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平成の合併が過ぎ、今私はここで暮らしている。 ほくえんの風を 身体中に感じながら。
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4月7日、私は国道156号線を車で北上していた。
それは八年前、一人でその国道を走り
荘川桜を見に行ったからだ。
フルマラソン以上を走る人たちウルトラランナー、そんな人を知ったのは、12市町村が合併して大きくなった新浜松市を、旧市町村の役所を巡るマラニック、そんなことをしているリックを背負ったランナーが、152号線を走っているところを見たからだ。
そんな人に出会い、そんな人から話を聞いた。
そして
さくら道の事を知った。
湖底に沈んだ荘川桜、の話を知った
平和への祈りを託して名古屋から・金沢間に2000本の桜を植えつづけ、病のため短い一生を終えたバス車掌佐藤良二さんその人生を知った。
「この地球の上に天の川のように美しい花の星座をつくりたい。花を見る心がひとつになって 人々が仲良く暮らせるように」

今回、その道を車で走ったのは、「余呉湖グルグル」に参加するためだった。
せっかく、滋賀県の余呉に行くのだから、あの日走ったあの道を、また。
と思った。
荘川桜に着いた頃は、小雨が降り、人は誰一人いなかった。
八年前の私は、ココで諦めた。
ネイチャーを走る人は、そこから兼六園にある「佐藤桜」を目指すそうだ。
車を走らせ兼六園に着いた頃には夕方になっていた。
八年前、私は荘川桜を見て、走るのを辞めバスと電車で帰った。
今回は、兼六園の佐藤桜を目指して車を走らせた。
長い長い「さくら道」その道に桜を植えた佐藤良二さん
その人を走るウルトラ・ランナー。
そんな人がいることを、私は12市町村が合併した、その夏に知った。
日本は平和で素晴らしい国だ。
白川郷に着いた時には多くの外国お客さんがいた。
古き文化を大切にする日本人、
御母衣ダム建設当時の電源総裁高碕達之助の言葉がある。
「進歩の名のもとに、古木姿は次第に失われていく。だが、人の力で救えるものは、なんとか残してゆきたい。古きものは古きがゆえに尊いのである」

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生きていくということは、誰かに借りをつくる事
今は亡き隣のおばちゃんが言っていた。
「生きている者の務め」
兄が亡くなったのは、癌だった。
埼玉の出張先で、吐血して救急病院に運ばれたと連絡が来た。
タダの胃潰瘍だと思っていた。
義理の姉は、四男と三男を連れて佐久間に来た。
次の日、埼玉県の獨協病院に行った。そして癌の告知を受けた。
あれから二十年以上たった。義姉は逝った。
永六輔さんの「いきるものの歌」がある。
そこのセリフに
もし世界が平和に満ちていても、悲しみは襲ってくる。
殺されなくても人は死に、誰もがいつか別れていく。
世界が平和でも、悲しい夜はくる。
誰もが耐えて生きていく。
思い出と、歌が、あなたを支えていくだろう。
とある。
人は生まれ、やがて死んでいく
映画「最高の人生の見つけ方」でのモーガン・フリーマンのセリフだった。
甲府から帰るとき、最後に義姉に向き合い
ありがとう
と合掌した。そして佐久間に帰ってきた。

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映画「最高の人生の見つけ方」でのモーガン・フリーマンのセリフです。
日航機事故で坂本九さんは亡くなった。世界中にヒットした「上を向いて歩こう」の作詞者は永六輔さん、その人の歌に「生きているということは」「いきる者の歌」がある。
生きているということは、誰かに借りをつくること
生きていくということは、その借りを返していくこと


母親から私は生まれた。その母親は80歳で特別養護老人ホームに入所した。
認知症だった母親は、夜の徘徊が数年間続いた。最後は村の衆や消防団、警察や警察犬、ヘリコプターまで使っての捜索があった。
寒い夜、捜索が打ち切り。もしかしてもしかするかもと思って、姉・親戚の人と家の続きの部屋を掃除した。

次の昼前、母親は半場の山中で見つかった。
救急車に乗り込む母親は「大丈夫だ」と言っていた。
その年の暮れ、家に電話が入った。
特別養護老人ホーム「さくまの里」からだった。
「お母様の順番が来ました。どうしますか」
と、私は
「スイマセン私一人では決めかねますので父親と相談します」
と電話を保留にした。そして父親に訊いた。
父親は、飛び起き。
「たのむゾ~」
と言った。
母親の特別養護老人ホーム「さくまの里」への入所が決まった瞬間だった。
母親の老人ホーム出の部屋は、3号館の二階、天竜川側、ベランダからはB型鉄橋が半場の村が綺麗に見えていた。
あれから17年、私は介護士になり、あのベランダからはB型鉄橋が半場の村が綺麗に見える部屋に行くことがある。17年前を思い出す。
生きているということは、誰かに借りをつくること
生きていくということは、その借りを返していくこと


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養老孟司さんの「バカの壁」そこに
 「話せばわかる」なんて大ウソ!. イタズラ小僧と父親、イスラム原理主義者と米国、若者と老人話が通じないのは、そこにバカの壁があるから。
とある。私はそこに、財産家の水飲み百条、大卒と中卒を加えたい。
養老孟司さんの、その本は、バカな私には難解な内容だったが、今自分の立場がこうなると、たくさん「そっか~」と思うところがある。
そして、その養老孟司さんは、最後の方に、奈落の底に落ちた学生と、話してもわからないと思っても話続ける。と・・・書いてあった気がする。
分からない相手に、何を言ってもわからない。
しかし、私たち人間は、それでも話し合わなければならない。
ロシアウクライナ
他人事ではない。そのように感じる。
イタズラ小僧と父親、イスラム原理主義者と米国も、若者と老人も、財産家と水飲み百条、大卒と中卒も、みんなこの地球に、地球というこの惑星の、この時代に産まれた人類なのだから。

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今の職場、にそんな人が来た。そして、
「さくまパラダイス」
と言った。
「しずかでイイとこ」
とも。
今回二回目の、その人との仕事だから、少し家族の事も話した。
自分のことも
20年前に佐久間に来た彼女は
「じぶんがえらんだみちだから・・・」
と言った。
そして私が気になった言葉があった。
「うちの主人が」とよく話すのだ。
それは、今そのように旦那さんのことを言う人は少ないと感じたからだ。
「夫」「主人」「旦那」「亭主」
日本語は、ひとつのことに対して様々な呼び方があって難しい、その人は、その中で日々頑張っている、日々成長している。
昔、20年以上だったけかナ~。
次女が幼稚園だったころ、私がPTAの会長で伊豆の長岡で総会があり隣に座った佐久間中学校の恩師と話した思い出がある。気の強い女性の教員で
「私は主人とは言いません。夫と言います」
と言ったのを思い出す。
同じ屋根の下で暮らす人なのに
「夫」「主人」「旦那」「亭主」
呼び方で、その感じ方が変わって来る。
そして、その人は、私にこうも言った。
「トシウエナノニ、スイマセン」「ケイゴワカラナイ、シツレイカモシレナイデス。スイマセン」
日本語は一つのことに対して様々な呼び方がある。そこに敬語が入って、地方に行くと放言も交じってくる。
話すということはコミュニケーションをすると言うこと。要は伝えたいとが伝われば良い。
だけど話し方で印象は変わる。
その人が私に、このように言ったことは。
「敬う」と言う日本人の根本の心を誰かが教えてくれたのだと思う。
日本人が忘れかけたことを、
その人は姑さんのことを
「うちのバーバが」
と、よく話す。

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内多勝康さんとは、元NHKアナウンサー、そんな人は52歳でNHKを早期退職して介護の道へ進んだ。
この話は、私が定期購買しているPHP、そんな雑誌で知った。
そして、この本に出会い、Amazonで注文して、今朝読み終わった。
今年三冊目の本だ。

「医療的ケア」の必要な子どもたち
私が行っている骨髄バンクの、子供たちも・・・・。
今の恵まれた環境に感謝して、こらからも頑張ろう。
仕事も。走りも。

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今年の書初めは、「春夏秋冬竜頭山」と書いた。
今年は、竜頭山に毎月一回は登りたいと目標を立てたからなのだ。
そして、その竜頭山の様子を自分なりにレポートしていきたい、と思っている。
竜頭山は、その昔、佐久間町の山だった、途中に書いてある、看板は、私と同じくらいの当時の佐久間町の役場職員の人が運んだと聞いている。
その竜頭山も今は浜松市の山だ。
今、私は水窪の「山に生きる会」に入っている。
今年、私は佐久間「山に生きる会」として春夏秋冬竜頭山に登ろうとしている。
春夏秋冬、山の移ろいを見ようとしている。
去年の3月登った、雪がたくさんあった竜頭山が素敵だった記憶があるから、春夏秋冬、私の故郷の山「竜頭山」をレートしていきたい。

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以前、このブログでも書いたことがある。
義を見てせざるは勇無きなり
意味は
『人として行うべきことをわかっていながら、それをしないのは臆病者である』

だ。

毎月定期購買しているPHP、今回の特集は「歩きだそう」その中に、その言葉があった。
義を見てせざるは勇無きなり
意味は
『人として当然行うべきことと知りながら,それを実行しないのは勇気がないからである。』

臆病者の私はAmazonで、その人の本を注文した。

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2007(平成19)353億円の赤字を抱えて事実上破綻した北海道夕張市。
そこは
炭鉱の町だった。石炭の需要が少なくなり、観光でと考えて借金が増え、破綻
夕張市を出ていく者、夕張に残るものとに・・・別れた。
当時新聞でそんな夕張市の現実をと、特集していた記事を思い出す。
夕張市に残った夕張市市職員のインタビュー
「私は夕張に家を建てた、夕張で頑張るしかない」
夕張市は財政破綻後、市職員の給料もカットされた。夕張市を出た人も、簡単には仕事に就くことはできない。正に夕張市に残っても、出ていっても大変な状況だと、その夕張市の特集記事には書いてあったと記憶する。
そんな悲壮感漂う夕張市の現実を、私は新聞で感じていた。
しかし、そこに、夕張市に東京都の都の職員が派遣された。
2008(平成20)年、
鈴木直道氏が夕張市にやってきたのだ。そして市の職員として働いて
2010(平成22)年
夕張市の現状を見た氏は、夕張市長選挙出馬の決意を固め、東京都庁を退職した
2011(平成23)年
その鈴木直道氏は30歳で夕張市長に初当選、立候補時はたった7人の応援団、夕張市選挙は82.3%の投票率だった。
ちなみに2019年の浜松市長選挙は55.75%
面積763.0k㎡ の夕張市、徹底的なコンパクトシティーを目指して合理化を進める。
炭鉱で栄えた町には市営住宅が多い。そこで古くなった市営住宅を一つにまとめ暮らす人も一か所に集まるようにしてもらった。
住み慣れた場所を離れたくない人もいたが、市民との話し合いで、移転に協力してもらった。
また市民も、離れたところにポツンと一人で暮らすより、今の方が楽しいという話もある。
あれから10年以上たって、今の夕張市
夕張市の借金は2027年3月に全て返済出来る予定です。
そんな夕張市の市長だった鈴木直道氏は、現在北海道知事です。
日本一の高齢化が進む夕張市、そこの市長を勤め、現在北海道知事、
北海道はどうなって行くのだろう。夕張市は、どんな市になっていくのだろう。
そんなことより、私の暮らす浜松市、の未来が心配だ。
私の暮らす佐久間では、市営住宅は壊され更地になり。草が生い茂っている。
そんな佐久間の市営住宅に暮らしていた人が、町の市営住宅に移り住み、そんな便利な生活に
「もっと早く引っ越せば良かった」
と、そんな声も聞こえる。
私の暮らす浜松市、そこは
2005年に12市町村が合併して日本で二番目に大きくなった。
夕張市が再税破綻した年、2007年に政令指定都市になった。
私の暮している佐久間町の人も当時、夕張市の財政破綻のニュース、新聞報道は見ていただろう。
夕張市市の職員のインタビューも知っているかもしれない。
夕張市から考えることは、夕張市が日本で一番高齢化率が高い事、それは世界で一番高齢化率が高い日本も考えなければならない。夕張市の高齢化率は2015年の調べで47パーセント約二人に一人が高齢者というわけだ。
それは、日本の近い将来を夕張市で見ることになる。そう、その現実を見て日本の将来を考えるきっかけにしてほしい。
「夢街道CR]それも、都会から山間部にと走ることで、様々なことを感じてほしい。
そのように思って続けている。
尚、写真とブログ内容は一致して無いので、スイマセン(/ω\)「

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「孤独死」
誰にも看取られることなく、一人寂しく死んでいくこと。
漠然と、そんな意味を想像していた。
今回読んだ「破綻からの奇跡」にも、そんな孤独死のことが書いてあった。
一人暮らしの、ある人が、部屋のソファーで横になって亡くなっていたという話だ。
死後2日3日たっていただろうかと書いてあった。
それを発見した、その人は、それを可哀想だとは思わなかった。
逆に羨ましいと、思ったと書いたあった。そんな話。
それは何故か
その人とは、よくおしゃべりををして仲良しだった。
最近見ないなと思い、その人の家に行ったら亡くなっていた。
その死に顔を見て、穏やかな顔だった。
だから、可哀想と思わずに、逆に羨ましいと思ったのだと私は思う。
「絆貯金」
夕張は、高齢化率が全国で一番高い。高齢者の社会構造ができている。高齢者同士支えあって生きているという例での話だった。
夕張市の財政破綻のニュースを見て、様々な本を読んで、大変だな~っと思っていた。
その本には5時間目「絆貯金」とある。
その本の表紙には、夕張の高齢者の笑顔いっぱいの写真がある。
どんな地域に暮そうとも、「絆貯金」をこつこつためて楽しく生きようと思う一冊だった。
絆貯金、私は花桃の苗を育てること、アサガオの種を皆に配ること、続けようと思う。
貯めるのは御金ではなく花桃の苗・アサガオの種

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プロフィール
HN:
しんしん
年齢:
64
性別:
男性
誕生日:
1960/02/20
趣味:
走ること・空手・詩吟
自己紹介:
12市町村が合併して出来た新浜松市
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。

合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。


袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns

”しんしん”55歳  
2015/11/25現在。。。
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