岐阜県に池田山がある。そこの標高800mにあるハングライダー離陸ポイントがある。若きころ、そこから飛び立たことがある。
先行く人はサーマルをとらえて旋回し天高く上って行った。わたしもその人の後に続いた。
高度計が無くどの位の高度なのか分からないが1000m以上は高かったと思う。
池田町の景色が綺麗だった。
あれから35年、私はドローンを買った。
そして空から北遠の景色、また自分を見た。
ドローンが高く上がり、自分は小さくなる。もっと上がると北遠の景色も小さくなる。
もっと上がると日本の全体が見えるだろう。
もっともっともっと大気圏を突き抜けて宇宙から見れば丸い地球が見えるだろうか。
私のドローンは中国メーカーのDJIです。
Mavic Mini
重さが200gを下回ったことで、航空法の規制対象外になる”というメリットが受けられるすぐれものです。
このDJIのメーカーはドローンのシェア70%だとも言われています。
丸い地球は誰のもの。
今、近所では佐久間に暮らしたい人が土地の問題で小さなイザコザがある。
丸い地球は誰のもの。
日本と中国の間にも尖閣諸島の領土問題がある。
丸い地球は誰のもの。
争いのない世界は出来ないものだろうか、いつも考えている。
バスターとは
英語で「退治する者」「逮捕する者」の意味、今日は水窪のNPO「山に生きる会」での活動、山ヒル・バスターに行ってきた。
山ヒルって知っていますか?
知らない人のため、先ずはユチューブ↓
今日の山ヒル・バスターは水窪から池の平までの山道での活動になった。
私は「山に生きる会」に会員でいるけど、今回この山ヒル・バスターは初めての参加です。
どんなのか、山ヒルは知っているけど、割り箸で取るとは聞いていたけど。初めての参加でドキドキした。
山道を歩きながら、目線を道に落としヒタスラに山ヒルを探しながら歩く。
「いた~」「一匹ゲッド」「またいた~」
そんな声が山に響いた。
水窪の女の人たちは元気がイイ。
今回は男性4人女性4人での山ヒル・バスターだった。
私はそんな声を聞き焦る。
目を凝らしても分からないのだ。一匹も取れない(涙)
そんなとき足元を見たら、山ヒルが上ってくる「ギャ~」割り箸で捕まえて塩の入った瓶に入れた。
そんな時にも
「いた~」「一匹ゲッド」「またいた~」「でかいゾ~」とか言って水窪の女の人たちは山ヒルをたくさん退治していた。
山ヒルはスギの木の枯れた枝が多い所に多いそうだ。たしかに杉林のところで
「いた~」「一匹ゲッド」「またいた~」「でかいゾ~」「長靴をはってるゾ~」
そんな声が、山に響く。
そんなとき誰かが
M 「杉の木はロクナもんじゃない」とか言った。「山ヒルのよい隠れ家になって。」
私「杉は花粉でも大変な思いをしている人がいる」
話が政治の話になって、今の法律の番人が賭けマージャンをした話から、今の政権が野党に押させている話から。
今回、10万配ったのも国民へのワイロ、とか。
おまえらこの金で黙ってろ
とか言っているんじゃない。
そう言って笑った。
M嬢「この金もみんなの税金だから、子供達にこの付けを回すことになる」
私 「今に生きる人がタ~ブレて生きると、後に残るものが大変だ」
M嬢「・・・・・」
そこで
N嬢「ダデ、山ヒル取りを真剣でやっているダイネ」
今回の私の山ヒルは25匹
中には100匹以上取った人もいた。
全員で335匹
どんな事でもイイ。
地域のために、何かを一生懸命やる。
山ヒル・バスター
そんな活動で、水窪の人たちの地域を思う心意気が伺えた一日だった。
昨日の夜、第一テレビ「沸騰ワード」その中で
「やぐらドラゴン」なるものをやっていた。
福井県の花火大会
しかし、その花火大会は普通の花火会とは違っていた。
「櫓(やぐら)ドラゴン」とは、コンビニエンスストアなどで市販をされている花火だけを使って、花火師集団の地域の若い人たちが地域を盛り上げるために、毎年創作花火大会を行っているとの話だった。
福井県高浜町、そこで行っている夏のイベント「若狭たかはま漁火想」、その中で最後、その「やぐらドラゴン」は行われるそうだ。
動画↓
全てが手作り「和」とか「絆」
地元の盛り上がりに貢献できたらいいと「やぐらドラゴン」は始まったという。
年長者も若い人たちも高浜を盛り上げようとの、同じ目的に地域の気持ちがまとまったいい例かもしれない。
まとまる
難しい事かも知れない。
人はソレゾレ考え方が違う、最後にその番組で出川哲朗が自身が沸騰ワードだと言う、竹富島の中学校での道徳の授業が面白かった。
出川が中学生に向けて
出:「世の中でいちばん大事なものは何か?」
その質問に、ある中学生は「お金」といい、ある中学生は「愛」と言った。
出川の答えは違った。
出:「世の中で一番大事なものは・・・・・それは夢、です」
と、言い切った。
そして、出川哲郎は竹富島の中学生に、それぞれ夢を聞いた。そして竹富島の中学生は答えた。
ある人は学校の先生になる。ある人は保育士になる夢を話した。
そして出川哲郎は生徒に向かって
出:「竹富島は素晴らしい所です、みなさんも、ココ竹富島に育ったことに誇りを持ってください」
と言って、出川哲郎先生の道徳の授業は終わった。
夢か~。。。。
夢を見続けることは難しい。
家のトイレに山本よしきサンの日めくり詩集がある。
今日、その詩集には
「悩みばかりを出さないで、わたしを箱から出してください。わたしの名前は希望です。どんな悩みも苦しみも、わたしがいれば耐えられます。ギリシャ神話のパンドラの箱、 最後に残ったわたしを出してください」
そんなことが書いてあった。
わたしにとっての希望、それは目の前にある。
のかもしれない。
第一テレビ「沸騰ワード」、思い出して書いたので違うところはあるかもしれません。
スイマセン。
しんしん
ブラジル移民の話が頓挫し、おしんの母 ふじが銀山温泉に、温泉宿の女中だと言ったふじが本当はどういう仕事をするのか、おしんは知る由もなかった。
朝食の支度にかかるおしん。作造が起き出して来る。
「何だ、まだできねのか! 朝暗えうちに起きねど間に合わねんだぞ! この役立たずが」
今日は裏の山の杉を切り出した跡に杉の苗を植えるため、一家から一人出さないといけないという。作造はおしんにその役を命じた。
杉の苗を背負って大人たちに交じっておしんも山をの上った。
山に杉の苗を植林している時、
おしん「この苗、大きくなるのはいつ頃だべ」
りき 「んだなあ、切り出せるようになるまで40年か50年かかるべ。オレなどもは、生ぎでいねえべな。おしんはなんぼになるべな」
おしん「40年だば48だ。50年だば58だ」
りき 「へえお前、数勘定できんのか。んだな、もうええばんちゃんだ。その頃おしんは何してるんだべな」
おしん「金持ちになって、オレが植えたこの杉買いてえ」
りき 「へえ、おっきくなったらこの杉ば買うのか?」
おしん「こだなつれえ思いばして植えた杉だ、誰さもやりたくねえ」
りき 「へえ、たまげた。やっぱり考えることが並のおぼこでねえな。ハハハハ」
場面は変わって現代。温泉宿の部屋でくつろいでいる圭とおしん。
圭 「へえ、その杉買ったのかおばあちゃん」
おしん「とんでもない。買えるどころか、あの杉じゃ後で随分悔しい思いをさせられた。あんなにつらい思いをして植えたのにねえ。それでも村の共同作業っていうんじゃ、子供心に大人に負けちゃあ悪いと思ったんだねえ。何日も何日も続いたけど、とうとう弱音を吐かなかった」
そして次の奉公先、酒田の米問屋「加賀谷」に奉公に行くことになる。
8歳のおしんは、奉公先の米問屋で麦飯を食い、米を作っている小作は大根飯しか食べられないのを疑問に感じ「おれ大きくなったら商人になる」と思ったのだった。
佐久間町時代、佐久間町の木は「杉」だった。
私の暮らす佐久間町の山々はスギの木だらけだ。それは国の政策で杉を植林した。
しかし、今は安価な外国産の木材の需要が多く、昔苦労して植えた杉が、伐採期間を過ぎ放置されている状態だ。
それは外材だけの問題ではなく、人件費の高騰での問題もある。
森町三倉~車を飛ばし、やってきました水窪町
新年会の前に、理事長の挨拶があり。事務局からの連絡事項があった。
①大津峠から池の平ウォーキング
平成31年3月23日(土)8時「水窪体育館」集合
②酵母の件「パン」「みそ」に活用
④チエンソーアート実地(水窪森林組合から)技術の保存
⑤ヤマビルの講習会 横浜市の渡邊悟史大学准教授(了承済)
⑥「小さな親切」運動で実行章受賞(木製パズルを「水窪小」「みさくぼの里」に寄贈したことによる)
⑦「2019まちむらリレーション市民交流会」の開催
平成31年1月25日(金)浜北文化センター【小ホール】
基調講演「関係人口がひらく農山村の再生」明治大学農学部小田切徳美教授
事例報告「浜松市の中間山地域の集落を残していくために」船戸准教授
活動報告「龍山秘密村」浜松山里いきいき隊 川道光司氏
参加希望者は連絡を
忘年会のときには酵母の件で、水窪のドブロクをつくろうと盛り上がったが、今回の事務局からの連絡で、酒の製造となるとナカナカ難しいとの説明だった。
報告が終わり、会員のみんなで新年会の用意をして宴が始まった。
隣の席の人が昔役場で働いていて、私の暮らす佐久間町半場地区の人と深い繋がりがあると知り、なんか安心した。
また、違う人との話の中に遠山郷の人の話が出た。
先祖は遠山から来たという人もいた。
佐久間町と水窪町と遠山郷
同じ中山間地で同じ悩みを持つ地域、若い人は仕事を求めて都市部へと流れていく、そこをなんとか踏ん張っている水窪のNPO山に生きる会
宴が終わりに近づき最後はバンザイ\(^o^)/で終わりにする。
なんと、その\(^o^)/を私が指名された。
「山に生きる会の益々の発展を祈念してバンザイ\(^o^)/」
片付けも会員全員で、会員の人に挨拶をして会場を後にし、今日の宿「中村館」に向かった。
水窪の夜はサブイ。
浜松市の山間部。
佐久間町では夏祭りが主だ。
半場地区は毎年七月の最終土日に行っている。
ココに越してきたのが平成1年3月
毎年、お祭りに参加してきた。
地域の行事に参加することは、アタリマエと思って参加してきた。
今日は神楽舞の練習は休みになった。
https://www.youtube.com/watch?v=NUi1OyyGLqo
日本の多くの地域が抱える大きな課題のひとつ
駅前の商店街の活性化。
また、山奥の町や村の過疎高齢化の問題もある。
わたしが暮らす浜松市も。
平成の合併っで 12市町村が一緒になった日本で二番目に大きくなった政令指定都市浜松市も、大きくはなったが政令指定都市にはなったが、駅前は前ほどの人通りは無くなっ た。
自分の持っている、使えるお金、それを地域で使う。
其々の人が自分の地域で使おうと考えるならば、其々の地域は潤ってくるのだろうと、と思って始まった。
今宵もはじまりました(^.^)/~~~
観音寺まちなか再生プロジェクトの一つ。
メンバーの一人が、晩酌する写真を「今宵もはじまりました」というフレーズとともにFacebookでほぼ毎晩のようにアップしたのが始まり。
観音寺まちなか再生プロジェクトの二番煎じだけど
佐久間でも水窪でも、浜松駅前でもやっていこうと思っている。
2015年6月
2016年6月
2017年6月
話は前後するが
幼稚園のときの先生が
サンタカ先生
(記憶はないが、名前は何故か覚えている)
城西小学校
一年のときが
櫻井先生
(水窪で母親が同級生だったそうだ。優しい先生だった)
二年のときが
鈴木先生
(女の先生でヒステリックでヤタラ張り倒させた思い出がある)
三年のときが
新間先生
(優しく何時もニコニコしていたような)
四年のときが
横田先生
(厳しい先生で、無精ひげのときは覚悟を決めていた・・・、また忘れ物をしてその罰にと職員室に呼ばれ「何で呼ばれたかわかるか」と問い、額に油性のマジックで×と書かれた)
五年・六年のときは
伊藤先生
(穏やかな神々し先生、そう頭のツルツルだった先生だった)
隣の二組の先生
北野先生
(音楽の先生で、授業中ふざけていると、いつもスぺリオでたたかれた)
この様な先生方に、城西小学校時代
私は慈愛に満ちた教育を施されて育っていった。
城西小学校のときは、二クラスだったが、佐久間中学校では三クラスになった。
A組・B組・C組
私はB組になった。
担任は深田先生、今でも名前を聴くだけで背筋が伸びる。
幸か不幸か、佐久間中学校三年間は深田先生の下での学生生活になったのであった。
ジャンジャン
つづく。。。
飯田線、相月駅、
そこの
水窪川の向こうの山の中腹にあるのが横吹(よこぶき)
しんしん少年が生まれたところだ。
1960年(昭和35年)の冬
産声を上げた。
1956年(昭和31年)
佐久間町は3村1町(佐久間村・城西村・佐久間村・浦川町)が合併して出来た町だ。
その当時、佐久間町は東洋一と言われる佐久間ダムが完成し、好景気に浮かれたいた。
私の生まれた横吹は城西地区。
城西村の村長は、議員の人たちは佐久間町への合併を選んだのだろう。
町立幼稚園が出来、私は城西幼稚園一期生だ。
横吹の山の中腹にある家から、一円玉でくるんだハンカチと定期券を首にブル下げて幼稚園に送り出したと、昔、母親が言っていた。
無事に家に帰ってきたときにはホットシタとも言っていた。
横吹は山の中腹の村だが、当時は子供も多く、楽しい毎日だった。
しんしん少年は、城西小学校に入学した。
一年生のときは木造校舎。二年生の時に鉄筋コンクリートの今の校舎になっている。
城西地区では、町民大会(町民大運動会)を、毎年やっていた。
城西地区のなかでも山奥の横吹の人たちは、町民大会では大活躍をしていた。
小学校低学年までは、横吹にもお店があった。
テラクボ(苗字は久保)
駄菓子やクジなどを売っていた。
店にはハンというオバアサンが店番していた。
久保ハン
耳の遠いオバアサンだったが、悪口を言うと返事をした。
横吹の山の上の店に、商品を運ぶ時がある。
山の麓(国道152号)で商品をサクドウ(ゴンドラのような物)に乗せ山の中腹の村に運ぶのだ。
村の子供はエキサイトした。
そんな時期に、村に道路を造る話が合いをしに父親が村の集会所に行くようになった。
「これからは車の時代だ」
父親が言っていた。
また、こうも言っていた。
私の家があったところの街道は、チョンマゲを結った人が歩いた道。
その下の街道は、大八車が通った道。
水窪川沿いの国道152号線、車が通る通。
そう、これからは車の時代だ!
しんしん少年、佐久間中学校へ行く。
今まで飯田線 相月駅から水窪方面に電車に乗っての通学だったのが、これからは佐久間方面へ行くのであった。
途中、長い峰トンネルを行けると空気が変わった。
佐久間中学校を卒業してくる子供は、城西小学校の児童とは違うように見えた。
キラキラと輝く都会の子供に見えた。
クラスは三クラス。
A組・B組・C組
一クラス30人での授業となった。
中学校から英語の授業が始まる。
先生は爬虫類のような顔つきで背広の肩には何時も白い粒が着いていた。
「デスイスア・・ペン」
つづく。。。
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。
合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。
袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns
”しんしん”55歳
2015/11/25現在。。。
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