あれから幾日たったのだろう・・・。
私の記憶にあるのは、大部屋の出入り口側のベットの上だった。右手には点滴用のカテーテルをつけていた。ふらふらする、出された食事も、ミキサー食で味もそっけもなかった。大部屋で付き添いの人がいないときに、洗面台に行き、鏡を見たら、左の頭に絆創膏をつけた無精ひげの、自分がいた。
これからは、点滴と一緒に、トイレも行く、おしっこは、する度に、出した量を尿瓶に入れ、量を測り、記録していく、水・ジュース類(口から入れる水分)も量を測り記録していく、脳内の水分が不足するのが怖いので水分はたくさん取るようにと言われた。
そのうち病院側から、2人部屋の方に部屋を変わってほしいといわれ、その二人部屋に移動する。前の部屋とは違いテレビもあるし快適な部屋。その代わり部屋代も高い。同室の人は、85歳の脳梗塞で入院している人だった。三ケ日でみかん農家をやっている人だそうだ。
この部屋に来たときには体もずいぶん快復してきた、点滴をぶる下げて病院内を移動できた。
病院下の玄関付近で「ハーモニカコンサート」をやるっと放送があり。看護士さんに断って、そのコンサートを聴きに行く。その、ハーモニカを吹いてくれた人は、脳梗塞で倒れ、もう好きなハーモニカも吹けないと思ったけど、リハビリにと少しずつ練習してやっとここまでなった、と言っていた。
入院している時に、いろいろなことを考えた、なぜ、俺は、この病気になったのか、走りすぎなのか、もう自分は、走ることができないのか、フルマラソンでは3時間30分を切ること、一回でいい、フルのトライアスロンに参加すること、そんな夢があった。それが今は、歩くこともままならない、明日はもしかして、何らかの後遺症が出るかもしれない、そんな恐怖が何時も付きまとった。
4月18日その「小笠・掛川マラソン」を走った、ランニング仲間が、病院に来てくれた、真っ黒に日焼けした姿は、今日のレースを物語っていた。
同級生のMさんも来てくれた、Mさんは、「小笠・掛川マラソン」のT シャツをもって来てくれた。そのほか、親戚の人達、近所の人達・・・、色々な人に心配をかけた。隣のおじさんが「人生長く生きているといろんなことがあるぞ」と言っていた、たしかにそうだと自分の中で納得していた。
4月26日脳外科の先生たちによる、検診があった、3人の先生が来て、メガネをかけている先生が、「順調のようだね、脳血管撮影検査の方は、何時するのだね」というような会話があり、早くしないと、ゴールデンウイークまでに退院できないという話になっていた。主治医の先生は火曜日と木曜日が当番、急遽、次の日、27日に、動脈にカテーテルを入れて、脳の血管に造影剤を入れて、撮影する脳血管撮影検査をやることになった。
この検査をするにあたって、親近者の誓約書が必用になるのっで、妻に来るようにたのむ、それにしても急だった、そんなに、急いでやるので、脳血管撮影検査とはどんな検査だか、よく解からなかった。それは、腕の動脈から、カテーテルを通して、頭の血管付近までもって行き、そこで、造影剤を頭の血管に入れ、レントゲンでその血管の写真を撮るという分けだ。
前開きの手術着に着替え、ふんどし見たいなのをはき、右手を板で固定して、ストレッチャーに乗って、1階の手術室に行く。
手術室に入いると「見学の学生がいますがいいですか」と言われる。もうどうにでもしてくれ、まな板の上の鯉の状態だ、麻酔は、カテーテルを入れる、部分だけなので、その他の部分は、はっきりしている、身体を、ベルトで固定され、顔は上しか見れない、看護士さんが様態を聞いてくる、右手で何かやっている、今、カテーテルが入っているところだろうか、時間が長く感じる、ある先生は普通に世間話をしている、普通の職場って感じか、こっちは恐怖におののいているのに。そのうち、頭の中が、カーっと熱くなる、先生や看護師さん達が、忙しく何かやっている、そのうち、手術室の外から見ていた人達も出てきて、何か騒ぎ出した、「どうなっているんだ」「もう一回やって見ろ」なんだなんだ、何が起こったんだ、医療ミス、手術の失敗、頭の中ではそんなことが渦巻いていた。看護師さんも何処にいるのかわからない、「ど・う・し・た・んですか?」震える声で聞いてみた、そしたら、マスクをかけて先生が、「機械の調子が少し悪いんです、検査の方は順調ですから」と言ってくれた。何時間かかっただろうか、カテーテルを抜いて、検査が終わった、最初言っていた時間より長くかかっていたらしい。昼ごはんがなかったので、3時にパンと牛乳が出た、忘れられないパンの味だった(生きてて良かった)。
検査の結果は、その日の夕方には出た、先生から説明を受ける、「クリップはちゃんと付いているようです。機械の故障の方は、血管の写真を撮るのですが。その写真を、もっと解かりやすく、画像にする機械を最近買ったのですが、それが調子よくなかったのです。」との説明があった、手術後に撮った写真では、私たちでも解かるような写真だった。クリップもちゃんと付いているのがよく解かった、そこで先生が「もう、退院してもいいです、何時退院しますか、明日にでも?」といってきた、「明後日くらいには・・」話が終わった。
部屋に帰って、家に電話をした、「検査の結果は良かった、明日にでも退院できるって、明日着れる?」次の日、4月29日(みどりの日)に退院することに決めた。
入院生活16日、聖隷病院の人達にはいろいろお世話になりました。掃除に来ていた「アタゴ」のおばさん、調理師の皆さんには直接会わなかったですが出された食事は残さずに食べました。看護士さん達には、励まされました。
明日退院するけど、でも、まだまだ、ふらふらする。頭を手術から12日しかたっていないもんなー。
29日の朝、今日退院できる、今日は暦の上では先勝、午前中に退院することにする。退院の手続きをして、病院の外に出る、久しぶりに吸う、外の空気だ、スリッパしかないので、履物を買わなければ、駐車場で携帯の電源を入れる、友達に電話をかけ、今日退院することになったことを伝える。父の車で、佐久間へ帰る、浜松からだんだん、山のほうに向かう、山の緑がまぶしい帰ってきた、俺はやっぱり、山のほうがいい、落ち着く、家に着き、居間に座ると、なんともいえない気持ちになる、ひさし繰りに良く歩いたせいか、疲れた、その日は、眠りが深かった、目がつぶり疲れるほどの眠りだった、病院ではよく眠れていなかったんだろう。
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。
合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。
袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns
”しんしん”55歳
2015/11/25現在。。。
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