忍者ブログ
平成の合併が過ぎ、今私はここで暮らしている。 ほくえんの風を 身体中に感じながら。
[2274]  [2273]  [2272]  [2271]  [2270]  [2269]  [2268]  [2267]  [2266]  [2265]  [2264


 新間勉三、私にとっての祖父(オジー)私が物心ついていたときには、もう横吹には暮らしていなかった。切開(きいなま)で新間商店、通称エンテをやっていた。そこで知らない女の人と暮らしていた。そのオジーはやがて肝臓癌になり東栄病院に入院し死んだ。幼稚園の頃だったろうか、そのオジーはエンテで葬式をした、よく覚えてはいないが切開から横吹まで歩いて帰った記憶がある、その山道で季節外れのヘビに出会ったのをなぜか覚えている。

 それから何年かたって、横吹の隣の家「峠」でマー兄が死んだ。通夜に行ってきたトーチャー(父親)に「塩を持ってこい」とい言われ清めの塩だと知り、その塩をかけた。トーチャーがカ―チャー(母親)と話していた、ある人が通夜のとき酒に酔いその家のオバーに「今度はアンタの番だ」と言ったと、そのオバーは泣いていたと言っていた。

 当時横吹の葬式は土葬で亡骸を棺桶に入れ墓地まで組合の人が担いで連れて行くのだった。最後に、その通った道に藁のムシロを置くのが習わしだった。村の人たちは、そのムシロが腐って土に帰るまで、そのマー兄のことを忘れないのである。

 斜面集落「横吹」で生まれ、育まれ、そして1975年の春、横吹を出ていった。湖西市鷲津の富士鐵工所で働くことになった。十三年間そこで暮らし、また横吹に帰ってきて、平成元年、佐久間町でも比較的便利な半場に越してきた。そこでは自分たち夫婦が地域の付き合いのことはやれとの父親からの命令があった。半場十班での暮らしが始まった。いつも回覧板を持ってきた隣の奥さんが突然亡くなったとの知らせに半場十班の人が、その家に集まった。そして葬儀の話し合いが始まった。その人の病名はクモ膜下出血だという。

 人は生まれ、やがて死んでいく、それが人生だ。

半場で暮らし、月日は流れ、白血病を知り、静岡県骨髄バンクを推進する会を知った。そこで「命のアサガオ永遠に
そんな本に出合った。平成五年白血病のため7歳で亡くなった丹後光祐君の話し、その母親である丹後まみこさんの講演を静岡県総合社会福祉会館シズエルで聴いた。

 1997(平成九年)中部の夏祭り、そこで酒を飲んでいるときに、私の13才年上の兄が転勤先で吐血して入院しているとの連絡が入った。ヤマハ発動機の営業職の兄、胃潰瘍だと思っていた。入院先の埼玉獨協病院に佐久間の家族で向かった。その病院の病室に行き兄と面会したが元気はよかった。主治医の説明があり、私は聞くことができなくて、車にて一人で待った。義理の兄が帰ってきて助手席に座って呟いた「末期の癌だそうだ」と。佐久間町まで帰って来る途中、真夜中の車の中でカーチャーが泣いていた。そして兄は三か月後にこの世を去った。無念だったろうと、思う。自分の子供に先立たれた母親の気持ち、親不孝の兄、しかし、自分の寿命は誰もわかるものではない。老少不定、和尚の説法も上の空だった。そんな日から母親の痴呆の病が近づいてきたのではないかと今思う、そんな気がする。

 2007(平成一九年)の年末、母親が特別養護老人ホームさくまの里に入所した。痴呆の病が進み私の名前さえ分からなくなっていった母親、その介護は父親の仕事だった。

 2010(平成二十二年)の春、そんな父親が佐久間病院に入院した。担当の先生に狭い小部屋に呼び出され病気についての説明を受けた。 「癌細胞が大きくなっています。もって三ヶ月、いや二か月もたないかもしれない」と。 「本人には話しますか?」の問いに躊躇したが、 「話してください、本人も今後のことを考えると思います。」と、答えた。

 それから二か月後五月の下旬の早朝、佐久間病院から危篤の連絡を受けて父親は亡くなった。死んだ父親は表の出入り口からは出られない、裏口の専用の出口から出て半場の自宅に帰ってきた、新緑の眩しい日だった。

 2010(平成二十二年)五月二十五日父親の葬儀が行われた。父親の葬儀には母親は参列することは出来なかった。葬儀が終わり家族で老人ホームさくまの里へ行き、伝えた 「トーチャー死んだ」と、何もわからない母親は「死んだ」の言葉はわかったのか「シンダ~」と答えた。長女が、その言葉を聞いて泣いた。

 そんな母親は、平成二十九年半場の夏祭りの準備のときに佐久間病院から連絡がきて危篤を知った。

 2018(平成二十九年)夏の暑い日、カーチャー母親久代は九十二歳という生涯をとじた。久代は大正十五年水窪の上村で生れ、昭和十九年十九歳の時に横吹という斜面集落に嫁いできて三人の子供を儲けました。昭和の時代を水窪と城西村で生きてきて、平成になり久代六十四歳のとき家族で佐久間町半場に越してきて八年後、長男が亡くなり、そのときから物忘れが多くなり、平成十九年十一月にさくまの里に入所、
八十歳から九十二歳までさくまの里に御世話になり、生涯を閉じました。葬儀の最後の挨拶でこんな事を言った。

 人は生れ、やがて死んでいく、それが人生だ。

 この言葉は映画「最高の人生の見つけ方」での俳優モーガン・フリーマンのセ
リフだ。
 万物流転、世の中の如何なるものは常に変化する流転するのである。一つの状
態にとどまらず移り変わっていくのである。そうどんなものも。会うは別れの始
まりである。
 

過去があるから今がある。
      今は未来に鍔がっている。



今と言う日を、未来につなげるような生き方をしなければいけない。
のである。

拍手[3回]

PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
プロフィール
HN:
しんしん
年齢:
64
性別:
男性
誕生日:
1960/02/20
趣味:
走ること・空手・詩吟
自己紹介:
12市町村が合併して出来た新浜松市
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。

合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。


袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns

”しんしん”55歳  
2015/11/25現在。。。
カウンター
カレンダー
10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
カウンター
忍者ブログ [PR]