私には13歳年上の兄がいる。いや居た。
1997年(平成9年)私38歳の夏、中部のお祭りで酔っ払って騒いでいた時に電話がかかってきた。
母親からだ。
母:「政彦が転勤先で吐血して入院したらしい」
俺は営業の仕事で気を使い、胃潰瘍にでもなったのかもしれないと思って。
私:「胃潰瘍かなんかじゃない?」
母:「どうもそうではないらしい・・・・」
次の日、兄の奥さんが二人の子供をつれ佐久間の私の家に来たのだった。
何が何だかわからないまま、私の車で私、義理兄、義理姉、父、4人で兄(政彦)の入院している埼玉の獨協病院に行ったのだ。
高速道路を走る車の中で、どうも兄は癌という病気にかかているのでは、そんな話になっていた。
病院に着くと、兄が入院している病棟に行き面会をした。
点滴の注射をつけてはいるが、笑顔さえ見せて話す兄を見ていると・・・・まさか・・・そんなわけがっと思った。
そんなことを思っているときに、主治医から話があるので親戚の方は来てくださいとの話がある。
私は、主治医の話を聞くことはやめた。
兄と話をしていたかった。
13歳も年上なので、小さいころ遊んだ思い出はないけれど、母親から話はよく聞かされていた。
「政彦はよく勉強していた」「政彦は本ばかり読んでいた」
私は小さいころ勉強が嫌いで遊んでばかりいた、そんな俺を母は叱るときいつも。
「政彦はよく勉強したが お前は・・・・」
と、怒られた記憶が多くある。
兄はベッドで眠り始めたので、私は車に戻っていくと、主治医の話を聴きに行った義理兄が来た。
義理兄:「癌だそうだ、胃、肝臓にまで転移しているそうだ」「もって3か月だそうだ」
兄は転勤族で、静岡から東京・八戸・青森・(その間子供も男の子ばかり4人恵まれた)そして今の山梨県甲府市に来た。子供も大きくなったので単身赴任で埼玉に行っていた その矢先の病気だった。
酒は飲まないけど、タバコやコーヒーは好きな人だった。
8月の半ばに告知され、10月16日この世を去った。
兄51歳の秋だった。
今思えば、もっと話をしておけばよかったと思う、過ぎたことを悔やんでも何もならないかもしれない。
人生にはゴール(死)がある、それは何時 どのようにして来るのか誰もわからない。
これかの人生、生きていることに感謝し、亡き兄の分まで人生を楽しまなくては。
合掌
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。
合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。
袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns
”しんしん”55歳
2015/11/25現在。。。
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