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平成の合併が過ぎ、今私はここで暮らしている。 ほくえんの風を 身体中に感じながら。
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昔、日本では
身分制度があった。
士農工商
江戸時代の基本的な身分制度。もともとは中国古代に人民を4種に分けた名称であったが,日本では豊臣秀吉が兵農分離を進めていくうえで次第に成立し,江戸幕府によって確立された。朱子学の思想に基づいて武士を最高位におき,これにあらゆる特権を付与するとともに,武士の経済的要求を満たす貢納の負担者である農民を次にもってきて,その下は職人,そして生産にたずさわらないことで商人が最下位におかれた
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説から引用

江戸幕府が終わり
自由の時代、天皇を中心とする、世の中を、当時の日本人が作り上げた。

明治・大正・昭和と日本は欧米諸国に追いつけと躍進して行った。

昭和20年
戦争に負け
日本は焼け野原となり、なにも無くなった。

そんな時代
日本を引っ張っていった男たちの物語
海賊とよばれた男
を読んだ

今、平成の時代
日本は平和な国だ。
ところが自殺者は増え、テレビのニュースでは異常な犯罪が増えてきたような気がする。

昔、日本では
身分制度があった。
士農工商
生産にたずさわらないことで商人が最下位になっている。

国を守る武士を最高位にしている。


そんな時代を描いた本
百田尚樹の
影法師(かげぼうし)
借りて読んだ本だ。

アマゾンで買って、自分の本として書棚に置きたい。
もう一度、読み直してみたい。

byしんしん

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一昨日
ザ・プレミアム 井浦新 アジアハイウェイを行く「東アジア“隣人たち”の素顔」
を見た。
http://www.nhk.or.jp/docudocu/program/3523/2552295/index.html

そこで「知日」を知った。
中国の雑誌で、日本の事を知りたいと発売している雑誌の事だ。

「反日」ではなく「親日」でもなく「知日」

先ずは相手の事を知ること。

これは何に対しても言えることでなないか。

この番組で
田舎の暮らすお年寄りの姿があった。
その人をサポートする若者の行動が印象的だった。

「知日」
日本の中高年は、マラニック
こんな遊びをしている人もいる。


日本一の山「富士山」を自分の足でぐるっと廻る。
いくつになっても夢とロマンの求める人の多い国。

超高齢者社会、日本。
中国は、日本のこれからを見つめているのだろう。

日本の田舎
ふるさと創生

お金を渡して、何とかセイ。
そんな感じではオカシイ。
定年後には田舎に暮らそう。

先生方。

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走ることを趣味としている私は
ここ北遠の至る所を走ったことがある。

その中で
北遠がまだ旧町村として頑張っているころに建てた観光トイレ
浜松市に合併してからというもの壊されていく現実に直面している。

水窪の向市場から山住神社に行く途中の観光トイレも壊された。

佐久間町から佐久間ダムまでの平沢にある観光トイレも壊された。

JR飯田線の相月駅の下の観光トイレも、いずれ壊していくという話だ。

その中で、龍山村いや、今は龍山町の瀬尻の山の上「寺尾」そこの観光トイレ
そこは建物は残っていた。
ところが張り紙があった。
「電気が来ていないため使用できません」

噂では聞いてはいるが
観光トイレは、浜松市としては
地域で管理してほしいと言っているそうだ。
電気代、これからのトイレの維持管理を、地域の区費その他で管理しなさいと言っているそうだ。
今、返上すれば浜松市で解体作業を行うと言われたそうだ。

そこで、前者の三件は
これから人も増えることは無いだろうと苦渋の選択で、浜松市に壊してもらったのだと思う。

ところが寺尾の観光トイレは残った。
寺尾の観光トイレは、寺尾で毎年6月に行うぶか凧のときに使用するために残した。

それぞれ地域の人たちの考えで、その後の観光トイレの運命は分かれた。


その観光トイレ
今、聞いているのは、
浦川駅の観光トイレ。
先日のブログ
けんに~
http://hokuen.blog.shinobi.jp/%E3%81%BB%E3%81%8F%E3%81%88%E3%82%93%E3%81%AE%E9%A2%A8/%E3%81%91%E3%82%93%E3%81%AB%EF%BD%9E
このけんに~に聞いたのだが。
浦川駅に行きトイレによろうとしたら
使用禁止となっていて、入れないようになっていたそうだ。

浦川駅の観光トイレも壊されていくのだろうか?

この問題は、佐久間地域、山間地域だけの問題ではないと思う。

街に暮らしている人も考えてほしい。

観光トイレ
その地域の人々だけが負担を背負わなければならないのですか?
っと。

byしんしん

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仕事から帰る途中
なかっぺ橋を渡っていたら。
前から走ってくる人がいた。。。。。

けんに~
だ。

けんに~
とは、中部のスポーツ店(イズミヤ)の店主だ。
いや、今は店を閉めたので
店主だった。

私より一回り以上年上の
けんに~

「家によってコーヒーでも飲んでけ」
そんな言葉にエンリョをしないで、ノコノコと着いていった(^O^)/

多くの話をした。
中部の事、佐久間町が佐久間ダムで賑わっていたころの話。

けんに~
を、初めて知ったのは
私が半場で暮らし始めて、父親ソフトの付き合いをしているころ。
ユニホームを新しいデザインに変えようとしているとき。
けんに~
は、半場にユニホームを売り来ていた。
そのとき
私は
球技が得意ではないので。
「父親ソフトは辞めたい」
「走るの一本で行く」
そんな事を半場の父親ソフトのメンバーの前で言った。

あれからうんじゅうねん!!

半場の父親ソフトは存続できなくなった。

私のマラソンは続いている。

そんな昔の思い出をけんに~と話していたら、何時の間にか外は暗闇に包まれたいた(^O^)/
ヤバイ!!


帰り
けんに~
から、もたったシャツ

そういえば、水窪の家の平
最近、水がたまったとの話、聞かないナ~。

今年あたり、、、もしかしたら(^O^)/

byしんしん

 

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「横吹」から引っ越しをし「半場」での生活が始まった。
「横吹」では村道に車を置いて、歩いて15分くらいかけて家まで山を登っていったが「半場」では家の直ぐ前まで車が来る。
快適な生活が始まった。

半場には佐久間小学校が直ぐ近くにあった。
佐久間中学校は佐久間地区、佐久間高校は中部地区にある。
子育てにも恵まれた環境の土地だった。

しかし「ダムの町」佐久間町、
「ダムで栄えた町はない」そのような言葉も聞いたことがあり、心配事もあった(^O^)


半場に越してからの、ある日の日曜日、
家族で信州の方に当時の私の愛車「キャラバン」でドライブに行った。
佐久間~本郷~新野峠~天竜峡~遠山郷~水窪~佐久間

天竜峡から遠山郷までの道は狭かった。
浜松から水窪までの国道152号線も狭いけど、それ以上に凄い国道だった。
まさに酷道(#^.^#)

そんな国道いや酷道を車で走っていると。
突然、巨大なコンクリートの物体が・・・・・。
矢筈トンネルだった。
突然山に現れた立派なトンネル。
それを抜けたら、また今までと同じ酷道になった(≧▽≦)

そんな道を走って車は遠山郷に着いた。
そこには、お城があった。
和田城というらしい。

遠山郷を後にして、車で水窪に向かった。
やはり酷道。。。。
兵越峠を越えるには大変な道程。。。。
そこにまたコンクリートの物体。。。。
草木トンネルだ。
この存在は水窪で働いていたので知っていた(^O^)/

25年くらい前の話かな?
遠山郷に初めて行ったときの話。

自分は思った。
大変な場所にあるナ~。
遠山郷
自分は感じた。
まだ佐久間の方がましだ!と。

それから数年たち、遠山郷に温泉「かぐらの湯」が出来たと知った。

佐久間町は温泉を掘り当てようと頑張っていたそうだが、温泉が出ることは無かったそうだ。
そんな噂が町にはあった。

それから数年が経ち、佐久間町は浜松市に遠山郷は飯田市になった。
世の中は市町村合併の渦に巻き込まれていった。
市町村変遷パラパラ地図

そんな時にできたのが
「東京マラソン」
第一回目に申し込むも抽選漏れ。
次の年の北遠駅伝の待合室で知り合いから
「遠山郷でマラニックが始まるョ」
との話を聴き。
その年に、
第一回「チャレンジマラニックin遠山郷」に参加
そのマラニックは参加し続け、今年参加すれば10回連続参加となる。

あの時
まだ佐久間の方がましだ!と。
感じた遠山郷

今は佐久間より食べ物屋もスーパーも、その他の店もいっぱいある。

 

ヤッパリ
上見て暮らすな下見て暮らせ。
ではなく

「みんなちがって、みんないい」
http://www.jinken-net.com/close-up/0609.html
世界が望ましい。。。

佐久間はダムの街だけど、それはそれでいいのだ(≧▽≦)

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山に張り付くような村「横吹」
移動手段を電車に頼っている学生時代、相月駅から見上げて毎日毎日登っていった。

幼少の頃、母親の実家「上村」には早々と道路がついていた。
そこからの帰り、向市場駅から飯田線に乗って相月駅で下車。
向市場駅には何故か女性の駅員さんばかりだったような覚えがある。
相月駅は無人駅だった。
見上げる「横吹」の村、母親に励まされて山道を歩いては行くが、子供の足では覚束ない。

「如何して、こんな山の上に家があるのだ」
そんな疑問を母親に言う
「先祖様が暮らしていたのでションナイワイナ~」
また
そんな子供を戒めるように言った言葉が

「上見て暮らすな下見て暮らせ」
小さなころ、親から言われたこの言葉、脳裏に焼き付いている。

人は誰でも、そのような考えが心にあるのかもしれない。
自分より誰かを比べて、自分の今の幸せを感じる。

昭和35年生まれの私、
母親は大正15年生まれ。

20歳で終戦を経験し、横吹に嫁いできて、激動の時代を生きてきた女性。
今の生活の貧乏など考えもつかない時代を生き抜いてきた女性。
そんな時代背景と、そこの暮らしぶりからつくられた言葉。
「上見て暮らすな下見て暮らせ」

あれから幾年かが経ち、今は「平成」の時代。
金子みすゞの詩が心を打つ。
「みんなちがって、みんないい」
http://www.jinken-net.com/close-up/0609.html

佐久間町または北遠(浜松市の北部)のいいところを探す旅。
「ほくえん旅ラン」
多くの皆さんにココの良いところを探す旅に参加してほしいと願っています(^O^)/

byしんしん

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29歳で横吹に帰って来て、フジユニバンス水窪事業所に通うようになった。
次の年、半場に家を建て暮らすようになった。
 
半場での生活は快適だった。
仕事から帰って来て冷蔵庫にビールが無い時など
近くの酒屋(塩沢商店)に買いに行った。

横吹では家に無い物は、ただただ我慢するしかなかった(≧▽≦)

 

幼少の頃、何時もジャガイモやゴボウなど畑でとれたものしか食卓にないことに腹を立て
「もっとうまいものを食べたい(怒)」
そんな事を母親に言ったことがある
母親は逆切れして、相月駅にある「ふせ」に買いに行って来い!!
と、千円札を投げ渡した。。。

はるか下に見える、相月駅を見て、あそこまで買い物には行けないと思い諦めた。。。

半場での生活は快適だった。
横吹の生活と比べると快適だった。

父親も母親も同じように感じただろう。
何より、車が家の前に来るようになったことは感激した。


半場に引っ越し、フジユニバンス水窪事業所に通うには遠くなった。
片道約21㎞

湖西のフジユニバンスから21㎞離れたところなら随分田舎に行ける。
仕事も慣れた仕事を続けられる。
そんなことも思った。


田舎に帰って来て
父親と同じ仕事をするようになり、同じ車で帰って来る時もあった。
夜勤での仕事はきつかった。
定年まじかの父親の夜勤は、俺よりもっときつかっただろうと思う。
そんな父親が帰りの車の中で
「家に帰って孫の顔を見ると疲れが吹っ飛ぶゾ~」
と、呟いた。


佐久間に帰ってきた選択は、間違いでなかったかと思た。。。
瞬間だった。

byしんしん

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10年前
私の父親が
私の家の前にできた公園で
オジ~達の井戸端会議で何を聴いてきたかわ知らないが、私たち家族に言った言葉だ。

「こんだ~引っ越すなら浜北だゾ~」
 

その15年前、私たち家族は、今住んでいるもっと山奥の飯田線で言うと
中部天竜駅→佐久間駅→相月駅
ここの相月駅の向かいの山に張り付くような村
「横吹」(よこぶき)
に暮らしていた。

私がまだ小学校高学年の頃、その村に道路を造ろう、そんな話がやってきた。
父親は、その話で、村の会合で夜遅く帰って来ることが多かった。
当時、子供は夜の九時には寝なさい!!
そんな時代、
「宿題をやる」
そんな嘘をついて夜更かしをすることもあった。
当時の夜中の少しHな番組11PM
そんなのをコッソリ見ていると、親父は帰ってきた。
酒を飲めない父親は、村の衆の酒の付き合いで大変だったのではないかと、、、今思う。
 


父親は車の免許を取得。
車はサニーを買った。
その車は山の中腹まで来ている道路に車庫を建て保管するようになった。

自分の家まで道路が来るのは我が家の願いなのだ。

あれから25年たって
私が結婚をする頃、そんな人を連れて「横吹」に上った。

あれから25年たっても
道路は横吹の中腹の家までしか開通していなかった。

それでも、相月駅までの道程を考えると
約半分の距離の短縮。
村道の終点には、
移動販売車もやってくる。
久しぶりに横吹の家に帰ってきた私に母親は
移動販売車から買ってきた刺身を振る舞った。。。。

感激したナ~。
横吹で刺身を食べることが出来るなんて。。。。

父親は25年たっても家までは来ない道路を諦め、横吹を出る決心をした。
横吹に生まれ横吹で育った父親の一大決心。
  

そんな話を湖西で働いている私に電話で話した。

私27歳の頃
私「どうせ引っ越すなら湖西に来いョ」
そういうと
父「少ないけど先祖の残してもらったものもあるし、佐久間を出たくない」
私「・・・・・」

平成1年3月
そんな話から、今の暮らしている半場に住むことが決まった。

 

それから15年たって、佐久間町は浜松市に吸収合併することになった。
そんな半場を出ていく事を考えている人もいる。
そんな父親は、
そんな人と話をして
先に書いた
「こんだ~引っ越すなら浜北だゾ~」
と言ったのだろう。


親父、今生きているなら
81歳だ。
親父、そりゃないよ~。
親父が言った
「少ないけど先祖の残してもらったものもあるし、佐久間を出たくない」
親父が言った、この言葉に絆されたのだ。

今の世の中
親も親戚も義理も人情もない、暗い世の中になりつつあるよな気がする。
 


そんなことは無い。

俺は、こらからも
親父や子供たちの思い出が詰まった、ココで暮らしていくつもりだ。。。

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マラニックの大切な相棒(Canon IXY)だったデジカメが昨日、、、壊れた。
カタログからは2006年からの販売と書いてある。
その中の一台が、私の手に渡り、昨日、、、壊れた。


何回も何回も私の手から滑り落ち、地面にたたきつけられたが、なんとか写真は写すことができた。
壊れかけの時は、セルフタイマーがダメだったが写真を撮りブログでアップするだけなので何ら問題はなかった。
自分としては。
マラニックの時、集合写真
他の人に、そのデジカメで自分を写してもらうときもあった。
壊れかけたデジカメ
もうそろそろ代えたら?」
そんな言葉もあったが、ただ笑っていた。。。


そんな、デジカメが、
昨日の駅伝の開会式終了後、三区の選手バスに乗り込む途中・・・・。
またデジカメを落としてしまった。
ズームが飛び出したままになった。
キュインキュイン
と、悲しいような音がしていた。。。

このデジカメは
2010年平成22年の春
私の父親が肝臓がんで亡くなった時の遺品の中の一つなのだ。
メモリーの中には生前父親の趣味であるシャクナゲの写真がいっぱいあった。
そんなデジカメ私の手に渡り、
息子である私の趣味(マラニック)の相棒になった。
思い出いっぱいの写真。。。
   

マラニックの大切な相棒(Canon IXY)
生産開始から20年間。
本当にありがとうございました(^O^)/

byしんしん

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私が勝手にブログでの師匠として追いかけている人は。。。
山草人さん
とっち―さん
どちらも萩田さんのマラニックが縁で知り合った人だ。

山草人さん
山草人のモノローグ
とっち―さん
とっちーの「終わりなき旅」
というブログを書いている。

この二人はもう何年も、毎日毎日書き続けている。

そんな大先輩に追いつこうと、今年は自分も頑張ろうと
自分も毎日書こうと密かに意気込んでいた、、、。
が、ガガガ
昨日、晩酌で日本酒三合飲んで爆睡してしまった(泣)

七日で挫折。

毎日続けることは、簡単なようで難しい。
日々の生活習慣を改善しないと、朝起て歯を磨くように、当たり前にしないとできないことだ。
お酒を毎日飲むのは簡単だけど、走りやブログを毎日続けることは難しい、、、。
   

こんな調子ですが、自分のペースで今年も書いていきますのでお付き合いしてくれる方、宜しくお願します(^O^)/
 
話は変わって
明日の
「湖西連邦トレイルラン」
ココで、私の走りでの大先輩に出会うことができる。
それは、石川さん
去年の
新「浜松市」誕生十周年記念水窪~浜松160㌔ウルトラマラニック
の時には79歳
第17回 ジュビロ磐田メモリアルマラソン
の時には80歳
と言っていた。
モチロンこの大会での最高齢者であると思う。

また、名簿を見て驚いたことに。
今回の最年少者は9歳ということ。
お父さんお母さんと一緒にエントリーしているそうだ。

山草人さん
とっち―さん
石川さん
9歳の少年
世の中には様々な人がいる。


2016年は始まったばかり。
年の初めから拗れせていた風邪もだいぶ良くなった。
今年も自分の人生、挫折と貫徹を繰り返しながらマイペースでユックリ行こうと思う。
ブログも走りも(^O^)/
byしんしん

拍手[8回]

プロフィール
HN:
しんしん
年齢:
65
性別:
男性
誕生日:
1960/02/20
趣味:
走ること・空手・詩吟
自己紹介:
12市町村が合併して出来た新浜松市
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。

合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。


袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns

”しんしん”55歳  
2015/11/25現在。。。
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