新間勉三、私にとっての祖父(オジー)私が物心ついていたときには、もう横吹には暮らしていなかった。切開(きいなま)で新間商店、通称エンテをやっていた。そこで知らない女の人と暮らしていた。そのオジーはやがて肝臓癌になり東栄病院に入院し死んだ。幼稚園の頃だったろうか、そのオジーはエンテで葬式をした、よく覚えてはいないが切開から横吹まで歩いて帰った記憶がある、その山道で季節外れのヘビに出会ったのをなぜか覚えている。
それから何年かたって、横吹の隣の家「峠」でマー兄が死んだ。通夜に行ってきたトーチャー(父親)に「塩を持ってこい」とい言われ清めの塩だと知り、その塩をかけた。トーチャーがカ―チャー(母親)と話していた、ある人が通夜のとき酒に酔いその家のオバーに「今度はアンタの番だ」と言ったと、そのオバーは泣いていたと言っていた。
当時横吹の葬式は土葬で亡骸を棺桶に入れ墓地まで組合の人が担いで連れて行くのだった。最後に、その通った道に藁のムシロを置くのが習わしだった。村の人たちは、そのムシロが腐って土に帰るまで、そのマー兄のことを忘れないのである。
斜面集落「横吹」で生まれ、育まれ、そして1975年の春、横吹を出ていった。湖西市鷲津の富士鐵工所で働くことになった。十三年間そこで暮らし、また横吹に帰ってきて、平成元年、佐久間町でも比較的便利な半場に越してきた。そこでは自分たち夫婦が地域の付き合いのことはやれとの父親からの命令があった。半場十班での暮らしが始まった。いつも回覧板を持ってきた隣の奥さんが突然亡くなったとの知らせに半場十班の人が、その家に集まった。そして葬儀の話し合いが始まった。その人の病名はクモ膜下出血だという。
人は生まれ、やがて死んでいく、それが人生だ。
半場で暮らし、月日は流れ、白血病を知り、静岡県骨髄バンクを推進する会を知った。そこで「命のアサガオ永遠に」
そんな本に出合った。平成五年白血病のため7歳で亡くなった丹後光祐君の話し、その母親である丹後まみこさんの講演を静岡県総合社会福祉会館シズエルで聴いた。
1997(平成九年)中部の夏祭り、そこで酒を飲んでいるときに、私の13才年上の兄が転勤先で吐血して入院しているとの連絡が入った。ヤマハ発動機の営業職の兄、胃潰瘍だと思っていた。入院先の埼玉獨協病院に佐久間の家族で向かった。その病院の病室に行き兄と面会したが元気はよかった。主治医の説明があり、私は聞くことができなくて、車にて一人で待った。義理の兄が帰ってきて助手席に座って呟いた「末期の癌だそうだ」と。佐久間町まで帰って来る途中、真夜中の車の中でカーチャーが泣いていた。そして兄は三か月後にこの世を去った。無念だったろうと、思う。自分の子供に先立たれた母親の気持ち、親不孝の兄、しかし、自分の寿命は誰もわかるものではない。老少不定、和尚の説法も上の空だった。そんな日から母親の痴呆の病が近づいてきたのではないかと今思う、そんな気がする。
2007(平成一九年)の年末、母親が特別養護老人ホームさくまの里に入所した。痴呆の病が進み私の名前さえ分からなくなっていった母親、その介護は父親の仕事だった。
2010(平成二十二年)の春、そんな父親が佐久間病院に入院した。担当の先生に狭い小部屋に呼び出され病気についての説明を受けた。 「癌細胞が大きくなっています。もって三ヶ月、いや二か月もたないかもしれない」と。 「本人には話しますか?」の問いに躊躇したが、 「話してください、本人も今後のことを考えると思います。」と、答えた。
それから二か月後五月の下旬の早朝、佐久間病院から危篤の連絡を受けて父親は亡くなった。死んだ父親は表の出入り口からは出られない、裏口の専用の出口から出て半場の自宅に帰ってきた、新緑の眩しい日だった。
2010(平成二十二年)五月二十五日父親の葬儀が行われた。父親の葬儀には母親は参列することは出来なかった。葬儀が終わり家族で老人ホームさくまの里へ行き、伝えた 「トーチャー死んだ」と、何もわからない母親は「死んだ」の言葉はわかったのか「シンダ~」と答えた。長女が、その言葉を聞いて泣いた。
そんな母親は、平成二十九年半場の夏祭りの準備のときに佐久間病院から連絡がきて危篤を知った。
2018(平成二十九年)夏の暑い日、カーチャー母親久代は九十二歳という生涯をとじた。久代は大正十五年水窪の上村で生れ、昭和十九年十九歳の時に横吹という斜面集落に嫁いできて三人の子供を儲けました。昭和の時代を水窪と城西村で生きてきて、平成になり久代六十四歳のとき家族で佐久間町半場に越してきて八年後、長男が亡くなり、そのときから物忘れが多くなり、平成十九年十一月にさくまの里に入所、
八十歳から九十二歳までさくまの里に御世話になり、生涯を閉じました。葬儀の最後の挨拶でこんな事を言った。
人は生れ、やがて死んでいく、それが人生だ。
この言葉は映画「最高の人生の見つけ方」での俳優モーガン・フリーマンのセ
リフだ。
万物流転、世の中の如何なるものは常に変化する流転するのである。一つの状
態にとどまらず移り変わっていくのである。そうどんなものも。会うは別れの始
まりである。
過去があるから今がある。
今は未来に鍔がっている。
今と言う日を、未来につなげるような生き方をしなければいけない。
のである。
家族とは?
今年の2月に行った
まちむらリレーション市民交流会議
そのとき講演した
熊本大学名誉教授 徳野貞雄
「『集落ドクター』から見た地域再生:世帯と家族は違う。子供は近場にいる」
その録音を聴きながら朝のジョギングをした。そこに
家族とは?
との問いが出ている。
行政は住民台帳で、その地域の人口を調べ減った減った大変だ村が無くなる地域が無くなると騒いでいる。
家族とは?
あなたの家族は誰ですか?
その問いに
「今現在一緒に暮らしている人」
と、ほとんどの人が答える。
嫁に行った娘は家族ではないのですか?
単身赴任で東京に住んでいる夫は家族ではないのですか?
答えに杞憂する我々。。。
家族とは?
で
◆家族とは「綿たっぷりの掛布団」である。重たいけどあったかい。決して羽毛布団ではない。
ゴンタ選手さん
◆愛し合っていた妻と、愛しているのに無視する娘と、両想いの犬。
うたまるさん
◆いちばん「ありがとう」を伝えるべきなのに、いちばん「ありがとう」って言いにくい人たち。
Ike Hiroさん
◆私が私でいられる存在。
pinkcatさん
◆大人になるにつれ、その尊さを理解できる存在。
柱くだるさん
◆喧嘩をしてもご飯が用意されていたり、られても決して見捨てることをしない者のこと。どんなことがあっても自分の味方でいてくれる存在のこと。
ふうちゃんさん
◆無償の愛をくれる大切な存在。
大根さん
◆迷った時も、寄り道した時も、嵐にあった時も、長い旅に出た時も、どんなときでも、いつも最後に迎え入れてくれる港。
papankoさん
◆生まれて初めて出逢う最小単位の社会。その単位は必ずしも血縁者や人類に因らず、共に生きる、住む、心を通じ合わせる生物も含む場合がある。
ゆうこさん
◆時々面倒で、近くに居すぎて大切さに気付きにくいもの。
aiaiさん
デジタル大辞泉から引用
こんなページがヒットした。
家族とは?
共に生きる、住む、心を通じ合わせる生物も含む場合がある。
私の家には文鳥が一匹いる、それも家族
我が家の先祖には戦争に行って帰ってこれなかった家族もいる。
熊本大学名誉教授 徳野貞雄先生も言っていた。
亡くなった親兄弟その他の人も、心に残っている家族だと。
今年も多くの人たちに暑中お見舞いを頂いた。
その中の幾つかのハガキが富士山頂からの暑中お見舞いだった。
富士山頂には山頂郵便局があり、そこからの暑中お見舞いが我が家にも来たのだ。
そんなハガキを見て、残暑見舞は山頂郵便局から・・・と心に決めていた。
富士山頂郵便局 (ふじさんちょうゆうびんきょく)
http://map.japanpost.jp/pc/syousai.php?id=300123999000
同窓会が終わり、慰霊祭にも行ってきた。
家に帰って、息子と一緒に富士山に向かった。
富士山頂往復のコースを今回は、助手席の車窓から眺めた。
水ヶ塚公園に着いたのが夕方の6時。
シャトルバスの往復切符を買い富士山五合目に向かうバスの中で、先ほど頂いた案内を見ていると・・・・。
そのパンフの上の方に
山頂郵便局 開設時間6:00~14:00 7月12日~8月24日午後2時
今年度は御殿場口頂上での開設
え~・・・・。
今日は8月24日、、、時間は夕方6時。
山頂からの残暑お見舞いは、、、できない(泣)
気分を取り直して、今回は登山だけだ、曇り空の中、五合目で仮眠をとり。
富士山に登り始めたのは、八時半。
六合目から七合目までの登山の時には、空には星が見えていた。
それが、七合目から登り始めると霧雨が降ってきた。
もうすぐ八合目という所で雨が降り風も出てきた。
八合目の山小屋の前は深夜だというのに登山客が多くいた。
それにしても寒い。
そんな時に、萩田さんかメール。
「オーストラリアに来て20日になりました。ゴールのケアンズまで後150キロぐらいです。走行距離も一万キロになりそうです。体調もいいです。萩田」
私から震える指で返信した。
「今、富士山八合目、雨降りです(寒)」
隣の人で雨宿りをしている人は北海道から来たという、小雨になったとき山頂に行くと出て行った。
私たちは今回は諦めた、下山することにした。
五合目に着いたのは4時、シャトルバスは6時半だ。
6時には売店が開いた。
シャトルバスに乗り、水ヶ塚公園駐車場に戻り、
富士宮で朝食。
富士市の鷹の湯で疲れた身体を癒し、佐久間に帰ってきた。
下界は昨日までの寒さが、嘘のような暑さだった。
byしんしん
PS
昨日、富士山頂で送るはずだった残暑お見舞いのハガキ、
今朝、佐久間郵便局に行って出してきた。
局長に、
あれこれ、説明して佐久間郵便局の風景印を押してもらうことにした。
残暑お見舞い、、、。
涼しい富士山頂郵便局より、熱い暑い佐久間郵便局の方が残暑見舞いらしい・・・かも(^^;
今日は13歳年上だった私の兄の17回忌だった。
あれは、16年前の夏、中部のお祭りの時に、家から電話が来て兄が転勤先で吐血して病院に運ばれたとの話が合った。
兄(政彦)の話
兄の横吹(よこぶき)での生活は学校から帰ってくるとランプの掃除、近くの井戸からの水汲みだったそうだ。
世の中は変わった。
今の自分より若くしてこの世を去った、兄。
人生の無常を感じる。
「人が死んだ後に残るものは
集めたものではない。
与えたものである」
ジェラール・シャンデリ
兄から与えられたものは数知れず。
朝の番組で、「バタヤン」こと田端義夫さんの死を知った。
バタヤンは、今は亡き私の父親が大好きだった歌手だ。
父親の話によると、バタヤンは少年のころ大変貧乏で学校に弁当持って行けたかた、お昼の時間になると「俺は用事がある」と言ってみんなの弁当を食べているのを避け、一人河原に行き石を投げてたと。
そんなことを、話を父親は私にした。 貧乏でも負けんなよ!!・・・・・・と私に言っていたのだろう・・か。
そんな「バタヤン」こと田端義夫さんが無くなった(享年94)。
そんなバタヤンのドキュメンタリー映画「オース!バタヤン」の公開を5月18日に控えていた・・・そうだ。
昭和の偉大なる歌手、バタヤンこと田端義夫。
瞼を閉じれば、父親の思い出と共にバタヤンの唄が聞こえる。
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。
合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。
袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns
”しんしん”55歳
2015/11/25現在。。。
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