佐久間町と六ヶ所村、私なりの考えを書いていこうと思う。
佐久間町(さくまちょう)は、かつて静岡県磐田郡に存在した町。
2005年(平成17年)7月1日、周辺12市町村とともに浜松市へ編入合併され消滅し、2007年(平成19年)4月1日に浜松市が政令指定都市へ移行したことに伴い、天竜区の一部となった。
2005年(平成17年)7月1日に地方自治法第202条の4に基づく「佐久間地域自治区」が設置された。
同地域自治区は2012年(平成24年)3月31日をもって廃止。
六ヶ所村(ろっかしょむら)は、青森県の下北半島太平洋岸に位置する村である。
原子燃料サイクル施設などの原子力施設の他、国家石油備蓄基地や、やませを利用した風力発電基地等、エネルギー関連施設が集中している。
ITER(国際熱核融合実験炉)の建設候補地として誘致を推進していたが、カダラッシュ(フランス)に建設されることが決定した。
佐久間町は
1956年(昭和31年)9月30日浦川町・佐久間村・山香村・城西村が合併し佐久間町となる。
2005年(平成17年)7月1日浜松市に編入され消滅。
六ヶ所村は
1889年(明治22年)4月1日 に倉内村、平沼村、鷹架村(たかほこ)、尾駮村(おぶち)、出戸村、泊村の周辺六ヶ所の集落が合併し今に続いている、村だ。
佐久間町は、昭和27年に佐久間ダムの工事が着工し昭和30年完成した。
それとともに、世の中は電気の生活が始まり便利で豊かな生活ができるようになってきた。
電気製品はその後、どんどん進化し、今に至っている。
佐久間ダムが完成してから数十年たち、発電施設も水力・火力・原子力となり、六ヶ所村では平成になり原子燃料サイクル施設などの原子力施設の誘致を決定した。
佐久間町は佐久間ダムで潤った時期があったのだが、平成の合併で佐久間地域自治区は消滅した。
六ヶ所村は 原子燃料サイクル施設などの原子力施設などの誘致により、明治22年に周辺の六か所の集落が集結して出来た村が、今なお続いている。
佐久間町から青森県に行くには、東京の中心を走る首都高を通るコースが最短のルートだ。
今回、この首都高を通るときは深夜だった。
大都会東京。 真夜中でも眠らない街、東京。
電力施設で翻弄されている、いわゆる田舎の地域にすむものの一人として、
今回、首都高を車で走っていて夜景を見て、複雑な思いをした。
PS
facebookなどで、原子力反対の声が聞こえる。
毎週金曜日に総理大臣官邸前に集結して原発再稼働の反対を訴えたなどの声が聞こえてくる。
私には言えない。
だた「原子力反対!!」などとは。
私にできること、それは無駄な電気は使わない。自然エネルギー、太陽光発電に協力すること。
そこは政令指定都市になった。
その都市の北の隅っこ山間部に佐久間町に暮らしています。
当時、合併の説明に、佐久間町の役場の職員が私の地域に説明に来た。
静岡市に合併した井川地区を例にとり
「佐久間町もイズレ井川地区のようになるでしょう」
と、他人事のように言っていた。
これから私の暮らす佐久間町はどの様になっていくのだろう。
そんな寂しい気持ちでいたころ、ウルトラマラソンを走る人に出会い、
「遠い未来を憂い悲しむより、今を楽しもう」
そんな気持ちになり、自分で北遠でマラニックを企画するようになった。
合併して10年がたった。
当時立ち上げたNPO「がんばらまいか佐久間」元佐久間町の議員が頑張っている姿を見て感動した。
9年間その活動に協力したが、理事たちの夢や希望のない言葉に失望して今は水窪のNPO「山に生きる会」に参加させてもらっている。
袖振り合うも他生の縁
こらからも、偶然でほんのささやかな出会いを大切に、人との絆を大切に、残された人生を歩んでいきたいと思う。
「お金ではなく人の出会いででっかく生きろ」
中村文昭さんYouToube
https://www.youtube.com/watch?v=3myR2kVJ3ns
”しんしん”55歳
2015/11/25現在。。。
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