこと。
そのショップ岐阜県の伊吹山でハングライダースクール行っていた。初めて見るハングライダー。
年をとった人も、女の人も空を飛ぶための練習をスキー場でしていたのだった。
帰りにまたショップによって、あきちゃんは入会金を納めた。私は「考え中」と言って入会はしなかった。
仕事は、四日働いて二日休みの日曜日が関係ない職場。休みの日には何するでもない、パチンコくらいか。
そんな空いた日、ハングライダーをやろうと、伊吹山に行くようになってきた。
休みの日には、伊吹山一合目のスキー場で講習の日々になっていたのだ。
買った機体は「はやぶさ」その機体で伊吹山五合目から初フライト。
ハングライダーに必要な計器類、スピー時計・バリオメーター。他に安全のためパラシュートも備えなければならない。
何しろお金がかかった。
機体も、滑空比の良い新しい機体が出てきて、どうしても新しい機体がほしくなってくる。
次に買った機体「アトラス」(42万円)実に安定した良い機体だった。
三河地方の空を飛ぶ仲間もでき、蒲郡の五井山や、田原の蔵王山などに通った。
友達も、謙さん、ヒロくん、中根さん、中川さん・・・と楽しい仲間が増えていった。
謙さんの車キャラバンで、長野の車山や静岡朝霧高原にも連れて行ってもらった。
そんな仲間が、もっと新しい滑空比が良い機体に変えていくのだった。
私は、どうしようかと悩んだ。新しい機体を買って夢を追い続けようか、結婚して田舎に帰ろうか・・・・。
その年の冬、田原の蔵王山の横の山「衣笠山」から最後のハングライダーでの滑空。
今の妻が車でついて来てくれた。
たった15分足らずの素っ飛びだった、20歳から27歳の冬まで熱く燃えたハングライダーをしばらくお休みすることに決めた日だった。
その後 機体「アトラス」は横吹に運んで行ったのだった。
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。
合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。
袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns
”しんしん”55歳
2015/11/25現在。。。
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