飯田線、相月駅、
そこの
水窪川の向こうの山の中腹にあるのが横吹(よこぶき)
しんしん少年が生まれたところだ。
1960年(昭和35年)の冬
産声を上げた。
1956年(昭和31年)
佐久間町は3村1町(佐久間村・城西村・佐久間村・浦川町)が合併して出来た町だ。
その当時、佐久間町は東洋一と言われる佐久間ダムが完成し、好景気に浮かれたいた。
私の生まれた横吹は城西地区。
城西村の村長は、議員の人たちは佐久間町への合併を選んだのだろう。
町立幼稚園が出来、私は城西幼稚園一期生だ。
横吹の山の中腹にある家から、一円玉でくるんだハンカチと定期券を首にブル下げて幼稚園に送り出したと、昔、母親が言っていた。
無事に家に帰ってきたときにはホットシタとも言っていた。
横吹は山の中腹の村だが、当時は子供も多く、楽しい毎日だった。
しんしん少年は、城西小学校に入学した。
一年生のときは木造校舎。二年生の時に鉄筋コンクリートの今の校舎になっている。
城西地区では、町民大会(町民大運動会)を、毎年やっていた。
城西地区のなかでも山奥の横吹の人たちは、町民大会では大活躍をしていた。
小学校低学年までは、横吹にもお店があった。
テラクボ(苗字は久保)
駄菓子やクジなどを売っていた。
店にはハンというオバアサンが店番していた。
久保ハン
耳の遠いオバアサンだったが、悪口を言うと返事をした。
横吹の山の上の店に、商品を運ぶ時がある。
山の麓(国道152号)で商品をサクドウ(ゴンドラのような物)に乗せ山の中腹の村に運ぶのだ。
村の子供はエキサイトした。
そんな時期に、村に道路を造る話が合いをしに父親が村の集会所に行くようになった。
「これからは車の時代だ」
父親が言っていた。
また、こうも言っていた。
私の家があったところの街道は、チョンマゲを結った人が歩いた道。
その下の街道は、大八車が通った道。
水窪川沿いの国道152号線、車が通る通。
そう、これからは車の時代だ!
しんしん少年、佐久間中学校へ行く。
今まで飯田線 相月駅から水窪方面に電車に乗っての通学だったのが、これからは佐久間方面へ行くのであった。
途中、長い峰トンネルを行けると空気が変わった。
佐久間中学校を卒業してくる子供は、城西小学校の児童とは違うように見えた。
キラキラと輝く都会の子供に見えた。
クラスは三クラス。
A組・B組・C組
一クラス30人での授業となった。
中学校から英語の授業が始まる。
先生は爬虫類のような顔つきで背広の肩には何時も白い粒が着いていた。
「デスイスア・・ペン」
つづく。。。
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。
合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。
袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns
”しんしん”55歳
2015/11/25現在。。。
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